みしょうかん受験記(合否と総括・今後の展望)
3日前。2023年3月10日。
一橋大学社会学部に合格しました。というわけで一橋大に4月から進学します。
合格後、色々と忙しくて報告するのが遅れました。すみません。
現時点での受験結果は9戦8合格1補欠0不合格となります。中学受験では7戦3合格4不合格だったので、自分にしてはよく頑張ったなと思います。まあ今となっては補欠になっている早稲田文化構想の合否にも特に関心は無いのですが。
受験結果をまとめて掲載します。
一橋大社会学部・前期 合格
早稲田大社会科学部・一般 合格
早稲田大文化構想学部・一般 補欠(3/16追加合格発表 追記:不合格でした)
明治大政治経済学部政治学科・一般 合格
成蹊大文学部現代社会学科・3科共テ利用 合格
法政大社会学部社会学科・5科共テ利用 合格
武蔵大社会学部社会学科・一般 合格
東洋大社会学部社会学科・一般 合格
日本大文理学部社会学科・一般 合格
日東駒専まで幅広く受けているのは、みすず学苑用語である〈ウォーミングアップ校〉として、つまり本命受験に向けての肩慣らしとして受験したからです。正直、武蔵・東洋・日大は肩慣らしにもならない難易度で、殆どの教科で30分ぐらいは寝てた気がするのですが……。東京の駅の路線とか乗り換えを多少覚えられたという点では有用だったかもしれません(そう考えると、幕張メッセでの受験だった東洋は本当に無駄だった)。とはいえ、これぐらい慎重に受験した方が結果的には良かったのかもしれません。中学受験時は初っ端から市川中とかいう真打登場だったので。僕ほどの校数を受ける必要はないでしょうが、私立志望の場合は基本的に志望校の2〜3ランク下の大学群から1〜2校選んで受験し、次に1〜2ランク下の大学を2〜3校、同レべの大学・学部を2〜3校・学部受けるのが確実でしょう。
難易度的には、文系だけで考えるなら下のようになります(主観)。
東大>京大≧一橋≧阪大>旧帝(東大・京大・阪大を除く)≧慶應≧早稲田>TOCKY≧上智>駅弁大学≧MARCH>成成明学獨國武+学習院>日東駒専>大東亜帝国>関東上流江戸桜>Fランク大学(>を区切りと考えると10ランクある)
一応解説を付すと、TOCKYは筑波・お茶女・千葉・神戸・横国から成る難関国立大のこと、駅弁大学は旧帝・TOCKY以外の地方国立大学の総称、関東上流江戸桜は関東学園・上武・流通経済・江戸川・桜美林大学のことです。TOCKYの中でも神戸大が卓越している、早慶・TOCKYあたりの位置づけは人によって変わりやすい、関西の私立事情を僕は知らない等の点から、上記の難易度表は参考程度に考えてくれると幸いです。また、関東上流江戸桜のすぐ下にFランク大学が来ているのは、それらの間に来る大学群を僕が知らないからです。そもそも関東上流江戸桜がかなりマイナーな大学群なので。関東学園と上武とか滅多に聞きませんし。
国公立志望なら、まずその大学が早稲田以上の難易度か否かを確認し、そうならば早稲田・慶應から2〜3ランク下の大学群まで私大受験を検討し、そうでなければMARCHから2〜3ランク下まで検討するのが確実でしょう。
……こんな風にアドバイスするのは中々に烏滸がましいことだなと思うのですが、もしこのエッセイを読んでくれる高校生がいたならば、少しでも役に立ちたいなと思う所存。とはいえ所詮一回合格しただけなのに、受かった途端ウキウキで勉強法とか参考書とか紹介し出すのもキツイので、ほどほどにしておきましょう。多分もう一回受けたら落ちてるので。一橋、世界史の傾向外してくれてありがとう。
さて。合否に関してはこれぐらいで。総括と今後の展望に移りたいと思うのですが、その前に稲毛高での高校生としての自分の生活を振り返りたいと思います。
3月9日に無事に稲毛高を卒業したわけなのですが、僕はいわゆる〈青春〉ってやつを味わうことは無く卒業を迎えたのだと思います。俺ガイルの主人公・
高1・2だった頃の自分の高校生活は受験勉強を優先させることで成り立っており、
