光るクジラは水の歌を歌う
雨柳ヰヲ
光るクジラは水の歌を歌う
濃い瓦斯の霧を抜けると巨大な壁に囲まれたビル群が見える。大きく口を開けた扉の中へ乗合バスは滑るように進んでいく。透明のロードチュゥブがいくつもの道に分かれており、中央の道は
赤い髪の青年コントラは仕事場に向かう前に手土産を
路地を曲がって白い壁の建物の前で立ち止まり、呼び鈴を鳴らした。ドアプレートには<イェンリュ純生物研究所>と刻まれている。ドアが自動で開いたのでコントラは中へ入り、広く薄暗い部屋の奥へ向かって「イェンリュ先生、おはようございます、」と大きめの声で呼びかけた。
「コントラ様、おはようございます。」研究所の助手、<無機物ヒト形生命体:ユーフォラ>のアンシアがやってきて、部屋の中央にあるソファにかけるように勧めた。「博士はまだ眠っておいでです。」真白の長い髪と、細長い白い貌、凹凸のほとんどないボディに白いユーフォラスーツを着ている。ユーフォラは光を反射し微細な燐光を放つため薄暗い部屋の中でも目立つのだが、動くと残像が残り妙な錯視を生む。コントラは首を伸ばして棚で遮られている部屋の奥を覗いた。小さなドアがあり、寝室はそのドアの向こうだ。
「先生は今もまだよく眠れないのか?」
イェンリュ博士は元大学教授で、コントラの恩師だ。大学で教壇に立っていたころもイェンリュ博士は昼間によく居眠りをしていた。毎晩自宅での研究に没頭しているからだ。
「それが、」ユーフォラは表情を曇らせた。「ここ最近は生活サイクルを改善なさって、しっかり一般生活時計に合わせて睡眠をとられていたのですが、あれが届いてからはうるさくて眠れないとおっしゃっていて…。」
「うるさい?」コントラは眉を上げた。「だが、あれはまだ
「そうなのですが、ああ、博士が起きられました。支度を手伝ってまいりますので少々お待ちください。」
アンシアがドアの向こうに行ってすぐ、琥珀珈琲の香りが漂ってきた。飛行ロボットがカップをコントラの前に置いた。室内は静かで、僅かに往来のエアローバーが通過する音が漏れ聞こえる。ヒトロニア標準時間で午前十一時半。コントラは市場で購ったサンドとゼルを袋から出してテーブルに並べた。しばらくしてもドアが開く気配はなく、カップも空になってしまった。コントラは立ち上がり、研究所の地下へ続く階段を降りた。宇宙船の格納庫のさながらの広大な面積を持つ施設だ。硝子質のキューブが積み上げられ、検体の種類ごとに分類されてそれぞれのブロックを形成している。キューブはそれ一つ一つがコントラの胸あたりまでの大きさがあり、その中に様々な生物が収めれている。キューブの中は特別な空気で満たされている。エアコンダクターの駆動音が低く響いている。
コントラは他のキューブから離れて置かれた一際大きなキューブに歩み寄った。高さはコントラの背丈を悠に越し、横幅も広く、住宅の一間くらいはあるだろう。その中に細長いカプセルが横たわっている。白銀色を反射するカプセルは中がうっすら透けて見える。
ひと月ほど前に<生物歴史管理局>が調査のためにこの研究所へ運び込んだものだ。コンピュータはこの生物が「純生物」であると判定した。
カプセルの中には「人間の両性体」が横たわっている。面差しと体つきは幼生だ。金色の髪をもち、同じ色のまつ毛に縁取られた瞼は閉じている。非常にゆっくりした速度で胸が僅かに上下する。時々瞼が痙攣する。
カプセルの表面に小さな泡状の粒がこびりついている。眺めていると、泡は一塊になって床へ流れ落ちた。水だ、とコントラは思った。純生物の全てが水でできている。
ヒトロニア政権下では一般的に水は有害なものとされている。水から発生した生物は他の生物の命を奪うことで自らの生命を維持した。かつて地球が水の星であったころ、動物や植物は人類を絶滅に追いやった。果ては水が地球上の全ての命を飲み込み枯れた。絶滅に瀕した人類は遺伝子を改変し水の不要な躰となった。進化した人類は自らを「ヒト」と呼び、宇宙空間でも軽装備で生きられる躰を手にしたことで宇宙のあちこちに居住地を作り、現在もなお広がり続けている。「純生物」はかつて地球が水の星だった頃の生物を示す。遺伝子情報を入手し元素材料を揃えれば純生物の復元は難しくない。しかしそれは違法行為であり、純生物の遺伝子情報の取得には特別な資格と管理局からの認可を要する。イェンリュ博士の講義では水は他の元素と同等に扱われ、水を基本とした生物の有害性について答えは永遠に出ないだろうと言った。見るものによって変化する相対的なものだからだ。とはいえ水そのものはヒトが多く浴びれば体組成系の融解を促すため無害とは言えない。
コントラは、外見は自分たちとそれほど変わらない祖先の姿を目の当たりにして胸が躍った。遥か昔に滅んだはずの純生物が単体で宇宙空間を漂っていた。こんなことが起きるなど一体誰が予想しただろうか。人間を乗せた小さな宇宙船はまるで、管理局のセンサー網をかい潜るかのように漂流する小惑星の影にかくれていた。宇宙船は検出された放射線量から十年以内に作られたものだろうと判定されたが、どこで製造されたものかわからなかった。古い宇宙船をベースに様々な機械のパーツを寄せ集めて作った歪なものだったのだ。宇宙船自体も妙なら内部も妙な作りで、船内にたった一つ納められたこの眠る人間のカプセルを保護する仕組みだった。
