返還
帰還した巫女を前にして、城の守衛は戸惑いを示す。
「確かに巫女様で御座いますか。しかし、隣は」
青髪は稀有。守衛が過去、城内にて遠目に見かけた巫女と背格好は変わりない。隣に立つ男について尋ねれば、恩人だと巫女が説明する。
鵜呑みにするには警戒心が優り、守衛は剣を抜き、切っ先を男へと向けた。例え娘に幾許かの親切心を見せたとて、王族に仇なす者ではないとの保証は無い。
構えが定まった途端、剣ならば鍔との接合部、槍ならば穂先が落下する。鋼が地を叩き、音が反響した。
「真偽如何を判ずるのはお前達ではない。武具を見よ。次は胴と首とが同じ始末となろう」
守衛は武器を無力化されたことよりは、男の威圧感に怯む。何者か知れずとも尋常でないことは肌を伝って知れるもの、武術の心得がある故に直感が働いたのだ。
彼等は怖気付いて引き下がるほど忠誠心は低くない、さりとて男の忠告を無視するほどに愚鈍ではない。膠着状態に清涼な娘の声が注ぎ、緊張感を中和する。
「皆様、お下がりください。わたくしが先導致します」
ルクスースが宣言して歩み出せば、守衛は左右に別れて道を開く。王族より重用され民衆の支持を得た巫女を、指示もなく兵が力づくで抑えたならば極刑となる。
巫女はオクノスを伴って王城の深部へと向かい、取次の間を経由し、通例通りの礼節を守って謁見の間へと通された。王と大臣による疑心暗鬼の眼差しのなか、ルクスースの姿を認めて直ぐに彼女の無事を喜んだのは、王子である。
「ルクスース。このひと月に渡り、お前は一切の痕跡と目撃情報を絶って姿を消した。それが自らの脚で帰還したこと、どんなにか深く安堵したことだろう」
無断で城を空けたのだ。巫女を伴う行事は停滞せざるを得ず、国政に響いているはず。だのに叱責を受けるより早く、王子が心からの感激を以てルクスースの無事を喜んだことは娘に特別な印象を与えた。何があろうとも、ルクスースはこの善良なる王子を憎むことが出来ない。
「殿下……この身には勿体のうお言葉、変わらずのご厚意に感謝致します」
王子に礼で報いたのち、ルクスースは目線を伏せて畏敬を示したまま、玉座の王へと呼びかける。
「ひと月の捜索で何ら痕跡の無い不可思議さと併せて私の力に深く関わる者ゆえ、特例の措置をお願い申し上げます」
王は巫女からオクノスへと視線を落として誰何した。黒衣の精霊は人間からの睥睨に気分を害した風もないが、礼節は守れど阿る気もないらしく、低頭せずに玉座を見上げる。
「オクノスという。害意のないことを表明するが、ルクスースに手出しすればこの限りでは無い。城内の通路と部屋を確認せよ。私の証明書代わりとなろう」
人の埒外であることの、とオクノスが続けずとも居合わせた者達は残らず理解したが、異形にそうと名乗られて信ずることは難しい、常識が阻むのだ。
「通路と部屋……城内に巫女を拉致した協力者があるのだろう。徒党を組んだか、痴れ者が」
騎士のひとりが柄に手をかけると共に、彼の背後で指示を受けた数名が持ち場を離れて確認へと向かう。
謁見の間を出て兵が目にしたのは、隠し通路と地下室に枝葉が茂り、花まで咲かせていた異様な光景。通路の存在を知る者は限られ、城の設計図にも記されておらず、窓がないので草花の種子は育ちようがない。兵が手燭の明かりで地下を照らして慄く間にも、階上ではオクノスと王が斜線状に視線を結んでいた。
騎士が剣を抜いて斬りかかろうにも、見えざる巨人の手刀を受けたが如く、刃を落として柄のみが残されるのだ。熟達した騎士であれ技を振るうには至らずに、人々は我が目を疑う。
「敵意は無いと?」
王が問えば、オクノスが頷く。
「敵意は無い。私はルクスースの傍らに在る、目的はそれだけだ」
オクノスが黙し、巫女はより深く身を屈めて恭順を示す。王は一考したのち、オクノスが城内に留まることを許可した。
彼には食客として別棟の一室が与えられ、巫女は私室へと通される。夜を迎えてからルクスースは育て親の占星術師を私室へと呼び出すと、城へ戻った理由を打ち明けた。