しかし高3になって事情が変わりました。高2までは内部進学生のみのクラス編成だったのが高3になると文理に別れて外部進学生と混合クラス編成となり、僕は理系である親友2人と離れて文系の3年A組に配属されたのです。とはいえ高3・受験学年ということで、クラス内でお互いに大して関わり合うこともなく一年過ごすんだろうなと思っていました。僕は高1・2の頃からそういう学校生活であることを望んでいましたし、高3の春になっても同じように考えていました。ただ、僕にとって予想外だったのは3年A組の担任が、3年A組をいわゆる〈仲の良いクラス〉にしようとしたことです。その担任は僕が高1の時にも担任をしてもらっていた英語科の女性教師なのですが、1年の時も朝と帰りのSHRでクラスの生徒全員にスピーチをさせる等、元小学校教師ということもあって積極的なクラス運営を行っていました。それでも流石に、高3の受験期にクラスを教師主導で纏めようとはしないだろうと思っていました。個人単位で受験相談などを行うというのがセオリーだと考えていたからです。しかし完全に予想は裏切られ、スピーチはやるし、文化祭とか諸イベントにはクラス全員を関わらせようとする積極的なクラス運営が展開されました。面談などで話している限りその教師自身に受験指導能力が欠けていたので、そのような方針を取らざるを得なかったのかもしれませんが。まあそういう動きに対して当事者たる生徒達が乗り気でなかったのなら、あまり〈仲の良いクラス〉にはならないのですが、僕以外の生徒達はいわゆる〈ノリ〉が良く、内進・外進の垣根無く仲良くなり始めました。また4月の下旬あたりからもう文化祭の準備が始まったので、演者や脚本・小道具班などを中心に文化祭へのクラス単位での傾注が行われました。僕は負担をなるべく軽減しようと音響にしたのですが、裏方も劇中でダンスを披露するという方向になり、その練習が朝・昼で開始されました。僕はそれをほぼほぼサボっていましたが。そもそも音響の練習も文化祭1週間前になるまで全く参加してませんでしたし。本番では案の定、音響の担当を外され、ダンスも本来2つやるはずでしたが1つのみの参加となりました。やっていることは去年と同じはずでしたが、今年は同じことをする親友がいなかったこと、そして他のクラスメイト同士の距離が文化祭を通じて急速に縮まっていったことから、僕を覆う孤独感はとんでもないものとなりました。ただ、これを言うと負け惜しみになりますが、文化祭での文芸部長としての仕事はちゃんとやりましたし、文化祭後も即みすずの授業に行ったので、自身の存在を脅かす程の孤独には成長しませんでした。みすずは対面なので、質問によく行ったりすると高確率で講師と仲良くなれます(みすず学苑千葉駅前校ではこんな僕でもエース級だったのだ)。まあ僕自身が非常に地味なタイプで、保育園時代から周りに人がいなかった究極の孤独陰キャなところがありますので『相手は僕に話しかけない。その為、僕も相手に話しかけない。その逆も然り』な状況には慣れっこということもあり、そういう時のストレスは翌日に持ち越されずに処理されるのです。孤独には慣れていたのにストレスを感じてしまうのは、受験期なのに馴れ合うクラスメイトを見下しながらも、それを否定しきれず、正面切って嫌いなんて言える勇気も無い自分に対する嫌悪に由来するのだと思います。……人前では勿論平気な顔をしていますが、自宅、特に布団の中とかでうーうー一日の出来事を振り返りながら唸っているのです。それがここ数年悩まされている不眠症の原因なのですが。ストレス以外の原因として、創作ネタや政治・哲学・歴史とかについて長考する癖があるからというのもあります。そんなこんなで色々と考えているうちにいつの間にか2、3時間経ってしまうという。寝て起きてしまえばスッキリとしますが。それでも時折、直近・一か月前・一年前・五年前、下手すると保育園時代のことが急にフラッシュバックして身体が震え、言いようのない怒りで塞ぎ込んでしまうことがあります。いや、時折ではないか。一日に数回はあります。他者の視線に晒されている時にはなりませんが、一人になれるところでは頻繁に発症します。朝鮮の文化にある〈
さて。そんなこんなで仲良くなる3年A組の人達と、孤立を深めるみしょうかん。勿論、僕は文化祭の打ち上げに行きませんでした。みすず英語の授業があったんだ、というのは今になって考えると体の良い言い訳でした。正直、その頃のみすずの授業はあまり好きではなかったのですが。世界史と国語は良かったですが、数学は自分にとっては基礎的な事項を取り扱うことが多かったし、英語は担任の指導法が自分に合っていなかった。高校の授業にも失望していた僕にとって唯一の希望だったみすずの授業も半壊していたので、これはかなり僕のモチベを下げる一因にもなりました。勉強のペースを落とさない為、あと数英の自習計画について隔週で相談する為に結局授業を切ることは無かったんですけどね。そして、3年A組の面々はイベントや日常のアレコレを通して更に仲を深めていっている中で、自分は別にそんなこともなく日々が過ぎていきました。一応、内部進学の友達とか新しくクラスで多少話せるようになった子とかはいたのですが、彼らの僕以外のクラスメイトとの結びつきに比べると、僕との結びつきはとんでもなく希釈されたものだったに違いありません。