この純生物はどこから来て、どこへ行くつもりなのか。それらの理由を探るのがコントラの役目だ。
コントラは眠る純生物の顔をじっと眺めた。今にも目を開けるのではないかと期待するが、ほんの僅かにも動きはない。広大な宇宙を一人で漂っていたことをこの人物は知っているのだろうか。カプセルは精巧に作られており、このままでもあと十数年は生きたまま眠っていられるだろうとイェンリュ博士は言っていた。覚醒を促すために、キューブの中は何日もかけてゆっくりと温度が上がるようになっている。純生物の人間が活動するにはある程度の温度が必要なのだ。
透明の壁面に手を触れていると、ふと先ほどから耳慣れない小さな音が鳴っていることに気付いた。高いのか低いのかわからない音階で、ぼんやりとしている。空洞を風が通り抜けるような音だ。途切れることなく緩やかに遠くへと流れていく。音によって躰が揺らされているような気がした。カプセルの中の少年の目は閉じている。穏やかな水面にカプセルが浮いている。カプセルの上面から水滴が流れ落ち、水面に波紋を起こした。波紋はゆっくり広がり、コントラの膝を通り過ぎる。いつの間にか辺り一面が水に満たされ膝まで浸かっていた。コントラは小さく声を上げて後ずさった。途端に水の幻影は消える。床には水の跡などどこにもない。キューブの中も先ほどと同じで、ただカプセルが横たわっているだけだ。
「すまない、待たせたね。」
イェンリュ博士が歩み寄ってきた。灰色の髪はアンシアに整えてもらったのだろう。丸い頭の形に沿ってきれいに撫で付けてある。切長の眸の厳しい印象を和らげるように気に入りの丸メガネをかけ、片手にコントラが用意したサンドを携えている。コントラの倍以上の年齢だが、ヒトは成体になった後はほとんど外見が変化しないため、二人は同年代のようにも見える。
「先生、今のは何ですか?」コントラは何度もカプセルと博士に交互に顔を向け、青くなっている。
挨拶も忘れるほどに動揺している元教え子に博士は笑いながら頷いた。
「彼が歌っているんだよ。」博士はそう言ってサンドを食べ始めた。
「歌、…」
コントラはカプセルの中の少年を眺めた。少年の口が動いた様子はなかった。耳を澄ますと今も聞こえてくる。ぼんやりとした風の咆哮のような音だ。意識を集中していないとまた幻覚に心を持っていかれそうだ。コントラは鼻白んだ。
「これが歌ですか?」
「ああ。私は水の歌と名付けた。この歌は彼の遺伝子の中に記されているものの一部だ。それがどういうわけか私たちヒトの聴覚と視覚を刺激する。空気の振動ではないから、耳を塞いでも防げなくてね。今は微かに聞こえる程度だが、ちょうど私が寝る時刻に合わせてどんどん大きくなるんだ。」博士は迷惑極まりないという表情をした。
「なるほど、それで…。」コントラは博士の不眠の原因がわかり、顎に手を当てて思案した。「この検体をどこか別の保管所へ移動しましょうか?」そう提案すると、博士は首を横に振る。
「いや、このままでいい。他へ移せば余計な混乱を招くだけだ。ところで、君はこの純生物の人間を覚醒させてほしいと言っていたね。」
コントラは頷いた。「ええ、そうです。どこから来たのか、なぜ宇宙を漂っていたのか、理由を探らなければなりません。」
「それなんだけどね、覚醒させることは難しいだろう。」
「そうなんですか?」
博士は歩き出し、コンピューターの設備が所狭しと並ぶ別室に入った。コントラも後に続く。二人は椅子に腰掛け、しばらく黙ってアンシアの用意した琥珀珈琲を口にする。
二人の頭上に少年のボディを模写したホログラムが浮いている。博士が指を動かすと、ホログラムが小さな粒子となって飛散し、記号の羅列が渦を巻いた。
「彼の体には複数の遺伝子パターンが複雑に絡まって記録されている。覚醒のスイッチはあるが、特別な状況下でしか目覚めないようにプログラムされている。これを改変して無理やり目覚めさせれば全ての情報が崩壊しかねない。」
博士の下で学んだコントラにも、そのことが見てわかった。宇宙の星の数の数百倍もの数の原子の働きまで緻密に組まれているようだ。これでは迂闊に手が出せない。
「これは、純生物ではないのでしょうか。」コントラが尋ねた。
博士は険しい表情を見せる。「純生物に極めて近い生物だ。我々と同じように、しかし全く異なる方法で強制的に進化させられた跡がある。彼らは純生物と同じように自然交配をする種だ。…人間やヒトはもちろんユーフォラやコンピュータでもここまでのものを作るのは不可能だろう。」
「では一体誰が?」
コントラの質問に、博士はため息をついて首を横に振った。「さっぱりわからない。」
困ったことになった、とコントラは思った。イェンリュ博士なら簡単に目覚めさせてくれるものだと思っていたのだ。「先生の手に負えないのであれば…」
「手に追えないとは言っていない。」博士がすかさず遮った。「わからないから本人に聞いてみるしかないということだ。」
