古書店と書き損じ【KAC20231】

カイエ

古書店と書き損じ

 古書店が好きです。


 神保町になど足を踏み入れると、一生出てこれなくなります。

 自宅から少し行ったところにもちょっとした古書街があるのですが、一緒に行った息子の存在を完全に忘れてそこから動けなくなってしまい、えらく迷惑をかけたこともあります(今もそのことでちくちくといじめられます)。


 古書店の雰囲気が好きです。

 普通の本屋さんも大好きですが、古書店にはもっとワクワクします。

 あのちょっと枯れた匂いも、普通の本屋さんにはない雑多感も、全部が愛しいです。


 などと言うと、ちょっとロマンチックな印象を受ける方もおられるでしょうが、ぼくが古書店を好きな理由はおもに二点です。


 ひとつは、普通の本屋さんとはラインナップが違うこと。

 もう一つは単純に安いことです。


 特に、活字中毒だった子供時代のぼくには二番目の理由が重要でした。

 少ないお小遣いでどれだけの数の本が買えるかが一番の問題だったのです。


 でも、当たり前ですが全ての古本が安いわけじゃありません。

 むしろ目玉が飛び出すような値段の本があるのも古書の世界の面白さです。


 これはすでに閉店してしまった、近所の古書店の親父さんから聞いた話です。


 ▽


 50年ほどむかし、一人の男がいました。

 その男は本物の本の虫で、人生の全てを古書の収集に捧げたような人物だったそうです。


 ある日、男はオークションに出品されるあるものに目をつけました。

 それはとある文豪の代表作の書き損じでした。

 名前は伏せますが、教科書にも載っているような有名作品の書き損じです。


 前情報によると、百万円前後で落札されるだろう話でした。

 百万円といえば、今でももちろん大金ですが、50年前だともっと大金です。

 男は何としてもそれを手に入れたかったのですが、予算が足りません。


 そこで男は手持ちの本をいくつか売ることにしました。

 男はいくつかの安アパートを所有しており、その全てが古本で埋まっていました。

 住居ではなく書庫として使っていたのです。


 男はそのうちの一つのアパートを解放し、古本屋の主人の協力を得て、1日古書店を開きました。

(当時、勝手に古本を売り買いすることは法律で禁じられていたんだそうです)


 古本の世界というのは広いようで狭く、男が本を売ろうとしているという噂は瞬く間に広まり、マニアたちは大金を握りしめてボロアパートに殺到しました。


 男の目標金額はたった1日で集まりました。

 あっという間だったそうです。


 男は古本屋の主人に依頼し、無事にオークションで目的の書き損じを手に入れることができたのです。


 めでたしめでたし。


 ▽


 さて、本題はここからです。


 男は落札後、何を思ったか、その書き損じのコピーを大量に取って、知人に配って回りったそうなのです。


 それは、原稿用紙の半分ほどしか埋まっていないもので、公開されている作品とは少し違った文章でした。


 周りの人たちは不思議に思いました。

 百万円以上も払って手に入れた書き損じを、無料で配って良いのかと。

 コレクターとしては、誰にも見せずに独り占めしてもいいのではないかと。


 直接それを男に尋ねた人もいました。


「せっかく大枚を叩いて手に入れた貴重な原稿を無料でコピーして配るだなんて、あなたは一体なんのためにそれを手に入れたのだ?」


 と。

 すると男は不思議そうに答えたそうです。



 男にとっては、原稿用紙の書いてあることが全てだったのです。


 他の人が手に入れれば一生自分が読むことができなくなるかもしれない、それならば自分で手に入れてしまおう――ただそれだけのために、男は百万円ものお金を用意し、散財したのでした。


 ▽


 ぼくはこの話が好きです。


 どんなに貴重な本でも、きっと誰かに読まれたがっているに違いありません。

 だって、きっとそれこそが、本が生まれてきた存在理由レゾンデートルだと思うのです。

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