この後で特に関係性の変化が無いんで、このまま受験期が終わった後の話をします。僕が2月26日に受験を終え、やっと一人の親友とLINEで連絡を取り合いました。その時、もう一人の親友はちょっとやらかして自粛中だったのですが……。別に僕とは関わりの無いことだったので、今はまた仲良くやっています。その後、3月8日に卒業式の予行がありました。一か月半ぶりに学校に来てみると、受験期前にクラス全員が一人ずつ回して書いた〈クラスメイトそれぞれに抱いている印象〉をまとめたメッセージカードが机に置いてあり、それを眺めながらちょっと感動したのです。先程書いた通り僕は普段目立たないので、そういうのに書かれる印象ってやつは何らかの特別なイベントでクラスメイトが僕を見た時に抱いた印象がメインになって、そこから日常での僕の印象などは付加物となっていることが多いです。全員分書くので、特に仲良くない人に対しては思い出しやすいやつを書くのが普通ですからね。その特別なイベントというのは、担任がテーマを決めて生徒全員に朝・帰りのSHRで話をしてもらうスピーチというやつです。今年4回ぐらいテーマを変えてやった気がします。1〜3回はスピーチに乗り気じゃなかったこともあって原稿をほぼ用意してなかったんで、かなりしどろもどろになりました。元より極度のあがり症なので、スピーチはかなりキツイのです。しかもスピーチ内容は、最終的に創作の宣伝に帰結するので面白味がないという。けれども最後の4回目ぐらいはちょっと準備してやろうかなと思い、自分の小説の設定とかをクラスLINEに画像で送って、それをスマホで見てもらうことで視線を誘導し、緊張しすぎずにスピーチし切ることに成功。割と反響も良かったので、そのことを僕の印象として書いている人が多かったです。それなりに仲が良い人からのメッセージは印象というよりも『これからも宜しく』的なコメントが多かったのですが。僕が嬉しかったと思った点は、いわゆる無難なメッセージというよりちゃんと自分のことを見たメッセージが多かった点です。あまり仲良くないクラスメイトからもそういうメッセージを貰えたのは偏に、自分が嫌っていたはずのスピーチという機会を自分がそれなりに上手く生かしたからだと思います。そう思った時、自分からは離れて存立していると思っていた3年A組という存在が、自分を確かに包摂したものであったことに遅ればせながら気付いたのです。
そして、卒業式の予行が終わって翌日。いよいよ3月9日に卒業式が執り行われました。小学校の時は『受験結果自体は残念だったが、地元の中学には行かなくて済むのだ。喜ばしいことではないか』と思って泣かず、地元の中学に進む同級生にも強がって見せていました。中学の時はそもそも附属中からエスカレーターするだけなので泣かず。そして高校の卒業式でも、僕は泣きませんでした。一橋大の合否が決まっていなかったから、というのが一番の理由です。また、9日に合格発表がある大学として千葉大や大阪大がありますが、僕の知人ではそこら辺の大学を受ける人が多く、彼らの合否が気になっていたからというのもあります。そういうわけで卒業式は粛々と終わり、担任が来るまでの教室は寄せ書きタイムとなりました。受験期の僕だったら寄せ書きに積極的に参加するなんて馬鹿らしいと思ったでしょうが、既に一橋大受験は終わっていて、前日のクラスメイトからのメッセージを見て心に余裕ができていたこともあって、男子中心に14名に寄せ書きを書いてもらいました。38人のクラスなので半分に届いていませんが、自分にとっては多く大切なメッセージを貰えました。
そして担任が教室に来て、帰りのSHRに。クラス全員が一人ひとり前に立って、一人1分程度でクラスメイトに向けて話すことに。最初は軽く無難に話して終わろうと思ったのですが、他の人達が3年A組に対してアツいメッセージを残すのに感化されて、僕も自分の気持ちに正直に話そうと思って少し長めに話しました。
自分は4月から今の今に至るまで3年A組のことをあまり良く思っていなかったし、自分が受け入れられているとすら思っていなかったが、そうではなかった。自分が勝手に罪悪感から避けていたというだけで、自分を見てくれている人は確かにいた。それは元から仲の良いクラスメイトだけでなく、担任の先生や他のクラスメイト達。3年A組に限らなければ、みすず学苑の講師陣・スタッフ、高校の同級生、部活の後輩や先輩、祖父母、両親……。他にも、僕が名を知らないだけで自分を間接的にでも支えてくれた人達がいた。僕は一人で受験を決意し、一人で受験を勝ち抜いたのだと思っていたが、そうではなかった。きっかけは僕の意志だったかもしれないが、それを支えてくれたのは多くの人々の意志であった。感謝しなければならない。
