不透明ゼニスブルー
モモニカココニカ
葡萄と髑髏
——多分、君はなにも知らないんだろう。
いつも笑ってばっかりで、人の辛さに寄り添って、人一倍強がって、許せないことが多くて。
それでも君を好きな俺は、もっと、なにもしらないんだろう。
「なんかさ、浮気されてるっぽいんだよね」
いつの間にか、分厚くて灰色の雲に美しい空は隠されてしまった、昼間の賑わいの遠のき始めた午後六時。
街の一角にひっそりと佇む居酒屋の中で、彼と、その友人は飲んでいた。
その居酒屋の店長は、その二人に対し悪い態度はとらなかったが、二人を怪訝そうな顔で見ていた。
只今浮気されていると宣言した彼が、あまり良い噂を聞かない——実は裏社会の人なのではないか、と噂されていたからだ。
「それで、なんでお前は愛する彼女が浮気しているだなんてこと、分かったわけ?」
『愛する彼女』という言葉をいやに強調した友人が面倒くさそうに問うと、当事者である彼はもっと面倒くさそうに答えた。
「なんとなーく?」
「はぁ……お前のことだからそんなところだと思ったけどよ……」
友達はまたもや呆れたような声を漏らした。
「それで、お前はどうするの?」
つみれ鍋をつつきながら、友人が尋ねると、
「実を言えば」
そう、彼は声を小さくする。
友人が耳を寄せると、男は小さく語った。
「もう、証拠はつかめてるんだよ」
友人は眉をひそめて体を離し、男はつみれ鍋をつつく。
その後一向に語ろうとしない彼にしびれを切らした友人が頬杖をついてそれで? と話を催促すると、男はテーブルに視線を落としたまま口を割った。
「浮気相手も分かってる。俺と同じ部類の人だってさ、そういう趣味でもあんのかな」
「おれはお前の方が恐えよ」
「愛って偉大だよ」
「お前がいうな」
男は愉快そうに笑い、友人は微笑みながらグラスを持って彼のグラスにぶつけた。
「おーいー、お前が潰れんなし」
「家まで……」
「俺はおまえの母さんじゃないからな」
彼は友人を担いでタクシーに放り投げる。
運転手に友人の住所を告げて、きっとこのくらいだろうかとどんぶり勘定で代を渡し、ドアを閉めてやる。
ゆっくりと発進したタクシーの後姿を見送ると、彼は反対方向に足を進めた。
「……まだ飲み足りないな」
彼は歩きながらそう呟くと、誘蛾灯のような光を放つコンビニの前に立ち止まった。
心の赴くまま、白ワインを買い歩きだす。ただ、呑みたい。アルコールという波にのまれてしまいたい。
めまいがする世界に酔っていたら、ふと目に入った女性の髪形が彼女と一緒で、立ち止まってしまった。
頭の中に、昨日見た光景が浮かびあがってくる。
彼は眉間に皺を寄せて、その光景を忘れようと、ムカムカする喉の奥に白ワインを流し込んだ。
——その時。
彼の前に笑いながら歩いてくる男三人組のなかの一人が彼の肩にぶつかった。彼はよろめいて、地面に膝をつく。
その拍子に、持っていた白ワインの瓶が割れた。
砕け散っていく。小気味よい音を立てて。
手を離したその形骸を見たら、どうしようもなく怒りが抑えきれなくなった。
脳裏にしつこく焼き入れられた光景が
バタ、とゴミ捨て場に放り投げられた人影。
三人の影が去っていって、ゴミ捨て場にたまった黒いゴミ袋の上で彼は目を覚ました。
「っあー……頭いてぇ」
後頭部に手を当てると、手にべっとりと温かい感触があった。
「バッドはなしだよな……」
目をとじたまま、血のついたまぶたと唇を手の甲で拭う。
彼は力の入らない身体を必死に動かして、ごみの中から抜けだした。あぐらをかき、ライターを取りだす。
灰色の街に星が降る夜かのように美しい空に、彼は思わず顔を背けた。綺麗な世界を見るのは嫌いだ。
ポケットから煙草を出し、火をつける。口の中から煙を吹き出すと、彼は目を閉じた。
しばらくその場で横たわっていたが、くらりとする身体に鞭を打って、ふいに立ち上がった。
彼は自分の車に乗りこむと、ポケットからスマホを出してとある人に発信した。
ルームミラーにかけてあった、彼女に渡すはずだったお揃いのペンダントを目にする。
——「好きだよ」。
自分に向かって優しく微笑んでくれた。
長くて綺麗な髪を風に
記念日にはお揃いの服を着て、人気のデートスポットに回って、そして夜景の広がる丘の上で誰にも見つからないように口付けを交わした。
喧嘩しても、ちゃんと手当をしてくれた。
「そんな君でも、好きだよ」と言ってくれた。
色々な彼女が思い浮かぶ。
それでも、それだけ愛する彼女を思い浮かべても、心をえぐる彼女の姿は脳裏から消えなかった。
