蠅ィ鬟溘>陌ォ、優雅なる朝のひととき

三浦常春

蠅ィ鬟溘>陌ォ、優雅なる朝のひととき

 白い光にせっつかれて、新しい一日が始まる。

 

 布団の下から一本の手を出して、蠅ィ鬟溘>陌はカーテンを開けた。


 小さなベッドに無理矢理入り込んだからだろうか、全身の筋肉が縮こまっている。ぐっと身体を伸ばして、触手の一本一本を丁寧にほぐしていく。手足が多いと便利なこともある一方で、寝起きは絡まって仕方ない。


 もぞもぞと手足を動かしてようやくベッドから降りる。ナイトキャップをマクラに置こうとしたところで、「あっ」と声を上げた。


 ああ、やってしまった! 床に散らばるのは本。どれもこれも文字がない。近所の文具店で見かけた自由帳みたいだ、と他人事のように思う。


 被害を受けたのは少し古い年代の書物のようで、昨今のツルツルとした紙ではなく、どこかゴワゴワとした感触がある。なおのこと残念に思いながらも、自身の腹は満腹げだ。


 重い身体を引きずって寝室を後にすれば、眼下に広がるのは広大な迷路。天窓から差し込む光の筋に、ちらちらと細かな宝石が踊っている。


 人類は古くより書物と生きてきた。瞬きの間の命を、生きた証を、文字として遺してきた。悪あがき然とした行いに魅入られたのは、はたしていつのことだったろうか。


 いつの間にか蠅ィ鬟溘>陌は人類のしたためた書物を読むようになり、収集して、本屋を作った。


 行きついた先が書物の商売人だなんておかしな話だと自分でも思うが、人類的に言うならば、『布教』という動機が一番近いのかもしれない。


 眼下に広がる迷路には、選りすぐりの本たちが集まっている。


 哲学書、学術書、独白、童話、人類の間では『奇書』と呼ばれているものまでさまざまだ。もちろん、他店の棚を食い尽くす勢いで増えていくライトノベルなる最新の書物も納めている。


 人類文化学を専攻する友人から「『人類らしさ』はこの本屋を訪ねれば分かる」と過分な評価を貰った宝物だ。


 人類の存亡なんてものには興味の欠片もないが、人類の生活圏に身を置いて書物を収集している身としては、彼らの営みは大変興味深い。この好奇心をぜひとも同類に『布教』して、いずれは「ぼくが選んだ最強の人類本」選手権を開催することが目標だ。


 さて。蠅ィ鬟溘>陌はコレクションから目を外して、くわりとあくびをする。


 朝七時。世界が慌ただしくなり始める時間。そんな中をゆったりと過ごしていられるのは、自営業の特権と言えるだろう。


 コーヒーでも淹れようか、と思い立ったところで、豆が切れていることに気づいた。昨日の来客に淹れたタイミングで終わったことを忘れていたらしい。


 無理もない。昨日はさんざんだった。


 久方ぶりの来客があった。


 歓迎ムードで出迎えるのも野暮だからと店の奥で静かにしていたのだが、こちらに気づいた客はあっという間にブクブクと泡を吹いて倒れてしまった。二階から布団を引いてきて介抱して、ようやっと意識を取り戻したかと思えば悲鳴を上げて逃げ出してしまうし――。


 いつ目覚めてもいいようにと用意しておいたコーヒーは、ゼラチンを入れて冷蔵庫行きにしたのだった。


 そうそう、コーヒーゼリーがあったんだ!


 ポンと手を打って、ぬるぬると階段を下りていく。


 今日のデザートはコーヒーゼリー。主食に、半額になっていたバケット。ちょっぴり高級品になってきたタマゴとベーコンも一緒に焼いてしまおう。野菜がないけど、ベランダで育てているハーブでごまかせないかしら。


 丸くなってきた身体を見下ろして、軽くゆすってみる。ぷるぷると揺れる肉が不摂生を嘲っているようで、少し嫌な気分になった。


 生まれてこのかた『食生活』なんてものを気にしたことはなかったが、人類の食事を模倣し始めてからというもの随分と肉がついたように思う。これだけ多くのカロリーを摂取しているのに、どうして棒きれのように細い人間が存在するのだろう。


 慣れた手つきでタマゴを割りながら、蠅ィ鬟溘>陌ォは呟く。


「今日はお客さん、来るといいな」


 歪な影が床に踊った。

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蠅ィ鬟溘>陌ォ、優雅なる朝のひととき 三浦常春 @miura-tsune

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