千の詩句を、費やしたとて

五色ひいらぎ

千の詩句を、費やしたとて

「おー、すげえな本だらけ」


 聞き慣れた声に振り返ると、大部屋の入口に宮廷料理長ラウルが立っていました。

 私は書庫近くの大部屋で、書記官や司書たちの傍ら、無数の本を敷き布の上に広げる作業を手伝っていました。年に一度、こうして状態確認を兼ねて風を通すことで、紙や革の劣化を防いでいるのです。


「年に一度の虫干し日ですからね。ところでラウル、私に何かご用ですか?」

「五日後の来賓予定、詳しいところを確かめたくてな……いま大丈夫か、レナート?」

「しばしお待ちを。もう少しで広げ終わりますので」


 私は、部屋の隅に積まれた本の山から一冊を取り、開きました。細かな虫がいないかを、全ページざっと目視します。赤革表紙へ綴じ込まれた紙束に、染みやかびは幸いにもありません。空気を通すため、半開きにして敷き布の上に立てれば、開け放たれた大窓から初夏の微風が吹き込んで、ページをかすかに揺らしました。

 大部屋の床一面に並ぶ本たちを前に、ほー、とラウルが嘆声を漏らしました。


「本がこれだけ並んでるところなんざ、初めて見るぜ。まるで、朝市の野菜や果物だな……これだけありゃあ、肉屋や魚屋みてえに、『本屋』が開けるかもしれねえな」

「買う人間がいればの話ですがね。ここの本一冊で、市場の露店なら数軒が買い切れますよ」

「冗談だっての」


 苦笑いしつつ、ラウルは眼前の写本に視線を落としました。

 冗談にしても、あまり面白くはありません。ここに並ぶ本は王家の財産です。最近、新しい「印刷術」の工房ができ始めたとはいえ、世にある本の大半は手書きの写本です。修道院や書写工房で、高価な材料、熟練の技術、膨大な手間を費やして作られる知識の精髄……その貴重な品を肉や野菜と同列に語るのは、あまり良い気持ちがしません。新鮮な食材を軽んじているわけでは、決してないのですけども。


「『北方年代記』……これは史書だな。『天狼と地竜の詩』こっちは英雄叙事詩か……ん?」


 並ぶ題字を愉快げに読み上げていたラウルの声が、不意に止まりました。


「面白いものでも見つけましたか」


 返事はありません。視線の先には、「国王起居録」の文字が記された紺表紙が、列をなして並んでいました。


「これは歴代国王陛下の行状記ですね。王の日々の暮らしを、後代のために書き残しています。後の世の歴史家が、史書を編纂する時に資料として使うのですよ」

「……その『史書』には、陛下の食事内容も書いてあるのか?」


 ようやく、ラウルが口を開きました。


「毎日食事を作るたび、書記官が献立の内容を記録してやがるからよ。ひょっとしたらこれに書くためか、と思ってな」

「史書に記されるかどうかは、歴史家の裁量次第ですのでわかりかねますが――」


 言いかけて、ふと気づきました。これは好機かもしれません。

 天才料理人ラウル。今は宮廷料理人におさまっているとはいえ、本質は自由を愛する市井の民。何かの気まぐれで、王宮を離れて飛んで行かないともかぎらない。

 この機会に、少し、引き締めておいた方がいいかもしれません。


「――起居録の記録としては残りますよ。つまりあなたの日々の料理は、王国の歴史として残るのです」


 大いなる名誉と、伴う責任。それらを呼び起こす腹積もりでした。

 史上に名を残すことなど、市井の人間が成そうとして成せるものではありません。自らの死後に何かを残そうとして叶わぬ者たちの、なんと多いことか。ですがラウル、あなたは既にそれを成しとげているのですよ。


「自らの軌跡が、王宮の書庫に未来永劫伝わっていく。これを名誉と言わずして――」

「気に入らねえな」


 ラウルが、短く吐き捨てました。

 二の句が継げず固まる私の前で、誇り高い宮廷料理長は何度も首を横に振りました。


「献立の名だけ残っても意味ねーんだよ。せっかく天才料理人を雇っておいて、味も匂いも伝わらねえ品書きだけじゃあ、つまんねーだろうが」


 ラウルは、ふん、と鼻を鳴らしました。そして、手前側に立ててある黒表紙の本をちらりと見ました。叙事詩「天狼と地竜の詩」の写本でした。


「どうせなら吟遊詩人にうたわれてえぜ。その皿の香気は天をも虜にし、美味は大地をも揺るがし――」


 突然朗々と歌いだしたラウルに、苦笑いしか出ません。どこまで己に自信を持っているのでしょう、この男は。

 同時に、ふと、寂しさが過ぎりました。


 私は――私たちは、この天才の技を、後代に伝える術を持たない。


 無味乾燥な品書きが、用をなさないのは確かです。

 けれど吟遊詩人さえ、最も高名な桂冠詩人でさえ、料理の食味を「それを食べたことのない人間に」伝えることはできません。舌に広がる甘味、旨味、辛味、それぞれの織りなす大胆で繊細な調和を、そのまま写しとることはできない。できるのはただ、すでに味わった何かを思い起こさせること、のみ。

 私は知っています、彼の技の精髄を。

 けれど同時に、それを伝える術もない。千の比喩も、万の修辞も、一皿の食味をそのままに伝えることすらできない。

 彼の皿は宝石です。王の冠を飾る宝玉です。

 けれど宝玉と異なり、料理は食べれば失われるもの――


「おい、どうしたレナート?」


 肩を叩かれ、我に返りました。

 怪訝な顔で覗いてくるラウルは、相変わらず不敵な笑いを浮かべています。

 自信の塊のような顔を眺めていると、不意に、なにもかもが馬鹿馬鹿しくなってきました。

 思わず吹き出せば、ラウルが目を丸くします。


「おい、どうした?」

「いや……なんでも、ありませんよ」


 あらためて、私は大部屋を見回しました。

 一面に並ぶ、「本屋」を開けそうなほどの書物。これらのすべてを費やしても、料理一皿の味さえ、言葉では伝えられないのかもしれません。

 でも、だからどうしたというのでしょう。ラウルは目の前にいて、私は味わう舌を持っている。

 それで、十分なのです。


「そういえばラウル、五日後の来賓について詳しく聞きたいという話でしたね」

「ああ。大事な客だって話だからな、それなりの準備は必要だろうと思ってな」

「それでしたら、資料は――」


 共に話しながら、大部屋を出ます。

 五日後、彼は持てる技の粋を尽くした皿を作るでしょう。私はそれを味わうでしょう。

 ただそれだけがあればいい。他には、何もいらない。

 後の世に残るものが、たとえこの「本屋」の中の、無味乾燥な献立表だけだったとしても――彼も私も、確かに、ここにいるのですから。



【了】

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千の詩句を、費やしたとて 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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