第8話 守るべきもの

家から追い出された時のことを思い出した。

稲妻の襟章を付けている、背が高く、表情が固い金髪の男がホテルに入ると、後ろに続く大勢の兵士たちがあっという間にロビーを埋め尽くした。

笑うスカルの帽章をつけた制帽をかぶり、金髪の男がお父さんに近づいてきていきなり手に持った鞭で父さんの顔を打った。血がお父さんの口角からどくどくと流れていた。

ユダヤ人が不当な商売をしているから、こんなに大きなホテルを建てられたと言い張った。盗み取った財産をヨーロッパの人々に返してもらおうと、金髪の男が一言を残した後、兵士たちがホテルを漁り始めた。


盗んだのか、私たちは。

フロントの下に隠れていた私はそう思った。毎日元気よくお客様に挨拶して、こつこつとホテルを見て回る父親が、いつ盗みを働いたのか。

壁に飾った油絵、ホールに置いた陶磁器、木製の掛け時計、綺麗な紋様が入ったアクセサリーボックス、高価そうにみえるあらゆる品物が次々と部屋から運び出されていた。

柱にもたれて座っていた父親がハンカチを鼻に当てて、ハンカチが鼻の血で染められた。

あさりに熱中するドイツ兵たちは父親をただの物件のように一瞥もくれず素通りしていた。

どうしてだろう。

私たちは、何の悪いこともしていないのに。


ずっと考えていた。

父親の友たちの家に居候させ冷たい眼で見られた時も。

黄色い星の腕章をつけさせたユダヤ人の列隊を見た時も。

壁の中の狭い空間に詰められ隠されていた時も。

父母と別れ車に乗せられて故郷を離れた時も。

ずっと考えていた。


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ティルマの町の空は灰色の雲がかかっている。

空から飛行機エンジンの轟音が響き、数十機の輸送機が雲の下を横切り、低空飛行をしながらパラシュートを投下している。パラシュートと下についている円筒状のコンテナがゆらゆらと降りかかる。

既に町の各要所を確保した降下兵は急いでコンテナの回収を進めていた。

「少なくとも物資ぐらいくれているのか」

大聖堂の前でシュタインベルガー中佐はタバコを手にし、曇った空を見上げながらため息とともに白煙を吐き出した。

タバコは二年前に既に辞めたが、今日はなぜか吸うべきだと思った。

「それにしても、このような代物が用意できたとは」

大聖堂前の交差点には鋼鉄の巨獣が佇んでいる。


六号戦車Ⅱ型、通称ケーニヒス・ティーガー、「王の虎」。

ダークイエロー、オリーブグリーン、レッドブラウンの三色迷彩を施された車体。

前面の傾斜装甲は 150 mm の厚さを持ち、ヘンシェル社製の砲台は 180 mm の装甲版でできている。曲線の強い砲塔に装備された 6.24メートルの長さを有する 88 ミリ主砲は、2km 以内の連合軍の全ての装甲車両を打ち破れる火力を有している。69 トンの車重をもつ戦車を動かすために 700 PS のマイバッハ水冷エンジンが装備されている。

ドイツ軍の数多くの戦役で活躍していた重戦車、六号戦車Ⅰ型ティーガーを強化し、重装甲と重武装を更に施したのはこの目の前の巨獣。この度のアルデンヌ作戦において戦闘団が形成され、攻勢の最先端に立たされたと聞いているが、シュタインベルガー中佐が実際に見たのは始めてだ。


「驚かされましたか」

大聖堂から出てくるグラフ大尉は屈託のない笑顔を見せた。

綺麗な制服と清潔な肌。身だしなみが整っているグラフ大尉は晴れた気分を隠せない。

「このような威勢のいい姿ですが、最前線の部隊が捨てたものですよ。ガソリンが切れて、爆破し廃棄する寸前に俺が借りました。ガソリンを米軍からたくさんいただいたのは幸いなことです。残念なことにここまで動かしてくれていた戦車兵がもう逃げました。私たちに対する期待値がそう高くはないようですな」

自嘲の言葉で一段落を終えた大尉は、親しい口ぶりを作って話を続けた。

「それにしても、久しぶりにひと風呂浴びましたよ。中佐殿もいかがでしょうか」

「市街戦に役立たんしろものですな。それより」

グライフ大尉の話を無視して疑わし気にケーニヒス・ティーガーの傍でメンテナンス作業をしている少年を見つめた。

「何でハンス君はここにいます?」

「それはこちらのせりふですよ」

含みのある笑顔をグライフ大尉がシュタインベルガー中佐に向けた。

シュタインベルガー中佐は堅い表情のまま睨みで返した。

肩をすくめて、グライフ大尉が話を続けた。

「ま、いいです。それより、ハンス君に戦闘任務に復帰してもらいたいと考えていますが、いかがでしょうか」

「SS の大尉殿。数日前に処刑するつもりでしたが、態度が変わるのは随分早いじゃないですか。そんなことをしてよろしいのですか。こいつは仲間を見殺しにして逃げ出した臆病ものですぞ。大事な任務を任せていいのですか」

「使えるものを使うまでです。それとも、国防軍の中佐殿はあれを動かせる人がほかにいるというのですか。宝の持ち腐れになります。彼の腕は本部からも聞きました。技量と成績は訓練時代においてすこぶる優秀でした。ま、実戦では多少しくじることもありますでしょう」

ため息をついて、残念そうな表情を作ってみせた。

「今の状況で必要なのは、勝つための力です。ほかのことは後回ししてもいいでしょう」

疑わしげな視線をしばらくグライフ大尉に浴びさせた後、シュタインベルガー中佐は口を開いた。

「よかろう。ただし、慣例に従って SS 部隊が我が国防軍の指揮下におくのが条件です。よろしいでしょうかね」

「それはもちろんのことです。それでは、中佐殿。ジークイル!」

グライフ大尉は床を踵で踏み鳴らし、右の手のひらを顔あたりまで上げ、シュタインベルガー中佐にヒットラー式敬礼をした。


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ケーニヒス・ティーガーの内部では、ハンスが残された技術文書を見ながら戦車の点検をしている。以前指揮した四号戦車と比べて大分広がった空間だ。

四号戦車の 75 mm 口径のやつは比べ物にならないほど圧迫感が溢れた主砲。

操縦席に座っているワルターも四号戦車のレバータイプと違うハンドルタイプの回転装置の研究を始めている様子だ。

ハンスは砲手兼車長、ワルターは操縦士。

装填手はぎっしりとした体型をもつルディー軍曹に任された。

装填手兼監視役だろう、とハンスは渋々思った。

通信士はなぜかシュタインベルガー中佐の副官たるギュンター少尉が担当となった。

こちらも監視役か。

と思うと、ハンスの口元ににやりが出そうだ。

戦車に乗り込むまえにグライフ大尉が戦車の操作指示において車長のハンスの命令に従えと念を押したが、成年まで行っていない小僧に命じられるのはやはり二人には抵抗感を覚えている。

そして、ワルターは今もハンスに対して冷たいままだ。

このような乗組員で作戦にのぞむことができるのか、とハンスは疑っていたが、レアを救うには大尉に従って成し遂げるしかない。

無益な考えを捨てて、目下のリソースを最大限に使う。

湧いてくるはずの恐怖をなぜか感じなかった。

二日前にグラフ大尉が持ち込んだ提案を前に、レアは深い考えもせず納得した様子だった。自分を撃てなかったという意味、その後、ハンスは繰り返し考えた。二人の関係はいったいなんなのか、ごちゃごちゃで一定の筋をどうしても見いだせない。

ふたつ確かなことがある。自分はレアのことが好きということと、自分が死んでもレアを守りたいということだ。

元々死ぬべき人間だ。

運が良くて、死を逃れた臆病者の自分はもう好きな人を死なせない。


エンジンをかけ、ケーニヒス・ティーガーを動かしてみた。

逃げた戦車兵がありとあらゆる資料を残した。

移動性能、射撃資料などのものを参照すれば、試行錯誤の手間を少しだが省けられる。

巨体を動かすために作られたマイバッハのV型12気筒水冷エンジンが轟音を出し、履帯につけられた対となる八つの負重輪が軋む音を上げて 69 トンの巨獣を動かしている。

