私を食べて、と私は言った。
間川 レイ
第1話
1.
この世界を組んだプログラマーがいるとしたら、そいつはよっぽど底意地が悪いのだろう、なんて。そんなことを考える。
ガムテープで何重にも補強した窓の隙間から外を覗けば、今日も今日とて蘇った死体こと、ゾンビがうじゃうじゃと。
残り少ない生存者を追い求めて、「あー」とか「うー」とか、意味をなさない呻き声を発しつつ、今日も蠢いている。某ラクーンシティも真っ青な有様だ。
なんでこんな事になったんだっけ、なんて考えるも、首を振ってそんな無駄な思考を追い出す。そんな事を考えたって無駄なのに。それに分かっていることなんて何一つないのだ。
私に分かっているのはある日死者が再び動き出すようになって、世界中が蘇った死者で満ち溢れたことのみ。ゾンビを抑え込もうとする試みはすべて失敗した。ワクチンも、隔離政策も。頼みの綱の空爆や、しまいには核攻撃さえ。封じ込めにあたった警察官や軍人が真っ先にゾンビになり、治療しようとした医師たちも皆ゾンビの餌になるかゾンビの仲間入りを果たした。政府は崩壊し、地上は蘇った死者の闊歩する死者の楽園となったのだ。
それでも私たち、私と妹はうまくやっていた。近くのコンビニからあまりものの食料をくすね、私たちを追いかけてくるゾンビどもはぶっ殺す。時には血迷ったのか私たちを狙ってくる人間をも殺さなくちゃならなかったけれど、それでもうまくやっていたのだ。
勿論こんな生活がいつまでも続くとは信じていない。既に世界は終わっている。映画みたいなハッピーエンドなんてどこにもない。私たちに許されているのはバッドエンドかデッドエンドの二択のみ。いつか餓えるかしくじって、生きながらゾンビに貪り喰われるか、晴れてゾンビの仲間入り。そんなエンディングは明らかに見えていたけれど、それでも当分は先だろうと無邪気にも思っていたのだ。
あの日、食料を調達に出かけた妹がゾンビにかまれて帰ってくるまでは。
2.
あの日、あの子は血みどろで帰ってきた。首にはくっきりとあの忌々しいゾンビの噛みついた跡。
「ごめん、しくじっちゃった」
そう力なく笑う妹に私は絶句するしかない。あまりの衝撃に涙すらこぼれない。私は妹の身体能力の高さをよく知っている。特に運動部に入っていたわけではないけれど、その体のキレや体のバネは天性のもの。陸上部の男子顔負けだ。そうそうゾンビごときに後れを取るものではないはず。それなのに何故と。
妹はゴボゴボと血の混じる声で答えた。
「躊躇ってしまったの」
と。今でこそ死体とはいえ、元は生きていた人間たちだった。生きて、会社に行って、学校に行って、家族の待つ家に帰る、普通の人たち。そう言う人たちを再び殺すことは許されることなのかなって。
馬鹿なことを。私は泣いた。そんなこと、考えなくてもよかったのに。私はあなたが無事で帰ってくれば、それだけでよかったのに。世界なんてとうに終わっている。倫理なんて投げ捨てろ。良心なんておさらばだ。正しいから正しいというトートロジーを飲み干して、そう、すべきだったのに。
「わかってるよ」
妹は今にも消え入りそうな声で、それでも言う。
「わかってるつもりだったんだ。」
でもね、と妹は涙声で続ける。
「子供のゾンビがいたの」
そう、泣いているような笑っているような顔で続ける。
「あの子。私のあげたぬいぐるみを持っていたの。」
高校2年の夏。まだ世界が正常だった時に、読み聞かせボランティアで行った病院。そこであげた、クマさんのぬいぐるみを抱えていたのだと。
「殺すなんて、無理だよ」
そう、ポロポロと涙をこぼす妹。ああ、私は天を仰ぐ。やっぱりこの世界を組んだプログラマーはクソだ。災いあれ。
妹は優しすぎたのだ。このイかれた世界で生きていくには。こんなことになるなら、私が代わりに行けばよかった。そして私が代わりに噛まれればよかったのだ。そう、泣いた。
妹はそんなこと言わないで、と苦笑すると懇願するような目で言う。
「私は人間だよ。いいや、人間のままで死にたい。」
だから、と妹は続ける。縋るような、祈るような目で。
「ゾンビになんか、なりたくない。」
そう言って、微笑むと。
「私が人を襲わなくて済むように、しっかり殺してくれると嬉しいな」
妹はこと切れた。私はその遺体にただ取りすがって泣くことしかできなかった。
3.
