最終話 高く輝く私たち
爆炎と探照灯の光に照らされた夜に彼の戦う姿が目に映った。
高射砲から噴き出す光線のような弾が空にびっしりと飛んでいて、雷のごとく地平線を閃かせている。爆弾が雨のように降り落ちた。塹壕が激しく揺れて土は彼の体を覆っていく。
周りの兵士と比べて彼の姿は小さく、弱々しく見えたが、爆発で地面が揺れ崩れそうとも、彼の目にはもう恐怖が存在しない。
目を覚ますと、同じ暗い部屋だ。
結局、そんなに変わっていないかもしれない。
同じく一人で起きて、何もない天井を見つめている。
ベッドから起き上がり、部屋の窓に近づく。
大通に位置するアパートに住んでいるレアは、深夜でもネオンの光に包まれる町並みを眺めることができる。
ブリュッセルは今日も穏やかに一日を過ごしていた。
すっかり日常に戻った町は人々がようやく訪れた平穏な暮らしを喜んでいる。
同盟軍の進駐によって娯楽産業には再び活気が舞い戻って、ナイトクラブ、ディスコ、バーはいつも兵士にあふれて、アパートの前の大通りから折々騒ぎが伝わってきて同盟軍の兵士が酔っぱらって歌を歌っている姿が見えていた。
三月のベルギーには冬の余寒が残っていても、人々はそれを怯えずに深夜でしか味わえない遊興にふけている。
兵士たちの姿を見てハンスのことを考え始めた。彼は今生きているのか。
最後に顔に見せた平穏さ。それはなにを意味するのか考えていた。
月光が窓から部屋に注ぎ込み、淀んだ空気のせいで現実の空間が儚く見え始めた。
なぜだ。なぜそんな人あふれた町にいても寂しく感じるのだろう。
花火が町の空に登り始めている。
ブリュッセルは解放されてからちょうど半年。
町中の人々が踊ったり、歌ったりしながら、アメリカとベルギーの旗を高く振りかざして、興奮の混じった笑顔を浮かべている。
まるで戦争がもう終わっているみたいだ。
窓に向かって涙を落とし始めた。
雪に覆われていた森。月光に照らされた青い湖。打ち上げ花火。
湖の向こうに立つ彼はどんな表情で花火を見ていたんだろう。
気力を失うように右手が窓の額縁にすがるまま、下に向いて座り込んだ。
嗚咽が出て、せきあえぬ涙を振り払おうとも振り払いきれなくなる。
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「レア」
ぼっとしている黒髪の少女に酒場のオーナーが声をかけ、心配そうな顔を向けた。
「大丈夫か」
賑やかな酒場でグラスがぶつかる音が飛び交い、人々の談笑する声が響いている。
カウンターの後ろで酒場の喧騒をレアがじっと見つめていた。
しかし目の焦点はどこにも定まっていなく、まるで存在していないなにかを見ている姿。
店主の声を聞き、我にかえったレアは慌ただしく返事をした。
「はい!」
「元気がないみたいですね。女房が来ていたから今日は早めに切り上げでもいいですよ」
「いえ、私は大丈夫です」
作り物の薄い笑顔を浮かべて、レアは店主に和やかな声で返事をした。
「そうか。では空きグラスの回収、早めに済ませておいてね」
「はい!」
どたばたと走り出したレアの後ろ姿に中年の店主が心配そうな顔を向けた。
ブリュッセルの中心部の歴史的な街並みに位置する酒場は第一次世界大戦後に開かれた、 新古典主義建築と上質な内装、取り揃えた地元のビールを嗜めることで有名になって、地元の人々に愛されてきた名店だ。ブリュッセル解放後にも米軍の兵士が地元の女性を連れて頻繁に出入りしている。
簡素なライトブルーのドレスと茶色のエプロン。各テーブルを走り回って、空きグラスを回収し続ける黒髪の少女に不本意ながらも注目が集まる。
市役所の役人と米軍の士官がある日、突然店主の元にやってきて、少女にここで働いてもらうよう頼んだが、少女の来歴について一切知らされていなかった。しかも給料はいらないという怪しい条件がついて、最初は断ろうと思ったが、米軍の頼みとあって断れない雰囲気を感じた。普通に見える少女は最初の時強い人見知りの雰囲気を感じたので、カウンターでの軽いお手伝いをしてもらっていたが、時間が経つと段々と笑顔を出せるようになった。
「可愛いお嬢じゃん。ビールもう一本頼んでいいのかい」
「はいー」
振り向くと、小さな円卓に一人で座っているのは、満面の笑みを浮かべて、右手を挙げて小さく振るう男。
クラーク少尉だ。今はもう大尉に昇進したらしいが、最初にあった時の雰囲気がそんなに変わっていない気がする。生き残っただけで突拍子もないスピードで昇進させられるのは戦時中によくある話だ。
綺麗なカーキ色の軍服。金色のアメリカ鷹が羽を広げる模様の帽章。大尉の階級を示す二本の長方形の金属肩章。お洒落に撫で上げるライトブラウンの髪。
クラーク大尉には出世した男の雰囲気が漂っている。
久しぶりにあったクラーク大尉に対しレアの嬉しさが顔に一目瞭然だ。
ハンスが去った後、米軍が再びティルマに来て平和的に町を進駐していた。
レアが再び町を訪れた時に米軍は既に死体の除去と支援物資の配給に取り掛かり始めていた。身の回りにもう誰もいないレアは、自分の身分を証明できる人と書類が残されていないが、自分が隠れていたユダヤ人と名乗ると、直ちに補給部隊とともにブリュッセルに送られて、あるユダヤ人を守る組織に案内された。
役所に残された資料には、レア・レビンという少女は既に死んだと記されている。
それは市役所に務めたフランクがレアを護るためにしていたことだ。
少女の両親について、海外追放されたとしか記されていないうえ、ゲシュタポは撤退した際に全ての書類を処分したので、ほかに何の記録も残っていなかった。
幸いにも組織の人間はそんなことを気にしていなく、レアの言っていたことをありのままで信じていた。レアと同じ状況に置かれたユダヤ人はほかに大勢いるからだ。
「実は、ちょっと気になるもんがあって、レアに見せたいと思う」
テーブルの上に一枚の大きめの洋紙を広げて見せた。
それは、戦地の情報にまつわる新聞紙。
中にはそれぞれのドイツ語の見出しが書かれ、戦況を見せる地図と大口政治家の演説を写す写真も載せている。
「俺は今情報関連の仕事をやっているから、こういう敵のプロパガンダがよく俺の手に入ってくるのさ。これ」
指を出して、新聞紙の一角に載せた写真とその上の文字を指した。
「ケルンを死守する戦車エース、って言うのか」
「それはそうだが」
「下の写真をみろ」
戦車の前に並んで立っている戦車兵たちの写真が載せられている。
名前が違うが、間違いなく、それは。
「ハンスだ」
「そうか。やはりな。俺には確信がないが、レアが言ったらきっとそうだ」
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酒場の営業が終わると、レアは一本の電灯が付けられた酒場の一角でクラーク大尉と向かい合って座っている。ほかのテーブルは既に片付けられたので、電灯がほぼ消えた薄暗い酒場の中で二人は少し重い表情で見つめ合っている。店主と他の店員はカウンターとキッチンで最後の後片付けを進めている。
一本の瓶ビールを上げて一口入れて、クラーク大尉はレアに聞いた。
「ここでの生活はどう?大都市で色々な事が起きて寂しくはないでしょう。俺はカンサス州の田舎の出身だ。家の周りには小麦の畑しかないので、家族がいないとつまらないのよ」