これほどの巨体に振動は意外と四号戦車より少なく、沈着で緩やかな動きぶりにハンスは一種の落ち着きを感じた。

砲塔上部のハッチを乗り出して、街を通り抜ける戦車を住民が恐ろしい目で見ている。

徴用された民宅から徐々と防衛陣地に改造されていく。追い出された住民は罵りながらも抵抗する術がなく、荷物を抱えて逃げるように自分の家を離れていった。

昔レアと一緒に歩いた街道を見て、心が締まるような痛みを覚えた。

それでも、戦争という巨大な歯車がいざ回り始めたらもう止める術がない。


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戦車を町の南の雪原に移動させた。

砲台を回し、戦車の回転も試してみた。

弾薬量が限られていて、照準は実弾を撃ってみないとコツを把握することができないため、1 km と 1.5 km 先に取り外された民家の木扉を置いて、そこを狙ってみた。

定員より一人減ったのが気がかりだが、単独の作戦なので常に周囲の戦車と連携を取る必要がなく、車長の役割が少なくなるため、元々射撃に得意なハンスが砲手を兼任した。

それに、そもそも戦車砲を撃てる人がほかにいない。


円形の照準の視野上に、三角形のシュトリヒ記号と距離マークがあって、四号戦車と同じくカール・ツァイス産のもの。

足元のペダルを踏んで、ゆらりと砲塔を旋回させ、照準の中央を扉に合わせた。距離 1500 メートルのダイヤを回して設定し、中心の上下を微調整した。

「ルディー軍曹、徹甲弾を装填してくれ」

不機嫌な顔でルーディー軍曹は砲弾ラックから一枚の徹甲弾を取り出して、主砲に入れた。

開閉機が閉鎖してコンの音がした。

ハンスは発射レバーを引いて、パンと大きい轟音が鳴り響き、扉が粉砕されて塵が飛び上がるのを照準の中に見た。2km 以内の命中率は 95 % という数値が記されていた。

ハンスは再び自国の機械科学に感心した。


しかしこの国は同じく大量殺人をしている。

二日前にシャレーでの話を思い出した。


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名前はレア、レアちゃんだっけ。聞いてくださいよ。私は、戦争をやめたいんです。アメリカ軍に投降するつもりだから、怖がらなくていいですよ。

困ることに私は、あっち側の人間から見ればあるまじき行為をしてきましたね。私は命令に従っただけと言っても許されることはないでしょう。

しかし、そちらのハンス君も同じことをしたんだ。否定しても無駄ですよ。ほら、彼の軍隊手帳には俺の名前が入っているんですから。

ハンス君が私のもとで、どんなえぐいことをしたのかは、私の話次第です。

俺の首を吊られたら、ハンス君も隣にいるでしょう。

その辺でレアちゃんの一言で二人が助かるかもしれないと私は思うんだ。

話すだけで、別にレアちゃんには損が出るわけがないでしょう。

ハンス君を救える、いい物語を考えてくださいな。


俺がいかにユダヤ人のことを大事に思っていたのかをきちんと伝えてください。


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グライフ大尉の話を振り返って思ったハンスは、自分がしていることは本当に正しいのか、考えていた。

しかし考えても考えても答えを導き出せなかった。

自分が守ると誓った国がたくさんの人を苦しめている。

レアを苦しめている。

自分の国が間違ったと言われたら、今まで生きてきて体験してきた全てが間違ったのか。

このような理不尽な思考の衝突がハンスの中では繰り返されている。

解答がなかった。

だから目先のことをし、レアを救う。

ハンスは今考えられるのはそれだけだ。


午後に入り、曇った空には朝と同じく分厚い雲がかかっている。

町の南西部、町の外縁部から離れた平野にある大きい農舎の中に、ハンスたちが乗り込んだケーニヒス・ティーガーが待機している。

農舎の前半は倒壊して、入り口が塞がれているが、それはただの見せかけだ。

雪地に一本の舗装路が農舎の横を通り、後ろの森に伸びていく。

倒壊した農舎の正面に積もった瓦礫には穴がぽっつりと空いていて、農舎の中から舗装路を監視することができる。

ケーニヒス・ティーガーは今まさに舗装路に向けて砲身を構えている。


南に後退中のドイツ軍本隊が米軍の本命だとしたら、町を迂回するためかならずここを通ると、シュタインベルガー中佐が言っていた。

町を防御しているドイツ軍は戦車を持っていない降下兵のみ、という情報をグライフ大尉が既に流していた。制空権をもつ米軍もかならず空中偵察を行い、ドイツ戦車のほとんどが南側の主戦線に後退中とみて、戦車の心配がいらないと踏んでいるはず。


すなわち、ここに一台のケーニヒス・ティーガーがいるとは予想していない。


町のほうから銃声と爆発音が遠くから伝わっている。

戦車の外、砲台の後ろに屈んで望遠鏡で道路を監視しているハンス。

獲物が必ず来ると信じている猟犬のような目で地平線を見張っている。

望遠鏡の中に横に伸びる道は町に向かう主幹道だ。

既に数台のトラックと戦車が通っていた。

数基の迫撃砲が白煙をだして発砲しているのも見えていた。

町外縁の戦闘が始まっていた。

地雷を埋め、建物にブービートラップをつけて足止めを試みているのだろう。

まだこちらに向かう形跡はないが、街の頑丈な防御を体験すると、必ず戦車隊がここに回される。作戦会議の途中に呼ばれて、司令部とされた大聖堂に入っていたハンスは、そう聞いていた。


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「町の西南部の雪原を通れば、町を通さずに南の丘の道路を取ることができます。敵は街の防御の硬さを知っておけば、きっとそうするでしょう。そこでハンス君の重戦車を配置すれば、敵を大破させることができます」

「一台の戦車が敵の戦車中隊と対抗できると言っているのか。グラフ大尉。まともの戦車乗員もないのに」

「虎の王という名は伊達ではありません。主砲の威力と装甲の頑丈さは雪原では最高に発揮されるはずです。この度のラインの守り作戦の先頭に立たされて多大な戦果を成し遂げましたが、ただ。。。」

「ただ」

「ガソリンの消費が激しい。ガソリンの調達は中佐殿の部隊にもご協力お願いしたいところです」

「現地住民から奪うというのか」

「仕方がない措置です。我々の任務は敵増援の南下を妨げることにあり、それを実現できない場合は、任務の失敗を意味します。祖国の軍人として、これ以上恥じることはないでしょう」


「よく言うな。汚れ仕事に人の手を借りるのに」

「この戦争で手を汚さずにいられる将官はどこにいますか。我が軍でも同盟軍でもそうです。勝者に正しさを問われる人はいません(Niemand fragt den Gewinner, ob er Recht hat )」


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敵陣に起きた騒動が、思いにふけていたハンスを現実に引き戻した。

やってきた。

街に向かって待機していた米軍の戦車隊列が突然右に曲がって、ハンスのいる農舎に向けて移動しはじめた。ハンスは上部ハッチから車内に戻り、乗組員に告げた。

「敵の戦車隊がみえた。シャーマン、駆逐戦車、後ろに装甲車とトラック。戦車だけで十」

米軍の隊列は高スピードで前進している。

この雪原は安全だと思い込んでいる。

「これから戦闘に入る。エンジン始動」

緊張感が高まる車内は沈黙が支配している。

絆でも、仲間意識でもない四人がこれからの戦闘をどう乗り越えていくのか、不安が広がった。ワルターだけが何気ないようにエンジンを起動させた。

エンジン音の中で固唾をのんで、ハンスは手の震えを抑えきれなかった。

右側の太ももと顔の傷の跡に触れて、呼吸が荒くなった。

目を閉じてまた開け、ハンスは肉声で乗組員に告げた。

「各員に告げる。全身全霊で戦闘に挑むのだ!徹甲弾装填!ギュンター少尉は前面機銃に当たってくれ!」

ギュンター少尉とルディー軍曹はハンスがまるで違う人の態度に驚かされ、ハンスのところへちらっと見たが、直ぐに締まった表情で自分の任務に戻った。


照準に目を当たって、ハンスはゆっくりと砲塔を回し、先頭の M4 シャーマンを狙った。

距離 1500 メートル。1000 メートルに近づくまで待つべきだ。

照準の中にある戦車の幅が徐々と大きくなった。

広大な雪原とはいえ、中にちゃんと固まった地面は中央を通る道路だけ。

今は全ての敵車両がこの道路の上を列を組んで走っている。

照準中央の大きいシュトリヒ記号をシャーマンに合わせて、シャーマンの車体幅を数式に入れて距離を算出すると、距離ダイヤは 1000 メートルに設定して中央の大きいシュトリヒ記号すこし下にずれた。