「巫女制度の撤廃とおっしゃいますが、王族と大臣の心変わりを促すことは難しい。一気呵成といわず、穏やかな手段を用いたほうが良いのでは」
ルクスースは民からの信奉を一身に集めており、王族に並ぶ権威を小娘如きが有するのは僭越だと大臣からは顰蹙を買っている。動機さえ生ずれば、如何に王子の寵愛を受けようと身の安全は保証されないと占星師は警告した。
「貴女に協力を要請したいのです。今後、私が手話と筆談とを用いることは最早ありません。我が身より先に、国を憂うべき立場に我々はあります」
巫女制度はルクスースが初代、僅か十年程度と歴史は浅く影響力は甚大で、いずれは国を傾けると巫女は危惧する。
占星師はひと月で娘の人柄が変わったかと疑ったが、すぐに気づいた。発露の機会が無かっただけで、以前より温められていた思想が展開されているのだと。
「陛下のお心に慢心が巣食い、眼を曇らせておいでです。薬は病んだ時には効能を発揮しますが、健常な身で濫用すれば却って毒となる。この力が適切であった時期は過ぎました。改革は無理だと仰いますが、物事に変化の無いことは御座いません。星々こそは流動するもの、故に星を読むというのでしょう」
ルクスースに見据えられて、占星師は言葉を呑む。巫女の弁舌には熟考により鍛えられた骨子が備わり、咄嗟の反論が難しい。
「星の影響と地上の諸問題を照らし合わせて判断する学問が占星術。貴女はご理解くださると見込んでおります、我が国随一の占星術師よ」
巫女は感応力で内政と士気向上を担うが、占星師は星の配置で敵国からの進軍を見極め、戦争の開戦に相応しき時がいつであるかを王に助言し、外交に参与する。よって主君の変化、感応力の危機感を密かに感じていたはずだとルクスースは指摘した。
「しかし、困難です。巫女様のお話には道理が御座いますが、力を遠ざけて陛下に正気を取り戻すというならば、姿を眩ませていれば済むはず。どうして城に戻り、危険を犯すのですか」
占星師の指摘に、ルクスースは目を伏せた。
「私が保身に走り、事態を擲ったとて……」
ルクスースはオクノスが殺した野鳥の面影を胸に抱く想いで、先を続ける。
「逃避続きの道に御座います。城から逃げ出したことに意味があれど、逃げ続けることは私の望みではないとオクノス様が気づかせて下さいました。どんなに遠い土地にあろうとも、私は我が国の巫女に御座います」
事実を受け入れて担う者特有の神妙さが、娘の青い双眸に宿っていた。
「天のごとく、地もしかり。全てを繋げる法則を見る占星術師の心構えは、初めに真摯であること」
天を読み解く占星術師は、月の満ち欠け、潮の満ち干きなど、天体の影響を生活に適応する。実利的な意味に留まらず、遥か彼方の法則と共鳴しあい、自然内の存在として我が身すら天の一部と考えた。
星を判ずるには我欲に走らぬ冷静さ、知の理性が必要で、よって彼らは真摯たれ、と心がけるのだ。
「貴女より教わったことです」
「巫女様の仰る通りでしょう、しかし……」
占星師は初老の婦人である。高位であるがため、頭まで覆う法衣を纏っていたが、額に影を落とす布地の端より覗く目元は厳しい。
「制度を撤廃して、貴女様がご無事に済むかどうか」
占星師は苦渋の面持ちで言う。こうした言葉の一切を自ら欺瞞だと感じていたのだ。
手引きもないまま、尋常ならざる力の使い方を幼きルクスースと共に悩んだのが、この女性である。彼女は決してルクスースに明かそうとはしなかったが、巫女の失踪時に王城を抜け出し、ルクスースの生家を訪ねていた。
一度は感応力により破壊された家族が再生していたならば、その時は束の間でも家庭で過ごさせてやるのが人の情ではあるまいかと悩み、ルクスースの平穏な幸福を思いながら他方では巫女を城へ連れ戻さねばならぬという葛藤を秘めており、こうした煩悶がルクスースを喪う予感を前に噴出寸前となっていたのである。
「陛下の御心に秩序があれば無事であり、さもなくば私もあの日の従臣と同じく、斬り殺されるかもしれません。どうなるか」
ルクスースは続け、占星術師を正面から見据える。
「どうなるかを、私が確かめます。その為に城へ戻ったのです。私は既に多くの民を戦火にくべました。陛下の慢心を見過ごしません。見過ごすべきではありません、民は依然として私を信じております」