何か触れてはいけないことに触れた気がして、クラーク大尉は口を噤んだ。
沈んだ表情でクラーク大尉を見つめるレアを見て、もう一口のビールを口に入れた。
「友だちは作れたのかい。ここでは知り合いが少ないかもしれないので、リエージュで住居を用意してもらおうか。でもそうすると、俺と会う機会が少なくなると思う。酒場の人ともようやく馴れたのに。。。」
憂いに包まれたレアの黒い瞳を見て、クラーク大尉は綺麗に撫で上げた髪を髪を掻いて、ため息をついた。
「勘弁してくれよ。さっきも言ったように無理だ。戦場に連れていくなんて。やはり見せるのはいいアイデアじゃなかった」
ビールの瓶を重くテーブルに落として、低いぶつかり音がした。
「確かに似ているが、本人であることの確証もないでしょう。ここは待つべきだ。戦争はじきに終わる」
軍人としてよく聞かされた慰めの言葉が自分の口から出てきて、クラーク大尉は少し気後れになった。戦争が終わるかどうか、誰も知らないし保証もない。
最後に出会った際のことをレアが思い出した。その達観した表情と和やかな態度。
まるで自分の死を予感して、そして受け入れたかのようだ。
薄い霧の中に消えていくハンスの姿は、死地に赴くつもりに違いない。
「伝えたいことがある。どうしても伝えなければならないことがある。このままなにもしないときっと一生後悔する」
レアは拳を強く握り、深く俯いた。息が抜けるような声。喉がつまり、レアは自分の感情が人前で爆発しないよう体の力で抑えている。
深い息を口から出すと、クラーク大尉は顔を上げて、何か考えているように暫く黙り込んだ。一分ぐらいの沈黙が流れると、クラーク大尉は両手をテーブルに載せて顔を前にだして、レアとの距離を縮めた。
「メッセージを伝えるだけなら、方法がないわけではないが。実はケルンでは戦況が膠着状態になっているため、軍が町に攻め入ることを諦めたそうだ。司令部はもう他の渡河点を見つけたらしい。だからケルン市内に向けて砲撃と勧降放送だけを行っている」
体をふたたび後ろに引いて、背を椅子にもたれた。
「私の権限では、正式なルートで録音してもらって君の声を出すのはたぶん無理だと思うが、審査が入るので。だが、現地で非正式的な放送をこっそりとやれば行けそうかもな。しかしよ」
胸に詰まった息を一気に放り出したような感じで、大尉は頭を垂れて目を閉じてから、レアを見上げた。真摯な視線を送って優しく慰めた。
「まず家に帰って落ち着いてから決めても遅くはないじゃないか。遊びではないだぞ」
言い終えると、懐から手帳を出して、一枚のページを割ってその上になにかを書いていた。そして書き終えたページをレアに差し出した。
「決めたら、この番号に電話をかけてください」
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アパートに戻るころは既に深夜 11 時に近い時間帯。
大通りに面した四階建ての建物の階段をレアが静かに登りはじめた。
黄色い光に照らされた薄暗い階段を登り、古い木製の階段を踏んだ時の軋む音にレアはずっと嫌な感じがして、ひねくれたなにか怪異なものが床の下に潜んでいるように思えた。
その気持ちを抱えたまま二階の玄関口を通ると、突然二階の扉が開き、レアはびくっと驚いた。
扉から姿を現したのは、黒髪の若い青年。
学生気分が抜けない雰囲気の青年は陽気な笑顔をレアに向けた。
「何回も階段で会ったでしょう。ずっと俯いてて目を合わせてくれないので、覚えていないかな。お名前を聞いていい」
「レア。。。と申します」
「俺はアンドレだ。一人でこのアパートで暮らしているの」
「うん」
「俺も来たばかりさ。ここの大学に四月から入学するんだけど、知り合いがいなくてつまらないよ。明日の午後、暇だったらコーヒーを飲みに行かない?」
「あっ。えっ。うん」
「じゃ決まりだな。三階に住んでいるんだっけ。明日の午後、迎えに来るから。家でまっててね。おやすみなさい」
言い終えると、アンドレはまた素早く扉を閉めた。
アンドレの赤くなった頬に喜びを感じていた。
一方的に言い渡された約束にレアはどんな表情をすべきか分からなくて、目を瞬いて暫く立ち尽くしたが、頭を傾けて階段上りを続けた。
三階のアパートの扉に向かい立ち、レアは目を落として何か思案している。
気がやや落ち込んだまま、三階のアパートの扉を開き、暗い廊下に入った。
アパートでは妙齢の大家さんと娘が暮らしていて、その中の一部屋をレアに賃貸した。
ブラウンの髪の大家さん、マリーは三十歳前半の、いつも身だしなみがよくてお洒落な雰囲気を持つ女性。娘のジョゼットは五歳で、母親と同じブラウンの髪を持ち、レアをいつも子供特有の疑り深い視線で見て、そして走り逃げた。それを受けたレアは気にしないふりをみせたが、落ち込んだ気持ちがないわけではない。
深夜に近い時間帯に戻ったレアは、大家さんの休みを邪魔しないよう、軽い足取りでこっそりと自分の部屋に近づいた。
このアパートに住み着いて以来、大家さんとあまり交流を取っていない。起きているのと行動している時間帯が違うので、キッチンでも滅多に会うことがなく、会っても短い会釈をするだけだった。それは偶然というより、レアは自分が意図的に大家さんを避けていると自覚していた。キッチンでは今電灯が灯っていて、ガラスがついた扉から黄色い光が見えた。
自分の部屋にそろそろたどり着くころ、大家さんがキッチンから出した声にレアは驚かされびくっとした。
「お帰りなさい」
キッチンの扉をゆっくりと開けて、マリーが穏やかにレアに話した。
「うん。いい夜を」
短い挨拶をし、レアは自分の部屋に鍵を挿して、無表情のままに部屋に入ろうとした。
「顔色が悪いね。ちゃんと食べたかい」
「まだないんですけど、大丈夫です」
「スープならまたあるよ。若い女の子をお腹が空いたまま眠らせるのは忍びないの」
やや強気の構えを見せられたレアは、照れた笑顔を作って、おずおずとキッチンに入った。
キッチンに入ると、ジョゼットはいつも通り、どたどたとどこかに走ってレアを避けようとした。
食卓の前に座っているレアにマリーが肉スープを差し出した。
ミートボールとポテトが入った簡単な食材で作ったスープだ。
そしてマリーはゆっくりとレアと向き合って腰を下ろした。
母さんが自分の娘の食い姿を眺めているような優しくも強気な姿勢を取って、レアに話しかけた。
「今日は帰りが遅いね。何かあった?」
「あの。知り合いと会いまして、話が長くなりましたので。」
ふたたび作った笑顔を見せて、レアは返事を渋った。
レアの態度にマリーは表情を少し緩めて鼻息をつくと、真剣な表情に変わって真っ直ぐな声で聞いた。
「部屋の中からなんか泣き声が聞こえた気がするよ。気のせいかもしれないが」
難しい顔を俯いて、気まずそうにレアが黙った。
匙を動かしていた手を止めて、スープの中に映る自分の投影を見つめている。
「困っていることがあれば、私に聞かせてくれないか」
「いや、私は大丈夫です」
それを聞いたマリーは突然顔に僅かな悲しさが滲みだした。
目を落として、失神した茶色の目には深い思いが感じられた。
「私の夫も、部隊に行く前に必ず大丈夫って言うのよ」