砲身上下を調整するハンドルを回した。

砲身が振動しながら上に微かに動いた。

最後の調整。手で回転ハンドルを慎重に回して、車体の真ん中を狙った。

シャーマンの操縦士のハッチから出ている頭が見えた。

冷や汗が流れて、頬に伝って落ちている。

右手を射撃レバーに当てて、一息つくと、さっと射撃レバーを引いた。

近いところで雷が落ちたような音が脳内に響いた。

砲身が後退して、薬莢が飛び出た。

撃たれた米軍戦車が後部のエンジンから黒煙が噴き出した後、車体のあらゆる隙間から爆炎が上がって、砲台が爆発して飛び上がった。

「戦車撃破!」

ルディー軍曹は口を開いて信じがたい顔でハンスを眺めた。

照準スコープに目を当てたまま、ハンスは叫んだ。

「次弾装填!」

敵の隊列はぴたりと止まった。

次は五番目の M10 駆逐戦車を狙う。

ハンスは砲塔を旋回し、砲身を下に少しずらした。

発砲後の砲身は熱膨張で硬くなり、元々垂れる状態が硬直な真っすぐに伸びる状態に変わるため、砲弾の軌道が変わる。

素早い手練れで再び発射レバーを引いた。

M10 の砲塔の装甲が貫通され、黒煙があがり動きが止まった。

残りの戦車はハンスの位置を把握したように、一斉に砲塔を旋回させて、農舎に向けた。

トラックと半履帯車からも歩兵が次々と降りてきた。

「機銃手、射撃開始!」

命令を受けたギュンター少尉は MG42 のトリガーを引いた。

一秒 20 発の弾を飛ばせる MG42 の発射音の連打は車内に響いた。

そのうち、ハンスは三発目の砲弾を飛ばした。

シャーマンの側面装甲が貫通され、花火が噴き出た。

遠方の発砲音とともに空気を裂く音がやってきた。

砲弾が次々と農舎の壁を破って、大きい穴を残した。

僅か数十秒の間に農舎が蜂の巣となった。

何枚かケーニヒス・ティーガーの装甲を掠って当たったが、この距離では 180 mm の厚い装甲版にはどうにもならなかった。

砲弾が金属のボールのように容易く弾かれていく。

大きい爆発音が起きて、細かい金属の衝撃音が車体に響いた。榴弾まで打ち込まれた。

むやみに撃ってきているというのは、米軍はここにいる怪物の正体を把握していないからだ。

しかしハンスとワルター以外の二人がたじろいた。戦車兵でない人にとっては、装甲に砲弾が当たった高鳴りが地獄の叫びに聞こえるに違いない。

「怯むな!この距離で当たってもかすり傷だけだ!」

ハンスは口ががたがたと震えているルディー軍曹に大声で叫んだ。

「装填手!徹甲弾装填!」

少年とは思えないほど威厳のある声で叱られ、ルディー軍曹が恥を考える隙を与えず、砲弾が次々と飛んできた。反撃が休むことがなく、ハンスは敵の戦車を次々と撃破していく。

異常をようやく悟ったように、残りの米軍戦車は道路を離れ、分散し始めている。

軽装甲の車両は逃げ足の速い勢いで後退していたが、ハンスは榴弾を飛ばしてその間に爆発させた。トラックのフロントガラスが粉砕して、垂れて死んだ操縦士の姿が見えた。

逃げようとトラックから出てくる米軍兵士は前方機関銃の弾に裂かれて、血の霧が漂った。

束の間に農舎の穴から覗けるのは燃え上る戦車の残骸と廃棄されたトラックだけだ。

「車体九十度回転。左側の壁を破って出る」

マイバッハ製の水冷エンジンは轟音を発し、震動とともに戦車が動き出した。

農舎の壁が子供の積み木のように押しつぶされ、ケーニヒス・ティーガーが農舎の左側に飛び出た。

左側は雪原に四台のシャーマンが進んでいる。

やっぱり、囲むつもりだ。残りは右側を迂回しているのだろう。

距離が詰められたら、いくら厚い装甲でも破られる。

距離が全てだ。

移動している敵戦車の距離を戦場で正確に計算する時間があるわけがない。だからここは射撃手の経験と、強いて言えば、勘、というようなものが働く。特にレバーを引くタイミングは、いくら計算しても計るようなものではない。

突然、平行して進んでいるシャーマンが進行方向をばらばらにした。

ケーニヒス・ティーガーだと分かったから。

はやく左側を始末しないと。

農舎の左側の壁から飛び出さない内に、右側の戦車はこっちの居場所を正確に把握することができない。

言った途端、空気を裂くような鋭い音がして、ケーニヒス・ティーガーの周りに土が跳ね上がり、甲高い爆音が響いた。

「操縦士(ファラー)、前進すると同時に車体方向を俺が指定した角度で回せ!腕前を披露する頃合いだ!」

前進と同時に車体を回せば、敵は移動速度と距離を計りにくくなり、狙う時に見定めるべきずれの計算も狂ってしまう。

Z の字で動くケーニヒス・ティーガーは砲塔を回り敵に追従しつつある。

砲を動かしているハンスはペリスコープで周辺を観測することができないため、一瞬で見た狙う先でない戦車の位置と距離を自分の脳裏の地図に写し記し、これからの移動ルートを推定して次の目標と自車の回転角度を見定める。

熾烈な撃ち合いの中でハンスが唯一考えていることは、非常に簡単な言葉だ。

生き残ることだ。


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「ハンス君にしてもらうことはとても簡単だ。生き残ることだ」

レアに向けていた頃の笑顔を収め、鋭い視線をグラフ大尉はハンスに注いでいる。

「残念だが、あのシュタインベルガー中佐には戦闘区域における指揮権を持っているから、今の俺はお前たちをそのまま連れて投降することができない。俺の部隊にも投降を拒む人がほとんどだろ。SS の兵士はどんなものかハンス君には一番よく知っているはずだ」

常に顔に存在していたグライフ大尉の余裕は突然消えて、初めて見たグライフ大尉の硬い表情にハンスはたじろいだ。

「だから、混乱が必要だ。死にたい人に死んでもらい、生きたい人はそのまま生きる。言っている意味が分かるよね。ハンス君と虎の王の出番だ。その後、私はレアお嬢さんとハンス君を連れて米軍に投降する。よろしいかね」


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言っていたことは分かっているが、具体的なやり方は何一つ分かっていない。

命令通りにこの雪原を防御し、敵を通らせないことだけをしていた。


広い雪原に点在して上げられたのろしのような黒煙が数十体の戦車の残骸から出ていて、夕日に赤く染められた白い雪から血が滲んでいるように見える。

上部ハッチに身を乗り出したハンスは燃えている戦車の残骸から昇る黒煙を見つめている。

何発かの砲弾を食らったケーニヒス・ティーガーの装甲には変形や凹みが見えるが、大きな損傷はなかった。

残存の米歩兵と軽装甲の車両は既にケーニヒス・ティーガーの射程距離から離れていた。


沈黙が車内に流れている。しかしそれは戦闘開始前とは違う沈黙だ。

思わぬことを成し遂げた際の驚きで誰とも口を利けなくなったのが理由だ。


突然重砲の発砲音らしき低音が地平線に響いた。密に響く低音がせっかちなドラマーが慌ただしくドラムを打っているかのように伝わってくる。

車長席に戻ったハンスはペリスコープから目を離し、慌ただしくスロートマイクに叫んだ。

「操縦士(ファーラー)、全速後退!後方の森に身を潜めろ!」

「一台の戦車相手に随分のおもてなしだ。クソ野郎!」

ルディー軍曹は上気して米軍を罵った。

履帯が熱烈に音を上げて、ケーニヒス・ティーガーは全速に後退している。

大きい爆発音が次々と戦車の前方に起き、掘り起こされた大量の土砂が空中に飛び上がり、散らばるように周辺の地面に落ちた。

ハンスたちがいた農舎は無数の砲弾を食らって倒壊状態に陥った。


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シャレーでシュタインベルガー中佐との会話が終わった後、レアはハンスと引き離され、街はずれにある町長のマンションに連れていかれた。

