この世界に僕の好きな「本屋さん」なんてもう存在しないから。
成井露丸
👦📖👩
指先を背表紙の頭に掛けると、白い埃が舞い、
拡散する粒子エフェクトみたい――いやそのものだな、と思った。
ケヴィンは、引き出した一冊の本を手元で開く。
薄くても表紙の堅い書籍。
物理的な書籍ならではの独特な手応えを覚える。
表紙のタイトルは『琥珀の八重桜』。著者はエドワード・ケラーだ。
指先でページをめくる。古めかしいフォントで印字された物語が、ケヴィンの中に飛び込んできた。
『日本の京都市、夜の闇に包まれた小径。何者かがこの暗がりを這っていた。足音はほとんど聞こえず、暗がりに溶け込んでいた。犯人か? それとも獲物か?』
ミステリー小説のシリーズだったと思う。左手で埃を払うと、ビニールカバーが掛けられた帯に、少年は視線を落とした。
『この小説は、日本の古都・京都を舞台に繰り広げられるミステリー物語である。物語は、窃盗事件が発生したところから始まる。盗まれたのは、京都の名物である「琥珀の八重桜」と呼ばれる美しい陶器の像であった。主人公である外国人探偵のジョン・カベンディッシュは、この事件を解決するために京都にやって来た。彼は、自らの知識と経験を駆使して事件の真相を探ることになる』
ちょっと面白そうかな、とケヴィンは思った。
だけど読んでみなければ、物語の面白さはやっぱり分からない。
「――今日はミステリー小説かい? 坊や?」
振り返ると長髪の女性が腕を組んで立っていた。褐色の肌を胸元まで露出して。
たわわで豊かな膨らみは、組んだ腕の上に乗って、随分と
一瞬、視線がその膨らみに吸い寄せられたが、ケヴィンはすぐに目を動かして彼女の顔を見上げた。
「まだ、迷っているんだ、ヴィヴィアン。――読んだことはある? ヴィヴィアンは、この本?」
「ん? 誰だ、著者? エドワード・ケラー? う〜ん、
「でも、ロマンはあるよね? ――知らない著者の名前って」
「ケヴィンは
ヴィヴィアンは体が触れそうな距離まで近づくと、ページに目を落とした。女性特有の甘ったるい匂いがして、ケリーは半歩右側へと体をずらした。
書棚の間の狭い通りに立つ二人の背後を、室内巡回のボットが通り抜ける。典型的なモータ音を立てながら。
「――私が言うのもなんだけどさぁ。ケヴィンはちゃんと本を読むために、わざわざうちの店にくるんだよなぁ。物好きっていうか」
「変ですか? ――僕、本屋さんが好きなんですよ。雰囲気とか、匂いとか、囲まれている感じとか。もちろん本を読むこと自体も好きなんですけどね」
「いや、まぁ、変じゃないさ。最初はリリーナ目当てなのかと思っていたけどな」
大人の女性たる店主は、大人気なく悪戯っぽい流し目を送る。
その名前が出ると、ケヴィンは少し体を震わせて、顔を赤らめた。
「まぁ、リリーナと会えたらいいなとは思いますけど。――それはそれです」
「やっぱ、好きなんだ、リリーナのこと」
「秘密です」
金髪の少女リリーナはケヴィンより一つ年上の少女だ。
この店で開催された読書会で一年ほど前に知り合った。
彼女に会いたくてこの店にしばしば足を運んでいるのも、嘘ではない。
「――でもイイと思うよ。そういうの。
「
「
そう言うと、彼女は少年に背を向けてカウンターへと移動した。
ケヴィンもそれに付き従う。
長い木のテーブル前まで来ると、ハイチェアに腰を下ろした。
そんなケヴィンの前にヴィヴィアンはコーヒーの入ったマグカップを置く。
「――ほい。ミルクいるっけ?」
「あ、いただきます」
ピッチャーからこぼれる白濁液が琥珀の水面で音を立てる。
そんな微かな音も明瞭に、ケヴィンの聴覚へと届いていた。
「
「急ですね。ヴィヴィアン先生の昔話ですか?」
「嫌かい?」
「嫌いじゃないです」
「素直に『好き』といい給え。二重否定は言語処理的に
カウンターで肘を突いた褐色の女性が半目になった。
少年は、彼女のまつ毛が長いな、となんとなく思った。
ヴィヴィアンの話は本屋さんのコミュニティ機能に関するものだった。
図書館や喫茶店、本屋さんは、その昔、人の集う場所――サードプレイスとして再生の期待を集めたのだと。
