0話/死の川
白い花々の咲き乱れる世界に獣は存在しない。ここは異界、独自の法が通う場所。高度はあるも太陽と月は昇らず、空の概念は無い。
地上を埋めるのは草花のみ。世界の中心を貫く巨樹だけが、大地の果てを知っていた。彼は自我のない存在であるが、後の世に顕現せし姿を踏まえて、便宜上はオクノスの巨樹と呼ぼう。
オクノスは己を環境に順応させ、他種と争わず獲得可能な養分を得た独自の個体として他にないほど伸びあがり、長遠なる時間をかけて高く聳えた巨樹である。
彼を中心とする生態へと草花達は変化。巨大なオクノスの枝が頭上を覆い、水晶の如き樹皮が煌めき、広大な根が地中を通うことは草花には欠くべからざる環境となった。小さき命はオクノスの根より養分を吸い上げて育ち、短く争って枯死すると巨樹の根に朽ちて還る。この営みの繰り返しにより、異界の大地は純白の花が咲き乱れる静寂という、現在の姿を形成するに至った。
草花がオクノスを飲み込む苔や蔦として幹を這い上がっても巨樹は許したろうが、小さき命はそれより賢い。養分として巨樹を搾取するよりも、共生を選んでいる。
オクノスの巨樹は永遠のように佇立していたが、根の一部に黒点が生ずると、むず痒さに近いものを感じた。閉じた瞼の裏に何か明滅するような、睫毛の先を指でなぞられるような、人でいえばそうなるが巨樹の感覚で言えば刺激の一言で足る。
無視できる小さな刺激は、彼の性質をつつく。在るべきところに在るだけ及ぶ、これがオクノスの性質だ。伸びそうな場所に伸びて、触れると満足する。根の姿、樹の姿でありつつも異界に聳えし彼はあまりに巨大。さもありなん、植物に近くはあるが樹ではない。感覚器は他にもあり、自らの及ぶ場所が遠き彼方にまだ在ることを彼は悟った。
異界には雲と山と海がないので、風は吹かない。それでも何かの働きで、オクノスの眼下に茂る草花達は艶を走らせる。漣の如く、草原の如く、白い花々が身を揺らす。オクノスは度々、微睡むようにして遠き地、これまで意識外であった新しい場所へと及んだ。それこそが人の営む世界であると、理解せぬまま隔たりを超える。巨大なるものとは質量によらず、存在の異質さにより世界を跨ぎ、逸脱するのだ。
オクノスは隣接する世界をしばし揺蕩う。そこでは、ざわめきが絶えず彼を震わせた。下草と同調し、川を流れ、海に溶け込む。四足で歩く獣、身をくねらせる魚、空を渡る鳥、船を漕ぐ人々を、不可視の概念として漂いながら彼は認識した。
人の世界における法が、万物を貫通する生と死の営みが、異物たるオクノスに馴染んでいく。集積した情報が智慧の糸で結ばれた瞬間、オクノスは生死と共に、この世界を普遍的に縛る法則、不可逆なる時を理解した。時は必ず縦軸で、遡ることはない。だからオクノスの自我と知識も、縦軸で構成される。
異界の大地にも果てがあったようにオクノスにも終わりがあり、人の世に準えて言えば死と呼べる。巨樹のオクノスは黒点に蝕まれ、やがて死に至るであろう。
彼の導たる光の気配がいずれは人の形を取り、それが雌だということは予期できた。この世界で雌と番うならば雄であるのが好都合。十指に二足が必要だ。片腕をあげる意志をオクノスが宿すと、彼の動作は水面を突き破り、腕に続いて白髪の髪や幅広の肩、美しい男性の肉体が雫を滴らせて水の中から現れる。彼は森の奥深くにある、深い湖で早朝に誕生した。
水面を泳ぐ水鳥たちは、突然に男が現れても飛び立ちはしない。何故ならば、水鳥の群れを数世代遡った頃から、湖にはオクノスの気配があったからだ。姿が変われど鳥の目には同じに映る。
森では野盗による犯罪が数多く生ずるが、貴族の荷を載せた馬車が襲われたのであろう、散乱した荷から衣類を拝借し、オクノスは白いシャツに袖を通した。暫く無言で街を歩けば言語の習得は成る。多少、危ういところのあった話し方は、三人目と会話する頃には不自然な点を探す方が難しくなった。
人型の体、人に則した縦軸の時間という概念、生と死を把握したオクノスは、人間の生活を会得、素早く集団に馴染んだ。彼は好奇心の赴くがまま、二足歩行で様々な場所を歩く。街や村、スーツで山野を駆けたし、ジャケットを着たまま海にも飛び込む。社交界に出入りするようになれば何某の貴族の名を得て伯爵と呼ばれ、弁の立つオクノスは実際に領地を持ったが、領地管理人に殆どを任せ、主人は長く留守にした。周りに集う人間の顔ぶれが変わろうと、彼は安住しない。光を探していたのだ。気配は遠くない場所で生きているはず。彼女に「及」ばねばならない。
死の概念も時の不可逆性もこの世界の法で、オクノスを絶対的に縛るものでは無い。彼が望めば過去や未来に飛ぶ時間旅行も可能であったかもしれないが、オクノスは現在にのみ関心を寄せ、人の世を乱す気を起さなかった。異界での過ごし方、ただ在るだけという方針とまるきり同じ、無作の姿である。
彼は漂い、流され、怒らず、得たものがなければ失うものもなく、領土に悩まず、富にも肉体にも拘らない。争いはオクノスと無縁だ、人の社会で暮らしても常に機嫌が良い。文化を概ね楽しみ尽くしたが、耽溺することはなかった。出来なかったのだ。
肉薄すべく努めるほどに差異は際立つもの。人に寄せ、人に交われどもオクノスの耳は尖り、白目は黒く、笑えば鋭い犬歯が覗く。見慣れれば先天的な特徴としてやり過ごすことが出来たし、人でないと明かしても人間達に打つ手があるでもない。オクノスからすると理屈を捏ねて納得させねばならない理由は弱く、時には冗談に変え、煙に巻けば終いだ。杖を片手に、タイを結んだ貴族として上流階級に暫く生きたが、広い屋敷ではなく森の奥地に小屋を建て、そこで暮らすようになった。
最大の関心事たる、例の光とはまだ出逢っていない。このあたり、という巨樹なりの勘は広範囲すぎて、人の身では不便だ。それでいて正確だったのだろう、ある時に強く、三度目の光がオクノスに差した。彼にしか見えない光を受けて、オクノスは小屋の外に出る。川へと向かい、水の流れに呑まれんとする娘を捉えた。水草を纏い、衰弱して青ざめた妙齢の娘だ。名も知らず、形に見覚えがないのに、気配はこの世界において何よりも馴染み深い。学習した言語も、常識も、社会的な共通理念、価値観、倫理観、何もかも、この娘に囁きかける、その為だけに培われた。
「会いたかったよ、私の宿命」
青い髪を川に濯がれ、オクノスに抱えられて呆然としている娘は、呼びかけに応えず目を閉じる。衰弱し、裂傷の赤い筋で肌を傷め、衣服も乱れていた。息は依然としてか細い。彼女を生かすためには急いで火の熱にあて、体温を維持せねばなるまい。オクノスは儚い娘を水から引き上げる。
人ならざる力により、死の川に逆らって。
異界の花 青ちょびれ @aochobire
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