ここに存在していない誰かに述べるような口調で淡々と口にして、マリーが壁に付けた電灯の光を見つめて、話を続けた。
「毎回毎回、大丈夫と言って、結局戻らなかったな。もっと言いたいことがあるのに、そのまま逝ってしまった」
今のマリーの姿を見ると、レアは少し警戒心を解いたようで、表情を緩めてマリーを見上げて聞いてみた。
「もしまだ会えるのなら、何を言いたいの」
冷笑を頬に浮かべて、マリーはレアを見返してガツンと言い放った。
「大馬鹿野郎おおって叫ぶかな。若い娘を残して一人で死ぬなんて。戦争なんかほかのやつに任せればいいのだ」
それを聞いたレアは薄くても本心から笑みを頬に浮かべた。
自分の部屋に戻ったレアは、書机の前に座って机上を真剣に眺めている。
ハンスとの日々を紙に文字として残したいと思って、書き始めた文章が机の上に散乱している。書き直しが重なった痕跡が文章の中に散見され、一段落がそのまま削除された箇所もあった。
その日々で体験したこと、どう表現するか、どう考えるべきか、正しいのか、間違えたのか、いくら考えても結論が出ないからだ。
横顔を机に当て、レアの長い黒髪が机の上で広がり、波のような模様をなしている。
まだ踏み出せなかった。また一人にされた。
前に進めない自分が嫌。勇気のない自分が嫌。優柔不断の自分が嫌。
顔を回し額を机に当て、目を閉じながら自分の額を机に軽く叩いた。
時間が経てばきっと大丈夫だ。この雑乱な気持ちが収まり、新しい出会いがあって、生活も軌道に戻る。
胸痛を感じて、レアはまた何回も額を叩いた。
「お父さん、お母さん、どうしよ」
シャレーにいた時の黒い感覚がまた襲いかかり、呼吸が難しくなり息が詰まる。
どんどんどん
扉が叩かれた音がした。
大きく息を吸って、レアは立ち上がり扉に向かった。
扉を開けると、ジョゼットの見上げる姿が見えた。
レアの目と合わせると、直ぐに目をそらして、両手を後ろに組んで体をてれてれと回し始めた。
「どうした。黒髪の姉ちゃんと話したいでしょう」
ジョゼットの後ろにマリーが立って、屈めて促すように話しかけた。
ジョゼットの不器用なしぐさにレアは薄い笑顔を浮かべて、雰囲気を和らげた。
唇を噛んで、おずおずとジョゼットはレアの目を会わせ始め、そして緩やかに言葉を並べはじめた。それは稚拙さを含んだ幼い声。
「プレゼント。あげる」
ジョゼットは手の中に隠したものを差し出した。
それはピンク色の生地で白い小花の模様をもつスカーフだ。
「黒髪のお姉ちゃんのことをずっと聞いていたよ。この子は人見知りだから、自ら話しかけることはできないのさ。はいどうぞ、話したいことがあるでしょう」
マリーがジョゼットの背中を触って、優しく促した。
緊張で唇を不自然に上下させ震わせながら、ジョゼットは口を開いた。
「青いのは綺麗。ピンクのも、綺麗よ。お姉ちゃんがとっても綺麗だから、ピンクのを使って」
ずっと心の中に抑え込んでいた感情の奔流が一気にこぼれたように、レアは涙を湛えていた。
ありがとうといって、レアは緩やかにジョゼットの頭を懐に入れて、優しく抱いた。
決して一人ではないのだ。なぜ、いつもそんなことを忘れるのだろう。
いつだって支えてくれる人がいる。
この世界は決して黒くて、寂しさに満ちているのではない。
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翌朝、アメリカ陸軍情報部ブリュッセル支部。
電話と電文の甲高い機械音が飛び交う広いオフィスの中で、クラーク大尉はコーヒーを啜る音を出しながら、焦る顔で受話器に話しかける兵士たちを見渡している。
オフィスの中央にあるテーブルの上に大きな地図が載せられ、情報を受け取った二人の兵士が瞬時に敵味方を示す駒を動かし、情報を地図の上に反映する。
前線に立っていないにせよ、ここで飛び交う情報は前線で戦っている兵士にとって武器弾薬を上回る重要性をもつともいえる。
情報を制するものが戦いを制する。昔軍学校で学んだ東洋の軍事思想家の諺だ。
敵防御陣地の正しい情報を持っていれば、攻める時の損失を数倍減らすことができる。
特にドイツ国内への侵攻が本格的になってからは情報の量が数倍になってきた。今のドイツでは正規軍だけでなく、国民突撃隊 (Volkssturm) という武装された民間人によって形成された部隊が増えてきて、戦線後方の守りも固めないといけない状況に陥っている。
そんな忙しい状況の中で、クラーク大尉の仕事は意外と単純だった。
内容の怪しい情報が入ってきたら、その内容を検証することだ。
アルデンヌで SS の特殊部隊に摑まえて生き残ったことは軍の中で伝説程度の話として残されているため、新入してきた兵士からは常に憧れの目線を受けている。
俺はただ拷問で喋っただけだから。
と大尉の昇進をされた時にも自分の心の中で唸った。
上官に伝えたとしても、あまり気にされなかったようだ。
悪い噂が広がり、自分の身にも影響を及ぼすことを心配していたか、それともただの人手不足か、この件は秘密のままに消えていった。もう前線に出されないのは、上官のこんなことが二度と起こらないための配慮かもしれない。
ため息をついて、クラーク大尉が自分の机に戻ろうとした時、机上の電話が響いた。
「大尉、外線からお電話が入っています」
と若い秘書官が電話越しに言って、「回してくれ」とクラーク大尉は即座に返事をした。
まるで誰がかけてきたか既に分かったように。
「どんなに小さい可能性でも私は掴めたい。お願いします」
電話の向こうから少女の声が聞こえた。
はっきりとしている歯切れに少女の揺るぎない意志を感じて、深い吐息をして、クラーク大尉は電話の向こうに返事をした。
「ご恩一生忘れない、と言ったのか。俺」
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翌日。レアはクラーク大尉と一緒にジープに乗り、リエージュに向かって出発した。
ケルンの前線で怪しい情報が入ってきて現地視察が必要だと、でたらめのストーリーを作って、クラーク大尉は上官にそう伝え一時的にブリュッセルを離れる許可をもらった。
もちろんレアのことは話してはいない。
リエージュまで車でやく二時間かかった。
満身創痍の故郷のリエージュ。
今でもドイツのロケットが時折落ちて人を殺している。
レアは両親が持っていた町の中心部にあるホテルを訪れた。
応急用の病院に改造され、襲撃で怪我をした病人と前線で応急処置を受け治療の続きのため回されてきた兵士が収容されている。
戦争は終わっていない。ただ、自分のいるところに届いていないだけだった。
モンタニュビューラン (Montagne de Bueren)の長い階段を登り、リエージュの高所にある要塞跡にたどり着いた。階段の両側に並んで建てられたレンガ造りの建物は昔のまま、色鮮やかな姿を見せている。昔レアは大好きだった散歩路線だ。
夏の午後の光に汗をかいて、登り切った先の展望台でリエージュの町と町を横切るマース川を三人で眺めた。
当時は三人だった。
雲に覆われている今のリエージュの空。
下はところどころ破壊の跡が残る町。
レアの顔は沈んだ。
後ろに据える石造りの要塞もドイツ軍の占領下で刑務所として使われていた。
何もかも変わってしまった。
