文化屋書店の話

清瀬 六朗

第1話

 「ほんとに、やるの?」

 私はそう聞いたのを覚えている。

 あの大水害で、堤防を決壊させた川の水はラスボス的怪物と化し、家の一階部分に襲いかかって破壊した。木の柱が一本残ったから二階が崩落せず、「全壊」にならずにすんだ。それほどの被害だった。

 仮設住宅に見舞いに行った私たちに向かって、父に先立たれてその家に一人住まいしていた母が、その家を本屋にすると言い出したのだ。

 「店の名まえももう決めてるよ。文化屋っていうんだ」

 戦争に負けて、この国は「文化国家」として再出発した。子どものころはそんな話をまわりの大人たちからよく聞いたのに、最近はとんと聞かなくなった。だから、その「文化」ということばのついた店の名にする、というのだが。

 「いや、それより前に、そんなカネ、だれが出すのよ?」

と聞くと、

「おまえらの世話にはならんから安心せい」

言う。

 それを聞いた夫ちゃんと私は、

「まあ、義母かあさんの夢の話だから」

と、それ以上の反対をせずに、見舞いを切り上げて、自分たちの家に帰った。

 お裁縫さいほうを習ったり、書道を習ったり、お華を習ったり、かと思うと漢文で唐詩というのを習ったり和歌を習ったり、とにかく「やりたいこと」が長続きしないのが私の母だ。

 こんどだってそうに違いない、次に帰省するときには、そんな夢は忘れているに違いないと思っていた。

 ところが、母はほんとうに、大水害の被災地のまんなか、前よりも高く頑丈に再建された堤防の下で本屋を始めた。

 母が仮設住宅から帰還したのは、本屋として新装された家だった。そして、帰還してすぐにその本屋をオープンさせた。

 大洪水が流してしまった一階の床をコンクリートにし、正面をガラス戸にし、そのなかに、表にも裏にも本を並べられる本棚を二つ入れ、壁もぜんぶ本棚にした。

 その奥のレジに、母が一人で座っている。

 破壊されなかった二階はもとのままだが、一階には台所と三畳の仏間があるだけだ。

 資金の一部は、家にかけてあった災害保険と、行政からの生活再建資金と、それまでの貯蓄を使い、それ以外は、運営資金も含めて、金融機関から借りたらしい。母はこの家に住み続けてもよいが、死ぬと同時に、この家と土地は借金の担保に取られる、という契約だったそうだ。

 といっても、それで借りられる金額には限りがある。その限度が来たらけっきょく私たちの家計にかかってくるんだろうな、と思ったら、その本屋ができたことを喜んでばかりもいられなかった。

 「こっちも子育ては終わったんだし、子育てのあいだは義母さんにもいろいろ助けてもらったんだから、こんどは、まあ、義母さんの夢に協力する番だよ」

と夫ちゃんは言ってくれたのだが。

 物わかりよすぎはしないか……?

 そのときは、そう思った。


 この堤防に沿った通りは母が子どもだったころには商店街で、にぎわっていたという。

 少し先に駅があり、機関庫があり、駅の周りに工場が集まっていた。そこで働く人たちが駅や工場との行き帰りに通る通りだった。

 私の家はその商店街の端に位置していた。

 私が知っているのは、商店街が栄えていた時期の「末期」という時代だったのだろう。

 物心ついたころはまだ店が並んでいた。小学校で使う文房具も、画材も、読む本も、この商店街で買っていたのを覚えている。

 商店街の角にあった本屋にはもう色の変わった新書本が置いてあった。高校生のころ、いちどその本を手に取って見たことがある。刊行年月日が私の生まれる五年ほど前だった。自分より先に生まれた本が本屋の本棚に並んでいる、ということが、私にはふしぎだった。

 そのころにはもう駅の向かいに大きなスーパーができていたけれど、それで商店街がさびれるということはなかった。

 しかし、私が四年制大学に通うためにこの街を出て、卒業して就職して最初に帰省したときには、そんな街の様子は一変していた。

 機関庫がなくなり、工場もどこかに移転して行き、人通りは減った。画材店も文具屋もなくなった。中学校の帰りに友だちとコロッケを買って食べていた肉屋さんもなくなった。家族でときどき食べに行っていたうどん屋さんもなくなっていた。私が小学生のころに突然隣に開店した喫茶店も閉まっていた。