「本人にですか?」コントラは目を瞬かせる。
「そうだよ。あの少年に聞いてみようと思う。まあ、あの通り幼生だからどこまで知っているかはわからないがね。」
コントラは首を傾げる。
「でも彼は眠っています。」
「眠っていても意思疎通が完全に不可能というわけではない。彼の脳は冬眠状態のために活動は最小限だがそれをもう数パーセント活性化させれば夢の中で会話ができるし記憶も探れる。ただし<生物歴史管理局>の許可が必要だ。少しばかりリスクを伴うだろうから。」
イェンリュ博士はちらりと伺うようにコントラを見る。コントラは笑顔で頷いた。
「ええもちろん許可しますよ。やってみましょう。」
コントラの言葉を予想していたようにイェンリュ博士は体の向きを変えコンピューターのキィを叩く。
「それでは早速だが、君に用意してもらいたいものがある。聞いてくれるかな。」
「はい、聞かせてください。」
博士がコンピューターのディスプレイにいくつもの記号や難しい言葉が多く書かれた図面を表示させ、計画の説明を始めた。
二人の頭上には無数の記号が渦を巻き、生き物のように滑らかに動いて広がったり集まったりしている。もし今、話に夢中になっている二人が上を見上げたら、黒い鳥の群れが歌に合わせて舞い躍っているように見えただろうし、霧散する直前にそれらは大きなヒレを持つ長い体をした生き物の
同じ頃、ヒトロニア太陽系管理局では緊急会議が開かれていた。
太陽系管理局は木星の衛星カリストの巨大クレーター<ヴァルハラ>に建設された都市にある。
数ヶ月前、未知のエネルギー体が太陽系外からヘリオポーズを越えて侵入してきた。報告を受けた太陽系管理局長官リュッセラは副官ヒュージェに調査を命じた。ヒュージェは調査隊を編成し、宇宙空間での接近調査を開始した。
エネルギー体は観測所の名称と日付からE-819と名付けられた。
宇宙望遠鏡で調査した限りでは、E-819を構成する物質は太陽系で発生する彗星とほぼ同じだった。異なるのは太陽系に突入しても光の尾が出ないことだ。さらには光を放つ中心の核はとても小さく、直径五メートルもないだろうと予測されたが、氷と炭素の塊にしては後方に残すエネルギー量は膨大だ。発光する核の周囲にもエネルギーを発生させる何らかの仕組みがあるはずだった。
接近調査は難航した。調査隊がもっとも苦しめられたのは、E-819が突如姿を消し、次の瞬間に全く別の場所に現れる空間跳躍現象だ。空間跳躍の出現地点は消失地点から一定の範囲内のようだったが、それでも出現地点を予測するのは困難を極めた。
赤紫色の外衣を翻し、ヒュージェは足早に会議を行う部屋へ向かった。短い白髪と浅黒い肌の色は木星周辺で生まれたヒトに多い特徴だ。濃い眉に鋭い眸、広い肩幅と大きな体躯は軍隊向きだとよく言われる。
「ヒュージェ、ご苦労様。」
道すがら、太陽系管理局長官リュッセラと合流した。ヒュージェと同様に赤紫色の外衣を纏っているが、首元には最高位の階級を示す太陽を模った黄金のピンがとめられている。長い青黒色の髪を後ろで一つに束ね、眠そうな目元を緩めて微笑む。
「苦戦しているようだね。」
「はい、ですが全体像は把握できています。」
入室してすぐ、椅子には座らずにリュッセラが参加者に挨拶をし、ヒュージェに受け渡す。ヒュージェは暗い部屋で円形のテーブルに沿って並ぶヒトロニア管理局の高官たちをぐるりと見回し、中央の巨大ディスプレイを指し示した。隣に並ぶリュッセラもディスプレイを見つめる。
光を放ちながら宇宙空間を高速で飛んでいく小さな星、E-819が映し出されている。
ディスプレイは光の中心部を拡大する。青白い光が画面いっぱいに映し出された。
「中心核は宇宙望遠鏡での観測結果と同様、氷と塵の塊で間違いありません。」
画面に元素記号や質量などの文字が次々と現れる。
「しかし、E-819のエネルギー量は、惑星一つを飲み込み消し去ることができるほど膨大です。小型の恒星がエネルギーを放出しながら高速で移動しているのです。」
ディスプレイの映像が光る星を遠くから映し出した。
「エネルギー発生源は、核周辺を取り囲む歪曲重力空間です。範囲は一定ではなく、常に形を変えます。この空間は一つの宇宙の塊ですが、出口でもあります。」
光る核の周囲に線が描かれる。歪曲重力空間を示しているらしい。非常に広い範囲のため光る核はみる間に小さくなっていき、ほとんど見えないにほどになった。
全体が映されると、部屋に小さなどよめきが沸いた。
「いくつかのパターンを複合して解析した結果、この形が基本となっているようです。」
ディスプレイに描かれた線の全体は、歪なかたちをしていた。縦長の流線型の両側に突起があり、伸びた尾の先端は扇形に広がっている。
「これは、魚か?」
参加者の一人が尋ねる。
「コンピュータで照合したところ、クジラという哺乳類が該当しました。古代地球の海洋生物で、最大の種だったそうです。」リュッセラが穏やかな口調で言った。
「クジラ…」誰かがつぶやいた。一般的には太古の生物についてはあまり詳しく学習しないが、名前は聞いたことがある。おそらくエレメンタルスクールの教科書にでも載っているのだろう。
