契約
烈しい感能力の暴発は、産声以来であった。用途を定め、精度をあげると言葉を伝えられるが、単純な発露においては海鳴りと化す。
気を鎮めんとルクスースは苦悩の面持ちで目を瞑る。瞼裏の闇はさながら夜の海。荒れ狂い、底の見えない深さで畝りが娘の意識を引き摺り込む。どうしてこんなにも巨大な力が自らの内側にあるのか、因果関係が読み解けない。
神が選んだのか、星の定めか、せめて返還できたならと何度そう願ったことか。上手く役立てれば意味が生ずると王族はルクスースに囁いたが、意味など見つからない。海や生命は、決して人の道具でないからだ。ルクスースとて野鳥とて、同じこと。
「……ッ…」
強く思うと海鳴りに反映されてしまう。父母を苦しめた二の舞にすまいと、ルクスースはオクノスから距離を取るべく焦り、椅子から転げ落ちかける。原因こそ精霊だが、娘を支えた腕もまたオクノスのそれだ。
「足元が危うい。何処へ行くつもりだ?」
「差し向けては、おりません……」
オクノスの問いを無視して、ルクスースは言う。
「自ら望んで、私は誰かにこの力を差し向けはしません……。貴方に対する害意はありません」
「暴発だな。しかし私には」
言いさしたオクノス側の主張を受け取る余裕が無いと直感したルクスースは、精霊の片腕を押し退ける。
「森を歩かせてください。あらゆる生物から暫し己を引き離したいのです、鎮まれば戻ります」
オクノスはルクスースに先立って扉を開けた。
「構わんさ、行くがいい。くれぐれも走るなよ、人間がそこらに頭をぶつけては取り返しがつかん」
ルクスースはふらつきながら外へ出た。
葉の揺すられる音が重なり合う森の只中を緩い足取りで進む。鴨に水浴びをさせていた習慣から、ルクスースが目指したのは川だ。
あの野鳥はルクスースをも受け入れたが、オクノスを慕っていたはず。首を落とされる直前まで、恩人の手にかかるとは考えもしなかったろう。
傷を負っていたところを救われた鴨と、溺死寸前であったルクスースの境遇は殆ど変わらない。共にオクノスという大きな存在に救われて彼を慕った、ゆえにルクスースはあの野鳥に同調するのだ。
涙の為に目元が腫れて顔が熱く、木々を抜け、水辺に吹く風が冷たく心地が良い。ルクスースは草花の茂る地へと腰を下ろし、一度は命を落としかけた川面を眺める。
鴨と同じに、ルクスースも何事かのきっかけ次第で首を落されるのかと想像した。有り得ぬと否定は出来ず、保証は無い。それならばオクノスが恐ろしいかと言えば、また違う。
昨日まで世話したものを今朝になって食料として見なすことはルクスースには難しい。翻って、昨夜に愛したものを今朝になってどうして憎めようか。
不都合が生じたならばたちまち嫌悪し、距離をとるのか。オクノスに感謝したことさえ霧のごとく失せてしまうのか。ルクスースのなかで恩義とはそれほど軽くない。
この森にいる人間はルクスースのみ。人間であればこそ、最も感情的なのはルクスースなのだ。落ち着くべきは己である。葉掠れと水辺の孤独に自我を浸して癒しながら、ルクスースは思考を組立てた。
オクノスが鴨を食材に選んだことには、ひとつに彼曰くの鮮度、ふたつにルクスースが以前に伝えた、人より世話を受けた野鳥は野生に還せないという忠告が加味された結果ではあるまいか。いずれにせよ、人間の尺度で突然にオクノスを叱責することはできかねる。批判よりも説明が先だ。
深呼吸すると、海鳴りが鎮まっていることに気づいた。悲嘆に暮れていては、鴨が死んだという事実が取り残されるばかり。鴨の肉が捨てられてしまえば何のために死んだのか、それさえも喪う。悼めばこそ戻らねばならない。帰路を辿るルクスースは焦燥から駆け足となった。
肉や骨、骸への愛着をオクノスが解さずとも、ルクスースだけは野鳥の意義を拾ってやりたい。食べる、という弔い方がまだ残されているではないか。
「オクノス様、鴨は、鴨の肉はどうなさいました……!」
勢い込んで帰宅したルクスースは、扉を開けて叫ぶ。
「走るなと言ったろうに」
答えたオクノスは、ルクスースが置き去りにした食卓を前にして答えた。空席の対面に腰掛けたままで、違うと言えば本を開いていること程度だ。
オクノスに食事は不要で、娘に合わせて形式的に食卓を囲んでいるに過ぎない。ルクスースが中座すると飲食の意味を喪うのだろう。