 機関庫と工場がなくなった跡地に、都心でキャンパスが手狭になった大学を誘致することに成功したのが「地方の衰退を止める」策としてせいいっぱいのところだった。

 こんなところに大学ができるのなら、わざわざ一人暮らしして遠くの大学に通うこともなかったのに、と思った。

 ま、志望校とは違ったから、そういうわけにもいかないか、とも思ったけど。

 でも、駅前に大学があるものだから、その大学生たちは街に出て来ることはない。せいぜい駅の向かいのショッピングセンターに行くだけだ。駅から離れた商店街が賑わいを取り戻すことはなかった。

 そして、夫ちゃんとの婚約を報告するため、というか、親に円満に認めてもらうために帰省したときには、角にあった本屋も閉店していた。あの、私が生まれる前に出た本が置いてある本屋だ。

 それからまた二十年以上が経ち、あの水害の直前、その場所は「シャッター通り」ですらなくなっていた。

 シャッターが閉まったままの店も何軒かは残っていた。でも、あとは、店の造りを取っ払って普通の家に改装した住宅か、その建物もなくなった空き地かだった。

 そして、そのすべての上を、あの水害の濁流が流れ去った。堤防が浸食しんしょくされ始めてから突破されるまでしばらく時間があったので避難する余裕があり、人命に犠牲が出なかったのが「不幸中の幸い」だった。

 そんな場所に、ぽつん、と、一軒だけ本屋ができたのだ。

 本屋経営のノウハウは、その商店街の角で本屋をやっていた小父おじさんに聞いたらしい。あの、私が生まれる前の本を置いていた本屋の主人だ。

 置く本は母の好みで選んだ。だから、時代小説の本があるかと思うと、隣には園芸図鑑が置いてあるというようなぐあいだった。時代小説とかは母の趣味で、ほかには、洋裁、華道、書道、漢文、和歌……と、母が手をつけてどれも中途半端で終わった分野の本が雑然と並んでいた。

 私はもともと盆と正月と桜の季節くらいにしか帰省しないひとだったけど、母が本屋を始めてからは月に一度くらい帰省して母の様子を見ていた。

 母はその奥のレジのところに座って、幸せそうだった。

 ただ、店にお客がいることはほとんどなかった。

 ときどき大学生らしい女の子がいて、本をめくっているだけだった。

 あの機関庫と工場の跡地にできた大学の学生だろう。こんなところまで本を見に来るとはよほどひまなんだな、と思った。

 それだけだった。


 そして、母が亡くなるとともに、母の店「文化屋書店」もなくなった。

 生前の約束どおり、書店だった家は担保に取られ、私の家のものではなくなった。担保でまかないきれない借金は残らなかったらしく、私と夫ちゃんの負債にはならずにすんだ。

 その家に私の生活に必要なものがあったわけではない。家に置いたままにしていて、被災を免れた私物も、あの水害の後に、一部はいまの家に持って来、大部分は処分してしまった。

 しかし。

 私は帰省する場所を失った。

 「ま、いいか」

と思った。

 その場所に私は年に数回しか帰らなかった。何か文句を言える義理ではないことは十分にわかっていた。

 あの「昔は商店街だった場所」を訪れることは二度とないだろう。

 そう思ってため息をつくのも、これが最後だろうな、とそのとき思った。


 それから三年が経った。

 冬の寒さがようやく弛んだころ、「文化屋書店再開のお知らせ」というはがきが郵便受けに入っていた。


 いや。

 あの店が再開するはずがない。

 母はもういない。

 それに、あの場所は借金の担保に取られて、もうないはずではないか。

 夢のような心地で、私はその場所を訪ねてみた。

 私が育った家のあった場所を。

 そこは「家のあった場所」ではなかった。

 私の育った家はまだあった。たしかにいろいろと新しくなっていたけれど、あの大水害を生き延びた二階の屋根瓦の汚れまで前のままだった。いまでは何の役にも立たないVHFアンテナもついたままで残っている。

 その建物はいまも本屋だった。

 もとの本屋よりも明るく、開放的な感じの本屋になっていた。

 夢を見ているのではないかという心地はまだ続いていた。

 いや、かえって強くなった。

 そんな、足が地面に着いていないような心地のまま、私は店に入った。

 母一人しか店員のいなかった店に、店員さんが何人もいた。

 開店したばかりだからかも知れないが、お客さんも何人もいて、その明るい照明の下で本をめくっていた。二〇歳前後の若い人が多かったが、歳を取った人も、それに、二十年前の私のような、子連れのお母さんもいた。