そしてそれに気付かせてくれたのは3年A組でした。そのことに卒業式の日になってようやく自分は思いが至ったのです。こんな自分でも優しく受け入れてくれた温かな3年A組に改めて謝辞を。ありがとうございました。
帰りのSHRも終わって、僕は帰宅しました。その後クラスの打ち上げがあり、クラスほぼ全員で津田沼のお好み焼き屋で夕食を摂りました。合格発表を翌日に控えていた為、二次会には参加しませんでした。楽しい時間でした。
卒業式が終わった後、何人かの友達の合否を聞きました。勿論受かった人もいるし、落ちてしまった人もいる。卒業式当日に合否が気になって欠席し、不合格となってしまった友達がいます。しかし打ち上げの一次会が終わった後に、最後に3年A組の面々に会う為にその子は来てくれたのです。僕も少し話をして『受かってて欲しいな』と言われました。本人はとても辛いだろうに、他者を勇気付けられる強さ。僕は感激すると共に、どうか受かっててくれと強く想いました。
再び帰宅後。風呂に入っていると、花粉症のせいか目から涙が零れてくるのです。それを何とか拭い取り、風呂を出て、僕は床に就きました。とても興奮してしまって、今までの2年半の努力を振り返って、色々考えて、2時間ぐらい経ってしまいました。起きたのは結局10時過ぎでした。合格発表は10時だったので、慌てて合格発表を見る為に2階の自室から駆け降りてPCの前に立ちました。PCの立ち上がりが遅く、僕はじれったくなってスマホを見ました。一橋大学合格発表と検索して、ページを開き、一橋大学前期・社会学部の合格番号一覧を見ました。よくあるようなゆっくりと上から番号を見ていく感じではなく、僕は自分の番号がありそうなあたりをばッと見たのです。そこには、僕の番号があった。何回か見直して、ガッツポーズと共に合格を喜びました。すぐに友達数人、父、母、祖父母にLINEを送りました。担任にもメールで合格報告をして、とても喜んでいました。その後、僕はみすず学苑に行って報告を行い、その足で稲毛高に向かいました。何故なら、卒業式の日に文芸部の後輩たちに渡す予定だった寄せ書きとお菓子を、3年A組のSHRが長引いた影響で渡せなかったからです。後輩たちが放課後になるタイミングに上手く合わせて校門に着いたので、無事に渡せることができました。それで、稲毛高文芸部長としての仕事は本当に終わったのだと実感しました。帰りのバスは下校する稲校生で混むので、せっかくだからということで稲毛駅まで歩いて帰りました。6年間通った稲校。その学舎に至る道を、一歩一歩、踏みしめるように歩きました。
中学受験の失敗によって通うことになった稲校。それでも住めば都とでも言うべきか、僕はこの学校を母校として誇りに思います。この学校で得た知己と経験。これからも大切にしていきたいと思います。それらを胸に、次のステップへ進みます。
僕はこの高校生活で、いわゆるキラキラと輝く〈青春〉を手にすることはなかったのでしょう。中学受験でのコンプレックスを高1になって再発症して、それを治療する為に自分の色々なものを犠牲にして努力した。結果として、僕はこの2年半の受験勉強によって、僕自身で選び取った志望校に合格することができました。
〈青春〉を失った代わりに僕が何を得たのか、と言うと正確に書き表すには難しいです。それを何とか形容するのが小説家というものですが、それでも難しい。更新が遅れたのは、その何かを掴み損ね続けてしまい、そんな自分自身に苛立ったからかもしれません。前章で語った通り合格は単なる結果であり、過程に起因する副産物に過ぎません。だからといって合格までの自分の過程がどうだったかと言えば、全て正しかったとはいえません。結果が過程を全て正当化する、というのは〈勝てば官軍、負ければ賊軍〉と言っているのと同じで、周囲の人々が当事者を褒める為に便宜上使うことはあっても、自分が自身の為に適用することはあってはならないと思います。
だから、この2年半で僕が得たものとは、曖昧な表現にはなりますが、合格までの過程で得た全てということになりましょうか。だからこそ成功も、失敗も、現状維持も、停滞も、全てを自分の教訓にしなければならないと思います。