マース川を跨る石橋を走って、対岸に向かってドイツへの旅を続けた。
一時間の短い車旅を経て、ドイツの国境線を越えアーヘンに入った。
ここで二人は駐屯している米軍部隊と話をつけ、ケルンへの補給車列に入ってもらって共に移動する運びとなった。
既に廃墟へと化したアーヘン。連合軍の手に落ちた最初の町におけるドイツ軍の激しい抵抗が米軍の兵士の頭にトラウマを植え付けていた。子供と老人が前線で機関銃とパンツァーファウストを持って死ぬ気で戦う姿はドイツの今の狂気を感じさせていた。
ドイツに入ってからクラーク大尉にまつわる緊張感が一気に高まったとレアは感じた。
戦車に護衛されているとはいえ、後方で神出鬼没のゲリラ戦を続けている国民突撃隊に遭遇したら無事に身を退ける保証はない。
破壊された農舎。廃棄された戦車とトラック。空に飛び交う爆撃機隊。
自分の向かう先の逆方向に歩いているドイツ兵捕虜の長い隊列。
ティルマの町で戦場を踏んだつもりだったレアは今、本物の戦場の桁違いな規模を覚えた。
三月上旬のラインラントは冬の寒さが今も消えきれず、コートに包まれたレアは少し寒さを感じたように首をコートに沈んだ。
枯れた森と灰色の草原を通り過ぎ、大地の低い鳴りが薄々と感じられており、死の匂いも濃くなっていく。
ケルンに近づくにつれ、重砲の発砲音が徐々に大きくなった。
メイン道路の外れの火砲陣地が立て続けにケルン市内に砲弾の雨を降らせている。
一列に並んだ 155 mm 榴弾砲が激しい発砲炎を上げ、反動の力が地面を振動させている。
ケルンの近郊にある師団司令部でクラーク大尉が参謀士官に話をしていた際、参謀士官が見せた表情はレアがはっきりと頭の中に焼きついた。首を回して、最初にレアに向けたのは信じられない表情、最後は眉をひそめる機嫌の悪い表情。
近郊の工場ビルを改造し、武器、弾薬をたくさん積んだ師団司令部を出た二人は、後ろめたい気持ちが顔に見え見えだった。
「俺、すっかり馬鹿者にされていたぞ。後方で暇すぎて戦場が遊び場だと思っているのかってよ。成功すれば敵の戦車エース一人減らせることができて、どう転んでも記録には残らないからって、やっと納得させたようだが」
ため息をついて、「この件、上に知られたら俺はもう昇進することはないだろう」
と言って、苦笑混じりにレアに向け肩をすくめた。
ジープの前でヘルメットをかぶって野戦服に着替えたクラーク大尉に、レアは気後れの気持ちを隠せず、おずおずと礼を述べた。
「ありがとうございました」
「いいやいいや。これ以上の昇進なんか、俺みたいな情けない人間にはそもそも荷が重すぎるのだ。不名誉除隊されればカンサスの実家に戻ってファーマーになろうか」
自嘲するように笑って肩をすくめてみせると、クラーク大尉はレアの両肩に優しく手を当てた。
「頑張れよ。伝わるか分からないが、伝えたいことをきちんと伝えなさい。あいつを呼び戻してこい」
ヘルメットをレアの頭の上にゆっくりと載せて、前線に踏み込む前に最後の励ましの言葉を語った。
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ケルン。ドイツラインラント地方最大の都市であり、長い歴史をもち、中世からドイツの重要な貿易拠点として繁盛してきた。戦争をまかなう軍需工場がたくさん存在しているため、数年間にわたるイギリス軍の爆撃によって 90 パーセントの街区が破壊された。
都市の残骸の中に、国防軍の国民擲弾兵師団、装甲師団と装甲擲弾兵師団が潜んでおり、疎開を拒んだ老人子供によって組まれた国民突撃隊の支援で粘り強い抵抗を続けていた。しかし最近の空中偵察によると、武装部隊が立て続けにライン川を渡って撤退していくのがわかった。その前に何回も町を攻めようとした米軍が成果に乏しく、地図の中に縮んでいくドイツ軍の占領区画が米軍に落とされたより、ドイツ軍が自ら放棄して後退していくのは米軍の指揮官が言えない事実だ。
そして今は、ドイツ軍が町の中心部の一番古い区画で最終防衛線を作った。
ケルン中央駅、ケルン大聖堂とライン川を跨るホーエンツォレルン橋。中世から建造を続けてきて、1880 年にようやく竣工したケルン大聖堂は一時期世界最高の建造物として名が知れ渡った。戦争が始まり、高くそびえる大聖堂は激しい爆撃を受けても立ち続けて、150 m の高さを誇る二本の尖塔は破壊し尽くされた町の中に際立って空を刺さっている。
大半のドイツ軍部隊を取り逃がした米軍は攻め入るのを諦めて、爆撃と砲撃で敵を消耗している戦略を取った。軍用の大型スピーカーを装着したジープと戦車は、防衛線の近くで砲撃が止んでいる間に勧降放送を続けていた。
その全てのスピーカーに繋ぐ電線が同じ箇所に集まっている。
それはレアとクラーク大尉が入ったばかりの建物だ。
旧市街の外縁部にあるケルン大学は空爆で大損害を受けたが、中には頑丈で比較的良好な状態に保たれた建物も存在する。二十世紀初頭に建造された荘重な建物の一室に、クラーク大尉、レアと一人の通信兵がいた。録音機とリールが机の上に据わって、通信兵がマイクをアンプに繋ぎながら、不思議な視線をレアに送った。
ライトピンク色のスカーフで黒い後ろ髪を束ねて、二十歳すら満たない少女がどうしてこんな所に来て、何の理由でこの放送をしないといけないのかと、頭は色んな質問にあふれたが、命令だから特に口に出す筋合いもなかった。
マイクの前に座っているレアは心臓の鼓動が激しくて止まらない。
後ろに構えているクラーク大尉は心配そうな顔をしている。
「一応、スタンダードの文章がおりますので、見て読んでも構いませんが」
レアの顔を伺った通信兵がさりげなく言っていた。
マイクの横に一枚の紙を置いて、その上にドイツ語で書かれた勧降文書が載せてある。
十分前に砲撃が止んだ後、町が一気に静かになった。
通信室の中のざわめく電気雑音が紙の内容を読んでいるレアの気持ちをざわつかせた。
「もうよろしいでしょうか」
催促しているように通信兵はまたさりげない表情で声をかけた。
「もう少し時間をくれないか」
後ろに立って壁にもたれているクラーク大尉はレアを庇うように言った。
「もう大丈夫です。ありがとう」
緊張を顔に残したまま、レアは返事をした。
「記録に残すわけにはいかないので、生放送で行きます」
アンプの電源を入れて、通信兵はレアと一緒に音量の確認をした後、カウントダウンを開始した。
「では、三、二、一」
数え終えると、通信兵はレアを指差して、話していいと示した。
固唾をのんで、レアは語り始めた。
「あの。聞こえるかどうかわかりませんが、ハンス。私です。レアです」
ドイツ語を流暢に話しているが、レアの声にはどうも感情が薄く、何もない壁に向けて語りかけているような感じがした。
「もう戦うのはやめてください。勝てない戦いには意味がありません。生きてまた会いましょう。投降すれば、暖かい飯も食えますし、あの。。。。」
息をついて、レアは突然言葉に詰まった。
目の前の白紙に書かれた文字をそのまま読んでいたが、すっきりしない気持ちが言葉の続きを遮った。
こんなことを読んで、何の意味があるのか。
聞こえてないかもしれないのに。
聞こえたとしても、戦いを投げ出してここに来るわけがない。