——他の男に笑いかけて、車の中で口付けを交わしていた彼女。
その日は——昨日はちょうど彼らが交際を始めてから四年の記念日だった。
彼は渡したらどんなに美しく笑ってくれるだろうかと思いながら、お揃いのペンダントを車のシーツに隠して、待ち合わせ場所の近くの駐車場に停まった。
しばらくしてからもう一台車が入ってきた。
その車のなかに、彼女はいた。
他の男と笑って、口付けを交わしていた彼女。
――衝撃というよりも、ああ、とただ弱々しいため息がもれた。
裏切られるのには慣れていると自負していたはすなのに、なぜだか昔に失ったはずの心が痛んだ。
彼はぐっと唇を噛みしめ、その場を後にした。
「もしもし、兄貴。ちょっと話したいんですけど」
彼は、ペンダントを光のない目で見つめながらそう告げた。
電話口の向こうには、彼の信頼する兄貴が怪訝そうな声をもらしている。
「あいつ、今どこにいますか」
それを聞いてどうするつもり? と、兄貴が疑問を口にする。
「どうでもいいだろ、早く教えろよ!」
苛立って、煮え切らない思いをどこにもぶつけられなくて、ハンドルに拳をつぶけた。
心臓がどきどきと病気になったかのように波打って、全身の震えが止まらない。
兄貴は数秒沈黙すると、教えていいんだな? と念を押すように深い声で尋ねた。男は少しばかり冷静になって、ああ、と返答した。
「おれたちの街の外れに、あるレストランがある。……そこにいるはずだ。住所送るよ」
「ありがとう兄貴」
「……おい」
電話口の向こう側で、彼の兄貴が息を詰まらせたのが聞こえた。なにかを伝えようとして、やめる。
「後悔するなよ」
「……わかぁってるよ」
すぐに送られてきた住所を見て、彼は車を発進させる。
目的地につき、すぐに歩き出そうとしたが——踵を返し、後部座席をあさる。本能のままに紙袋からそれを取り、すぐさま走りだした。
彼はそのレストランに入ると、ギャンブラーたちが集まっている所に向かって、一発、弾を放った。
もう一発、もう一発。
彼は無表情でその場にいた人たちを撃っていく。
さきほどまでの喧嘩で傷だらけになった顔には血が跳ね返ってつく。ウイスキーの瓶が割れる。ワイングラスが割れる。
彼のこころのように。
その中でも一人。記憶に痛いくらいに焼きついた男が、彼の心を壊した。
彼は男を気絶するまで殴った挙句、原形を留めなくなるほどにその男の身体に銃を撃った。
彼はふと我に返り、辺りを見渡した。
血まみれ、だった。
パトカーのサイレンがこちらへ近づいてきているのに気がついた。
誰かが通報したんだな。あと数分でここに乗り込まれるだろうな。彼はそう、ぼぉっと考えた。
逃げなきゃ。彼はおぼつかない足取りで店を後にした。
車に乗ると、彼は、思い切りアクセルを踏んで走りだした。
赤、青、交互に点滅するパトカーのサイレンが、目に眩い。彼はハンドルを切り、巧みにパトカーから逃げようとした。
だから——人影に気付かなかった。
そのまま彼の車は人影に激突し、彼は反射神経でブレーキを踏みこんだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁ……」
両手で顔を覆った。
――あの男だ。あの男が、彼女の浮気相手だった。
「……っ、くそ野郎」
彼はハンドルを握りしめて、ゆっくりと瞼を閉じた。
心が、荒だった心の波が、だんだんと消えていく。
もう、罪を認めよう。殺したのは事実なのだから——。彼はドアを開け、誰を轢いてしまったのかと、車から降りて確認しにいく。
すると、そこに血を出して倒れていたのは——彼女だった。
まぎれもなく、彼が、心のそこから愛していた彼女だった。
彼はショックからその場に
彼は頭の後ろで両手を組むと、その瞳から、ぽろり、と綺麗な星のような涙を流した。
パトカーが走り去っていく。
彼は手錠で手をつながれたまま、さっきとは見違えるほどに青白くて照る満月に、ふっと、呆れた笑いをこぼした。
「月が綺麗ですね。……なんてか」
——多分、君はなにも知らないんだろう。
いつも笑ってばっかりで、人の辛さに寄り添って、人一倍強がって、許せないことが多くて。
それでも君を好きな俺は、もっと、なにもしらないんだろう。
この世には、何度悔やんでも取り返せないものがあることを、きっと。――俺はもっと分かっていなかったのだろう。
了
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