死んでもいいよ
ごめんね、堂々とあなたのことを愛せなくて。
幸せになってね。
きっと、あの人の愛したあなたならば、きっと、きっと、幸せになってくれると信じてる。
だから幸せになってね。そして、もう二度と、私のことなんかを思い出さないでください。
これは、一度でもあなたから離れたいと願った私へ、私が下す罰です。
いつからだっただろう。この結婚を失敗と思いだしたのは。
いつからだっただろう。結婚相手が不倫していると感じはじめたのは。
いや、もともとだったのかもしれない。
彼のプロポーズを受けて籍を入れた。
けれども彼にもわたしにも恋人がいた。彼らには別れを告げて、なかば自由などないままに同居した。
家を、血を、親を守るためにほかならない理由だった。
わたしと夫の関係は、いわゆる策略結婚で、愛とか恋とかときめきとか、あらゆる過程をすっ飛ばして戸籍を入れたからどこか他人行儀な節があった。
目を合わせる。手をつなぐ。唇を寄せる。
愛のない間柄だったわたしたちには、そんな行為も一切なくて、けれどもそんな距離感が心地よかった。
おたがいに、無理に愛を強要することもしなかったから、良き友人として接したし、結婚してもそれは変わらなかった。
真実の愛が向かうさきが、おたがいにはないと分かっていたから。
愛するひとを持ちながら、自分の立場のために身を捨てなければいけないわたしたちは
きっと、彼もそう思っていた。
わたしたちは、まぎれもなく惨めさでつながっていた。
だからわたしたちは一緒に食事をしたり、同じ家に住んだりしてもさして友人と変わらない心持でいれたのかもしれない。
「ねぇ……俺たち、しあわせかな?」
彼が言う。自分たちのことを尋ねているはずなのに、他人行儀な口調がアンバランスだ。
柄でもないのに、悲しげに伏せられた瞳が痛々しい。
左手薬指にはお揃いのリング。
こんなゴールドリングは外してしまいたいのに、外せない。まるで、私を縛り付ける縄のように。
いますぐにでも、こんな家、出ていきたいのに。
彼の心のなかにいる女の人のところへと彼を連れて行って、そこに彼を置いて帰ってきたいのに。
そんなこと、できっこない。
「……どうだろうね」
否定も肯定もできなくて、曖昧に答えをこぼした。
彼はわたしの返答を聞いていないのか、すでに黙っている。ふとため息をつくと、ベッドのうえでわたしに背を向けた。
「明日も早いよね? ……おやすみ」
「おやすみなさい。良い夢、見てね」
しあわせ、しあわせ、しあわせ——。
いまだかつて、あの別れ話を切り出した時の、わたしの愛する彼の顔を、忘れたことはない。
あの悲しみだけではない、怒りや戸惑いや様々な感情がまざったいたいけな顔。
ちらり、隣の彼を盗み見る。ああ、無情だ。こんなにも美しい彼を縛りつけているのはわたしかもしれないのに。
静かにベッドを抜けだす彼に背を向けた。
わたしは目を固く閉じて、耳を塞いだ。
いってらしゃい、もうこの家になんて帰ってこなくてもいいよ、ほかの
「ねぇ」
となりに座る彼女の声に振りむく。
どうしたの、と言うと彼女は俺の腕に体をすりよせてきた。
なにも言わず、といっても特になにもするわけでもないが、ただ彼女は隣で俺がさっきまで見ていた月を眺めている。
淡く滲んだ月。俺の大好きで、そして大嫌いな月。
「月、綺麗だね」
脳裏に愛する彼女の姿が浮かんできて、情けなくも目の前が少しだけ霞んだ。月だなんて、綺麗なんかじゃない。
無情で、醜くて、大嫌いな月だ。
「俺には、月は見えないな」
俺が言うと、彼女はふーんとさして興味のなさそうな返事をした。
月が綺麗ですね、の返答の意味を知らないのだろう。
読書が趣味で、つねに文学的なことを考えていた彼女とはまったくもって違う。
「あ、もう時間だ。じゃあ行ってくるね」
彼女は、さっきまで月を眺めていたのが嘘のようにもう玄関のドアを開けていた。
どうせ今夜だって愛する彼氏のところに行くのだろう。
嫉妬しているわけではないけれど、俺だってあの子のもとに行けたらいいのにと思う。
薬指にある指輪を触った。
真ん中がぽっかりと穴が開いているシルバーリング。俺の心みたいな。
なんで願っても願っても彼女は戻ってこないんだろう。脳裏にしか存在していないあの愛する彼女は。
『わたし、結婚することになったの』——あの言葉を聞いて、背を向けた彼女と会えなくなった。
彼女のために断りつづけていた縁談を受けた。
彼女を忘れることなんてできなかったけれど、やるせなくて、親に反抗するのもやめた。
愛しい顔がうかんできて、目の前が霞んで見えなくなった。涙なんて堪えきれずに泣いた。
月を見あげる。おまえが一番、憎いよ。
「あたし、次はあなたと結婚するわ。はやく離婚して、あなたと幸せになるの。プロポーズしてくれる?」
「うん。俺も離婚できるようにする。幸せになろうな」