「鴨ならばそこに。食事を作り直すか?」
「……いいえ。食べます」
ルクスースは手指を清めた後、席に着いて食器を握る。鴨肉を一口大に切り分けて口内へと運べば、臭みはなく、咀嚼につれて味わいが深まり、ソースとの相性も良い。
「ほう、何ぞ食せぬものかと思った。嫌うものがあるならば教えておくれ」
オクノスは手話を一夜で身につけたように、ルクスースとの共同生活のなかで料理の腕を熟達させた。彼の食事が口に合わなかったことはない。
「美味しいです」
事実ゆえに認める。肉を咀嚼し、全ての状況を矮躯に納めんとしてたルクスースであるが、嚥下を繰り返すと感情の抑えが弱まる。とうとう娘は声を上げて泣き出した。感応力ではない、子供のように声帯で泣いたのだ。
「人間は実に様々な場面で泣くものだな。一体どうしたことか」
如何に友好的であれ、オクノスは共感性が低い。致命的な齟齬がしばしば生じ、彼が人に寄り添うことの限界をルクスースは見る。
長い時間をかけて、鴨肉は勿論の事、オクノスが用意した朝食を身に収めた。美味であり、亡くした鴨と一体となった意識が強い。オクノスもルクスースと共に完食したので、彼の一部ともなったろう。
野鳥からすると理不尽であることに変わりなく、魂が報われたわけではない。ルクスースはこうした彼女なりの死生観や鴨への印象、涙の理由をオクノスに可能な限りに詳しく伝えた。
「お前に愛着のあるものを殺すなというわけか。分かった」
彼の結論はあくまでルクスースの視点に寄り添うのみで、オクノス自身の感情はみられない。貴方は野鳥を愛したか、と聞いてはみたが、オクノスは首を傾げる。
「人間はよく愛について語る。どのようなものか」
彼は求愛行動を取るが、顕現も接吻も性交も愛情を由来とせず状況が先行し、行動に結ばれる。精霊と人間の埋まらぬ溝、存在の限界。この断崖に橋を渡すことは出来まい。
巨樹の精霊を把握しつつあるルクスースに失意は無かった。人ならざるものに救われたのだ、よもや人でないことを嘆いたとて何になろう。オクノスの容姿、価値観、振る舞い、彼は十分なほどルクスースと彼女の世界に歩み寄っている。これ以上の人らしさをルクスースはオクノスに期待すまい。
閨で泣いた娘を、脆弱ながらもよく生き延びたと彼は受容した。オクノスは人間とは尺度が違うゆえ、ルクスースを是正しない。そのことに感謝している。
彼は巨大なる存在で時に非情、他種の理解に努め、寛容な面もある。疑心と信頼の道がルクスースの前に伸びているならば、娘は後者を選ぶと決めた。自己防衛を抜け出し、オクノスへ向けて意識を開く。
「愛とは説明できません。ですが、無ければなくて構いません。私が備えていれば事足ります」
隔たりがあろうとも、断崖ごと彼を愛することは出来る。契約に生死の懸かったオクノスを、鴨を殺したから死んでしまえとは考えない。これが救える生命のひとつならば、とルクスースは方針を変えず、精霊に微笑む。鏡合わせに彼が口角をあげた。ルクスースはそれを虚無ではなく、無邪気だと思うのだ。
数日を経て儀式の支度が整い、ルクスースは肩から衣服を滑らせ、床に落とす。オクノスに素肌を晒し、頭頂部から足指の隙間まで傷がないかを確認された後、一室にて用意された陶器のバスタブに収まる。湯は張られておらず、娘は膝を抱えて傍らの精霊を見上げた。
「決して撤回はできない。ルクスースよ、私と契約を交わす意思はあるか?」
オクノスより尋ねられ、ルクスースは頷く。彼は娘に短剣を手渡し、斬れと要求した。
「通常、私に傷をつけることは叶わぬが、契約者となるお前だけは貫くことが出来る。その剣で私の腕を切り裂き、血を流せ」
全裸の娘を器に収め、そこへオクノスの血を流す。器を体液で満たして暫く娘を浸せば血は澄みきり、完全な無色となれば儀式は完了するという。
ルクスースは差し出された短剣を受け取り、刃を眺める。柄から切っ先を検めるに、意匠こそ繊細だが名のある鍛冶師によるものではなく、オクノス曰くも特別な仕掛けは無いという。
ルクスースは晒された男の腕に、非力ながらも刃を突き立てた。浅い、とオクノスが言う。
「骨まで届くように刺し、横に引いて膂力の限りに傷を広げろ。お前の力でやらねばならん、柄を両手で持つのだ」