よく現状維持や停滞は悪だと言いますが、僕はそんなことは無いと思います。疲れ果ててしまったり、はたまた達成感に酔い痴れてしまったりして、後ろや下を向いたり、今の自分で満足することがあっても良い。それらもすべて含めて教訓なのです。それが良いか悪いか判断するのは、現在の自分を知覚して認識して一秒、一分、一時間、一日、何ケ月、何年も経った後の自分。正確には、過去の自分は無論のこと、現在の自分も価値判断などできない。自分の行動の良し悪しを判断し、それを更に未来へと繋げることができるのは未来の自分しかいない。ミネルバの梟は黄昏に飛び立つ、とはこのことを言うのでしょう。だから、判断は未来に任せましょう。現状維持や停滞を選ぶ自分も、失敗してしまう自分も、未来の自分から見れば過去の自分で、それすらも自分のかけがえのない構成要素であり、認めなければなりません。そうして全て認めた上で、自分だけの価値判断を信じて、未来の自分の行動をどうするか考えていきさえすれば良い。その未来、というのがどれくらい先のことなのかは人それぞれでしょう。だからこそ人は生き続けなければならないと強く想います。
僕も、今までの受験勉強によって形成された全ての自分を認めたい。それだけでなく、今まで18年間生きてきた自分を全て認めたい。それだけでなく、今までにお世話になった全ての人々に、生命に、事物にさえ僕は感謝の意を持ちたい。
そして僕は一橋大学に進学し、小説家を目指して新たに進んでいきたい。生きるのを諦めたくはない。自分が大学生活で〈青春〉を手に入れられるかは分からないけれど、また自分だけの青春を手に入れたい。そう願います。
……急に〈生きる〉なんて重いテーマを持ち出したのには理由があります。僕が胆道閉鎖症という難病にかかっていて、その後遺症が今も残っているという話は以前の章で軽くしたかもしれませんが、去年の秋頃に隔3か月の定期検診に行ったところ、担当医から軽く話を振られました。『そういえば、胆道閉鎖症の発症者で最高齢の女性が60歳ぐらいで先月亡くなった話、知ってます?』。母と一緒に行っていたので、僕と母は首を横に振りました。正直、僕は持病についての認識が甘く、とりあえず毎日毎食後に常備薬を飲んでさえいれば生涯健康でいられるんだと思っていました。けれどもその話を聞いた時、途端に自分の死が眼前に迫ってきたかのように感じました。というのは、自分は子供の頃から120歳まで健康に生きて、老衰で死にたいと思っていたからです。何故120歳かというと、僕が生まれたのが2004年なので、2124年にはドラえもん(2112年9月3日生まれ)は当然生まれているはずだと、子供ながらに夢見ていたからです。それに老後が長ければ色んなところに旅行に行けれるだろうなと夢想していたのです。しかし、胆道閉鎖症に限らず指定難病患者は術後でも後遺症に対する服薬治療を続ける場合が多く、120歳なんて長寿は中々難しい。胆道閉鎖症自体が割と最近見つかった病気なのでサンプルが少ないということもあり、もしかしたら僕が心配しなくとも意外と健康体で長寿になれるかもしれません。しかしそれでも、これからの自分の一日一日をできるだけ大事に過ごしていきたいなと思うには十分な出来事でした。それと同時に、早く更なる結果を求めたいとも思ってしまいます。結果というのは小説家デビューのことです。今のところ、カクヨムからのデビューというのは考えていません。というよりライトノベル作家としてのデビューを考えていません。公募として今年の10月を〆切とする群像新人文学賞に挑戦したいと思っています。現実問題として、自分がライトノベルを意識してカクヨムで連載していた歴史・戦記作品はジャンルとして退潮気味であり、それで一山当てようとするのは無謀な面があります。カクヨムでのラノベ的作品の連載は自身の文章表現やストーリー展開を磨く為の練習として続け、デビューは一般ジャンルからとしたいです。
正直、僕の文章は未だに拙く、一般ジャンルからのデビューこそ無謀だと批判されたら何も言い返すことができません。これからも色々な人の協力を仰ぎながら、自分でちゃんと判断して努力研鑽し、自分の夢へと近づいていきたいと思います。
かなり長くなりましたが、みしょうかん受験記はここら辺で一区切りとしたいと思います。一区切りというのは、もしかしたら不定期で高校生に向けた勉強法などについて投稿するかもしれないからです。というわけで、一旦このエッセイは完結となります。ここまで読んでいただいた皆様方には本当に感謝しかありません。これからもどうか、未だ弱き
僕も、名前の通り〈
みしょうかん受験記 未翔完 @3840
★で称える
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