こんなくだらない文字を述べるために、人に迷惑をかけて無理やり来させもらって。
本当に馬鹿馬鹿しい。
俯いて難しい顔で口をつぐんだレアに通信兵は疑わしい視線を向けた。
クラーク大尉はどうすればいいのかわからなく、レアの背中に心配な視線を送った。
諦めていいんだ。まだ何処かで隠れて待っていればきっと彼の姿を忘れられるし、この気持ちも消えていく。
まだ暗い部屋の天井を見ている気がする。そこには何もなく、ただ静寂と自分ひとりの呼吸音しか聞こえていない。ベッドカバーを引き上げて顔を隠せば、この静寂を遮断することができると思っている。そして自分で泣いて、泣き疲ればまたぐっすり眠れる。
そうしようする瞬間に、部屋の扉がうっすらと開いて、微かな光が漏れていることに気が付いた。ベットから起き上がり、寝姿のまま扉に近づく。
三ヵ月前だけかな。
最初に出会った時。
そして、色々起きた。
だが、今直ぐに思い出せるのは、クリスマスの夜のことだった。
いつもの暖炉の光が暗いリビングルームを朦朧と照らしていた。
電気もついたのに、どうしてだろう。そんな雰囲気が好きかもしれなかった。
俯いてただ静かに彼の過去を聞いていた。
言葉が頭の中に流れてくるにつれ、この蒼白な世界に生きている、苦しんでいるのは自分だけではないことを感じた。
目の紙を握りつぶして、目を閉じて大きく息を吸う。
「ね、覚えている?ハンス、私たちがしてきたこと。私が言ったこと。あの橋で別れた時に、帰ってきたら話を聞いてくれるって約束」
目をきつく閉じて、眉を顰めて、レアの声が激しく高くなった。
「私、自分のことをほぼ何も言っていなかったよ。私の好きな食べ物とか、好みの服とか、未来の夢とか、何を悲しんで、何を楽しんで、どんな男の子が好きとか、私の出身以外にも話すべきことはたくさんあるでしょう。そのまま逃げちゃったのは、許さないよ。私ももっとハンスのことを知りたい」
肺の空気を使い切ったように、レアの荒い息を吐き、苦しそうに頭を垂れた。
歯を噛みしめて、強く息を吸って、レアの抑えられない気持ちが噴き出した。
「私から逃げるな!!!大馬鹿野郎!!!」
泣きそうな声で叫ばれた言葉に、通信兵とクラーク大尉とも呆気に取られて口を僅かに開けた。
「向き合って、話して、争って、謝ってもいい、謝らなくていい。ちゃんと言えよ!!!中途半端で終わってたまるか!!!」
罵りの言葉を叫んだレアの甲高い声がマイクに吹き込んで、ハウリングが起こり、鋭い騒音が出力された。
「君のことなら、なんでも聞く、なんでも受け入れるから!!!私は許す、あたまの過ちを許す、あたまの罪を許す。だから、死なないで、もう一度声を聞かせてください!!!この頑固な大馬鹿野郎!!!」
アンプのスイッチを通信兵がとっさに閉じ、やや咎めるような視線でレアとクラーク大尉を見つめた。クラーク大尉は後ろからレアの肩に手で触れた。
「もういいんだろう、レア。受け取ったらきっとこっちに来るんだよ」
クラーク少佐の慰め言葉にレアは気まずく頷いた。自分の失態に後悔しているようで頭を深く垂れた。
通信兵は苦笑し呆れた表情を見せた。
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レアの話が流れていた後、通常録音された勧降放送が再び始まっていた。
赤い夕日が廃墟に成した街区に明暗をつけ、勧降放送の無機質な声が瓦礫の中に響いて無尽に繰り返される。
放送室が据える建物の前にレアが落ち込んでいる様子で尻もちをついて座っていて、
顔を膝に沈め落ちていく夕日を背けて重い空気に包まれている。
タバコを口に咥えながら、建物の外を出たクラーク大尉は、レアの傍に立って無言のまま暗くなっていくケルン大聖堂の尖塔を見つめている。
大聖堂が所在するライン川の河岸までわずか 3km の距離。
だがそれは米軍にとっていくら死人を出しても越えられない距離。
市内の建物のほとんどが屋根を失ったため、大聖堂は尖塔の上部がこの距離で小さくても遮られず、はっきりと視野の中に入っている。
先ほどから一時間が経って、投降するドイツ軍は一人もいないとの知らせも受けたし、そろそろ潮時か、と思うクラーク大尉はレアを諭すように声をかけた。
「砲撃、また始まるよ。そろそろ帰ろか、レア」
と言った途端、西側の地平線から重砲の低い悲鳴が再び始まった。
レアは顔をあげて、落ち込んだ表情を下げたまま立ち上がった。
「ジープをここに動かすから、建物の中で待ってください」
レアの気持ちに共感できたように、頬は少し哀愁に染まったクラーク大尉は踵を返してその場を離れた。
ため息をつき、レアは壁にもたれて、空を見上げた。
すっかり暗くなった空には重い砲声が響いている。
自分はいつの間にか砲声がそんなに怖くなくなったのか。
ジープのエンジン音が近づき、レアは目を逸らした途端、視界の端には何か光っているのに気づいた。
首を回して見上げると、遠方の空には何か点滅しているのが見えた。
光源の周りに円錐状の輪郭が薄々と感じて、それは大聖堂の尖塔だと直ぐに分かった。
そしてその光の閃き方、分かっている。
レアはクラーク大尉の呼びかけを無視して、光の方向に走り始めていた。
「おうっ!レア!待ちたまえ!」
暗闇に消えていく黒髪の少女に向けた叫びが虚しく響いた。
何らかの力で背中を押されているレアは、ただ空に響く光源に向けて走り続けた。
廃墟になっている街道には街灯などが存在しておらず、月明りを頼りに瓦礫を避けながら進んでいる。放送が流れていた拡声器から今度は警報音が響いた。
マイクがぐっと取られた鋭い高音が出た後、クラーク大尉の英語が荒々しく流れていた。
「民間人が前線に入っている!早く見つけて確保しろ!」
照明弾が彼女の頭上の空に一枚ずつ打ち上げられ、流れ星のように夜空を照らした。
流れ星の前に一つの光点がわがままに瞬いていた。
この廃墟のごとく町で戦いてきた兵士たちが、敵味方問わず言葉を失って、ただ目の前の景色を見つめていた。
先ほど郊外に配置された米軍砲兵隊の士官が望遠鏡でその光点を覗いていて困惑の最中に、砲撃を一旦中止し、照明弾を打ち上げろという命令が慌ただしくラジオから入った。
涙を湛えた彼女の頭には彼がいた僅か一か月間のことで溢れ、全力で走っていた。
廃滅された町にどのくらいの狙撃手が伏せていても恐れず、
地雷を踏んでも恐れず、
砲火に打たれても恐れずに走っていた。
彼に言いたいことがある。彼女は心の中でそう叫んでいた。
後ろから伝わってきた放送はクラーク大尉の英語での呼びかけだ。
慌ただしく作られた内容がごちゃごちゃで、ふざけているように聞こえる。
「どう言うべきか。え、えっと。ドイツ兵たちよ。そちらに向かってる女の子は民間人だ。民間人だ!絶対撃つな!我が軍は今攻めるつもりはない!繰り返す!我が軍は今攻めるつもりはない!ファック(Fuck)!ドイツ語を話せるやつはまた来ていないのか!」
町の反対側でドイツの工兵がケルンで唯一生き残った橋、ホーエンツォレルン橋の橋脚にダイナマイトを仕掛けている。先ほどまで砲弾は時折橋脚の近くに落ちて、大きな水柱をあげて工兵を濡らしていたが、変な英語の放送が流れた後砲撃が止んだため、作業が順調に進むようになっていた。
橋面に撤退中のドイツ軍が町を後にしてライン川を渡りつづけている。
