安売りのおとぎ話


 幼いころ、母親の働いていた風俗店と、キャバクラを行き来して育った。


 成長が早い方だったから、10歳になる頃にはキャバクラでは厨房のボーイとしてお手伝いしていた。


 俺をよくかわいがってくれた店長は怖い人と有名だった。


 いらないからと断ったけれど、帰ってくるジャケットの内ポケットに毎度分厚い札束が入っていた。きっと店長の仕業だった。


 風俗店は、やけに騒がしいようなきらびやかな装飾が廊下から階段まで一面に施されている、安売りのおとぎ話みたいな内装と、BGMのようにシャワーの音がたえず聞こえてくる、幼少の教育衛生上きょういくえいせいじょうはよろしくない場所だったことは今なら理解できる。


 母は身売りで体を稼ぎ、酒の瓶の山に腰かけ、薬物に手を染め、違法な取引で金を貯めた。


 その途中で、俺を産んだ。


 誰の子かも知らない俺を産むなんて、と思ったこともあったが、誰の子かは知らされていないだけで、あの人の記憶には俺の父の顔がしっかりと残っているらしい。


 疲れ果てアパートに帰ってきて早々にベッドに倒れ込んだ母は、時々熱に浮かされたように俺の顔を愛おしげに撫でて異国の人の名前を呟いた。


 父の名だと思う。

 俺には知らない名だった。

 欲を言えば、知りたくもなかった名だとも思う。


 母はそれなりに高級志向の風俗で働いていたらしく、俺が17歳になったとき、母が俺を捨てるときに全財産のほとんどを俺に譲り渡してくれた。


 母の全財産は4億3000万からたったの1000万になった。


 幸せにしてあげられなくてごめんなさい、とバカラのワイングラスでペトリュスを飲みながら母は泣いた。


 かちん、とせめてもの反抗心と悪戯いたずらでぶつけ合わせたグラスの音を今でも覚えている。



 ――離れるのは辛かった。

 けれども離れなければいけないことを知っていた。


 大人の世界だ。人の欲求だけが丸裸まるはだかに独り歩きするこの馬鹿みたいにきらびやかな世界は、大人たちの私欲しよくと欲求だけで組織していたから。


 俺と母は、ただ運悪くその私欲しよくピラミッドの頂点に立つ人に踏み潰されてしまっただけ。



 俺が家を出た数日後に、ごみ捨て置き場で今にも消えかかっている息をしている母を見つけた。


 涙は出なかった。


 その隣には異国の顔をした人がいて、夜の暗闇でも目立つ金髪ブロンドと、夜にうっすら浮かび上がる目の色は青かった。


 血まみれのバッドを持って荒い息をするその人は、母が俺にうわ言で呟いた、俺の父なのだろうな、なんて心底どうでもいいと思いながら考えて、そのまま素通りした。どうせ縁の切れた人だ。


 財布もスマホも何もかも持たずに何日かぶらぶら街を歩いた。父は気味が悪いほどに綺麗な顔をしていた。


 とっくに人間を諦めたような顔をしていた。


 こびりつく、というわけでもないけれど、いやに目から離れない顔だった。男というより、彫刻ちょうこくみたいな顔だった。


 あれが父か、と考えて、急激に吐き気をもよおして、道端に吐いた。


 うずくまっていると、急にみじめだという想いが自分勝手に俺の胸にわきあがってきた。


 そう、やるせない辛さを抱えながら意味のない金なんていらないな、と苦笑した。


 家なんていらない。このまま死んでしまえばいい。野垂のたねばもっとも、お似合いだ。


 母と同じように現実と愛憎あいぞうにぼこぼこに殴られて、息の根も止まるまで。――そう、想うまま薄暗い路地に寝ていた。


 そのとき、急に視界に入ってきた影。10歳くらいの少年だった。


 少し黒い肌と、人を刺すような鋭く婉然えんぜんとした色を持った視線。真っ黒なほどに、吸い込まれるような目だった。


「誰」

 ひどく掠れた声で問いかけると、

「なんでここで倒れてるんですか。風邪引きますよ」

 といたって真剣な顔で心配された。


 湿度は高くじめじめしているからといって、風邪なんて引くか。雨が降っているわけでもあるまいし。


 そう思いながら怪訝けげんに見上げると、少年は俺の心を読んだみたいに、

「あと数分で雨が降ります。雨風防げるところに移動しないと、このまま野垂れ死にますよ」

 と、また真剣な顔で告げた後、そっと俺の顔に手をのばしてきた。


 払おうと思った――のに。払えない。少年の目が、不気味に銀に光った。やさしくて丸みがある声が、ゆっくりと耳に溶け込んでくる。


「おにーさん」


 自分の内にいる秘めたるなにかが、獰猛どうもうに唸ったのを感じた。ぶわ、と血が騒ぐ。


「ねぇ、俺を拾ってくれませんか」


 狼みたいな子だな、と思いながら目を向ける。


 子どもなあがらのあどけなさに隠れた芯の強さが、あふれでて美しい。


 鋭く切れ長の目に、清廉せいれんなほどに清々しいフェイスライン。


 気品にあふれて、孤独ひとりさえ苦痛にしない地上の王者オオカミ


 なんでこんなところにこんな小さい子が一人でいるのか分からないが、どうだっていい。


「……いいよ」

「へへ、やった」


 隣失礼しまーす、ともぞもぞ俺の隣に寝転んだ、なめらかな頬を見つめる。


 ああ、きっと大人になったらわれるんだろう。


 狼さえ、われる。

 こんなに綺麗な狼さえ、血に汚れ、愛に飢え、いずれ深すぎる憎悪ぞうおに骨までしゃぶられることになる。


 それでも、お前は。


「……生きたいと思うか?」


 隣の狼はふへ、となさけない声を出して笑うと、

「生きるためなら、人は尊厳そんげんだって捨てるよ」


 そう、遠いどこかを懐かしげに眺めながら呟いた。――それが、運命を揺るがす大きな出会いだった。



       了


※またまた続きません。

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