向き合う占星術師と若き巫女とを民が見かけたならば、娘を案ずる母と誤解したろう。その視点は占星師が禁じていたことだ。母子にはならず、占星師と巫女の間柄に留めてきた。ルクスースがこの時に行動を起こす決断もまた、大いなる星の運行、その一部と理解はしている。
視野で黒衣が翻った。扉の開閉音はなく、窓も開けていない。
「私がいてお前が死ぬはずはない」
音もなく現れたるオクノスが、ルクスースの傍らに立っている。
「どのようにしてこの部屋へ?」
問うた占星術師を金の双眸が一瞥する。
「扉を開けて再び閉めたのだ。人と同じに入室したが気づかなんだか。私が霧のごとくすり抜けたとでも言いたげであるな。そんな無作法はしない」
オクノスは占星術師より巫女へと視線を戻した。
「ルクスースよ、お前はハープの名手と聞いた。儀式に用いるためにお前しか触れられぬ楽器だという。如何なるものか聴かせておくれ」
「後ほどご案内致します」
精霊と巫女の仲睦まじさを前に、占星師は思う。小村より赤子を引き取った末の帰結として、神秘は互いに惹き合うのかと。
城を開けていた期間に滞った巫女としての業務を片付けながら、 ルクスースは巫女を軸とする慣例の縮小、撤廃へ向けて体制を整えるべく積極的に働きかけた。彼女の独断行為は現国王に不満を持つ者の注目を集め、城内の緊張感が高まる。
諾々と従えば王の傀儡、自我を発揮すれば叛心の嫌疑がかかる。ただの娘として集落に紛れようにも感能力の異質さが阻害する。何をしても人の輪に馴染めず、分断を引き起こすルクスースであったが今回ばかりは承知の上。
「異能者の自然発生を期待するのは荒唐無稽、政の柱と頼むには脆弱過ぎます」
異を唱える者があれば、このように反論した。建国以来、それより以前にも異能者の伝承は無いのだ。しかし、第三の証言や史料、異能に関する新しい情報が持ち寄られた場合には考えを改めるとも述べ、方針は変えずとも慇懃さを失わず周囲と接し、徒な対立を避けた。
燭台が尽きるほど書物をせずに済む夜には、就寝前の一時、ルクスースはハープを奏でる。楽器は腰を下ろした奏者の目線か、それよりもまだ背が高く、柱と弦以外は全て曲線で象られた優美な姿をしている。
弦の間隔は狭く、娘が腕を泳がせると低音から高音までが波の如く滑らかに引き出され、旋律は城内を巡り、歩廊を見張る兵の耳まで届く。
過日と遜色ない演奏。帰城した巫女は本物なのだと確信を強めながら、彼等は国の今後について囁き交わす。
「巫女様が謀反を企てていると噂だが、信じるか?」
「巫女の力をあてにして、陛下の執政は乱れた。先に王を変質させたのは巫女だ」
言葉が過ぎる、と一人が窘めた。
「無駄口を叩くのはこれきりにして、務めに集中しろ」
最後に仲間を窘めた兵には、噂ほど巫女が狡猾とは思えない。彼の故郷にいる姪と変わりない年頃であるし、巫女の連れ合いらしきオクノスと言葉を交わしたところ、相手はかなり無邪気に見えた。昼の城内を散策していたオクノスに呼び止められて、絵や彫刻の解説を頼まれたのだ。
いずれも純朴な理由で説得力には欠けるが、彼としては周囲こそが飛躍して巫女を捉えているかに感じられる。
やがて、兵達に緊張感が戻ってきた。奏者が手を休めたのだろう、背後に流れ通う巫女の旋律が止んだのだ。彼等と巫女とを等しくするのは、窓枠や隙間をすり抜けて差し込む月光ばかり。
ハープの安置された一室にて、ルクスースは楽器に触れていた手を両膝の上に重ね、慕わしくオクノスを見上げた。襟の乱れに気づいて指摘すると、彼に掴みかかってくる無謀な男がいたという。
「私に武器が効かぬとあらば、素手でやろうと考えたらしい」
オクノスが名も知らぬ男に、ルクスースは覚えがあった。彼は白の礼服を着込み、金の肩章で飾られた金髪の青年ではないかと確認を取る。オクノスがそれと認めたので、娘は思わず叫んだ。
「殿下ですわ。まさか乱闘騒ぎに……?」
「王子の言い分としては、私がお前を誘惑したというのだ。これを受け取った」