とはいえ、私はいつまでも亡くなった妹の死を悼むという贅沢にふけることはできなかった。速やかに処置をしなければ、今のこの世界では死体はゾンビとなって甦る。そしてその蘇ったゾンビは人を襲い、人を食らうようになる。それを防ぐための方法はたった一つ。徹底的に遺体を損壊することだ。頭を叩き潰し、はらわたを撒き散らし。それでゾンビにはならなくなる。
妹の最期の願いを果たすためには、すぐにでもそうするべきなのだろう。
だが妹は、この22年間ともに生きてきたかけがえのない肉親なのだ。頭を叩き潰し、はらわたを切り裂くだなんて。そうすべきなのはわかってる。それが妹の望みでもある。だが、そんな事をすれば、あの無邪気に笑う顔も、しなやかな肢体も。見る影もなくぐちゃぐちゃになる。それは果たして人なのか。人間としての、尊厳ある死なのか、なんて。躊躇った。躊躇って、しまった。
そうしているうちに。妹の亡骸はびくびくと震えはじめる。肉がねじれ骨が砕ける冒涜的な音が響く。ぐちゃぐちゃ、ばきばきと。妹が変わっていく。不可逆的に変貌していく。あの悍ましいゾンビへと。
早く介錯してやるべきだ。そう頭ではわかっているのに。抱えたテレビをただ振り下ろすだけでいい。そう、頭では理解しているのに。馬鹿みたいに手は震えるばかり。一向に振り下ろすことができない。
そうこうしているうちに変貌は終わる。終わってしまう。のっそりと起き上がった妹には、生前の風貌など微塵も残ってなかった。瞳孔は胡乱に開き、焦点も定まらずさまよい続ける。口は間抜けにもぽかんと開き、涎をだらだらと流している。
妹はゾンビになった。なってしまった。妹はもはや、人を襲い、喰らう化け物へとなってしまった。
いいや、違う。私は内心首を振る。私が妹をゾンビにしたのだ。私が愚かにも躊躇ったから。もはや妹は、人語を解さない。その瞳にいくら美しいものを映しても、もはやそれを楽しむことすらできないのだ。私が妹を怪物にした。化け物にした。
私のすべき事はただ一つ。この目の前のゾンビを殺す事。ゾンビとは、明確な人類の敵だ。放置すれば、必ずや近くの人間を襲い、喰らい、ゾンビにする。ゾンビを生かしておくことは許されない。人を襲いたくないと言って事切れた妹の願いを裏切ることになる。人のまま死にたいと願った私の妹。その願いは裏切ってしまったけれど、せめてその願いだけは叶えてやりたい。そう思っているのに。その思いとは裏腹に、手はゆっくりと降りていく。手からテレビが滑り落ちる。ガシャンという音を立てて落ちるテレビ。
私にだってわかっている。私に妹は殺せない。こんなになってしまったとしても、この子は私のかけがえのない妹なのだ。この子はゾンビなんかじゃない。あれだけ沢山のゾンビを殺してきながら今更なにをとは思う。外見からして、成り立ちからして明らかにゾンビなのだから。我ながら愚かな事だ。他人のゾンビなら遠慮なく殺せるのに、妹の死体はゾンビに見えないなんて。
私は両腕を広げる。おいで、というように。奇妙にぎくしゃくとした動きで、大口を開けてこちらににじり寄ってくる妹をぼんやりと見る。もう、お姉ちゃん!という軽やかな声が聞けないという事実が無性に悲しかった。その間も妹はやってくる。ずるずると、足を引きずるようにして。ああ、これが私のエンディング。やっぱり碌なものじゃなかったな、なんて思う。気づけば妹は手を伸ばせば届く距離。
「ごめんね」
そう言うと私は妹にしなだれかかる。とっさのことによろめく妹の体。その妹の耳元でささやく。
「私を食べなさい」
と。私を食べて、お腹が膨れて暫くは人を襲わなくて済むように。これが、私にできる最大限の責任の取り方だ。妹を救えず、妹の希望を裏切り、妹も殺せなかった愚かな女。そんな女にはこんな末路こそが相応しい。
それが聞こえてか知らずか、私の肩にがっしりと両手が回される。痛い。食欲に支配された、奇妙にうつろな瞳が目に映る。
「馬鹿なお姉ちゃんでごめんね」
その言葉に答えるように、大きく妹が口を開く。ほのかにかおる、柑橘系の香り。妹は最後までブレスケアにも気を遣っていたらしい。誰も見る人なんていないのに。気にする人なんていないのに。
でも。それでこそ妹らしい。そんな思いと共に目を閉じる。やがてやって来る痛みを受け入れるために。
私を食べて、と私は言った。 間川 レイ @tsuyomasu0418
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