春を告げるその日には


 

 ――お願い。私を置いていかないで。



 春が来ると、嫌でもあなたを思い出す。


 桜の優雅に舞うなか。花天かてんのなか、日差しが一層強く照りつけて、ひらひらと光がまばゆいなか。


 みんなが期待と不安を背負っていくなかで、あなたは運命を背負って散ったよね。



 いくら後悔してもしきれない。

 あなただけは、あなたにだけは、できるだけ長く、生きていてほしかった。


 もしそれが、あなたにとっての苦しみだったとしても、私の自分勝手なエゴだったとしても。


 ――桜のように笑う、あなたにだけは。





「怖いよ」


 ベッドの、白いシーツの上を白い手が滑る。


 やせ細った腕で、あばら骨の浮きでる自分の身体を弱々しく、でも恐怖から身を護るように抱きしめるあなた。


 彼女の美しくて屈託のない笑顔を記憶の中で思いだしてみる。はつらつと、邪推を知らないように笑う顔。


 思いだしてみると余計に、目の前で、ふんばるように涙を流す強気なあなたにかける言葉が見つからなかった。


 ぽたり、ぽたり。

 そのまなじりに、涙が浮かぶ。粒のように、しずくのように。


 彼女は、震えながら俯いた。


 全身が小刻みに震えている。二の腕に、五指が食い込んでいる。


 なんて言えばいいのか分からなかった。


 こんなとき、あなたを喜ばせようと頑張って学年一位の成績を取った脳みそは、うまく働いてくれない。



「ねぇ。私……怖いよ」

夏海なつみ……」


 何も、発することができなかった。


 ねぇ、どうしたらいいんだろう。どうしたら……なんだと思う?


