藍に染まるまで

Lilac

***

「まま〜! 見て! キレイに描けたよ!」


「あら、素敵。あやはお絵描きが上手なのね。これはなにを描いたの?」


 満面の笑みを見せて井口 彩いぐち あやはその絵についての説明を始める。藍色で塗りつぶされた背景に、それを見上げる3人の人影。齢7歳にしては出来すぎている。


「昨日の夢の絵だよ! みんなでお空を見に行った時の絵!」


「すごく上手よ。この絵、お家に飾ってもいいかしら」


「うん!」


 彩は初めて母の笑顔を知った。いつもどこか辛そうに俯いている母の、幸せに満ち溢れた顔を知った。その表情を見て、彩は泣きそうになってしまった。


(絵を描くと、ままが笑ってくれる……!)


 この日から、彩は絵を描き続けた。まだ幼さが垣間見える、適当に手に取ったクレヨンで塗りつぶした紙を見せる度、母は太陽よりも明るく笑ってくれた。それがたまらなく嬉しくて、何度も、何度も描いた。

 彩は、特段裕福な家庭で育った訳では無い。毎月生活費に困り果て、ついには白米と味噌汁だけの夕ご飯が食卓に出ることもしばしばあった。だが、いつになっても子宝に恵まれなかった両親の、唯一の子ということで、彩はそれはもう大事に育てられたのだ。


 そう……大事に、大事に。彩に悪い虫が付かないように、守り続けた。絶対に外出などはせず、窓も、カーテンすらも開けることはなく、彩をしばり続けた。


 *


 ある日、彩は窓に叩きつけられる雨粒の音で目を覚ました。常夜灯だけしか灯りのない薄暗い部屋。窓の外では、激しく雨が篠津いている。

 7年。7年もの間、彩は外の世界を知らなかった。好奇心を掻き立てるような楽しそうな音に抗うこともせず、彩はバレないように家の扉を開けた。

 そして見上げる。天から降り注ぐ、神の恵みを。


「わあぁぁぁあ!」


 それは彩にとって初めての体験だった。

 これが雨、これが風、これが土、これが草。すべてが新しく、心を踊らせた。手で触れて、五感すべてでそれらを感じた。そして、この日、この瞬間が、彩の人生の最高潮だった。


 世界に夢中で気づけなかった。死角から忍び寄る危機。眩いライトで照らされ、彩の全身が顕になった頃にはもう遅く、彩の全長の何倍もある得体の知れない硬質な機械に思い切り撥ねられた。

 覚えているのは視界が真っ白に染まるほどの白と、身体を揺らされる感覚、あとは右から左に通り過ぎる喧しい声。


 そして、目が覚めて最初に見えたのは藍だった。今まで見てきた何よりも深く、落ちて、蕩けてしまいそうなほどの藍。世界は、何の変哲もない、つまらないものに堕ちていた。

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