サードプレイス、つまり第三の場所。
それは家でもなくて、学校や職場でもない場所。それらを行き来するしかなかった人々たちが集い、新たな出会いや繋がりを産む場所。
出会うのは知識であったり、刺激であったり様々な。
言葉にしがたい重層的で多面的な存在。
それが生命的な都市の重要な構成要素とみなされたのだ。
「でも、本屋さんは滅んだ。――二十一世紀初頭の努力不足ですか? 図書館だって今じゃ電子図書館だけが辛うじて残っているだけじゃないですか?」
「まぁ、地域の活動家も、教育者も、政治家も、――経済原理には勝てなかったってことじゃないかな。――結局、二十世紀末からのIT革命から始まって、二十一世紀初頭のAI革命へと至った情報技術の発展は、人間の世界を荒廃させただけなのかもしれないね」
ヴィヴィアンはそう言って自分のマグカップを口元へと引き寄せた。
「僕は街に本屋さんがあった時代に生まれたかったです。そうしたら、もっと
「――それはどうかな? 現実なんて本当は大して
ケヴィンはふとリリーナの絹のような肌と、琥珀の瞳を思い出す。
一本一本の黄金の髪は光の中で美しく舞う。
そんな彼女が開いた本から顔を上げる。
その微笑みはまだ恋を知らなかった彼にとって消せない
だから
「でもぼくは本屋さんが好きです。ここで僕はヴィヴィアンさんにも会えたし、リリーナとも友達になれた」
「それは良かった。じゃあ、私のこの店は君にとってのサードプレイスになれたってことかな?」
「そうなのかもしれない、です。――まぁ、今の僕には
情報空間の中に三次元的なデカルト座標系を取れば、そのある種のまとまりが
だけど情報空間のアドレスを叩いて飛び込むこの空間は
アドレスという言葉が元々「住所」を表す
「確かに
「人間はとっくの昔に身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現していますからね」
「家に居ながらどんな場所にだって行ける。その場所はもはや現実空間である必要すらなくなった。だから
「そして身体を捨てた人間とAIの境界線はますます曖昧になった」
「そうかもしれない。誰も現実の存在意義をはっきりとは主張できなかったし、――だからこそ、自己増殖を続ける技術進歩と幸福追求の神話に飲み込まれていったんだよ。やがて仮想は現実を超えて、ただ欲望に従った資本主義は情報の洪水に飲まれた。そもそも情報技術が生み出す情報財は市場経済によって統御し難い存在だと、経済学者だって知っていたくせにね。そして身体は滅んだ」
「だから本屋さんも滅んだ? ――図書館は?」
「似たようなものさ。――知っているかい? 昔は図書館には『司書さん』っていう専門家がいたんだよ。本についてよく知っている人、君たちの読書を誘う水先案内人さ」
「――『司書さん』? ――それはヴィヴィアンみたいな人?」
ケヴィンが首を傾げると、ヴィヴィアンは喉を鳴らして笑った。
大きな胸も揺れていた。
「それはイイね! 私が二十世紀に生まれていたら、是非、司書になりたかったよ。書架に囲まれて、埃っぽい本を整理しながら、レファレンスサービスをするんだ。――こんなに素敵なことはない!」
「本物の書店員よりも? 司書さんがいいの?」
ヴィヴィアンが顎に親指を当てて、「そこは悩むな」と首を傾げた。
どこか悪戯っぽく口角を上げながら。妄想の世界で踊りながら。
そんな彼女を見て、ケヴィンは何だか幸せな気分になった。
マグカップから流れ込んだミルクコーヒーが喉を温かく抜ける。
味覚を伝送する媒体も、問題なく機能し続けているようだ。
「――それで、結局、その本は読んでみるのかい? エドワード・ケラーの『琥珀の八重桜』?」
脇に置かれた薄手のハードカバーを女店主は指さした。
ビニールが掛けられたその本に、もう埃はついていなかった。
ケヴィンが所有権を設定した時点で、情報が上書きされたのだ。
その書籍は新品のように美しく光沢を放っていた。
「うん、ちょっと家に帰って、読んで見るよ」
「まあ、そうだな。この空間でわざわざ三次元の視覚情報として文字列を
「でも、リリーナはいつも、本で読んでいるよ?」