指示された通りに男の皮膚を切り裂けば、夥しい血が音を立ててルクスースの肌を打つ。胸元から腰に疎らな血痕を浴び、底部よりすこしずつ嵩が増すことで白い裸体は鮮血によって仕立てたドレスを纏うかのよう。片腕を差し出したままのオクノスと共に、ルクスースは薔薇色に染まり、揺れるバスタブの底を見守る。
「長くかかりますか?」
傍のオクノスに苦痛が見受けられないことがルクスースに落ち着きを与えていた。
「時間を要する。私の体液を受けて、嵩がお前の肩に達するのを待つ」
血は溢れるに近く、筋肉まで溶け流れているかのような勢いで、成人男性の体に収まる量ではなかろう。オクノスの傷口から血の色素が抜けていくにつれて、生花に近い香りがする。傷口から注がれる無色透明な液体とバスタブに溜まる血とでは、前者が後者を打ち消して濾過されていくのがルクスースの眼を惹いた。色は澄んでも水よりは重く、娘の肌にまとわりつく。
「これは私のなかで、最も濃度が高い液体だ」
ルクスースはいつかに見た異界の風景と、巨樹たるオクノスを思い浮かべた。
「樹液で御座いますか?」
あまりに奇異であるため、幾分か刺激に慣れてルクスースはオクノスの傷口に目を懲らす。皮膚と筋肉の隙間に覗く骨と思しきものは硬質な煌めきを帯びており、異界で見た彼の樹皮とも通ずる。骨の全てが水晶なのだろう。男の片腕よりとめどなく滴る体液にルクスースは指をくぐらせて、少量を舐めた。
「まあ、甘い。やはり樹液のようですわ」
「気に入ったなら飲んでも構わんぞ」
「儀式に必要ですから、これ以上は控えます」
オクノスと他愛ない会話をしながら、水位の上昇を待つ。
バスタブに収まった姿勢を維持して半日近くも過ごせば筋肉が強ばるものだが、身体のどこにも懲りが無い。液体に浸かったままの皮膚はふやけず、空腹も起こらない。樹液の作用か、自らに変調が起きている兆しかわからずに問うと、精霊は後者であると言う。やがて睡魔が訪れ、ルクスースはバスタブの縁に身を寄せて微睡みを揺蕩う。娘の頭をオクノスの腕が支えており、低い声に眠れと許されると、気を張るべき理由を失った。
身体は熱くなく、寒くもない。非常に安定しており、深い眠りに落ちたルクスースの意識は異界へと引き寄せられる。
白い霧の向こう側。前回はオクノスにより見せられた、という第三者の視点であったが、此度は彼女自身が無形のままに異界を漂うことの出来る自由があった。
白い花々は名も知らぬ形をしており、揺らめく花弁に身を潜めて、ルクスースは暫し留まる。大地を埋める数多の草花は巨樹のオクノス、彼の根を養分として生かされていることが漠然と伝わる。空と大地を人が寄る辺にするが如く、花々はオクノスを世界そのものに感じているのだ。
オクノスが在ることに意味があると話していたのは真実で、彼は異界における心臓であり大動脈として全ての生命維持を担っている。
巨樹に依存するのは背の低い草花ばかり。木々や森は形成されておらず、この世界に足音は無い。闊歩する生物はなく、穏やかな静けさを保つ。
水晶の樹皮をした巨樹の周囲を漂うと、一部が枯死しかけていると察せられた。根に現れた黒点が彼を蝕み、滅びに追いやらんとしていた原因であろう。ルクスースが美しい樹を惜しみ、慰撫を意識すると、彼女が抱えていた異能に海流が生じて、途端にルクスースは目覚めた。覚醒に瞬くと、睫毛に乗っていた水滴が零れ落ちる。
樹液に浸かるルクスースは、いつの間にやらオクノスに抱き締められていた。眠気のために脱力した娘を支えるためだろう、彼自身も着衣のままバスタブに浸かり、娘の背と後頭部を胸で受け止めている。
ルクスースは精霊の世界を夢に見たと話したが、言葉にするうち、見たというよりは訪れたとの表現が近いのではと過ぎる。彼方にいた、という肌の感覚があるのだ。純白の風景は僅かに湿りを帯び、大気は冷えていた。
「オクノス様が私の世界に来たならば、私があちらに行くことも可能なのでしょうか」
ルクスースが樹液のなかで身を捩れば、傷口の塞がっていない腕でオクノスが娘の腰を支える。
「出来るとも。私と契約し、存在が近しくなったお前ひとりきりならば、連れて行ってやれる」
「契約により、私は人を離れたのですか?」
「いや、人間だ。変わらずに負傷し、老衰する。人の寿命はたかが数十年。私の存命に寄与したお前を途中で投げ出すようなことは無い」