 そう言いながら、誰にも分らない答えを求めて涙を流す姉は、どんなに辛くても弱音なんて吐かない姉だった。


 誰よりもタフで、自信過剰で、ポジティブ。


 両親がいる前では、

「全然怖くなんかないよ! だって私、何年間闘ってきたと思ってー」

 なんて、いつの間にか見慣れた下手くそな笑顔で言っていたくせに。


 なんで、なんで怖いのに、嘘なんかつくの。


 なんで、なんで姉だからと、そんなに残酷な運命までをひとりで背負ってしまうの。


 わたしにも、背負わせてよ。一緒に、背負わせてよ。



 できることならば、私が代わりになりたい。


 テストを見せれば、いつか私も追いつくからねー! 待っててよー! なんて、気丈にふるまっていたのに。


 明日を見失うくらいに辛いことがあって、ぐぢゃぐぢゃな言葉で気持ちを吐き出してみれば、よく頑張った、えらいね、なんて慰めてくれた。



 わたしの卒業式の日には、なんでか私よりももっともっと泣いて。


 私の分も幸せになるんだよ、って言われたんだっけ。その時、わたしは、だったらそっちもわたしの分幸せになってよ、って返した。


 確か、わけわかんないね、って二人で笑ったよね。



 入学式には、入学祝いだとか言ってお揃いのキーホルダーをくれたよね。


 桜が満開なら、どうせ興味もなくて見ないくせに、どこで桜が満開だったとかって覚えててくれた。



 夏の日には暑いからとお小遣いをくれてサイダーをもらって。


 友達と喧嘩をすれば走って謝ってきなさい、なんて急にお姉ちゃん面しちゃって。帰ってくれば、頑張ったね、なんて褒めてくれたっけ。


 頑張ってないから、ってむずがゆくて突っぱねるわたしに、まだ優しく笑っていてくれたよね。



 秋には一層あなたの気が強くなった。


 前よりも増してニスを重ねるみたいに仮面をかぶって、何事にも干渉なんてしなくなった。


 積極的で明るくて楽しいあなたの姿も、私が大好きだった笑顔もなくなって、いつも穏やかに微笑んでいるだけだった。



 冬になって、あなたの姿が見にくくなった。


 真っ白な肌をしているあなたの後姿を、涙で霞んだ雪景色のなかで見分けるのは、言葉になんてしなかったけど胸が締め付けられた。


 見ることすらやめようかと思えてしまうほどに、痛かった。


 でも、もっとあなたの方が痛かったんだよね。



 冬が終わって、雪も降らなくなって。桜が芽吹きを始めて、いつの間にか満開になった。


 また、春が来た。


 どうしようもなく、何の理由なんてなく。涙なんて流さない、強がりなあなたの涙を誘う春が。



「……きっと大丈夫だよ」

「本当に?」


 もう合うことのない焦点が、ぼんやりとこちらに向く。


 ごめんね。夏海。私の口からは、取ってつけたみたいな安っぽい大丈夫しか、出せないみたい。


 あなたのように、温かくて優しい言葉はつくれないみたいだ。


 底の抜けた黒目を見て、ぐっと喉が詰まった。


 悲しい結末を、そのラストシーンをすでに知っているページを、めくりたくなんてないのに。


 ――その最後の一行を、見たくなんてないのに。



「南海がそう言うなら大丈夫かもね」


 そう言って、頬に溢れた涙を拭うあなたを、私はどんな心持で見ていればよかったんだろう。


 嘘なんてついていないのに、なんでこんなにも苦しいんだろう。


 その答えを分かっているのに、なんで、こんなにも悲しいんだろう。



 ねぇ夏海。


 楽しみにしていた夏の海を見ることもなく、桜のように散って姿を消したあなたは、なにを思ってその瞳を閉じたの。


 なにを願いながら、月を眺めていたの。


 ねぇ教えて。


 ……教えて、よ。


 あなたはどこに行ってしまったの。






 私の姉は、事故にあったことで盲目になった。


 きっと後遺症だと思われる症状が日常生活に支障をきたすくらいにはひどくて、入退院を繰り返していた。


 けれども、気丈に笑う人だった。


 この世にある全ての優しさを詰め込んだみたいな人だった。



 なのに、いつからだっただろう。


 笑わなくなって、目もあわなくなった。微笑みだけが増えて、からっぽの目の奥だけが寂しげにった。


 辛さだけが一人歩きでもしているかのように、気持ちが追いついていないみたいだった。



 世界とのアンバランスに苦しんで、そして、いなくなった。失踪、というのかもしれない。


 盲目なあなたが、行ける場所なんてないのに。いつの間にかいなくなった。忽然こつぜんと姿を消してしまった。


 だから、わたしが探してあげなくちゃ。



 両親は探さなくてもいいと泣くけれど、そんなわけない。


 だって、あの人は一人で運命を背負えないから。苦しんで泣いているのなら、私が助けにいかなきゃいけないから。


 だからいまだに、私は春のなかにあなたを探している。



「桜、咲いたねー」


 興味がなさそうな顔で散りゆく桜を眺めて、そんなことを呟くのは、わたしの娘。


 結婚して、子どもも生まれた今でもまだ帰ってこない姉のことを、この子にはもう話してある。


 この子と、姉は叔母と姪の関係なのだから。


「まだ、見つからないんだよね」

 わたしはふと、つぶやく。娘はわたしの手を取って、

「多分、いるよ」

 と言った。


「どういうこと?」


 どうしても意味が分からなくて、聞きかえす。娘は、桜のように笑ったあと、もう一度繰りかえした。


「いるよ、きっと」


 私はつい、大丈夫だよね? と少しだけ苦笑しながら聞きかえす。意味深なことを言うこの子を、はじめて見た。


 顔をのぞきこむと、底を抜けた黒目が見える。その目の奥は——からっぽだ。


 途端、強く風が吹きつけてきて、桜の花弁を散らし、舞い上がらせた。


 花天とも思しきなか、娘は穏やかに微笑んだ。




 ああ分かった。そして、あなたはきっとこう言うのでしょう。





 葬式の日、やせ細った腕で自分の身体を抱きしめるようにして花と一緒に眠っていた姉の姿が、脳裏に浮かんだ。



       了

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