戦車、トラックにできるだけ多くの人を乗せて一台一台に橋面で走っていた。
乗り物に乗れない兵士たちは負傷者を支えたり、運んだりしてぐったりと移動している。
それと同時に旧市街の廃墟の中に陣地取った部隊が、ホーエンツォレルン橋から僅か百メートルに離れたケルン大聖堂の尖塔で光った妙な光源に惹かれた。掩体から頭を上げ、迷いで口ごもった途端に砲撃が止んでしまった。死に場所としか思えないこの町で、先ほどのおとぎ話みたいな放送によってなんらかの奇跡が起こったと考えている。
「不審な光源にどう対処しますか、中尉」
ライン川の向こうの橋頭堡に留まる指揮戦車の隣に立っていて、望遠鏡で対岸を観察している兵士が尋ねた。それを聞いたドイツ国防軍の中尉は、淡々と胸袋からタバコを取り出して火をつけた。
「さっきの放送も聞いたんだろ。大したことがないのさ。敵の砲火も止んだし、止める理由があるのか」
「しかし。許可のない信号は、裏切り者が敵に合図をする可能性も考えられるかと」
兵長がまごまごと返事した。
「レアって単語は、何の合図になるのか。それとも、お前にはレアという名前になんの思い付きがあるのか」
「いえ、とくには。。。」
「俺にもないのだ。元々は知らないし、知る必要もない。そのはずだ」
ため息をついて、中尉はなにか思い巡して、目には動揺が感じられた。
長い戦闘で制服がぼろぼろになって、顔に汚れが張り付いた中尉は、タバコを吸いながら大聖堂からきらきらと光を放つ尖塔を見つめている。
レア、私生きている。心配しないで。
というフレーズのモースコードがまさにその光源を通じてケルン全体に発信している。
モースコードを数か月前に覚えた黒髪の少女は汗を流しながら、暗い廃墟の中で膝ついて荒い呼吸を繰り返している。トレンチラインとサンドバックを見ると、その道を避けて路地に入り、大聖堂の方向に向かって走りつづけた。背後から聞こえていた英語の呼びかけを無視して、旧市街地の入り乱れる巷に入っていく。段々と人工的な光と人の気配が薄くなっているのを感じた。
どこまで走ったのだろう。
見上げると、点滅していた光はもう消えていた。曇りが月光を遮り、町が一気に暗くなった。方向感を失ったレアは、目の前に続く街道をみて、眉を顰めて疲れと困惑を顔に現した。
諦めてたまるか。きっと、また会える。会いに行く。今度はもう、このままでは終わらせない。そう心の中で唸ったレアは前に進んで、十字路の真ん中に足を止めて見回した。何処に向かうべきか決められないレアは立ち尽くしていた。悔しい表情の中に焦燥感が溢れた。
ふっと建物の中から何かが姿を現した。
それはライフルを担いだドイツ兵だ。無言なままレアを凝視している兵士にレアは怯えながらも、まっすぐに立ち向かった。
兵士は無表情のまま人差し指で背後の道を指した。
絶望で泣きそうなレアは、ドイツ語で感謝を述べると、ふたたび走り出した。
次の交差路では、空の中に緑色の信号弾が飛び上がった。
レアは今笑っているのか、泣いているのか自分にもわからないまま、信号弾が飛び上がった方向に向けて必死に走りだした。
廃墟に潜んでいる兵士は皆、目を瞠って自分の傍を通り、戦場を走る少女の姿を見つめた。
緑色が安全の街道、赤色が危険な街道を示している。
緑と赤の信号弾が長い煙の尾を引きながら空を流れている。
廃墟の町は突然花火大会のように四色の空で覆われている。
道端に包帯に包まれて、薄汚い担架に倒れた兵士たちはこの不思議な光景を眺めて戸惑いつつも涙を湛えた。
先の放送のバカ娘か。
よく知らんが頑張れよ。
砲撃を止めてくれてありがとう。
嫁さんは今でも俺を待っているのか。
様々な想いと心の言葉が夜空を駆けて人々の間に共鳴し合っている。
また十分ほど走ったレアは大きい広場に出た。
広場を囲む建物がほぼ破壊され、広場中央の記念碑とその上に立てられるある人物の全身像、そして市役所の丸い塔の残骸しか目立つものがない。
しかしここでは瓦礫の中から光が漏れて出た。
レアの後ろに上がった信号弾を見て、既に何人かの民間人が外に出た。
老人、婦人と子供。彼らのやつれた顔と汚れた服が戦火の中での暮らしを示している。
人ごみの中からは小さい子が走り出して、レアに近づいた。
十歳前半の男の子だ。体に弾薬と武器をつけて、ぼろぼろの制帽を被っている。
レアの顔を見ると、無言のままいきなり手を掴んできて、レアを連れて走り出した。
瓦礫の中で人々が火を囲んだり、忙しく武器弾薬の点検をしていたり、鍋の中のものを鉄の皿に載せて配ったりしている。
狭い路地を通り、ケルン大聖堂の広々とした巨体の輪郭が目の前に現れた。
大聖堂の周りに数台の戦車が止まっている。
一人の少年が戦車の上から飛び降りて、懐中電灯をつけた。
レアの止められない涙が顔の汗と汚れを流して、ぐるぐると地面に落ちた。
左の目には眼帯をつけて、泥に塗られた顔でも、一目でわかる。
ハンスだ。
ケルン大聖堂の廃墟へと化した敷地に二人が強く抱きしめ合った。
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その夜、レアは全てをハンスに話した。
自分の出自の全てを。
自分のお父さんとお母さんのことも。
苦しい思いで苛まれて、死にたくなることも。
森でひとりぼっちで泣いてばかりだったことも。
あやまりとか、償いとかを求めるのではなく。
ただハンスに知ってほしい。
自分のことを、自分の物語を知ってほしい。
ハンスも自分の過去を。
自分がしてきたことを。
自分がみてきたことを。
ありのままレアに伝えた。
何が正しいのか。何を間違えたのか。
二人には今でもよくわからないし、見分けることもできない。
ただ、心の中に隠れ事をなくすよう、洗いざらい話した。
悲しむ時は抱いて慰める。怒る時はどちらかが謝るまで口喧嘩する。
喜ぶ時は笑いあって手を繋ぐ。困った時は背を並べて一緒にぼうっとして空を見上げる。
とても単純で、曖昧のない付き合い方。
一緒にいるのが大好きで、お互いのことが大好きで、そのことを胸に戦場の夜を生き抜く。
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朝の訪れを宣言するように、大きな爆発音がライン川から伝わり、大聖堂の地面を揺らした。知らずうちにハンスの胸にもたれて寝てしまったレアは起こされた。
二人は忙しく動いているドイツ兵の間を通り、大聖堂の後ろを出て河岸に向かった。
ホーエンツォレルン橋の橋脚の残骸がライン川の中に沈んでいる。
支えを失った鉄橋のアーチ構造が川の中に落ちて、変形した鉄筋コンクリートが不規則に曲がっている。
橋の向こうに光が地平線から射してきて、ライン川の水面が輝く光っている。大聖堂周辺も明るくなって、廃棄された戦車、トラック、重武器など戦争の傷跡が現れはじめた。
深夜の暗闇に乗じて、大量の部隊と民間人が既にホーエンツォレルン橋を渡ってライン川の対岸まで撤退した。
二人は肩を並べてライン川の向こうを眺めている。
「気が変わってないの」
「ああ。僕はやはり逃げるつもりはない」
「この戦争が続けて、多くの人が死んでも」
「それは、僕が背負うべきものだ。戦争が終わったかどうか、僕が決めるべきものではない」