安全な場所でいい物語を作ってくださいと、シュタインベルガー中佐は言い残した後、すばやくその場を離れた。

五人の兵士が残され、マンションの守備に当たらせられた。


マンションの大きいリビングルームの中は重い雰囲気に包まれている。

紅茶、クッキーを前にしても、レアは口に運ぶほどの食欲がなかった。

入口の看守の鋭い視線が一つの理由だが、何より重いのは今後の身の振舞い方だ。

部屋の扉が開けられ、看守の兵士に目を合わせると男が入ってきた。

疲れ気味の顔、少し乱れたシャツ。

ため息をつき、ロランドの息子フランクがレアの前に座った。

「フランクさん。。。大丈夫ですか」

「ああ。レアこそ、無事にいてよかったが」

「ロランドさんはどこですか」

「親父は町民を避難させるために市役所に残っている。逃げられない人もおるだろ、真冬の中にどこに逃げるというのだ」

フランクは荒い息を吸い込み、震えた胸を沈静させようと試みた。

これから話すことに躊躇を感じるように見える。

「この戦いが終わった後、俺はドイツに逃げるつもりだ。やつらは協力すれば通行書を作ってくれると言った」

気おくれ顔で目を落とし、頬に苦しい強張りがあった。

「もう、レアちゃんを助けられないのだ。すまない」

俯いて、フランクの悔しさは顔を見なくても震えた体から感じ取られる。

「いえ、私が今まで生きてこられたのはフランク兄さんのおかげです。だから、どうか顔をあげてください。自分を責めないでください。私は、大丈夫です」

「俺はそんなに感謝される筋合いではないよ」

顔を手で覆い、あふれ出た涙を隠そうとする。

「俺は。。。俺は、ユダヤ人を死地に送った。最初は知らなかったが、知った後も、俺はやり続けていた。俺は怖かった。協力しない人は同じ場所に送られるかと思った。だから、それからあなたと顔を合わせることができない。あなたを見るたびに、罪が押しかかる感じがして。。。」

落ち込んだフランクを見て、レアは悲しい顔に変わって、優しく声をかけた。

「自分自身を助けてください。もう、そんなのはどうでもいいです」

「ほんとにすまない。。。すまない。。。」

拳を締めて、フランクは涙にむせび、膝まで深く俯いた。

扉の傍らに構えているドイツ兵は冷たい目で全てを見守っていた。


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夕日が落ちるとともに、戦闘の音がだんだんと静まっていった。

町からの爆撃音が消え、月光に照らされる夜にまばらな銃声しか聞こえていない。

森の中に体を潜んでいるケーニヒス・ティーガーは静かに眠っている。

ハンスは通信士の席に座り、目の前の無線機のノブを回し、ヘッドホンから伝わるざわめきに耳を傾けている。ほかの三人は周囲警戒のために外を巡回している。

戦車のバッテリーで灯された電気ライトと無線機の黄色の光がハンスの顔に注がれている。

「定時連絡だ。フェストゥンク、聞こえるか」

切れのいい声が無線から出てきた。

威厳のある低い声はそのままだが、声のかすれも感じさせた。

「こちらはフェストゥンク、ファルケ、聞こえますか」

ハンスは無線のヘッドセットを耳に当てシュタインベルガー中佐に返事をした。

フェストゥンク(要塞)とファルケ(鷹)のような分かりやすいコールサインを使うのは、ハンスの戦車が正式な組織から離れて独立作戦を実行していることを意味する。

「生きているのか。被害状況は」

「装甲に損傷は軽微。戦闘に支障なし。敵戦車十、そのほか装甲車両とトラック多数撃破」

「思ったよりやるな」

無線越しに鼻を鳴らす雑音が聞こえた。

「これで敵がお前らのところを突破するつもりがなくなるだろう。しかし敵の歩兵が後ろを突く可能性もある。念のために歩兵支援をそちらに向かわせる。夜は寒い。火を起こしてもいいのだ」

「敵は町に総攻撃を仕掛けたら、町の兵力は大丈夫でしょうか」

「そうであっても、お前たちは動く必要がない。そっちで待機していい。重戦車は市街戦において役に立たん」

沈黙が暫くの間流れていた。暗い車内にある電気ライトが微弱な光を放ち、ハンスの顔の輪郭がぼんやりとしか見えていない。

通信終了だと思わせる沈黙に、ハンスは受話器を掴んだままだ。

暗闇の中に少しでも頼りにできる存在がいることは、十六歳の青年にとってとても重要だったそうだ。

無線雑音を消し去る澄ました声に切り替わり、シュタインベルガー中佐は沈黙を破った。

「何でお前が戻ってきたのか。逃がしてやったはずだ」

「私には助けないといけない人がいますから」

鼻息で起こされた無線雑音がハンスの耳に入り、シュタインベルガー中佐は間を置いてから再び話し出した。

「お前の個人の事情を聞くつもりはないが、戦場を選んだお前はここで戦って、死んでいく同胞にも果たすべき義務がある」

無線越しでも、シュタインベルガー中佐の声の実直さと信念が伝わってきた。

「それを忘れてしまえば、今度は SS の大尉ではなく、俺の手でお前を殺す」

暫くの間、沈黙が無線の両側に続いていた。

脅しに聞こえる言葉だが、ハンスは恐怖を感じなかった。

シュタインベルガー中佐の声に含まれる信念と忠誠は、ハンスが長い間求め続けて、しかし、手に入れられないものだ。たとえ自分がその理由で殺されたとしても、それは当たり前のことで、不満不平を訴える筋合いはない。

ハンスの沈黙に、シュタインベルガー中佐は鼻息をつくと話の内容を変えて、先生のような穏やかな口ぶりで言った。

「ハンス、お前、何歳と言った」

「十六です」

「家族は」

「もういません」

無線の向こうに出されたため息の声が無線雑音となり伝わってきた。

「それでも生き残れ。通信は以上となる」


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二階の部屋のベッドの上に倒れて、レアは頭が真っ白だ。

午後は低い轟音があったものの、今は町からの音がもうすっかり聞こえなくなった。

どうしようもない。私はまだこのようにじっとしていて、何もできない。

突然マンションのライトが消えた。

部屋の扉が急にあけられ、看守の兵士の怖い視線が中に注がれている。

懐中電灯でレアの顔を照らし、また力強く扉を閉めた。

床の下からざわめきが伝わってきて、何が起きているに違いない。

窓が叩かれる音がした。

びっくりと目を大きく開き、レアは窓に目を向けた。

暗闇の中ではフランクの顔の輪郭がうすうすと見えて、レアは静かに窓を開けてフランクを入らせた。

テーブルにかけて、喘ぎながら辛うじて声を殺しているフランクのシャツの胸の部分には乾いた血の跡が残されている。

「やつらは信用しちゃいけない。逃げろ」

声を落として、レアに話しかけたフランクの目には恐怖が宿っている。

「これ、持っていけ。くそ。やつらは、親父を。。。」

一枚の手紙をレアに渡し、話を纏められない様子で、胸を撫でおろす。

「とりあえず逃げるのだ」

「どうやって、逃げるの」

「屋上に出て、屋根裏にある収納スペースに入るのだ。屋上には小さい窓があって、そこから入れる。やつらはその空間のことは絶対知らない。私は発電機を壊したので、きっとあなたが逃げたと思い、探しに出るのでしょう。その隙を狙って車で脱出するのだ」

フランクはレアの手を掴んで、二人は屋上に出た。

微かな月光の元、二人は屋根を伝ってこっそりと動いている。

「信用できないというのはどういうことだ」

「すまん。今はまだ知らないほうがいい。とりあえず私に付いてくれ」

声を押し殺す努力をしている二人は、微弱な音量でなんとか会話をしている。

「このあたりは、米軍の戦線からまだ大分離れている。私は戦えないので、ここの地下室にはやつらの監視下にある米軍兵士がいて、彼と一緒に行動したほうが安全だ。三人でここを脱出しよ」

フランクは腰に収めた拳銃を見せると、「それに私はこいつを使えない」と言って、屋根の一角に視線を送った。

屋根の一角には突き出す空間があり、そこには小さい窓があって、一人が辛うじて入れる大きさだ。窓に入って屋根の中の空間でしばらく二人は声を殺してじっと待っていた。頭上は三角形の天井で、箪笥のような古びた家具が置いてあった収納スベースだ。隅にはしごのような物体が置かれていたが、暗くてはっきりと見えない。