「エネルギーは、別の宇宙からこのクジラの形をした歪曲空間を通り、こちらの宇宙へ流れ込んできていると推測されます。」
「別の宇宙空間ですか…」古参の宇宙開発局局長テンジェンがつぶやいた。「別の宇宙の知的生命体による攻撃の可能性が考えられますね。」
みなが頷く。
「これはどこへ向かっているのでしょうか、」続けてテンジェンが尋ねた。
「地球と思われます。」ヒュージェが答える。
「地球か。しかしあそこにはもう何もない。表面は荒れ果てた岩石、内部には多少のマグマがあるくらいだ。そんな星を攻撃して何になる。太陽を破壊するならまだしも。まあさすがにそれほどのエネルギーはないだろうが。」こちらも古参の、軍事兵器管理局副官オスロが言った。
「現時点で攻撃と断定することはできません。」ヒュージェが言った。
「じゃあ何なのですか?」テンジェンが機嫌を損ねた表情を向ける。
「それを調査している最中です。E-819が放出しているエネルギーは未知の部分が多い。破壊的に作用するのかそうでないのか、もう少し慎重に調べる必要があります。」ヒュージェが言った。
「調べるにしても、このクジラは逃げるのが上手いらしいね。」ヒトロニア政府管理局監査主幹ロートマーが言った。背が低く細身で柔和な笑顔を見せる成人前のような外見のこの人物が、参加者の中で最も地位が高い。
「申し訳ございません。」ヒュージェは恭しく頭を下げた。「空間跳躍のパターンの解析が進めば予測も正確になるかもしれません。」
ロートマーは苦笑しつつ困惑した表情で首を横にふる。
「すまない、責めたわけではないんだ。君はよくやってくれている。僕はE-819がクジラの形をしていることがとても気になっていてね。何か意味があるのではないだろうか。例えば空間跳躍も、クジラの生態に関係していやしないかと思うのだけど。もう検証済みだろうか。」
「すぐに調べます。」ヒュージェが答える。
「接触することさえできれば、E-819の実態がつかめるでしょう。」リュッセラが言った。
「良い報告を期待しているよ。」ロートマーが笑顔を見せた。
コントラは医療局の薬学研究室から預けられた荷物をイェンリュ純生物研究所へ届けた。中身は人間の脳内物質をコントロールする薬品だ。医療局の友人に頼んで生成してもらった。薬は培養した
人間らしき生物の幼生との睡眠対話を試みる準備を開始してから三ヶ月、遂に実験に着手する時がきた。
コントラはキューブの前に設えられたモニターディスプレイや薬瓶の並ぶテーブルの横に椅子を用意して腰を下ろし、逸る気持ちを抑えながら博士がいくつかのボタンを押すのを見守った。水の歌は聴こえてこない。少年は外の異変を感じているのかもしれない。
キューブの中ではアンシアが少年の額に小さな装置を取り付け、博士の方を振り向いて頷く。カプセルの上蓋は少しだけ開いており、薬品を流し込むための細いチューブが伸びている。アンシアのすぐそばには薬瓶と丸い筒状の注射器が用意されている。検体に異常が出ればすぐに実験は中止だ。
「では始めよう。」
イェンリュ博士が合図した。
モニターディスプレイには二つのデータが表示されている。上部の波打つ線は少年の意識の強度を示す。線の位置が高くなるに従って、音が聴こえてきた。
誰かの笑い声のようだ。高く長く、楽しげな音がスピーカーから流れる。
「初めまして。こちらの声は聞こえるかい?」
博士が話しかけると、笑い声が小さくなっていく。しばらく雑音が続いて、小さな声がした。
…230174πς
返事だ。くぐもった不明瞭な音声だが、確かに返答した。
博士が意識の文字変換システムを調整している間も、少年は話し続ける。コントラは聞いたことのない流れるように響く言語に懸命に耳を傾けた。
『あなたは誰? 僕はバート。もうついたの? ここは随分寒いね。ボートは今日も快適さ、何も見えないからきっと明日は雨が降るよ、帆船と一緒に水平線を流れていくね。819015417811零π18 60121114…』
脳のあちこちが同時に活動するため文章に脈絡がなくなる。博士は薬の量と電気信号を調整した。
博士は改めてキューブのそばで少年に話しかける。
「バートはじめまして。私はイェンリュ。生物学者だ。君はどこに行くのかな?」
『あなたは生物学者。ここは地球だね。僕はちゃんと到着したんだ。』
「いいや、ここは地球じゃなく火星だよ。君は今、火星にいる。」
雑音が聞こえた。混乱しているらしい。
『どうしよう、僕は地球へ行かなければいけないんだ。』
「私が連れて行ってあげるよ。」
『本当? よかった。みんなもう向かっているはずなんだ。僕も地球へ行かなければいけない。』
「どうして?」
『歌を聴かせるんだよ。』
イェンリュ博士とコントラは互いに目を合わせた。
「歌とは、君がいつも歌っているあの歌かな?」
『そう。あなたは水の歌と呼ぶけれど、僕たちも同じように呼ぶ。眠りを妨げてしまってごめんなさい。僕は知らなかったんだ。周りの音が静かになってからの方が歌は遠くまで響くから、…むこうの人は僕がどこからきたのか知りたいんだね、』