レアは唇を尖らせ、咎める表情をハンスに向けた。
「やはり頑固な大馬鹿野郎だね」
「ごめん。危ない目にあってここまで来たのに。ただお前に生きているのを伝えたいと思ったが、まさか戦場を潜ってここに来るとは」
「私も大馬鹿だから、森にいた時にはもう既に知っていたんでしょう」
ふさけて言って、レアはにやっと頬を動かした。
「でも、嬉しいでしょう」
ハンスは顔が赤くなって、照れるように俯いた。
そんなハンスの手を掴んで、レアは優しく語った。
「私は待つから。私を探しにきて。約束よ。君のくだらない、意味のない責務が終わるまで」
「人探しには情報がもっとほしい。住所とか」
ハンスが苦笑した。
レアが事前に用意した手紙をバッグの中から取り出し、ハンスに渡した。
「住所と。。。ほかにも書いてあるから、ちゃんと読んでね。この前あいうふうに行ってしまったから渡す時間もなくて」
「分かった。すべてが終わったらかならず会いにいくよ。そして」
真っすぐにレアの目を見つめてハンスは真剣な口で言った。
「絶対死なないことを約束する」
弾薬と各種銃器を担いでいる少年兵は慌ただしくハンスのほうへ走ってきた。
「ハンス。戦車はもう爆破された。早くしないと最後の小艇が行っちまうぞ。」
二人の姿に気づき、気が咎めたように口を変えた。
「ああごめん。催促するつもりはないよ」
気紛れの少年兵はレアに向けて謝るように言って、再び慌ただしく川のほうへ走っていった。
もう残された時間がないと分かっても、ずっとこのまま一緒にいたい。
「助けなくていい?怒られるのじゃないの」
「いいよ、これぐらいで。俺がこの町のエースって分かっているでしょう」
「偉そうに」
冗談を口にしても、レアの落ち込んだ気持ちをひっくり返すことができなかった。
また離れることになる。
横目でレアを見て、ハンスはてれてれと言った。
「ピンクのもいいよ。かわいい感じ。ブルーのがお淑やかに見えるんだけれと」
レアは微かに口を開けて、見返すとぷすっと笑った。
「なんだよ」
「ちゃんと見ていたのか」
「見ていないわけがないでしょう」
レアはハンスが言っている途中にふっとハンスの頬にキスをした。
緊張で爆発しそうなハンスは頬と唇を震わせて、レアの目を見つめることができなかった。
息を吸って決心をついたハンスはレアに向いて、レアの肩を掴んで唇を当てた。
朝日の光の中にハンスの金髪とレアの黒髪が混ざりあって輝いている。
戦場を生き抜いて、走りぬいてようやく手に入れたこの瞬間がずっとこのまま続いてほしいと願う。
一生忘れられないこの瞬間が。
ハンスは手紙を大事にしまいこんで、もう一度レアを力強く抱いて大声で叫んだ。
「僕が戻るまで、ほかの男に近寄らせるなよ!!!」
頬が赤くてたまらないレアが恥ずかしくハンスの懐に頭を埋めた。
日が昇りつつ、ライン川と両岸の堤防がもうはっきりと見えてきた。
数艘の小艇がライン川の中にゆっくりと進んでいて、小艇が揺れ揺れと対岸に向かう姿をレアは見送っていた。
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ホロコーストのことが世の中に知れ渡るころ、レアは考えた。
彼の続けた戦いにより、助けられる人が助からないことを。
数百万の人が強制収容所での苦難が続いたことを。
私の両親がああいう悲惨な死を迎えてしまったことを。
ドイツ人に全てを奪われてしまった自分はドイツ人を憎むことができない。
ドイツ人が憎いという意識が戦後の数年間西ヨーロッパ全体に広がっていた中でも自分は憎しみを覚えていなかった。
そんな自分がよろしいのかと。そんな無関心さは自分の出自への裏切りかと。
銃を降ろさないハンスは罪人かと。
そんな思いが常に心頭に重くかかって、ハンスのことばかり思う自分を苛んでいた。
結局、レアは自分の気持ちを裏切ることができなかった。
世間知らずで、傲慢で、わがままな思春期の少年少女にそんなことを考えろという意味はどこにあるのかと。
彼一人がいなくなっても何も変わらないと。
ハンスだけが違うと。
言い訳をして、自分の気持ちを弁護することにした。
お互いを知って、お互いを寄り添って、お互いを苦しませて、
そして、お互いのことが好きになって。
それだけだ。
馬鹿げた、罪深い恋だった。
「結局、来なかったね。大馬鹿野郎」
西ベルリンにあるアパートで妙齢の少女はソビエト軍のチェックポイントを見ながら落ち込んだ声で言った。あれからもう二年間が経った。
ドイツが降伏するまでの最後の数か月間に東部戦線で戦って消息不明となったぐらいの手がかりしか掴んでいなかったが、レアは彼がきっと生きていると信じていた。
死なないと約束したから。会いにくると約束したから。
東部戦線の捕虜はちょくちょく東ドイツに移管されると聞いて、リエージュの学校に通っていたレアはハンスの消息を掴むために西ベルリンにやってきた。18歳のレアは米軍の通訳になって、米軍の司令部でフランス軍と西ドイツの当局の関係者の間に立って通訳として働いていた。髪を短くしてメガネをかけ、軍人と政府役人の間で立ち回るレアは濃色のスーツを着て、大人しい雰囲気を身にまとっていた。両親の残したホテルがドイツ占領下で軍政府に不法利用されたとして、現のベルギー政府からは多額の賠償金をもらったレアは汗を流して働く必要がないにせよ、ハンスの情報をもっと知りたいと思ってこの仕事についた。
クラーク大尉は、ケルンでの件をきっかけとして軍をやめたが、カンサスの実家に戻ることはなかった。戦後のドイツは経済の混乱が極まっていて、ブラックマーケットが横行し敗戦国の民衆が苦しんでいることに感銘を受けたクラークは民間企業を立ち上げ、ドイツの戦後復興のために尽力をしていた。
レアとも良き関係を保っていて、友達にレアを紹介する時よく使う言葉は、”俺の人生を二回もひっくり返した娘だ”、だそうだ。
20 歳のレアは米軍の推薦で西ベルリンで新しく設立された自由大学に入学することとなった。なぜ一人のベルギーの女の子がわざわざ廃墟めいたベルリンにやってきたか、若きドイツの同級生に議論を起こした。文学と美術に長けているレアは、関連する学部に進学することなく、心理学の専攻を選んだ。
自分のことをもっと知りたいと、表向きの理由として同級生たちに伝えてきたが、本当の理由は森に隠れたドワーフのように一生人に見せることはないでしょう。
大学に入ったレアはほとんどの時間がひとりぼっちだった。勉強と仕事以外の時間は、絵描きや小説に時間を費やして時を過ごした。社交的な場ではうまく立ち振る舞うことができたとしても、同年齢の親しい友人、ましてや恋人を作ることができなかった。
同年齢の若者たちとはうまく嚙み合わないジグソーパズルみたいに深い関係を築くことができなかった。育ち方と精神年齢の違いが一部の原因で、なによりレア自身にも心の何処かが閉ざされていたままだ。
大人たちにはベルギーに戻るよう勧められたり、新しく建国したイスラエルに定住し始めた遠い親戚からの誘いも来たが、レアはことごとく断った。
どうしてもベルリンを離れられない理由は自分にはっきりと分かっている。
ここは一番東ドイツに近いところだ。
ハンスに一番近いところだ。
どうして来なかったんだよ!馬鹿!