オクノスが懐から手袋を取り出した。男児が手袋を胸に投げつけたとすれば決闘を意味する。巨樹の精霊が示した異端ぶりを彼も見ていたはずであるのに、怯えるどころか挑む気概を持つ王子をオクノスは気に入ったらしい。
「お前は巫女の役割があるという、それなら私はあの男を訪ねよう。幼年期のお前をよく知る仲だと聞くではないか」
「オクノス様。決闘の意志を示した殿下の元へ遊びにでかけていけば、酷い侮辱となりますわ」
ルクスースはオクノスを窘めつつ、王子との思い出話を幾つか披露し、城での暮らしを懐かしく振り返った。監獄として成立していた頃は辛かったが、オクノスと出会い、どこにでも行ける保証のある上で戻ってみると古巣への情が込み上げる。
椅子から立ち上がった娘が男の頬を撫でれば、精霊は身を屈めて番の表情を覗き込む。
オクノスに人間的な情愛は宿らない。行為とて意義に足を取られてしまえば自慰との区別がつかずに虚しい。愛情欲しさに抱かれれば虚しき自慰、心満たされているならば情交、ルクスースの受け取り方次第であるのだ。
契約を交わして以来、褥を共にするとルクスースは異界の夢を見た。オクノスが遠き世に誘っているかと疑ったが、彼は否定する。
「誘導するより、どこへいきたいか尋ねる方が早い」
あまりの単純明快さにルクスースは身を震わせて笑ったが、お前の意志が重要だとオクノスが続けたことは娘にとっては心強い。
そもそも異能無きルクスースという前提は成立しないのだ。凡庸な娘、異能者、どちらかに偏るのではなく、特異なる感能力を備えた自己、という単位でこそオクノスの番として寄り添っていられる。娘はこう捉え直すと、精霊の腕の中で深く安らいだ。
明朝、王命を受けたルクスースはバルコニーへと進み出た。人々を水面とし、巫女の波紋が民の意識を渡る。
「国に必要であるべき時にのみ適切に用いり、濫用を防ぎ、時が満ちたならば……」
人の世に役立てよ、それが王族の主張だ。ルクスースはかつて、神に選ばれたと人の手で定められた。占星術師の方便か、民の願いか由来は知れない。だが、真に神より賜ったのであれば。
「この力を神に返還する――これこそわたくしめが果たすべき、最期のお役目に御座います」
民に告げると、背後に控えていた従臣が目を剥いた。巫女が取り押さえられずに済んだのは、バルコニーの影にオクノスがいて、比喩ではなく彼が黄金に輝く双眸を眇めていたからだ。
「苦難を乗り越えた臣民は純朴で、健気で、賢く、建国以来の最も鮮やかな気概を現代へ復活させるに至りました。神が遍く世界をご照覧あることに同じ、喪失でなく万民に希望が開かれたので御座います。これよりは再び王笏を導とし、王族と共に国を善く導かれんことを」
ルクスースの背中に、声がかかる。
「巫女様、陛下がお呼びに御座います」
君主からの叱責は当然であろう。ルクスースが謁見の間に臨むと大臣等の刺すような視線に晒された。
「巫女は錯乱している。平静となるまで地下牢に拘束すべきです」
進言の背後には、小娘風情が、という罵りが混じっている。彼等の内にはルクスースを幽閉し、拷問にかけ、娘を傀儡に堕さしめんと目論む者があるのだ。王笏が床を打つと、場が鎮まる。
「ルクスースよ、力を使わぬとあらばお前はただの娘」
王の御前にあり、巫女は低頭した姿勢を崩さない。
「しかし、そなたには野心がない。幼少より長く仕え、度々に君主を諌めた功労を認める。引き続き、我が忠臣として仕えよ」
ルクスースは思わず顔をあげかけたが、王の許しがないと堪える。
「力の濫用を防ぐと民に申したな。権威に阿らず、異能を悪用せず、民を思う姿勢は取り立てるに相応しい。面を上げよ、巫女」
「陛下、有り難きお言葉に御座います。しかし……」
言いさしたルクスースを遮り、王が首を振る。
「城内にて軟禁するというものではない。お前が望むのであれば城下街でも、生家でも、付き人さえつければ出入りすることを許そう。民に宣言した以上、バルコニーに再び立てと命ずることもない」
偏にルクスース自身を見込んでいると王は言う。
