本を喰むーちいさい本屋と呪われた少年ー

肥前ロンズ

本を喰む

 文字が空中でおどる。しゅるしゅると音を立てながら、まるで新体操のリボンのように舞う。

 その文字は、やがて目黒くんの口に収まっていく。


「ごちそうさまでした」


 パン! と手を叩き、お礼を言う目黒くん。

 開かれた頁は、何一つ書かれていない真っ白い冊子になっている。どうやら無事に食べ終えたようだ。


「いつもすみません。貴重な本を食べる、なんてもったいないこと」

 申し訳無さそうに頭を下げる目黒くんに、僕は笑った。

「なんの。君はちゃんと本を買い取ってくれるじゃないか。こんな閑古鳥がなく本屋、閉めようにも処分するのも大変だ。むしろありがたいよ」


 しかし、不思議なこともあるものだ、と目黒くんを見てつくづく思う。

 この世に、「本を食べる」呪いがあるなんて。


   ■ 

  

 目黒くんとの出会いは、むせるような夏の最中。本屋うちの前で行き倒れていたのを発見した。

 成長期真っ只中な少年が、道端、それも寂れた商店街の本屋の前に倒れている。学生時代、マイペースだと言われ続けた僕も、さすがに驚いたものだ。

 短く切りそろえられた髪に、清潔感あるシャツとズボンを履いている時点で、家出少年ではなさそうだ、とその時の僕は思った。

 声をかけると、返事が返ってきた。立ち上がれるかい、と言う言葉に、なんとか、と目黒くんが返し、身体を起こす。

 とりあえず本屋うちに入ってくれるかい、と言う言葉に、目黒くんは頷き、ふらふらとした足取りで歩く。僕は彼の肩を支えた。

 半分閉じた目で、彼があたりを見渡して、こう言った。


『もしかして、ここ……本屋ですか?』


 そうだよ、と僕は返した。看板が見えなかったのだろうか。

 すると、目黒くんは、すみません、と言った。


『本を一冊、いただけませんか』


 僕が言う前に、彼は『お代は払うので』と強めに言った。これ以上問答を続けたくない、という拒絶だった。

 僕はとりあえず、手元にあった絵本を差し出した。そして、僕は食塩と水を持ってくるために、台所へ向かった。おそらく熱中症で意識が朦朧としているのだろう、と思った。

 そうして慌てて戻ってきて、驚いた。


 薄暗い店内で、本棚の隙間を縫うように、みみずのような文字が漂っていた。

 まるで誘導灯に誘われた虫のように、文字たちは彼の口元へ吸い込まれていく。

 宙を漂う文字を見つめる彼の目は涼しく、僕は何かの禊の儀式なのではないか、と思った。

 いつもの店内が、とても美しい秘境のように思えた。


 そして、いくつかの本から文字と挿絵が消えていた。

 

  ■


「あのときは本当にすみません……一冊だけって言ったのに……」

「お腹が空いている状態だったんだろう。成長期だし仕方ないさ」


 目黒くんは律儀な性格で、未だに出会ったときのことを気に病んでいる。

 彼は「本を食べる」呪いにかかっていた。呪いと言っても、誰から呪われているのかはわからない。そもそも『呪い』かどうかも本当はわからないらしい。

 目黒くんは漫画よろしく霊媒師や陰陽師の家系というわけでもなく、この状態を『呪い』という言葉でしか形容できなかった。病、と言ってもいいかもしれない、と目黒くんは言う。