窓の外から騒ぎが起こり、車のエンジンが起動した音が聞こえ、続いて車の走行音が起き遠ざかっていく。


ハンスのために残るべきか、そのまま逃げるべきか。

真っ暗な空間の中でレアは必死に考えていた。

しかし何の結論にも辿り着けなかった。

また数分間が経つと、はしごのある隅にフランクが近づき、床を開けてぱっとはしごを落とした。

不安を一旦頭の中から追い払い、フランクの後ろについてレアが歩き出した。

こっそりと降りた二人は一階の大きなキッチンを目指した。

静かなマンションは薄い月光が差し込み、普段と違い、あやしい雰囲気に満ちている。

看守がいた石造りのキッチンは今すっからかんになった。

レアの手を掴んで、マンションの構造に詳しいフランクが壁を伝って、隅にある木扉に近づいた。フランクは小さい懐中電灯を取り出して、階段を照らしてみた。

二人は固唾をのんで、階段を降り始めた。

真っ暗な地下空間で、フランクはレアを安心させるために呟いた。

「絶対、あなたを安全な場所に送る。安心しなさい、レアちゃん」

暗闇の中にはフランクの表情が見えないが、声の平穏さから、冷静さを取り戻したそうだ。

階段が終わったのを足で感じた。

懐中電灯の光の柱が室内を差し込むと、椅子に縄で縛られている男の姿がみえた。

両目と口が布で塞がって、気を失ったように項垂れている。

フランクは男に近づき、両目の布を解いて、懐中電灯の光で当てた。

男は僅かながら顔の筋肉が少し動いた。

ライトブラウンの髪をもつ若い男だ。痩せた顔と無精髭。乱れた髪。

でも肌は滑らかで皺ひとつもない。

ぎこちない英語でフランクは男に話しかけてみた。

「あんた。生きているのか」

微弱な息をついている男の肩をフランクは揺らし、再び問うた。

「あんた。戦えるのか。起きろ」

「何言っているのか。。。分からない。。。」

長い間拘束されているようで、目の前の米兵が弱々しく頭を振っている。

僅かに開けた両目は二本の細い線のように見える。

「くそ、頼りにならないやつだ。二人だけで逃げよ」

しかし、若い男の若い顔とカーキ色の軍服を見て、レアの記憶が蘇った。

「あなた。お城にいたのですか」

困惑した顔で男はレアに目を向けた。

諦めずにレアはポケットの中からある物体を取り出して、男の前に示した。


「しっかりしてください。これ、覚えていますか」

チェーンがついていて、光沢を放つ小さい金属板を見た男は、表情が一瞬に変わった。

「どうして、ジョーンのドッグタグを持っている」

「あなたの友だちに預けられました。あの人のために力を出してください。立っていられますか」

拘束が外された男は首を上下に振って、重い体を起こし足で立たせようと試みたが、足が痺れたようで直ぐに躓いた。

「いいのか。レアちゃん。この男はお荷物になるだけだ」

「しかし。。。見殺しするのはだめです」

ため息をついて、フランクは腰に収めていた拳銃を男の手に渡した。

「銃は摑まえる?」

男は手にした拳銃の弾倉を緩やかな動きで外し、弾薬の確認をしてから弾倉を戻し、セーフティーを解除した。

フランクは小さく頷いて、男を肩で支えた。

緩やかな動きで三人が元の階段を登り始めた。

キッチンに戻って米軍の男に水を飲ませると、男は徐々に感覚を取り戻してきて、自ら語り始めていた。長い間友好な人間と出会わなかったからだろうか、早口言葉で喋っていた。

「名前はクラークだ。アメリカ軍の少尉。通信士に勤めていた。やつらの捕虜となってからはもう何週間か経った。一緒に捕まったアメリカの兵士がほかに大勢いた。森の中の小さいお城だ」

早口で言われた英語はフランクもレアもよく理解できず、困惑の表情でお互いをちらっとみたが、フランクとレアは自分を名乗って、話を続けた。

「クラーク少尉、私たちはここを出る」

「レア、私は先に車庫に向かい車を出すのだ。銃声を聞いたら私をほっといて二人で逃げなさい」と言って、フランクは静かにキッチンを離れた。


静寂に包まれたキッチンでクラーク少尉がいらいらと拳銃をいじって、不自然に体を震わせている。レアも不安の気持ちのまま口を利くことができない。車のエンジン音が聞こえないので、フランクのことが心配になってくる。

数分間経つと突然キッチンの扉が開けられ、二人は入ってくる人影を見つめていた。

クラーク少尉の顔に恐怖が上がり、動かそうとした瞬間、人影が先んじて銃を構えた。

「動くな」

流暢な英語だ。

ドイツ製の突撃銃 MP44 に狙われた二人は体が固まった。

練れ者の動きにクラーク少尉は気圧されて、銃を取った手が硬直した。

変な動きをすれば即撃たれると分かっているからだ。

「女はそこを離れろ」

震えだしたクラーク少尉は即座に銃を床に捨てて、両手を上げて投降の姿勢を取った。

二人の間に立っているレアはどうすればよいかわからず立ち尽くしていた。

もう我慢できないように SS 兵はレアに近づき、肩を摑まえようとした瞬間、SS 兵の背後から異様な音がした。

SS 兵の背後に何か金属製の物体が張り付いていて、SS 兵の後ろに立っているフランクが大きく喘ぎを吐いている。

背に包丁で刺されて、激しい痛みに襲われドイツ兵が地面に向けて銃を乱射した。

クラーク少尉は一足前に飛び出して、ドイツ兵の銃を抑えて、力強く推した。

後ろに倒れたドイツ兵は背中の包丁が地面にぶつかって尖端が胸から飛び出た。

喀血しながら、ドイツ兵は目が不自然に瞬いて天井を見つめていた。

やがて、目と頬の動きが完全に止まった。

自分のやってしまったことにフランクは白けた顔で死んだドイツ兵をしばらく見つめていた。

クラーク少尉は地面に落ちた拳銃を拾い、フランクの肩を揺らして、震えた声で言った。

「ここを出ないといけないのだ。行きましょう」

気を取り戻したフランクは、先頭に立って、二人を連れて正面扉を目指していた。

フランクが正面扉に続く廊下を曲がると、正面扉には重い衝撃音が起こり、フランクを目にしたドイツ兵は突撃銃を構え連続で発砲した。

避けようと左に倒れたが、手遅れのようでフランクの体は既にもう一発の弾を食らった。

左の廊下に立っているレアとクラーク少尉は足を止め、レアが鋭い叫びを発した。

「レア。。。逃げるのだ。。。」

シャーツの血の跡が広がり、フランクは蒼ざめた顔でレアに唸った。

扉の外からドイツ兵の怒鳴り声が聞こえ、無闇な発砲をすぐやめろと甲高く言われた。

「どうしよう。どうしよう。殺されちまう」

床に尻餅をついたクラーク少尉は恐怖のせいで狂乱に頭を振っている。

やがてフランクは最後の一息を呑んだ。

口も、目も開けたまま、体が完全に止まった。

拡大した瞳孔にはもう生気が宿っていない。

目の前で親しい人間の死姿を見るのは初めてだ。

恐怖を感じるのを予想していたが、レアに今感じるのは悔しさだ。

一瞬で命が消えた。もうこの人と出会うことができないし、話すこともできない。

悔しい顔を俯いて、レアは狂乱に陥ったクラーク少尉を見つめた。

レアは泣きたい気持ちを抑え、クラーク少尉の手を掴んだ。

「落ち着いてください。私は絶対あなたを助けます」


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三人のドイツ兵は正面扉に慎重に足を踏み入れた。

一番前の兵士は片手で拳銃、片手に懐中電灯を持って、前面を照らしながら足を運んだ。

後ろの二人は突撃銃を構えて、左右の扉を確認しながら、前の兵士に追従している。

廊下の男の死体を一瞥して、先頭のドイツ兵はキッチンを目指し始めた。

キッチンに続く廊下が狭く、懐中電灯の光が廊下全体の幅を照らせた。

光の先に黒髪の少女とカーキ色の軍服を着た男の姿が見えた。

男が少女の真後ろに立って、突撃銃をわざと見せるよう高く構えた。

「来るな!!近づくとこの女を殺すぞ!!」

クラーク少尉は震えながらも強気を装って叫んだ。

背中の冷たい銃口を感じて、レアは冷静な態度で突っ立っている。

クラーク少尉とレアを前に、三人のドイツ兵は戸惑った顔でお互いを一瞥してから足を止めた。暗い環境では誤射の可能性を危惧し、三人ともトリガーに構えた指を緩めた。

「出ていけ!後退しろ!」

先頭に立ったドイツ兵は後ろの人に合図を出して、三人ともゆっくりと後退していた。

レアの背中に銃口を付けたまま、クラーク少尉とレアは後ろに移動しつつ、キッチンの扉を触った。三人のドイツ兵の姿が消えたのを確認し、キッチンに入った二人は気抜けしたようにキッチンの床に座った。

