彼女の本

埴谷台 透

彼女の本

 彼女は心底疲れ切っていた。

 納品前の二週間、休みも取れずに働き詰めだったのだ。

 そしてやっと手に入れた休日。

 本当は寝て過ごしたかったのだが、また悪い虫が心の中に生まれてしまった。

 

 本が買いたい。

 

 まあそれだけでは悪い虫とは言わない。

 彼女は御茶ノ水駅に着くと、神保町の方へと歩き始める。

 古本屋巡り。これである。

 気になる本を買いまくる。まだ読み終えていない本がたくさん部屋にあるのに、暇さえあればこの古本屋街へ向かってまた本を買ってしまう。

 彼女は小学生から大学生の時のことを思い浮かべる。

 どの時もろくなことがなかったという事しか心に残っていない。

 そして社会人になった。

 こんなにブラックな会社とは思っていなかった。

 おまけに彼氏に一緒にいても面白くない女だなと言われて、別れてしまったばかりである。

 そんなの仕事のせいじゃないと彼女は思う。

 寝てしまえば思い出すこともないと考えた時もあったが、その嫌な思い出のことばかり夢見てしまう。

 なので本を漁りに来たという訳である。

 神保町を水道橋の方へと店を物色しながら歩いていく。

 戦利品を手に入れたらお気に入りの喫茶店に入って美味しい珈琲を飲むという、いつものお決まりの道順である。

 しかしこの日は欲しくなるような本を見つけられなかった。

 そういう日もあるものだ。喫茶店に寄って帰ろうかと歩き始めた。

 そこで一軒の古本屋が目にとまる。

 こんな本屋があったっけ、と彼女は立ち止まる。

 立派な店構えで自分の趣味には合わなそうな感じであった。

 けれど、もしかしたらなにかあるかもと店に入る。店内には高価な本ばかり本棚に並べられていた。

 ひと通り本棚を見ると、何冊か興味をそそる本があっのだが積ん読しておくには高価な本ばかりである。

 ため息をついて手にした本を戻し、店を出ようとした時1冊の本が目にとまった。

 革張りの表紙でかなり高そうであったが、タイトルも著者名も書かれていなかった。

 パラパラとめくってみると、目を疑った。

 最初から最後まで何も書かれていないのである。

 そこへ店番をしていた老人がよってきた。

 

 「その本を見つけてしまったのですね。それはあなたの本なのです。なので差し上げますよ」

 

 とんでもないと断ろうとしたが、何故か手放してはならないという気持ちが湧き上がってきた。

 そして結局貰ってしまうと、そのままお決まりの喫茶店にも寄らすに帰宅する。

 

 

 家につくと早速中身の無い本を手にとった。

 またパラパラとめくってみてもやはり何も書かれていない。なんの意味があるのだろう。

 そう思って脇に置こうとした。

 しかし身体が硬直したように動けなくなる。

 そしてその本は勝手にめくれて最初のページが開かれた。

 彼女は動けないどころか、その本から目を離すこともできなくなる。

 するとジワリと文字のようなものが浮かんできた。

 また勝手にページがめくられる。

 そしてまた文字が浮かび上がる。

 最後のページが開かれると、彼女はそこで倒れ伏した。

 

 

 店番の老人の前にその本が置かれている。

 表紙には彼女の名前が書かれていた。

 老人は本をめくってみる。

 

 「どうやら悪い方の記憶が書かれましたか。残りの人生はどうなってしまうのでしょう。もし良い記憶でしたら……どちらにしても少しだけ気になりますね」

 

 老人は彼女の本に語りかけるように呟きながら読みはじめる。

 

 

 いつの間にか店の本棚に、何も記されていない本が並んでいた。

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彼女の本 埴谷台 透 @HANIWADAI_TORU

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