「あの娘は特別。――あの娘はテキストデータを脳内に直接流し込めないからさ」
「え? じゃあ、どうやって文字を読むの?」
「だから文字を読む必要があるんだよ。画像情報としての文字をわざわざ画像認識してさ。それを脳に伝達しているんだ。――リリーナみたいな女の子は」
「――そうなんだ。……不便そうだね」
「まぁもう、そんな人間も、随分と減ってきたけどな。――
切なそうに目を細めたヴィヴィアンの表情。
ケヴィンはそれを見上げて、リリーナのことを少し不憫に思う。
「リリーナは
「いや、そういうわけじゃない。――
「じゃあ、僕が大きくなったらリリーナと結婚して、僕が彼女を養ってあげるよ!」
少年の瞳は輝いていた。人生の目標を見つけたみたいに。
「なんだよ、ケヴィン、やっぱり好きなんじゃん。リリーナのこと」
「初めから否定はしていないから。――でもリリーナには言っちゃだめだよ!」
「分かってるって」
ニヤニヤと笑みを浮かべてから、ヴィヴィアンは一つ伸びをした。
「ごちそうさま。――じゃあ、僕は行くね」
「おう、少年。――物語の良い旅をな」
ケヴィンはハイチェアから飛び降りる。
ヴィヴィアンに手を振ると、踵を返して、書店の扉口へと駆け出した。
開かれた扉の向こうは石畳の町並み。二十世紀のイギリスの町並みを模した
ケヴィンが、その空間に駆け込むと、彼の姿は溶けるように消え去った。
*
気が付くとケヴィンはいつもの部屋にいた。
頭部に装着したヘッドギアを外す。部屋の中を見回す。
所狭しと張り巡らされたケーブルと点滅する光を放つ機器が壁面を埋める。
自分の意識が戻ってきたことを確認すると、ケヴィンは一つ溜息をついた。ずっとこの部屋にいると、時々、自分が人間なのかどうかわからなくなる。
ヘッドギアを通して繫がる
仮想と現実の経験は混じり合う。
その中でより
人と出会うのも、匂いを嗅ぐののも、物を食べるのも、夢を見るのも、恋をするのも、
だって現実なんて色褪せた灰色で、剥き出しの
だからこそ不安になる。
時々、わからなくなる。
自分が人間なのかどうか。
そもそも自分はAIなんじゃないだろうか。
指を伸ばして太腿の保護表面に触れる。確かな皮膚感覚を覚える。
左右に視線を動かす。能動的なカメラ動作に応じて視覚画像が変化する。
口を開けて音を出す。空気の振動は循環し内耳を揺らす。
その全ては脳内に内部表現を励起させ、世界の出来事として知覚される。
自らの身体を通して世界を予測符号化しているのだ。
生きるということは世界モデルを持つこと。
生物固有の
だからこそケヴィンは確信する。そして安堵する。
自分は人間なのだと。
「――さて、じゃあ、お楽しみの読書
目を閉じたケヴィンの脳内にヴィヴィアンの声が蘇る。
――ケヴィンは
――著者名なんてただの
それでもいいじゃないか、と少年は思う。
物語を愉しむことは、旧世代からずっと人間が営んできたものなのだ。
筆者がまだ少なかった二十世紀以前の古典と呼ばれるテキストでも。
WEB小説が隆盛してから旧世代の人類が量産したようなテキストでも。
二〇二〇年代頃からAIがその何千倍ものスピードで粗造乱造してきたテキストでも。
それは等しく自分にとっては「物語」なのだから。
暗闇の中、接続された情報空間から、テキストデータが脳内に直接流れ込んでくる。
『琥珀の八重桜』。著者はエドワード・ケラー。
ケヴィン少年の心は、京都の街の夜闇に飛んだ。
機械仕掛けの
【了】
――――――
(注)
本文中で用いたエドワード・ケラー著『琥珀の八重桜』の書き出し部分とそのあらすじは、OpenAI社製ChatGPT(言語生成AI)に「エドワード・ケラーのミステリー小説『琥珀の八重桜』の書き出しを書いてください」とプロンプト文を入力して生成させたものです。2023/03/01現在のChatGPTのバージョンを使用しています。
この世界に僕の好きな「本屋さん」なんてもう存在しないから。 成井露丸 @tsuyumaru_n
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