コントラはディスプレイに表示されていく文字を目で追いながら眉を顰めた。「先生、…」イェンリュ博士をふり仰ぐ。
博士は感心したように微笑んだ。「彼には私たちの心の声が聞こえているようだ。」
モニターディスプレイのグラフは最高値を示している。これは脳が覚醒状態に近いことを示す。コントラは気を取り直して、キューブに歩み寄り話しかけた。
「そう、君がどこからきたのか知りたいんだ。教えてもらえるかな。」コントラは緊張しながら尋ねた。
『<白い舟>だよ。僕はそこで生まれた。…あなたたちには見えないし辿り着けない場所にあるんだ。こちら側とは少しずれているから。そこには全てがあって、遥か昔に僕たちは救助された。夢の中は少し窮屈なんだね、いろんなことが思うようにならない。』
「<白い舟>には、君の仲間が他にいるのか? 君たちは地球とどのような関係がある?」
『もう誰もいないよ。僕が最後だ。みんなずっと前に出発してしまった。僕たちは遥か昔に地球で生まれて救助された。幸せに暮らしながらみんなで歳をとっていった。地球に帰る時がきたんだ。乾いた土もみんな。』
「救助とは、一体誰に?」
『宇宙の理のようなものだよ。君たちの躰の中にもいるもの。僕たちを導き合わせているもの。広大な海の中で歌を遠くまで響かせるもの。』
コントラが続けて質問しようとしするのを、博士が手で制した。グラフが急速に低下し始めたのだ。少年の脳が昏睡状態に入ろうとしている。
『地球へ行かなければいけないんだ。みんなも向かっている…』
「バート、地球では何が起きる?」
博士の質問にバートは答えたようだったがスピーカーから発せられる声は小さくなり、微かに雑音が聞こえるばかりになった。脳の信号も弱く乱れたものとなり変換不能だ。博士はアンシアに合図をし投薬を停止した。アンシアは少年の額から装置を外し、投薬のチューブを抜いてカプセルを閉じる。
「先生、どうするべきでしょうか?」
対話実験はうまくいったが、大した情報は得られなかった。バートの話はあくまで夢の中のものなのだ。事実を話しているとは限らない。
イェンリュ博士は腕を組み、難しい表情をしてキューブの周囲を歩き回っている。
「先生、どうかしましたか?」
コントラの声は博士の耳に入っていないようだ。何か重要なことに気付いたに違いない。コントラは博士が話してくれるまで待つことにした。琥珀珈琲を淹れ、テーブルの上の薬品を片付ける。
「ああ、そうだ。きっとそうに違いない。」
博士が独り言を呟いている。歩き回るのをやめてゆっくり腕を下ろした。天井を見上げて、顔を両手で覆う。
「大変だ…」
一人でおかしな動きをする博士にコントラは痺れを切らした。「先生、大丈夫ですか?」
振り返った博士の顔には今まで見たことのない困惑の色が浮かんでいる。瞬きをして、一呼吸置いて口を開いた。
「私たちは選択を迫られている。」
ヒュージェから「E-819の空間跳躍パターンとクジラの生態データとの照合解析」の指令を受けた分析室は、すでに猫の手も借りたいほど忙しい状況であることを理由に解析を保留にした。太陽系外から飛んできた彗星と、遥か昔に滅んだ地球の生き物にどんな関係があるというのだろう。ひどい冗談にしか聞こえない。
E-819の空間跳躍には必ず法則性があるはずだ。まるで生き物のように気まぐれに動いているように見えても、所詮は氷と塵の塊なのだ。
E-819はエネルギーを撒き散らしながらもうすぐ土星を通過する。このまま待っていれば向こうから木星へやってくるのだ。そうなれば接近調査も難しくない。相手はヒトの動きを感知して逃げることなどできやしないのだから。
それが分析室の考えだった。
なかなか動こうとしない分析室に苛立ちヒュージェが再度指令を出したため、分析室から誰か担当を決めなければいけなくなった。若い職員エンシャが担当を申し出たので、他の職員はほっと胸を撫で下ろす。エンシャはシステムの使い方すらまだ習得し終えていない見習いだが、本人がやりたいと言うのだからやらせればいい。
エンシャは早速作業に取り掛かった。分析室のシステムなど使わなくても、自前のコンピュータで十分だ。E-819のこれまでデータをコンピュータに流し込みながら、別の端末で太陽系全体のデータサーバにアクセスしクジラの生態データを収集する。遥か昔の生物の情報などほとんど残っていないだろう。
しかし、エンシャには当てがあった。
イェンリュ博士とコントラは向かい合ったまましばらくどちらも口を開かなかった。
キューブから、機材を携えてアンシアが出てくる。
「博士、全て終わりました。」
「ああ、ありがとう。」
アンシアが立ち去り、再び静かになった。博士が唐突に「君は生物と歴史を一緒に管理しているその理由を知っているね。」と尋ねた。
「はい。ヒトが進む未来によっては過去を書き換える必要があります。」コントラは真剣な表情で答える。
博士は頷いた。
「では、私たちの祖先が他の生物を滅ぼしたことも知っているね。」
「ええ。…人間が海に飲まれることを恐れて海そのものを消してしまったことも知っています。」
