第5話 舞台裏


           *           *


「二日の午後二時から三時に掛けて、どちらにいました?」

「それが、新波しんなみの殺された時刻ですか、刑事さん」

「ま、そういうことです。覚えている範囲で結構ですから」

「少々、お待ちくださいよ、日記を見ますので。と言っても独り身の上、たいてい房に篭もって土と格闘していますから、ご期待に添えらるかどうか……あ

あ、二日はですね、昼から外出したんだ。お手伝いさんに一週間の休みをあげたのはいいのだけれど、食事が大変でしてね。昼、ちゃんとした物が食いたくなって、駅に徒歩で向かいました」

「最寄りのN駅?」

「ええ。そこから上り電車に乗って」

「発車時刻は覚えていますか?」

「午後一時ちょうどじゃないでしょうか。駅に着いたのが、一時五分前ぐらいだったので。確か一時ちょうどのがあったはずです」

「なるほど、結構です」

「それから三駅行って、Q駅で降りました。一時十五分頃でしょう。ここの駅前商店街にある『ししくら』という食堂が気に入ってましてね。この日はどうしても、牛カツ定食を食べたくなったんです」

「レシートの類はあります?」

「運がよければ、財布の中に残っている……あ、あった。どうぞ。インクが少し薄いけれども、八月二日の午後一時四十五分とあるのがお分かりでしょう」

「……確かに。食べ終わりの時刻として、お話に矛盾はない。ですが、肝心の時間のアリバイをまだ伺ってません」

「そうでしたね。食後、書店に立ち寄りました。ゼーダという店です。時刻は二時にはなってなかったでしょう。一時五十七、八分頃かと」

「やはりレシートがあると?」

「いえ。あのときは何も買わなかった。買えば、日記に付けますので、すぐ分かります」

「それでは、知り合いにお会いになったとか、トイレを借りて店員が覚えているというようなことはありますか」

「ううん、どうだろう。美術書の類を一時間弱、立ち読みしていた訳ですから、目立ったかもしれません。ただ、あそこの書店は広いですからねえ」

「困りましたな。とりあえず、その書店に行った証明は棚上げにして……何時までいたのですか」

「ですから一時間弱……二時五十分頃までいましたよ。そのあとは真っ直ぐ駅に向かい、三時七分発の下りに乗って、家に帰りました。帰り着いたのは三時半だったかな。実は三時半から自宅で人と会う約束があって、それに合わせて行動したんですよ」

「実際に会われたんですね、その人とは」

「もちろんですとも。毛利という昔から付き合いのある美術雑誌の編集者です。この日は仕事ではなく、趣味の囲碁を打つために来てもらったんですがね」

「連絡先を伺っておきましょう」

「では、これに……はい。どうぞ」

「どうも。しかしですねえ、肝心要のところが抜けているんですよ、先生の証言には。一時五十分に食堂を出れば、Q駅を二時に出る下りの快速に乗れるでしょう。そうしたら、犯行現場に最寄りのK駅に二時二十分に到着。ここから犯行現場の新波さん宅まではゆっくり歩いても五分。充分に犯行可能と見なさざるを得せん。ここ、ご自宅に戻るのも、K駅を……三時三分に出ればいい。余裕を持って、三時半に間に合います」

「参りましたね。ところで、日記に面白いことを書いていた。これはアリバイになると思いますよ」

「ぜひ、伺いましょう」

「ゼーダ書店にいたとき、ちょっと変わった光景を目撃してる。だからこそ、日記に付けたんですがね。美術書を見る前に、文庫本のコーナーを通りかかったんですが、そのときふっと足を止めた。何故なら、棚の一角がやけに白かったからです。目を凝らして確かめたところ、二十冊近くの文庫本が反対向き、つまり背表紙を奥にして入れてあったのですよ」

「それは確かに……珍しい。で、そのことを店員に?」

「いいえ。不思議には思ったものの、元々小説には興味がないし、毛利との約束もありましたから、放っておいて、美術書のある場所に急ぎました。ただ、店を出る前にも文庫コーナーを通りかかったら、反対向きのままだったことも覚えています」

「ふうむ。その文庫の奇妙な状態について店員が記憶していれば、先生のアリバイは間接的に証明される、ということですか」

「理解が早くてありがたいですね」

「分かりました。調べてみましょう。念のためにお伺いしますが、何という作家だったかまでは、ご記憶に……ないでしょうねえ?」

「名前は分からないが、頭文字が『る』なのは間違いないと思いますね。よくあるでしょう、ここからは何行の作家であることを示すためのプレートが本棚に差し込んであるのを。あれが、『る行』だったんですよ。いやあ、『る行』なんておかしいでしょう? ですが、ゼーダ書店ではそういう表現を平気で使ってるんですねえ」

「ああ、自分も古本屋でそういう店を知っています。だが、おかげで絞り込み易くなりました。これから早速、調べに行きますよ」


           *           *


「……もしもし。君か。今、周りに人はいないね? うん、例の件だ。助かったよ。そう、めでたくアリバイ成立だ。書店で文庫本何冊かが反対向きになっていたのを見たという証言を、警察も信じたようだ。ああ、分かっているさ。君が仲間を誘って、一週間だっけか、文庫本を反対向きにしてくれたおかげだ。礼は弾ませてもらうよ。いくらぐらいほしい? え、何だって。礼はいいとはどういう……。ほう、君も殺したい奴がいるのか。なるほど。今度は私が君のためにアリバイ工作をすればいいということだね、了解した。その方が、私も枕を高くして眠れるよ」


――終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恥ずかしがり屋の文庫本の冒険 小石原淳 @koIshiara-Jun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