「しかし、契約が成されたならばこの世界を去ると以前に……」
その通り、とオクノスは頷く。
「お前を看取ってしまえば、この世界に留まる必要は無い。お前の死とともに人の身を解き、消えよう」
先の未来について、ルクスースが想像したのは己の骸ではない。鴨を食したことで秤が傾き、死を望むよりも生者としての責務を果たせねばという意識が重みを増したのだ。
「王城に戻り、人の世に関わると私が申せば、オクノス様を利用することになるのでしょうか」
ルクスースが尋ねると、オクノスは水音をたてて娘を抱え直す。
「王城を訪ねたことは無い、私も興味がある。なんでも協力してやろう。お前が望むなら」
利用を協力と言い替えたオクノスの安請け合いに、ルクスースは笑った。この精霊は献身的で、気風の良さを時折表す。
「城に戻ることはまだ恐ろしい。神が見初めるに足るものは何一つありませんが、巫女の役割を務められるのは私のみだと、それはわかります。だから、終わりにする時も私の他には無いのでしょう」
ルクスースは巫女としての半生を精霊に語り、こう締め括る。民を宣揚した感応力は彼に通じず、そもそも微弱で聞こえないと精霊は話す。感応力が響くなら、オクノスは森ではなく真っ先に王城へと向かったろう。
「至近距離なら波紋は響くが、音にはならん。私にはお前が光に見える。まず、この世にお前が発生した際、次に人間の腹から産まれた際、最後にお前が川に流された時……恐らく生死の危機に瀕した時に、私の視野で閃くのだろう」
ルクスースは瞠目した。オクノスは感応力ではなくルクスース自身の、いわば生命力を光と見るのか。それならば、ますます不可解だと娘の表情は却って曇る。
「異能がなければ私は凡庸な娘に御座います。この力とて過ぎたるもの、何の為にあるか、何故に私かと繰り返し煩悶するのは、相応しからぬが故ですわ。私が背負うには、重すぎる」
人より臆病な気性のルクスースとしては、良かれ悪しかれ、特異であることは苦痛だ。
巫女の時には伏せるべきであった自己憐憫の涙が流れ、理不尽だと、これまで言えずにきた嘆きが零れる。
唯一無二とは他者からの共感を得られず、重大な選択を課されるということ。憂うルクスースの頬に張り付く髪をオクノスが指先で退けた。
「何故と問うならば私の為に在れば良い。私のために、お前が生まれてきたのだと」
異能は取り外せない、それと同じだけのどうしようもなさで人外の理屈があるのだとしたら、何故生まれ、何故異能を備えているかという苦悩、人間として背負いきれぬ重圧をオクノスに委ねることが出来よう。
望まぬ力を得て、覚悟がないばかりに徒に世を乱した自責の因果を貴方のせいだとも、貴方に出会うまでの旅路だったとも落とし所をつけられる。ひとりの因果にあらず、共有された運命、或いは避けがたき人外の宿命と。
「オクノス様を、私の理由にしても良いのでしょうか……」
娘が少しばかり俯くと、身動ぎにあわせて樹液の水面が揺れる。川で拾われた時に、彼は会いたかったとルクスースに言ったのだ。産まれる前から光と見初め、会いたかったのだと。
「構わん。だから番という」
オクノスはまだ傷が塞がらない腕で、水面に揺れるルクスースの髪を緩く束ねてやりながら、こう言った。彼がルクスースに触れる事は精霊の戯れ。その先に何を目指すものでも、後に何を遺す為でもなく、オクノスの指先が及ぼす影響や意味はルクスースの側にだけ生ずる。
船が一隻、未踏の島にたどり着いたとして、海を漂う孤独よりは優しかろう。下草の柔らかさ、身を受け止める大地。共感はできずとも、無色透明なる気配として共に在ることはしてくれる。
ルクスースは吐息して、巨樹の胸へと凭れて身を休ませた。漂流の末に着地点を見つけた安堵、苦悩から足裏が離れた心地良さを感じながら、ですが、と続ける。
「貴方との契約を選んだ判断は、巫女としての半生があればこそだとも思うのです」
精霊が娘の背に腕を回せば水面に光が散らばり、波の静まるに伴って水鏡と化す。
王城より姿を消してひと月、青い髪の巫女が城へ帰還した――傍らに黒衣の男を伴って。
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