男は、薬指にはめてあったゴールドリングを外し、彼をうっとりと見つめていた女は薬指のシルバーリングを外した。
互いに見つめ合うと、しずかに唇を重ねた。
翌日の朝、彼は帰ってきた。
ずいぶんと涼しげな顔で、そうしてずいぶんと満足そうな顔で。
「ちょっとこれ、買い出し行ってきて」
「……うん、分かった」
彼の手から紙を受けとる。いくつかの商品名がならんでいた。
自分のものくらい、自分で買えよ。私は心の内で文句を言い、玄関の扉を開けて家から出た。
あそこで反論するより、はやくあの家から出てしまいたかった。
実を言えば、私は気づいていた。
彼が毎晩訪ねている先——彼の不倫相手が、誰であるか。誰の妻なのかを。
女の勘は当たるという。まさか当たるなんて、信じたくなかったし、思ってもみなかったけれど。
一番家から近いスーパーで、彼から頼まれたものを買おうとかごを手にとる。
すると、目の前に、懐かしい顔があることに気づいた。
「うそ……」
「おまえ……」
目が合った。なぜだか、肩の力がとろりと抜けた。
「ちょっと、お茶していかね?」
そう微笑んだわたしの愛しの彼は、記憶の彼よりか随分とやつれたように見えた。
「ホットミルクとアイスアメリカーノ、フルーツパンケーキで」
店員さんに明るく言う彼の横顔を見て、わたしだけが虚しい気持ちになっているのかと思った。
大好きで愛しあっていた彼に一方的な別れを告げた。
そればかりか、好きでもない旦那に愛想笑いして自分の心に嘘ばかりつきつづけた。馬鹿みたい。
そんな、私の些細な機微の変化をくみとり、彼はぴくりと眉を上げた。
「俺も同じだよ」
「え……?」
彼は、とりあえずゆっくりしていこうよ、と笑った。
「俺らの知らないところで、お互いの旦那と妻が不倫してるんだから、別に、罰は当たらないでしょ?」
「そ、うだよね……。ってか、やっぱり気づいてたんだ、わたしの旦那とそっちの奥さんが不倫してるの」
「わたしの旦那って言われると、地味に傷つくなあ」
「なによ、ふふ」
そうだよ、そうだよ。それでいいんだ。彼の表情がそう言っていた。
私のままでいいんだと、誰かになんか合わせなくてもいいんだ。彼の仕草がそう言っていた。
なんでもいいから、この苦しみから逃げてしまいたい。この苦痛から、解放されたい。
手を差し伸べてほしい。絶対に離さないでほしい。
—―それができるのは。
「ねぇ、お願いがあるんだけど」
今まで俯いていた顔を上げて、彼を見ると、彼もおなじ表情をうかべていた。
その目が、その奥に燃え
「ねぇ、一緒に来てくれない?」
彼はふ、とやさしく笑ってくれた。わたしもつられて笑った。
「そろそろ、飛ぶ?」
わたしが問うと、彼は吹きだすように楽しそうに笑った。
「なにその軽い質問。今から心中するようには思えないね」
「やめてよーしみじみしちゃうじゃん」
笑い飛ばすと、強い風に吹かれて肩をすくめたわたしにカーディガンをかけてくれる。
風にふかれて、地面に置いておいた遺書がバタバタと音をたてる。
しばらくただ
闇がふかくなり、空の色も濃さを強めてゆく。
「……そろそろ、かな」
「飛ぶ?」
「うん」
ふと立ちあがった彼に手をひかれ、わたしも立ちあがる。
「……幸せになれるよね?」
靴を脱いで、地べたの砂の感覚が足の裏に伝わってくると、無意識にそう聞いていた。
膝のうらが震えて、足に力が入らなくなる。
彼はにっこり笑うと、わたしの手を握って引き寄せた。
「月が綺麗ですね」
「……死んでもいいよ」
嬉しさに涙を流すわたしを、彼はほほえんで力強く抱きしめた。
この瞬間が、永遠になってくれることはあるだろうか。
そう思って、はたと気がついた。いや、そんなことない。もう、永遠になるんだ。
まっすぐに、月を宿した彼の目が私のことを見つめる。
唇を寄せながらわたしたちは飛んだ。彼はわたしを抱きかかえて夜に飛びこんだ。
息ができない、苦しくて苦しくて、もがいても息が吸えない。
それでも、怖くなんてなかった。辛くなんてなかった。彼と一緒だから。一緒に死ぬことができるから。
幸せだった。酷だけど、人生の終焉が、人生で一番幸せだった。
わたしの旦那へ。
ごめんね、堂々とあなたのことを愛せなくて。
幸せになってね。
きっと、あの人の愛したあなたならば、きっと、きっと、幸せになってくれると信じてる。
だから幸せになってね。そして、もう二度と、私のことなんかを思い出さないでください。
これは、一度でもあなたから離れたいと願った私へ、私が下す罰です。
了
※「月が綺麗だね」と言われた場合、「月が見えない」と答えた場合は、その人のことを愛していない、という意味。
また、「死んでもいいよ」と答えた場合は、あなたに全てを捧げる、というような意味になる。
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