「どうして俺を庇った」

左手を額に当て、息を深く吸ってからクラーク少尉は頭を垂れて、棚をもたれた体を一気に緩めた。

「あなたはやつらが手を出せないほど重要な人物だったら、俺を捨てて逃げればいいのだ」

半分しか分からないレアは、拙い英語の音節を並べて回答した。

「人を。助けるには。理由。いらない」

横に座っているレアは、先ほどのドッグタグを再び取り出して、クラーク少尉に渡した。「あなたの、仲間のもの」

「ジョーンのやつ。逃げたとしても俺たちのことを忘れていなかったのか」

ドッグタグを引き取ると、クラーク少尉は拳でドッグタグを握りしめた。

罪悪感に苛まれているように、表情が苦しくなった。

「あなたは、俺なんかの人を庇うな」

冷笑混じりの吐息に少尉の表情が強張った。

「俺は軍を、仲間を裏切って情報をドイツ軍に渡した。だから今まで生き延びた」

恥ずかしい思いで無意識に声を抑えている少尉だが、誰かに伝えたい気持ちが声の荒さから感じ取られた。自分ひとりだけが生き残って感じた罪悪感は長く長く背負って、それでも生きるために裏切り続けた。

「ここで死んでも文句を言えないな」

少尉の最後の言葉が重い空気に溶け込んだように二人に押しかかっている。

肩にかけた銃の重さに耐えられないように頭も背も後ろの棚にもたれた。

「まだ。死ぬことをやすやすと口にして」

顔を膝に沈めて、低い声で独り言のように聞こえるレアの言葉には、嘆きと怒りの感情が感じられた。自然な感情が湧いて、口にしているのはフランス語だとすら忘れている。

「どうしてだよ。。。どうして皆は死にたがっているの。。。あなたにはきっと待っている家族がいるでしょう。どんな苦しくても罵られても自分を思っている人のために生きるんじゃないのか」

すすり泣きはじめる少女に対して、クラーク少尉はどうしていいかわからなく、ただ口に謝りの言葉を並べている。

「すまない。何を言っているのかわからない。すまない。。。」

「苦しいのは私だよ。どうして、あなたはずっと苦しそうな顔をして。。。どうして、あなたを撃つなんかを言い出せるの。。。」

薄い月光が差し込む薄い闇の中、少女はとりとめなく泣き続けた。

恐怖と不安より、手に掴んでいた小さな希望が跡形無く消えた時のほうが、人の心を砕けて絶望に陥れる。もうなにもかもを失いつつある少女にとって、手に取っている唯一の光も暗闇に吸い込まれることになりつつあった。


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針葉樹が競って姿を現し、落とされた影が雪地に刺さるように尖っている。

登っていく朝日が徐々に熱気を上げ、戦場でもそれに呼応するように戦闘の激しさが増していく。アルデンヌ地方は現在、撤退中のドイツ軍のしんがり部隊と進撃してくる米軍との間に険しい近接戦闘が繰り広げられている。


その中で、ティルマの町は朝から米軍の爆撃機の群れが町の上空を通り抜け、南の丘に向かって飛んで行った。町や森には一枚の爆弾も落とされず、エンジン音は響かせ主戦場に向かっている。それとは対照に、町から伝わって来た戦闘音が激しく、時折巨大な煙が町中から立ち昇るのが見えた。

西側の森に入っているケーニヒス・ティーガーは、降下兵とともに敵兵を掃討している。

雪原の西側にある狭い迂回路を通り、森を抜けてハンスたちの背後を狙う算段だった米軍。その動きが降下兵の偵察部隊に察知され、米軍は仕掛けられた罠にはまった。

三方から射撃を受けて、激しい火力を浴びる米軍は敗退し始めている。

ケーニヒス・ティーガーから飛ばされた榴弾は木の幹を削り剃って、雪地に爆発して破片を高速に散らした。木の後ろに隠れても破片に裂かれた米兵の死体が雪を赤く染めた。

「指揮官、無線通信だ。ファルケより入電」

「こちらフェストゥンク」

「フェストゥンク、町側の状況は変わった。こっちはもう対戦車兵器が尽きた。敵の戦車はまだ多数残っており、町の中心部を押しかかっている」

砲声と銃声が通信の中に背景音のように舞い起こり、戦況の激しさが伺われた。

「お前の戦車は今唯一の希望だ」

「ファルケ。市街戦は機動性に欠ける重戦車に不利です。近距離ではどれほどの厚い装甲も容易く破られちまう」

「大聖堂の塔から敵戦車の位置を把握することができる。これから町に残された兵全員がスモークグレネードを使うよう命令を出し、町全体をスモークで覆わせる。お前はその隙を狙って背後から敵戦車を撃破せよ」

「中佐。。。私は」

「コードネームを忘れるな。今は躊躇う余裕がない」

反論を許さないシュタインベルガー中佐の口調に事態の緊急性が感じられた。

「英雄は自分になろうとするものではなく、時勢にて作られたものだ。時が来たら自分を信じるしかない。以上だ」

怯えるのはやはり止めることができない。

無理だ。私は。そんな勝算のない任務を成し遂げるわけがない。

英雄になれるはずがない。

ハンスは中佐との通信が終了した後、再び深い恐怖に包まれていた。

無意識に操縦席に目を向けると、待ち伏せているようなワルターの目線に合わせた。

半分火傷に覆われている顔。彼の目を見ると燃えていた仲間の目も見えた気がする。

私が逃げたから、彼らは死んだ。燃えながら死んでしまった。

全ては私のせいだ。

涙を堪えて、歯を食いしばった。

まだ逃げてたまるか。

この町にいる兵士全員、私のことを頼りにしている。

しかしレアはどうする、私が死んだら彼女はどうなる。

葛藤がハンスの胸の縛り付け、心臓には無数の枝葉が生え心臓を緊迫させたようだ。

「おい、小僧。まさか行くと思うのか」

俯いて苦しい顔を見せたハンスにルディー軍曹は更に言った。

「貴様。死にたいのか。大尉の命令を逆らう気か」

「お前、何を言っている。シュタインベルガー中佐の命令は先に聞こえないのか!という了見だ」

しかめづらをするギュンター少尉にルディー軍曹は腰のホルスターに収まった拳銃を取り出して向けた。戦車内の狭い空間で二人は睨み合いを続け、お互いの殺気が湧き出ている。

「撃ってみろ!この狭い空間では弾が弾ければどっちが死ぬか分からいもんだ!」

「素手でもお前を殺せるのだ。この軟弱もの!」

「両方とも黙ってろ!!!この戦車の指揮官は俺だ!!!」

二人を威圧する声が鋼鉄の殻の中に響いた。

唾が滴り、獣のような双眸。

獣の目の中にあるのが恐怖か、自信か、不安か、勇気か、獣自身にも分からない。


空白がまた訪れた。今回は白い壁にいくつかの油絵がかけられた。

心臓が鼓動するたび、壁が振動し、空気を圧縮して空白そのものを崩そうとする。

壁の一点から赤いスパークが現れた。

やがてスパークが空白を食い尽くす炎となり、そこにかけた油絵が強い炎に呑まれて、隅から隅までキャンバスが燃え続けた。

ハンブルクの家、赤い夕日に染められた川、雪が積もった青い湖のほとり。

全てがなくなって、残されたのは真空の中に存在する暗闇。

一点の光明が現れ、花火のような光が閃くまで。


「これで混乱を作れる」

目を開け、冷静に戻ったハンスは平坦な声で車内に発声した。

「俺たちの突入によって起こされた混戦、スモークに満ちた町。敵を殲滅する好機ではないか」

ハンスの強い眼差しに向けられ、銃を持っているルディー軍曹の瞳はギュンター少尉とハンスの間を右往左往している。

やがて、視線がハンスの瞳に留まって、何か悟ったように鼻息をついて、銃を下ろした。

「そして、今回は誰も死なせない。俺を信じてくれ」


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朝日の光が換気窓に差し込んで、レアの顔に明るい四方形の影を残している。