ヒトロニア政権下ではこれらの歴史は隠されている。人間から進化したヒトの存在を正しいものとするためだ。イェンリュ博士は歴史の改竄に疑問を呈し、生物歴史管理局局長の座を辞した。コントラには博士の気持ちがよくわかるのだが、しかし歴史の改竄が間違っていることだと明確に意思表示をするほどの確証がまだ自分の中にはない。その当時に何が起きて、人々がどのような状況だったのかを知らないからだ。きっとその時代に生きたものでないとわからないことがあるのだ。
博士は自分の手のひらを見た。
「君はどう思った?」
「何をです?」
「バートの歌を聴いただろう。その時、水に触れたはずだ。」
コントラは、ああ、と小さく呟いた。思い出そうとしなくても目を閉じれば自然に胸の中に湧き上がる。
「少し怖かったです。…それと同時に、とても懐かしかった。感じたことのない静かな、冷たく穏やかなエネルギーが体中に沁みていくような気がしました。」
博士はキューブに歩み寄り、カプセルの中のバートの顔を見つめた。
「彼は、最後の善良な人々が残した希望なのかもしれない。」
「それはどういうことですか…?」
「水の歌は、私たちの躰を純生物へと還すものだ。」
コントラは一瞬顔を顰めた。
「それはどういう意味ですか?」
「遺伝子や細胞を変化させる力があるということだよ。そして純生物の細胞を活性化させるものでもある。生命力を高めるというのかな。例えばあの花だ。種は何年も発芽しなかったのに、彼がやって来た翌日に芽吹き、三日後に花を咲かせ、次々に増えて今ではあのようになった。」
イェンリュ博士が指し示したキューブの中では、見事な赤い花がいくつも咲いている。
「私の躰にも、少しずつだが変化が起きている。皮膚の一部が妙に柔らかくなってきていてね。そこは水に浸していると少しふやけるのだけど、溶けることはないみたいだ。」
コントラは腕を組み手を顎に当て思案する。そして、キューブの中の少年を指で示した。
「彼に近寄らなければ変化は起きないのですよね。それなら、彼を地球へ連れていくことは何も問題がないように思えます。むしろ純生物の研究と、生命の起源の解明に役立つのではないでしょうか。」
この爽やかな青年は考え方もまっすぐだ。博士は微笑み、コントラの肩を叩いた。そして再び表情を曇らせ、「私たちは選択を迫られている。」と先ほどと同じ言葉を言った。
「それはつまり、僕たちみんなが純生物に回帰するか、このままでいるかということですか。」
博士は頷いた。
「または、地球の生命を蘇らせるか、永久に失わせるかの選択でもある。」
「そんな、大袈裟ですよ。今だって彼の歌を聴いているのはここに住んでいる先生だけです。地球で純生物を増やすことになんの問題があるのですか? 今の僕たちの技術ならどんな想定外のことが起きても対処できます。僕は彼を地球に連れて行き、その力を確かめたい。」
「バートはみんな出発したと言っていただろう。」
コントラははっと目を開けた。
「彼一人ではないということですね。」
「ああ。きっと、彼と同じようにどこかで眠っている。」
コントラは腕を組みしばらく考え込み、「けれどやはり地球へ連れて行きましょう。」と言った。
「他の仲間がどこにいるのかわかりません。もし他に大勢の仲間がいるなら、彼一人を私たちが確保していても結果は変わらないです。それよりも、何が起きるのか正確に知っておかなければいけません。」
博士も腕組みをして長いこと思案していたが、しばらくすると何度か頷いて大きく息を吸って吐いた。
「そうだな、君の言うとおりだ。心配していても仕方がない。連れて行こうじゃないか。」
コントラは早速、生物研究のための地球滞在許可を申請した。何もない地球へ行くのは今や研究者くらいだ。許可はすぐにおり、生物歴史管理局が所有する宇宙船で出発することになった。
博士は研究所のドアに「研究旅行中」の札を下げた。
エアローバーでバートのカプセルを運び、宇宙船に積み込む。
「では留守を頼むよ。」
エアポートで見送るアンシアに博士が手を振る。
「いってらっしゃいませ。」アンシアも手を降った。明るい場所で見ると、ヒトもユーフォラも見分けがつかない。きっと、純生物の人間もそうなのだろうなとコントラは思った。
コントラとイェンリュ博士は、宇宙船の中ではバートと同じように眠る。半年後に目覚めた時には地球に着いているだろう。
イェンリュ純生物研究所にエンシャからの通信が入ったのは、コントラとイェンリュ博士が地球へ向けて、宇宙船で出発してからふた月ほど経ったころだった。
「いない!?」
研究所の助手をしているユーフォラに博士の不在を知らされたエンシャは、通信機越しにユーフォラが驚愕の表情をするくらいに大きな声を出し、頭を抱えた。
子供の頃にイェンリュ博士の本で古代生物について学んだ。そこにはクジラの生態についての項目もあった。博士なら独自で調査した海洋生物データも所持してるはずだ。
当てにしていた博士があと四ヶ月は連絡不能だと知り、エンシャは悩んだ。
通信を切り、椅子の背を後ろに倒しながら「さあどうするかな、」と呟いた。
