あなたのための本、あります KAC20232【ぬいぐるみ】
霧野
本は薬のようなもの
「…俺のため?」
「ええ。ここはそういう本屋です」
春の風がおぼろ雲を運ぶ。薄い雲が太陽にかかろうとする瞬間、店主の銀縁眼鏡がきらりと光った。
「シミ、コーヒーを二つ頼むよ」
トラックの運転席に声をかけると、窓からにょきっと白い小さな拳が突き出て親指を立て、引っ込んだ。すぐにカリカリと豆を挽く音が小さく聞こえはじめる。
「もうじきお昼ですし、コーヒーでもいかがです? いえ、どうせ私のを淹れるついでですから、サービスです」
薄青いレンズの向こうで微笑む目に魅入られたかのように、スーツ姿の男はぎこちない動きで腰掛けた。
「豆は私がブレンドしたものだけですが、砂糖やミルクはいくつか用意してます」
「あ、いや、俺はブラックで」
「嬉しいですねえ。やはりコーヒーそのものを味わうにはそれが一番です」
胸ポケットからメモ帳を出して開き、銀色の万年筆のキャップを外す。
「さてと、あなたに合う本は……」
「待ってください。俺、普段はあまり本を読まなくて」
小さな、掠れそうな声。男は今にも席を立って帰りたそうな様子だけれど、何故か動こうとはしない。
「そうですか。いや、無理にとは申しませんよ。ただ、今のあなたには本が必要な気がしたもので」
あからさまにぎくりとして、男は身を引いた。元から
「そ……それはどういう意味で……」
「そのままの意味です。本は心の薬のようなもの。人生に必要なものがたくさん詰まっています。様々な知識や言葉、物語、感動、教訓、思想、喜怒哀楽、そして……恐れ」
話しながらも店主はサラサラとペンを走らせ、何事か書きつけている。
「……それは?」
「まぁ、言うなれば処方箋でしょうか」
万年筆のキャップをしてメモを破り、立ち上がって運転席の窓へ。
「シミ、これを頼むよ」
「おう。こっちはできた」
メモと引き換えにコーヒーの載ったトレイを受け取り、微笑みを深くする。
「うん、いい香りだ。飲みながら本が揃うのを待ちましょう。それほど時間はかかりません。さぁ、どうぞ」
☕︎
『初心者さんも簡単! ぬいぐるみづくり』
『レザーを究める 〜皮から革へ〜 図解・写真入り』
困惑顔で首を捻りながら、男は一冊ずつ手に取ってタイトルを確認していく。
『動物剥製の作り方』
『世界の刑罰と拷問 剥皮編』
手が止まり、唇が震えだす。
『刑務所暮らしのリアル』
『実録・凶悪犯罪ファイル』
本を放り出し、コーヒーテーブルに両手をついた。全身がガタガタと震えている。
「古本も混じってますから、全冊ですと2万6千円になります」
「なんで……なんで、俺にこんな本を?!」
「え。必要かな〜と思いまして。なんとなくわかるんですよね。見えるっていうか……」
「見える?! 見えるって、何が!! 何を見たんだ?!」
「えっと、だからその、本のタイトル」
男は大きく息を吐き、ぶるぶる震える手で懐から財布を取り出した。ありったけの札を抜き取りテーブルに置くと、綺麗に揃えられた爪がカタカタと音を立てた。
「ぜんぶ………全部買う。釣りはいらない。だから、俺がここで本を買ったことは誰にも言わないでくれ」
「えっ。でもこれ、多すぎます。こんなにいただくわけには」
「いいから! その代わり、頼む」
「……承知しました。一切他言は致しません」
札を受け取った店主が二つのマグカップを片付ける横で、男は乱雑に本を束ねる。焦っているのか、何度も本を取り落とす。
「コーヒー、楽しんでいただけましたか?」
店主の声に答えることなく、本を抱えた男は転がるように駆け出した。まるで逃げ去るように。
「……なんだ? あいつ。それにあの謎のラインナップ」
運転席から降りてきたシミが、空になったカップとトレイを受け取った。
「さあ。人間のぬいぐるみでも作るんじゃないですかね」
「ゲッ! やべえな……」
「じゃあ、私たちもずらかるとしますか」
「ずらかる、って」
「払いすぎたお金を取り戻しに来るかもしれない」
「いくら貰ったんだよ」
「6万2千円」
「アコギな商売してんな!」
「失敬な。こんなラッキー、滅多にありませんよ」
「前にもあったんじゃねえか……」
白いパラソルとテーブルを分解し、折りたたんだチェアをトラックに詰め込んで、大急ぎで車に乗り込む。店主は運転席へ、シミは助手席へ。
「シミは古い言葉をよく知ってますね。
「本で読んだ」
「なるほど。さすが、本の虫です」
「『上手いこと言ったった』みたいな顔してんじゃねえよ」
車が走りだすと、シミは後ろをちらりと振り返った。
「なあ、てんちょ。通報とかしなくていいのか?」
「通報? しませんよ」
「だってあいつ、人間を使ってぬいぐるみ作るつもりなんだろ?」
「どうでしょう。刑務所暮らしの本もありましたから、まだ迷ってるのかもしれません。それにしても、剥製や着ぐるみじゃなくて『ぬいぐるみ』ってとこがエモいですよね。やっぱ動かせるのがいいのかな」
「お前……ヤバいやつだな。知ってたけど」
「だって通報なんて無理ですよ。欲しい本のタイトルが見えただけなんですから」
「ヤバいのはそこじゃなくてさぁ…」
諦めたようにシートに沈み込むシミと鼻歌混じりの店主を乗せて、空色のトラックはひた走る。
気の向くままに、次の街へ。
荷台いっぱいに本を積んで。
**************
小烏つむぎ さまが、まるでこのお話の前話みたいな作品を書いてくださいました!
後半から一気に……いやいや、ナイショにしておきましょう。ぜひ読んでみてください。面白いですよ。
あなたのための本、あります KAC20232【ぬいぐるみ】 霧野 @kirino
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