いつ寝たんだろ。

周りを見て、「誰もいない。。。」と言うと、突然心臓が打たれたようにレアは体が飛び上がり、キッチンを走り回った。

クラーク少尉はどこだ。

焦る気持ちを抑えきれず、レアはキッチンの扉をぶっつけるように開けて、マンションの外に向けて走った。マンションの正面扉を抜けると、太陽のまぶしい光が強く差し込み、レアは目を細めた。しかし、視野の中には誰もいない。あるのは雪地と広がる森だ。

「よ。俺はここだ」

後ろから声があがり、レアは振り向いた。

正面扉の横にクラーク少尉は壁にもたれて座っている。

どこか吹っ切れたような顔をしている。

「何が起きた」

「朝だ。明るくなって、あんたの寝顔を見ると、俺はついに決心をついて自ら出てきた。あんたをもうこれ以上巻き込みたくないから。だが、出てくると、誰もいないのだ」

積もった息を吹き出し、クラーク少尉は扉を指差した。

「これが残されたようだ。何書いているのか分からいが」

レアは正面扉に釘った一枚のメモ紙を取って読み始めた。

”レア、米軍の少尉を連れてティルマの大聖堂に来てください。ハンスと私は待っています。話し合いで解決しましょう”

脅し文句か、本心なのか、レアには見分けることができない。

私に選択を委ねているのか。

クラーク少尉は既に立ち上がり、マンションを離れる方向へと歩き出している。

レアはクラーク少尉の背中を見て顔が沈んだ。

「レア、どうなっているのかわからないが、好機だ。逃げましょう」

「クラーク少尉」

ハンスを助けたい。実は、心の中では既にそう決めていた。

フランクを、父母を殺したのは全部ドイツ人だ。

それでもハンスと一緒にいたい。

大好きだ。もう一度、彼に会いたい。

どんな犠牲を払っても。

もう迷わない、もう足を止めることはない。

「私と一緒に来てくれますか」

レアの眼差しの中に含む石のような意志に動かされ、クラーク少尉の表情にある焦燥感が消えて、目を少し落として考えると右頬を上げて余裕ぶった笑顔を作った。

「お前、助けがいるみたいだ。レディを助けないのはアメリカ流に背く行いだ」

真剣な眼差しを戻し、クラーク少尉はライフルを肩にかかげて、かっこつける姿勢を取った。

「お前に助けられた。俺が付いていくぜ」


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町を掃討している米兵が突然現れた煙幕に戸惑った。

白い煙幕に包まれた街道には異様な雰囲気が漂う。

装甲車のエンジンの轟音しか聞こえない異常な静けさだ。

指揮戦車の砲塔から身を乗り出した米軍指揮官は無線越しに冷静に指示を出している。

敵が距離を詰めて攻撃をしかけるつもりだと判断し、全員前面に銃を構えて、襲撃に備えるよう命じた。


突然後方から閃光が閃き、指揮戦車の砲台が砲弾を食らった。

金属同士のぶつかりが一瞬の閃きを出して、徹甲弾が貫通した砲塔の前後に大きい穴が残された。

戦車指揮官は顔に恐怖が残されたまま、項垂れて死んだ。

背後からの襲撃だ。

気が付く米兵が集団的に振り向いた。

後方の厚い煙幕の中に進んでいるのは巨大な胴体をもつ金属怪獣。

砲口から発射後の白い砲煙がまだ浮かんでいるまま。

車体前方の対歩兵機関銃が掃射し始め、進路上の歩兵を蹴散らしていく。

ケーニヒス・ティーガーは移動しながら砲口を回し、M3 装甲車に向けて榴弾を打ち込んだ。飛び上がった車体から破片が高速に飛び散り、周りの米軍兵士をばらばらに切り裂いた。血の霧がとっさに白い煙幕を赤く染めた。

切り裂かれた兵士の悲鳴の中に生き残った兵士は態勢を立て直し、対戦車用のバズーカを持ち出して、使うための二人組を組みはじめた。

近距離なら携帯式対戦車ロケット弾でもケーニヒス・ティーガーの装甲を破壊できる。

バズーカを肩に乗せ、ケーニヒス・ティーガーの後部エンジンを狙う米兵が目を細めた。装填手がロケット弾を入れ込み、射手は目をケーニヒス・ティーガーに定めてトリガーを押そうとする瞬間。


射手の頭が炸裂した。

血が散らされ、赤い霧となった。

FG42 自動小銃のライフル弾の雨が周りの兵士にも降りかかった。

建物に隠れていた猟兵たちは装甲車が破られた隙を見て、血に飢える猟犬のように獲物を狩りに出た。

煙の中に敵味方の姿をうまくつかめないゆえ、米軍は火力優勢が発揮できなかった。

建物の影に隠されていた幽霊(ゲスペンスト)が突然姿を現し、ピストルとナイフで攻撃をしかけた猟兵は死を覚悟した上、敵に飛びかかった。

接近戦は激烈の極まれりだった。

ナイフで刺された人の悲鳴、ライフルストックが骨を粉砕する音が血の雨に鳴り響く。

「発砲炎を確認。次の戦車、そのまま直進。距離 30!建物の反対側」

無線からシュタインベルガー中佐の声が銃声と悲鳴の中にもはっきりと伝わった。

車体の高いケーニヒス・ティーガーは発砲炎の起きたところが他の戦車とは違って、微細な違いに気づければ位置を特定することができる。鷹の鋭い目をもつ空軍中佐にとってはどうということは無い。

ケーニヒス・ティーガーのエンジンが高鳴り、周りの戦闘を後にして前に進んだ。

「建物に突っ込む!衝撃に備えろ!」

石、ブリックと木の破片が飛ばされて、ケーニヒス・ティーガーが巨獣のように建物の壁をつぶして飛びだした。すぐ目の前に一台のシャーマンの車体後部が見えた。

背後を取られたシャーマンは砲台を回す時間も与えず極近距離で撃ちぬいた。

爆発の衝撃波でケーニヒス・ティーガーですら激しく揺らされた。

「次、十時方向、距離 50」

無線からシュタインベルガー中佐の次の指示を受け、石とブリックを潰しながら回す履帯が軋む音をあげ、ケーニヒス・ティーガーは巨体を動かして、十時方向の家屋に向けて壁を破り入った。

さっき通った街道から激しい銃声と爆発音が立て続けに死の渦に響いている。


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レアちゃんへ。


あなたは何時頃この町にきたんだろうか。

わたしにはもうはっきりと覚えていない。

しかし最初に出会った日のあなたの姿が今でもはっきりと浮かべられる。

フランクがあなたをこの小さい町に送り届けた時、一人の小さい少女が車を降りた。

まとめ上げられた黒髪が鳥打帽に隠され、厚いコートをまとったあなたが寒さで震えて、とても可憐で弱々しく見えた。迷う顔が俯いたまま、わたしを見上げることすらできなかった。


親しい友人に頼まれたとは言え、自分の血が流れていない少女にエレインはどうしても心を開き、自分の家族として受け入れることができなかった。

あのシャレーで暮らせるのはあなたの父親の意志だが、わたしはあなたを一人にすることを、実はしたくなかった。あなたがユダヤ人であることを気づかれる危険性を知った上でも、わたしと一緒にこの屋敷で生活を送ってほしかった。

あなたが一人であのシャレーでどうなっているか。寂しく感じているのか。怖い思いをしているのか。夜はずっと考えていたから、翌日に車に乗ってあなたの元へ駆けつけた。


最初はあなたがここにいるのはせいぜい一年だと思っていた。

戦争が終わり、あなたの父親があなたを迎えに来ると信じていた。

だが、戦争が続いた。

背が徐々に伸びていくあなたを見て、わたしは苦しかった。

この年の娘は皆学校に行き、綺麗な服を着て羽を伸ばしているのに対し、何もない森の中でレアちゃんが一人で寂しさを我慢しないといけないことに罪悪感を覚えた。

しかしわたしはこの町を統率するものとして、私情で町を危険にさらすわけにはいかなかった。この戦争が終わり、あなたがこんな苦しみから解放されることをずっと祈っていた。