 店員さんに、はがきで案内をいただいた者です、と話しかけると、すぐに店主というひとが応対してくれた。

 私の娘のような若い女のひとだった。

 最初はだれかわからなかった。けれど、その笑顔を作った目もとで、私にはわかった。

 ほとんど客のいないあの「文化屋書店」で本をめくっていた大学生だ。

 奇妙な感覚だ。

 この大学生は、店で本をめくっているときはいつもまじめな顔で本を読んでいて、笑った顔など見せなかったのだから。

 そのひとは、屈託くったくなく笑って私に言った。

 「私、そこの大学にいるときに、書の歴史、あ、書道ですよね。その研究をしてたんですけど、ネット書店では配達まで一か月待ち、とかいう本がここにはちゃんと置いてあって。あと、すごいマイナーな、遠くの地方で編集してるその地方の短歌の雑誌とかもあって。それと、外国の民族衣装の型紙集とか。なんか、うちの大学のそういうマニアな学生が通う店になってて」

 それは……。

 母が、その趣味をとっかえひっかえ変え、その趣味の記憶に少しでも引っかかる本や雑誌を、採算とかいろんなものを度外視して店に並べたせいだ。

 ……それが、大学の学生のニッチな要求にマッチした、ということなのだろう。

 「このお店が閉まったのがちょうど学校の休み期間中だったから気がつくのが遅れて、えーっ、ってなって、ネットでもちょっとした騒ぎになって」

 ぜんぜん気づかなかった。

 それは、もちろん、「文化屋書店」で検索なんか一度もかけたことがないからだ。

 店主の娘なのに、母のやっている店の店名で検索をかけたことなんか、一度もなかった。

 「それで、私たちで集まって、なんとかならないか、って行政とも掛け合って、この街の世話役の人とかとつないでもらったんですね。そうしたら、あの災害のあと、ここに本屋さんができたことで、この地域の人はみんなこの場所でやり直そうと勇気をもらったんだ、って言われたんですよ」

 「それって、私、知らなかった」

 私は正直に言った。

 「自分の帰省先の家がそんなになってるなんて」

 まだ二〇歳台のその店主は目を細めて笑った。

 「ええ。一人暮らしでほかの街に行くと、そういうの、わからなくなりますよね。私も、帰省したら父とも母とも話が合わなくて。もう絶望的に合わなくて」

 「いや」

 私はその店主さんのオーバーな言いかたにつられたのだろうか。

 「私なんか、その絶望的に合わない、ということにすら気づけなかったんで」

 そう、ことばに出して言っていた。

 ほんとうのことだ。

 言って、私たちは二人で笑っていた。

 店主さんは続けて言う。

 「それで、その近所の方たちが、私たちに「やってみるか、本屋?」って、やるんなら、ってことで地域の人たちがおカネを出し合って、この土地と家を買い取る、っていう話で。最初は半信半疑で、正直、尻込みしてたんですけど、そんなあいだに、ほんとに銀行とかと話してどんどん進めてくださってですね、もう、いやちょっと待ってください、とは言えない雰囲気になって。そこまで来たら、もう、やらない、とは言えませんよね? だってこっちから「どうにかならないですか」って話を持って行ったんだから」

 「そうそう」

 私のほうも容易に滑るように声が出るようになっていた。

 「このへんのひとって、ノリで何か決めたらなかなか押しつけがましくて、がんこだよね」

 私が小学生や中学生だったころ、商店街でイベントをやるとかいう話が出たら、商店街のだれかが中心になってそのアイデアをぐいぐい押して実現に持って行っていた。

 商店街が消え失せて、そんな雰囲気もなくなったと思っていたのに。

 残っていたらしい。

 「わたしたちにがその運営を委託されて。どこまでできるかわからないですけど、せいいっぱいやってみるつもりです」

 そんなことを言われたら、私だって引くに引けない。

 「じゃあ、私も一枚ませて」

 私はそう言っていた。

 それが出資になるのか、ほかの何かになるのかはわからない。

 夫ちゃんがどう言うだろう、ということが頭をかすめた。

 でも、もとはといえば「こんどは、まあ、義母さんの夢に協力する番だよ」なんて言ったのは夫ちゃんだ。その夢が続いているのだから、ここは「協力する」以外ありえない。

 いやがったら、そう言って説得してやろう。

 「ありがとうございます」

 言ってうなずいたいまの店主の顔に、ふと、母の表情が重なった。

 それは店の奥のレジに座っていたころの母の最高の笑顔だった。


 (終)

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