ソビエト軍の日々ますます厳重になっていく国境線をみてレアは罵った。
簡単に通れるチェックポイントから、有刺鉄線で作られた柵に変わって、警備隊は普通に銃を背にかけた兵士から、戦車と重機関銃が配備された武装部隊に変わった。再建されつつある東ドイツの建物では望遠鏡を構える兵士が四六時中辺境の動向を監視していた。
西ベルリン封鎖の動乱期、東ドイツで起きた大規模な反政府デモ。増え続ける東ドイツ市民の脱走者。混乱極まる国境線において一人の少女が目を離さず見守っていた。
引越しする際に必ず自分の今の居場所を前の住所の人に言い残し、各地の市役所にも人探しの公告を残していたが、連絡も尋ねも来なかった。
23 歳のレアは心理カウンセラーの職業を始めていた。
戦後大量の生還兵の社会復帰により需要が増えてきたこの職業をレアが選んだ理由は、自分の専攻がひとつで、もう一つの理由はたくさんの兵士と喋ることができることだ。
ソビエトのシベリアの捕虜収容所から帰り続ける元ドイツ兵たちと話して、ハンスに近い存在のことをもっと知ることができ、そしてハンスという少年兵の話もさりげなく聞くこともできたからだ。しかし断片的で不確定な情報をいくら集めても、決定的な事実を掴むことができなかった。
大人になっているレアはハンスへの思いは段々と薄れていった。
少女のころの馬鹿げた恋話だと、ハンスとの思い出が浮かんだ時心底に唸って、三十歳の立派な女性になったレアはそう考えを改め始めた。
しかしどう唸っても、自分を説得しようとも、忘れられなかった。
ほかの男に抱かれて、暖かいベッドから突然起き上がり啜り泣き始めることもあった。
誰にも伝えられない、理解されることもないこの恋とともに生きていくしかない。
ハンスを恨んだこともあった。自分の人生を突然飛び込んで、かき回して、ごちゃごちゃにした後、跡姿もなく消えていく。どれほどひどい人だ。
大学でたくさんの心理学の知識を学び、患者との面談でもたくさんの経験を積めたレアは、当時のハンスと自分が抱えた苦しみと怒り、彼らの間に起きた感情を客観的に見ることができた。相談相手の兵士の病状を分析し療法を勧める中、しょっちゅうハンスの影を見た気がした。一時の血迷いか、青春期の高まる感受性か。理性と感性の衝突にレアの心が裂かれていた。だが、感情というのは理性で抑えることではない。彼らの間の感情は、決してただの化学反応や心理疾患によるものではないとレアは信じていたかった。
プロポーズされた時にもレアは何日間も苦しんで、落ち込んで、躊躇っていた。
プロポーズしたのはブリュッセルのマリーのアパートで出会ったアンドレという黒髪の男だ。18 歳の時ブリュッセルに戻ってマリーとジョゼットを訪れ、同じくアパートの軋む階段を踏んで大きな音を立てた時、ぱっと二階の扉が開いた。
レアはアンドレと面と向かってぎくりと暫く見つめ合っていた。
最初に口を開いたのはアンドレだった。
革製のジャケットを着て、天然パーマの髪を伸ばし、かっこつける大学生の姿に変貌したアンドレは、コーヒーを飲む約束、二年間も待っていたと言っても信じてくれるかな。
と言っておどけた顔を作ったアンドレにレアはぷつっと笑った。
その後アンドレとは違う都市に住んでいても、連絡を取り合っていた。
アンドレはとても陽気で、いつもにこにことしている男の子だ。
やや控えめのレアを笑わせるために工夫をしてきた。
友人から、親しい友人、そして恋人まで。
十年をかけて築き上げられたこの関係は、今完璧な転換点を迎えた。
でも、レアは躊躇った。自分がばかばかしいと、大人しくないと、自分を罵ってもいたが、それでも無数の苦しい夜を過ごしていた。
はいっと言えるまで。大人になるまで。人生の現実を見逸らさないようになるまで。
子供をつくり、家庭を維持する忙しさでハンスのことを容易く忘れることができた。しかし、クリスマスイブの夜に、雪がゆらゆらと夜空を降り始めると、あの夜のことがかならず浮かび上がってくる。
きらきらと閃く花火。雪に包まれた森。月明かりに照らされたシャレーと青い湖。手を掴んでジャズミュージックの中で踊る二人。
皺が深まるにつれて、涙の量が少なくなっていても、決して忘れられないあの夜のこと。
それは誰にも踏み入れさせない、深い雪に包まれる森の中に隠された秘密。
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そして四十五年も経っていた。
黒髪が銀色になって、心の形も変わっていた。
ドイツの小さな町にある木造の一戸建ての中で、六十歳になったレアは毎年のように家族と一緒にクリスマスイブを過ごしている。訪れてきた自分の子供と孫たちの喧騒を背後にして、自分ひとりがアームチェアに体を沈めて雪に埋められた街道を見つめている。
アルデンヌの森の中にあった小さいシャレーにいた少女がしていたように。
その少女はもう自分の心情を大きく動かすことができなくなったにしても、少女はまだ自分の心にしがみついているのを知っている。
少女が動く際に自分の心臓の脈動が変わり、顔の筋肉も強張る。
レアはため息をついて、息を吸って、家族の談笑する声を耳に入れて心を落ち着かせた。
ここまでやってきた人生には悔いがない。家族と幸せに暮らしていたし、仕事にも成果を残した。残りの人生にはそれほどの大した計画を立てていないが、普通のように頑張って生きる。遺憾を残さないように。
遺憾、悔しさ。
そのような単語を自分の人生から取り除こうと頑張ってきた。これからもきっとできる。
皺が深まり、レアの顔の筋肉がまた不本意に張り始めた。
「あの、母さん。ちょっといいでしょうか」
近づいた息子の嫁がすこし気まずそうな表情で声をかけた。
何か思い巡らしているレアに邪魔を入れるのは気おくれを感じたようだ。
「先ほど駅の事務室から電話が来ました。ある東ドイツの男が母さんのことを探しているということ。母さんの住所を知っているようだ。心当たりがあるしょうか」
「その人。。。どんな感じの人ですか」
いつも穏やかな表情をみせたレアは突然目を大きく開き、唇が震えている。
「なんか、背が高くて気品のいい六十歳前後の男だ。左の目には眼帯がついてて、そして右手の指は何本がなくなったと」
「今その男はどこだ!」
初めてこんなに高ぶった感情を見せたレアをみて、嫁は少したじろいだが、口を開けておずおずと答えた。
「え。。。えっと、話によると、今駅で待っているようだが、ここにたどり着くルートを教えるべきか、駅員がちょっと戸惑っていた。大丈夫そうな雰囲気だが、なんか指がないとか。。。」
嫁さんの話が終わる前にレアはアームチェアから飛び上がり、コートも着ずに扉を駆けだした。
年齢が重なった体で雪を踏んで、よたよたと足を進めた。
吐き出した荒い息に含まれるのは熾烈な感情。
レアの皺のついた顔には少女だったころの気持ちが溢れている。
息を吸い吐きする際の音が泣き声のように聞こえ、頬には紅潮があがり、心臓の鼓動が激しくて動悸が起きる。
無人の街道を走り抜いて、駅前につなぐ商店街に入った。
店が既にことごとく閉まり、道脇に並んだ街灯たちが孤独に光っている。
もうすこしだ。
あの時のように未知と不安を胸にしても前に走り続ける。
疲れ切った体を精神がもう動かせなくなる前にレアは走り続けた。
駅前の広場に面して、レアはようやく足を止めて口を開いて喘いだ。
夜が深まり、乗降客が既に離れたごちんまりの駅の一角に駅員室の電灯が寥々と光っている。駅員室の前に中折れ帽を被って気品のいいコートを着ている背の高い男がいた。
頬が強張り、体が震え、少女のように泣きべそをかいているレアは男を見つめていた。
金色の髪が白くなっても、顔に皺が付いても、体つきが変わったとしても、レアには一目でわかる。照れた笑顔を見せて見返している目の前の男の姿はシャレーで出会ったころと一緒だ。
愛しているよ、ハンス。ずっと、待っていた。
愛しているよ、レア。遅くなってごめんなさい。
小さい石作のシャレーの前に、凍り付いた青い湖と雪の白さに染まった森の間に立っている、黒髪の少女と金髪の少年が、お互いにそう伝えた。
終わり
La fin
Das Ende
The End
アルデンヌの森 チュッチェフ @MasaoKyu
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