神に見初められた巫女は王位に迫る稀有な地位、大臣は憤慨してルクスースの失脚を狙うが、彼等のような野心を持たぬルクスースであればこそ、王は良心の縁にしたいと望んでいるのだろう。
敵対者と策謀に晒され続ける君主にとって、小心者で恩義を忘れぬ者は手懐けておいて損は無い。平時には利用でき、排除するにも容易いからだ。しかし、王の声音には居丈高な支配者の理屈のみでなく、悔いの感情が読み取れた。例え王が民に善を成し、歴史に残る名君であったと仮定しても、ルクスースとオクノスが巨大な力の誘惑で在り続けることに変わりない。
「寛容さこそは疑心を破り、他者を信ずる力。陛下の善き助けとなりましょう」
誰の許しもなく立ち上がり、王と視線を交えて巫女が続ける。
「民は思慮深き王を得て、どんなにか幸運で御座いましょう。国の運営を支える功臣と勇猛果敢さを備えた殿下がおります、国に不足は御座いません」
玉座より視線を外した娘が振り返ると、所作に従って純白の薄衣が裾を靡かせる。細い腕が黒衣の男へ向けて差し伸べられた。
「オクノス様……」
王によって道が開かれ、異能者としての利用から人間への信頼で取り立てられた事実と栄誉を、ルクスースは理解している。野心が無く、占星師の教えを知る故に、彼女は玉座ではなく精霊を選ぶのだ。
「私が望めば、終いまで人の生涯に御付き合いくださるとオクノス様が仰ってくださったこと、忘れてはおりません」
娘の手を取り、寄り添う精霊にだけ聞こえる声音で、睦言のように話す。
「ですが、それでは貴方の御力を、存在を、人の世のため、私の我欲のために利用することは否めません」
「構わん」
オクノスの答えに、ルクスースは笑う。契約に際して対等であれと精霊が心掛けたことに同じく、彼に対してこそ真摯でありたいとルクスースは望む。
「愛しているの、オクノス様。連れて行ってください、私を貴方の世界に」
老いて人の世を全うする道もあろう。それでもルクスースは望む。若く美しい男として顕現した精霊に釣り合う姿そのままで、彼の世界へ渡りたいと。
ルクスースの高揚を受けてか、不意にオクノスが娘を高く抱き上げた。娘は童女のように無邪気な声をあげる。
「よかろう。私と共に来い、ルクスース」
謁見の間に此方と彼方が繋がり合おうとする冷風が逆巻く。巫女の薄衣と精霊の黒衣がはためく中、死の気配が吹き付けるのに逆らって王子が手を伸ばし、ルクスースの名を叫ぶ。
「行くな。そいつと共に此処で生きれば良い。お前は人間として生まれた……人なんだぞ!」
巫女は王子に微笑で応えたが、強風によって青き長髪が煽られ、娘の表情を秘す。
異界に風はない、雲もなければ海すら無い。吹き付ける冷風はルクスースを取り込むための世界と世界の摩擦により生ずるのだと、オクノスの血に染まり、精を繰り返し受け入れたルクスースにはわかる。ひとつも恐ろしくはない。
ルクスースは人として生まれた。しかし、形を成すよりも早く、声すら交わす前に、精霊はルクスースと出会うべく旅をしてきたのである。男の白髪をかきあげ、計り知れない時を生きる精霊が彼女の為に誂えた貌に触れて、愛おしむ。
「お会いしとう御座いました。オクノス様――私の宿命」
彼がルクスースのために人を模すならば、ルクスースが人を辞めても構うまい。男の首に細腕を絡めると世界が変わる。いや、変わったのはルクスースだ。彼女は一瞬にして、自我、記憶、意識、肉体の全てが解けて、異界へと取り込まれたのである。
王子の眼前で二人の男女が姿を消した。謁見の間には花弁が散り、神秘の光景が実在したと示している。
王子は腰を屈め、足元へ舞い降りた花弁を取り上げた。
「ルクスース」
掻き消えた存在への哀切が王子の口をついて出ると、手元の花弁が震えた気がした。
彼の知らぬ霧の彼方、静寂の異界には純白の花々が揺れ、巨樹が佇む。水晶の如き樹皮をした幹の傍らに、青い花が開花していた。誰知らぬことではあるが、異界の法則により花弁は萎れず、枯れず、巨樹の亡ぶ瞬間まで共に在ったという。
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