「異食症ってあるじゃないですか。それが本になったのかなって」

 ただ、とても科学的に説明できそうな現象ではないので、『呪い』と言うしかなかった。

「一応、メシは食べられるんです。多分栄養にもなってます。でも、全く腹が満たされない。空腹感は本でしか満たされないんです」

「大変だよね、改めて聞くと……」

 しかも食べた本からは文字が消えている。つまり、空腹感を満たすためには、沢山の本が必要だということだ。

「このあたり、本屋はないって思ってたから。だからここで買えてありがたいです」

「電子書籍はダメなんだっけ」

「はい。『冊子になっている』状態じゃないと駄目らしくて」

 変ですよね、食べても文字と挿絵しか消えないのに。乾いた笑みで目黒くんは言う。

 それから、僕らの会話はしばらく途切れた。目黒くんはスマホをいじるようすもなく、ただボーっとしていたが、突然こんなことを切り出した。

「松田さんは、本、好きですか?」

 松田とは、僕の名前だ。

「いや? 全く興味ないね。読むと頭がくらくらする」

 そう言うと、やっぱり、と目黒くんは笑った。

「本好きの人の熱みたいなものを感じないと思ってました」

「ははは。バレてたか。そう言う目黒くんは、本好きかい?」

 

「俺、文字読めないんです」

 

 目黒くんの告白に、僕は一瞬言葉を失った。

 彼はなんてことなく、「呪いのせいなのかはわからないんすけど」と言う。

「だから、本を読んだことがないんです。食べるだけ。でも、本は好きっすよ。味があるんで」

「味?」

「はい。甘かったり、しょっぱかったり、そういう味です。もしかして本を読んだ感情を味に変化したらこんな感じなのかな、って、勝手に思ってます」

 確かめようがないんですけど、と目黒くんは言う。

「最初、ここで食べた本は、ちょっとしょっぱくて、だんだん旨味みたいなやつがしました」

「スルメかな?」

「それとは違う気が……なんだろう。うまく説明できないです」

 なんて本だったんですか、と尋ねる目黒くんに、僕は言葉に詰まった。




 なぜ本に興味を持たない僕が本屋をやっているかというと、亡くなった姉の遺物だったからに過ぎない。

 姉のことは嫌いではなかったが、特に興味もなかった。なにせ十も離れている上、十八の頃には家を飛び出し、それ以来音信不通だったからだ。ほとんど家族や姉弟という実感がなかった。

 そんな姉が、まさか田舎で小さな本屋を営んでいたと知ったときは驚いた。

 姉は本が好きだっただろうか。そんなことも僕は知らなかった。




「そんな僕が、唯一姉と一緒に読んだのが、あの絵本だったんだ。多分、姉が好きな絵本だったんだけど」

 話の内容はほとんど覚えていなかった。ただ、何度も見た表紙と、姉が読み聞かせてくれたことだけは覚えていた。

「そんな大切な絵本を、食ってしまってすみません……」

「いいって。まだ何冊もあるし。それより、本の内容が知りたいなら、読み聞かせてあげようか?」


 いいんですか? と目黒くんが聞いてきた。思春期の男の子に絵本の読み聞かせというのも恥ずかしいかと思ったが、当の本人は気にしていないようだった。

 ゴホン、と咳払いして、僕は本棚から取り出した絵本を読み上げる。


 内容は、とある人が建てたちいさいお家の話。頑丈に建てられた家は、いつまでも変わらなかった。

 やがて都市開発によって周りが変化していき、忘れ去られていく。

 しかし最後は、その家を建てた子孫によって田舎に移され、再び住むところで終わる。


 きらきらとした目で挿絵を眺める目黒くんと、姉の顔が重なった。

 姉は僕を捕まえては、自分が好きだった絵本を読み聞かせていた。よほどこの物語が好きだったのだろう。よく、『こんなお家に住みたい』と言っていた。

 そこまで考えて、ああそうか、と僕は腑に落ちた。

 

 この本屋は、姉にとっての「ちいさいおうち」だったのだ。





「ありがとうございます。食べた本の内容を知れたの、初めてかもしれないです」

 目黒くんの言葉に、僕は朗らかな気持ちになった。本を読んでこんなに清々しい気持ちになるのは、初めてだった。

「……また、食べた本の読み聞かせしてもいいかい?」

 僕の申し出に、目黒くんは目を丸くした。さすがに小説一冊は無理だけど、絵本なら読める。


「君の言う本の味が、どんな内容なのか知りたくなったんだ」


 きっと本というのは、思い出を追想するものでもあるのだ。

 目黒くんの言う「味」は、思い出の味でもあるのだろう。

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