わたしを本屋に連れてって

和希

第1話

 寝る間も惜しんで働くことが、自分に課された使命だと思っていた。


 たいした学歴もなく、特別な資格も持たない平凡な俺が、それでも愛する妻と娘を幸せにしてやるためには、他の誰よりも必死に働いて、働いて、働き抜くしかない。そう信じて、額に汗して懸命に働いてきた。


 幸いにも、会社ではそんな俺の働きぶりが評価され、出世への道がようやく開きかけてきた。これで少しは他の連中よりも家族を幸せにしてやれる――そんな未来への明るい兆しに充足感を覚え始めた矢先のことだった。


「……え? 由華が入院?」


 妻からの突然の知らせに愕然とする。


 目まぐるしく押し寄せる仕事の波間に立たされながら、まるで時が止まったかのように身動きが取れなくなる。スマホを握る手が小さく震え出し、オフィスの机上にあったコーヒーを流しこんでも喉の渇きが少しも収まらない。


 娘が体調不良だとは知らされていなかった。それなのに、いきなり入院? 涙ぐむ妻の声が素直に耳に入って来ず、なぜ? 由華がどうして? と疑問符ばかりが頭に何度も浮かび上がる。


「分かった。仕事を片づけたらすぐに駆けつける」


 本当は今すぐにでも会社を飛び出したかったが、そうもいかない。動揺する心をなんとか押しとどめ、目の前のなすべき仕事に慌てて取りかかった。


 脳裏に浮かぶ、由華の姿。


 大人しくて聞き分けのいい子だった。急な休日出勤で遊んでやれなくなっても、嫌がるそぶりは見せず、静かにうなずいて本を読みはじめる。まだ小学生でありながら敏感に空気を読むことができる、優等生のようなタイプの娘だった。そんな娘がなぜ病気に?


 夜になり、そびえるような大病院にようやくたどり着く。落ち着きを欠いた心で小児病棟の暗い廊下を進み、由華の病室を訪れると、由華はすでに眠っていた。青白い頬が痛々しく目に映り、たちまち胸が切なく締めつけられた。


「脳に腫瘍が見つかったそうよ。この先手術も必要だし、長い入院になるって」


 深いため息と共に告げられた妻の声には、こんな日でさえも早く帰って来られないのかという非難の色が滲んでいた。


 それからというもの、俺は仕事帰りにたびたび由華の病室を訪れた。由華は眠っている時もあれば、読みかけの本を閉じ、儚げに微笑んで俺を出迎えてくれる時もあった。


 俺はようやく巡って来た出世のチャンスを手放したくなかった。今歩んでいる道を進み続ければ、もっと妻と娘を幸せにしてやれる。俺は頑なにそう信じていた。


 けれども、一方で、本当にそうなのだろうか? という疑念もまた生じてくるのだった。娘が大変な時にずっとそばにいてやれない。そんな俺は果たして父親としての務めを果たせていると言えるのだろうか?


 家族を幸せにしてやりたいと一途に願いながら、そうはできていない現実に、俺は幾度となく悩まされた。


「……そうだ! 由華に本を買っていってやろう」


 娘に対する罪の意識が、俺にそんなアイデアを思いつかせたのかもしれない。本好きな由華ならきっと喜んでくれる。そう思ったら居ても立ってもいられなくて、会社帰りの閉店間際、俺は急いで駅ビルの大きな本屋に駆けこんだ。


 本屋に入るのは久しぶりだった。どこに何があるのかまるで見当がつかず、本棚の林をあてもなく右往左往してしまう。


 ようやく児童書のコーナーにたどり着き、思わず息を飲んだ。可愛らしいイラストが描かれた文庫サイズの小説がずらりと並び、さらには絵本や伝記、教養本など、いろいろあって、どこから手を付けていいのかさっぱり分からない。


 たまらず、若い女性の店員さんに声をかけた。


「あの、すみません」


「はい。何でしょうか?」


「娘に本を買ってやりたくて」


 大切な娘が入院しているんです。退屈で気持ちが塞ぎそうな入院生活を少しでも紛らせてやりたいんです、とは言葉にならず、俺はただ一言そう告げた。


 店員さんは、それでも何かを感じ取ったようで、人懐っこそうな笑顔で対応してくれた。


「お嬢様は、普段はどんな本がお好きですか?」


「どんな本って……」


 そう問いただされて、俺は絶句した。由華がよく本を読んでいることは知っている。けれども、由華が普段どんな本を読んでいるのかまでは、まるで知らなかった。


 それでも何とか店員さんに薦められるまま、児童小説から少女漫画まで、五、六冊ほど買って帰った。


 よく晴れた休日、俺はそれらの本を持って由華の病室を訪れた。


「由華、今日は本を持ってあげたよ。由華に気に入ってもらえるかどうかは分からないけど」


 そう言って紙の手提げ袋を手渡し、恐るおそる由華の反応をうかがった。


 健気な由華は、まるでバラの花束でも受け取るかのように、ぱっと表情を明るくし、無邪気な笑みをほころばせて、


「ありがとう、お父さん!」


 弾むような声で喜んでくれた。


 その声を聞いた瞬間、俺はホッとしたと同時に、衝動的に床に手をついて謝りたくなるような、そんな申し訳なさに襲われた。


 これからはもっと娘と向き合おう。娘の好きな本くらい即答できるような、娘のことをちゃんと理解している父親になろう。


「また本を買って来てあげるよ。由華はどんな本が読みたい?」


 俺が尋ねると、由華は、うん、と一たびうなずき、細い顎に手を添えて考えてから、


「ねえ、お父さん」


「なんだい?」


「わたし、病気が治ったら、また本屋さんに行きたいな。お父さん、連れて行ってくれる?」


「ああ、もちろんだとも」


 その後もしばらく由華と会話を交わし、やがて俺は病室を去っていった。


 そして、小児病棟の待合室にたどり着くと、一人ベンチに腰を下ろし、両手で顔をおおって泣いた。


 由華が退院したら、きっと約束を果たそう。何か月、何年先になるかは分からない。けれども、いつの日か必ず由華の手を引いて、本屋へと連れて行ってやろう。そうして、今よりもっと父親らしいことを由華にしてあげよう。由華がこれ以上辛い思いをしないで済むように――。


 俺は胸の奥でそんな誓いを密かに立て、病院を後にした。




【完】

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