ため息をついて勢いよく起き上がる。
「しかたない、やるしかないか。」
エンシャは空中に表示されているいくつもの映像ディスプレイを手で避けていった。一番奥に、黒いディスプレイがある。その中にはたくさんの違法プログラムが入っている。その中には、他人のコンピュータに入り込み、データを盗めるものもある。
エンシャはプログラムを起動して、部屋中に表示された無数のボックスの中からいくつかを選び出す。複雑な操作をしてイェンリュ純生物研究所のコンピュータにアクセスした。
それから二日後、エンシャは真っ青な顔で自宅を飛び出した。
大変だ、すぐに知らせなければ。誰に? 分析室室長? いや違う、もっと上の人じゃないとダメだ。
エンシャはエアローバーに飛び乗り、太陽系管理局のあるヴァルハラ中央塔へ急いだ。
リュッセラからの連絡を受けたロートマーが、太陽系管理局の局長室へ勢いよく入室した。リュッセラが立ち上がり、側の若い分析官を紹介する。
ロートマーは怯えたような表情のエンシャにソファにかけるように言い、自分もその向かいのソファに座った。隣にリュッセラが腰を下ろす。
「エンシャ、つまり君の話しではあと数ヶ月後に私たちみんなの躰が、遥か昔に絶滅した純生物の人間の躰になるということだね。」
エンシャは頷き、唇を微かに震わせながら説明する。
「博士達は、その人間から発せられる遺伝子共鳴信号を水の歌と言っていました。一人の人間から出る信号は力も弱く、範囲も狭いんです。けれど…」
「仲間がいるんだね。」ロートマーが言った。「おそらく、すでに地球に。」
エンシャは再び頷く。
「しかし地球に何人いても、地球の外側に影響が出るものだろうか。」ロートマーが独り言のように言った。
エンシャは顔を上げて、「クジラです。」と呟く。
「クジラ?」ロートマーが眉を顰め、ゆっくりと表情が驚愕のもに変わっていく。「E-819のことか。」
「はい。自分はE-819の空間跳躍と古代生物クジラの生態データの照合を担当しました。」
「なるほど、君が担当してくれたんだね。」数ヶ月前とはいえロートマー自身が提案したものだ。忘れるはずがない。
「E-819の空間跳躍パターンは、古代の海洋生物マッコウクジラに類似していました。彼らには深海に潜る習性があるのですが、深海に滞在する時間と跳躍する空間の距離の比率がほぼ同じです。彼らにはもう一つ、大きな特徴があります。」
ロートマーは頷き、先を促した。
「自分は水をよく知りません。海の生物についてもあまり知りませんでした。水は空気よりもずっと遠くまで音を伝えられるのです。マッコウクジラは強力な音波を発生させる能力を持った生物で、彼らは海の中で歌い、数千キロ先まで伝えます。…時には音波で敵を倒すこともあるそうです。」
ロートマーもリュッセラも沈黙している。
「E-819が放出しているエネルギーを自分なりに分析してみました。このエネルギーは長期間宇宙空間に滞留し広がっていきます。真空の中で特定の信号を遠くまで運ぶことができるようです。まるで海の水のように。」
「地球にいる人間たちの水の歌が、E-819のエネルギーによって遠くまで伝わるということか。」
ロートマーの言葉にエンシャは頷いた。
「E-819は今は一つですが、もしかしたら他にも…」
エンシャの言葉をロートマーが手で制した。
「憶測の話は結構だ。さて、君はこの情報を違法な手段で入手したと聞いている。真偽はこちらで調査をするが、君はリュッセラのもとで適切な処分を受けるように。」
ロートマーは立ち上がり颯爽と退室する。
リュッセラは、今にも泣き崩れそうな表情で固まっているエンシャの肩に手を置いた。
「そんなに怖がらなくていい。これが事実だとすれば君はヒトを危機から救ったことになる。恩赦を得ることができるだろう。」
「はい、ありがとうございます…でも、」エンシャの肩は震えている。
「もし僕たちが純生物になってしまったら、酸素も水も温度も、食べるものもないから全滅するしかありません。さっきも言おうとおもってたのですが、多分、E-819と同じようなエネルギー体は他にもあるんです。だから、水の歌はきっと一瞬で太陽系全域に広がってしまう。」
「どうしてそう思うんだ?」
リュッセラが穏やかな声で尋ねた。
「夜空に星の数が増えたからです。」
耳元でアラーム音が鳴っている。地球へ向かう宇宙船内の睡眠カプセルの中でコントラは目を醒ました。ぼんやりとした頭が正常に動くようになるまでしばらくかかる。なぜだか周囲が騒がしい気がしたが、寝ぼけているのだろうと思った。
カプセルの蓋が強制的に開けられた。
唐突に光が差し込み目が眩んだ。目の前にヒトがいるようだ。
「起きてください。」
くぐもった声が聞こえた。ゆっくり目を開けると、宇宙防護スーツを着たヒトが二人、コントラの顔を覗き込んでいる。
「これを着てください。」
まだ上半身を起き上がらせただけなのに、宇宙防護スーツを手渡される。まだ頭はぼんやりしている。コントラは鈍い動作でスーツに躰を収めた。
「どうかしたんですか?」間抜けな声で尋ねつつ、これは夢だろうかと心の中で考える。
「あなた方は地球へはいけません。すぐに火星へ帰還していただきます。」
「何?」
ぼんやりしていた頭の中がはっきりしてくると同時に、自分が今どこにいて何のために地球へ向かっているのかを思い出した。
「おかしなことを言わないでくれ。君たちはどこの所属だ? 僕たちは研究者で…」
コントラは言葉を切った。あまり広くない宇宙船内に、侵入者が三人いる。その一人がイェンリュ博士の両腕に拘束バンドを嵌めたのだ。
「何をしているんだ!」
かっとなったコントラは目の前の二人を押しのけて博士を拘束した人物に飛び掛かった。
「コントラやめるんだ。彼らは武装している。」
博士が叫び、コントラは動きを止めた。二人はコントラに向けてレーザー銃を構えている。
「先生…」コントラは助けを求めて博士を見た。博士は険しい顔で首を横に振り、コントラに落ち着くように合図をする。
「我々は軍事兵器管理局特殊警備部隊スタールです。あなた方二人を拘束し、連行します。」コントラの体の下から這い出した一人が立ち上がって言った。
「そんな、一体なぜだ!」
コントラの問いに誰も答えようとしない。
コントラにも拘束バンドを嵌めようと、スタールの一人が動いたがコントラはそれを避けて狭い宇宙船内を逃げ回りはじめた。重力制御システムを解除し、全員の体が浮き上がった隙にコントラは博士の腕を掴んで隣のモジュールに逃げ込もうとしたが、扉が閉じ切る前に阻まれ、追われる。
「これ以上抵抗するのであれば怪我をしますよ。」スタールのリーダーが怒鳴った。
「僕には拘束される理由がない。」コントラも怒鳴り返した。
しばらく逃げ回ったがついに捕まってしまった。スタールの二人に両脇を抱えられ、引き摺られ格納庫に連れて来られる。スタールたちは格納庫のドアをあけ、コントラを中に乱暴に押しやった。
「理由はこれです。」
スタールのリーダーが格納庫の中に収められていた覆い布を取り払った。バートが眠るカプセルが露わになる。
「あなた方は眠っていたから知らないかもしれません。これは、ヒトを絶滅させる力を持った凶悪な生き物なのです。」スタールのリーダーはレーザー銃をカプセルに向ける。
「違う!」
コントラはカプセルとレーザー銃の間に立った。
「君たちは間違っている。人間が全ての生物を滅ぼしたんだ。この少年は生物を蘇らせようとしているだけだ。」
「とにかく、このカプセルの中の生物はこの場で処分します。君たちはすぐに…」
突然、宇宙船が大きく揺れた。
「一体何が?」スタールのリーダーが辺りを見回す。
「隊長、彗星が接近しています。」
「彗星? あのクジラか?」
クジラ? クジラとは何ことだ? コントラはスタールの話の内容が気になったが、それよりも宇宙船からカプセルとともに脱出することに決めた。
格納庫の奥の扉は緊急避難用の小型ポッドだ。バートのカプセルとコントラの二人ならぎりぎりで入る。コントラはスタールのリーダーに体当たりで格納庫の外へ突き飛ばした。扉を閉めてロックし時間を稼ぐ。
奥の扉を開けて、カプセルを避難用ポッドに押し込んだ。コントラも乗り込み、ポッドのハッチを閉じようとしたときに格納庫の扉が開いてスタールの三人が駆け寄ってきた。レーザー銃を向けられ、コントラは目を閉じる。
レーザー銃は確かに発射されたようだったが、コントラには当たらなかった。ポッドのハッチが閉じ、エアロックが開いてポッドが宇宙空間へと降りていき、宇宙船内には空気の嵐が発生する。コントラはポッドから宇宙船の中を見た。エアロックが閉じる直前、スタールの一人の腕の中でぐったりと力なく体を横たえているイェンリュ博士の姿が見えた。
「先生!」
ポッドの中で腕を伸ばしたがエアロックは閉じ、見る間に宇宙船は遠ざかっていく。
宇宙船が離れていく様子を呆然と眺め続けてたコントラの目の前に、眩く光る彗星が現れた。
コントラは息を呑んだ。
それが巨大な生き物の核であることがすぐにわかったのだ。
宇宙空間に巨体をなびかせて、泳ぎながらやってくる。
『大丈夫、こわがらないで。彼は僕たちを運んでくれます。』
コントラの頭の中に声が響いた。
しかし、今度は驚かなかった。
宇宙船の中で眠っている間、コントラはずっと夢の中でバートと話をしていた。
海を眺め、波に揺られ、鯨が海面から飛び上がる景色の中で何年も暮らしたのだ。
水の歌はコントラの細胞の奥深くまで沁み込み、きっと躰は随分変化しているのだろうと思った。そういえばさっきからずっと寒くて、息が苦しくて、喉が乾いている。
『コントラもこっちへ入って。』
バートが、コントラをカプセルの中に入るように言った。コントラは頷き、狭いポッドの中で着ていたものを全て脱ぎ、カプセルを開けてバートに体を寄せて横になる。
あたたかいジェルに躰を沈ませるのはとても心地がよかった。
クジラは二人を乗せたポッドを光の中に呑み込み、深海に潜っていく。
今度こそ地球に到着するだろう。
了
光るクジラは水の歌を歌う 雨柳ヰヲ @io_uliu
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