ごめんなさい。レアちゃん、わたしにはどうしょうもなかった。できるだけあなたが不自由な生活を送れるよう見計らうことしかできなかった。


二つ目の冬が過ぎ、フランクからユダヤ人の送り先の噂を聞いた時、わたしは焦ってたまらなかった。あなたにこれを伝えるのは忍びないのだ。

これからあなたがどうなっていくか。考えるだけで心が痛む。

ごめんなさい、わたしは伏せることにした。

同盟軍がフランスに上陸し、パリに続きブリュッセルも解放されたと聞いて、わたしは半分嬉しく半分怖い思いをした。戦争が終わっても、あなたを迎えてくれる人がいないことを恐れている。その時、わたしは一つの決意をした。


思い返せば、この数年間はレアちゃんを抱きしめたことが一度もなかった。

それをすると、私は感情に呑まれて理性的な判断ができなくなるのを危惧していたから。

でも、ずっとレアちゃんのことを実の孫娘として思っていた。ずっと。

レアちゃんに嘘を吐いたわたしにはそんな資格はないが、レアちゃんを実の孫娘にしたいのだ。このくだらない戦争が終わったら一緒に暮らしましょう。家族として。


もう幼い顔を捨てた黒髪の少女はマンションの中で手にした手紙を読みながら、止まない涙を拭いている。拭ききれない涙が手紙に落ち、書かれた字が濡れて紙の上に変形していく。隣で戦闘の準備をしているアメリカの青年が深入りするつもりがなく、ただ黙々と装備の点検をしている。

わたしはこの森にずっと家族がいた。

私はそれに気づかなかった。自分が一人だと思い込んで。ひねくれて。

ごめんなさい。お爺さん。


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ハンスたちはケーニヒス・ティーガーを建物の間の中庭に止めて姿を隠している。

既に五台の戦車を撃破したケーニヒス・ティーガーは塗装に黒く煤けている箇所があっちこっちに見えている。

ケーニヒス・ティーガーの動きを隠すための白い霧が既になくなり、町中の戦闘が激化する一方だった。戦車内の無線機から伝わる声をハンスは真剣な顔で聞いている。


「広場に入ると残りの五台の戦車がそこにある。煙幕が散った今はもう隠れ戦法が通じない。これから猟兵たちは総攻撃をしかけ、できる限り敵の目を引いてあげる。通信は以上とする!ご武運を!」

返事を待たずに切られた通信は決戦の到来を告げたように、

戦車内の全員は黙り込み、狭い空間でも遠方の何かを眺めているような視線で前方を見ている。エンジンがダウンした今、空気に残されたのは硝煙とガソリンの匂い、そして重い呼吸音。

「操縦士、エンジン始動(ファーラー、モートーアイン)」

激励の言葉はもう無用。撃破された戦車数はハンスの言葉の権威を示した鉄の証。


ケーニヒス・ティーガーが向かう先にある建物の反対側に円状の広場があった。

三本の道路を繋ぐ広場には米軍の戦車が多数止まっていて、既に後方の状況を知っているかのように、三台の戦車が後方に向けて陣形を構えている。残りの二台が大聖堂に繋ぐ道に向かっている。

突然一軒の建物に塵の波が落ちた。突き出した砲身が塵から姿を現す瞬間、爆炎が上がって、一台のシャーマンが亡魂となった。

残りの二台が建物に向けて発砲した。

家具、壁がごちゃごちゃになり、天井からブリックと木材が大雨の勢いで降り注いでいる。姿をくらましている敵に向けて、シェルマンがむやみに建物に発砲しているせいで建物の上部が土砂崩れのように前に滑り落ちた。

敵の目が倒壊中の建物にひかれている瞬間、ケーニヒス・ティーガーは建物の横から出て、広場から伸びる街道に入った。街道を横通る瞬間、ハンスはまだ発射レバーを引いたが、シェルマンの側面にあたった砲弾が壁に投げたボールのように弾かれた。

「弾かれた!震動め!」とハンスは罵った。

進みながら発砲すれば、弾は必ず移動中の震動によって歪みが生じる。

高速に進むまま次の広場に面した建物に突っ込んだケーニヒス・ティーガーのエンジンが黒煙を放ちパワーを出している。建物の基地は地面より少し高く作られていたため、ケーニヒス・ティーガーが斜め上に向かって重い体を引っ張っていく。

先ほど倒壊した四階の建物から広がる塵がこの一帯を厚い煙幕で覆っている。

敵戦車はケーニヒス・ティーガーの位置を把握しかねるまま、むやみに先の街道を撃ち続ける。

ケーニヒス・ティーガーは砲口を広場に向けたまま次の建物の中に入った。

砲手席に座るハンスの頭上から瓦礫がハッチにぶつかる不規則な金属音が伝わってきた。

照準の中には煙と塵しか見えない。

きちんと狙えなくても、この距離じゃ何処に着弾しても戦車が戦闘能力を失う。

頭の中に敵戦車の位置を記憶したハンスは、壁越しに敵戦車の位置を計らって発砲した。

照準器に目を当てたままハンスは、破られた壁の穴から一台のシェルマンが爆発後の黒煙を上げているのを見た。

残りの一台のシェルマンはようやく気がついたように砲口をゆっくりとハンスたちがいる建物に回している。広場の反対側に構えていた二台の戦車も車体を回し始めて、ハンスのほうへ向かってきている。

「狙われている。建物から出せ!」

地面を踏み潰す履帯が異様な軋む音を出し始めた。

無理やり建物の中にくぐり抜けたせいで駆動系には過剰な負担をかけた。

「駆動輪から変な音が出たぞ!このままじゃ駆動系が持たない!」

「平地に出せ!全速で広場を回すんだ!」

ハンスは広場の状況を観察するため、砲塔上部の穴から頭の半分を出した。

残り三台のシェルマンの砲塔が追跡しながら回っているのが目に見えた。

空気を裂く音が飛んだ。

三発の砲弾が砲塔の近くを掠めて飛び、一発が前面の傾斜装甲に弾かれて、深い凹み傷を残しておいた。

運が良かった。まだ狙われたら持たないかもしれない。

ハンスは敵戦車の位置を見ながら、瞬時に数式を頭の中に浮かべて計算をし始めた。

シェルマンの砲塔の回転スピードは 15 秒で一周する。

ケーニヒス・ティーガーの最高時速は約 40 km、換算して秒速 10m 。

つまり。「広場中心から 30 メートルまで距離を詰めろ!」

ハンスは車内に戻り、操縦士のワルターに大声で指示を出した。

「そんなのわかるわけがないだろう!」

ペダルを踏み潰す勢いで戦車に全速を出したワルターは、無理な要求に怒声をあげた。

広場のブリック​タイルを敷いた地面に螺旋線を描いているケーニヒス・ティーガーは大きい軋む音を出して敵戦車に近づいている。

シェルマンの砲塔が獲物を追いつこうと鋭いモーター音を上げて回っているが、広場を回る俊敏な虎に振り回されていた。

先ほどの市街戦で全速を走った際、ハンスに感じた速度と回転角度の異常がこの判断に導いた。この数日間は気温変化が大きかったゆえ、町の地面にはすでに薄い氷の層が出てきてしまった。

ケーニヒス・ティーガーの 70 トンの車体をすばしこく制御し、滑らせるには操縦士の技量にかかっている。地面から伝わった反動にあわせて、左右の履帯の回転速度を瞬時に変えることによって、滑らかな回転が初めてできることだ。普通は機動性の悪い重戦車ができない俊敏な動きに米軍砲手が目を瞠ってケーニヒス・ティーガーが照準から消えていくのを見るしかなかった。

先ほどの連続の発砲により、車内の温度が苦しいほど昇り、硝煙の臭いが鼻に刺すように激しい。喘息を吐きながらも、ハンスは砲塔の回転ハンドルを全力で回し、目を瞠って照準の中の戦車を追っている。

もう少しだ。照準が激しく揺れる中でも、きっとあるのだ。激しい波が穏やかになる瞬間。

極近距離で移動している戦車が照準の中に消えたり、ぎりぎり見えたりしている。

波が収まっている瞬間。

ハンスは発射レバーを引き、戦車を撃破した。

もう一台の戦車は車長が敵の位置を確認するために、ハッチから体を出した。それでも手遅れだ。ケーニヒス・ティーガーの砲口から爆炎があがるのを見て、立ったまま撃ちぬかれた車体から燃え立つ炎にのまれていた。

仲間の燃える死体を見て、最後に残った一台シェルマンも激しい勢いで動き始めた。

弔い合戦にでるシェルマンは全速を出し、キング・タイガーを追いかけている。エンジンの悲鳴が冷たい空気の中に共鳴しあう。

お互いを追尾する二台の戦車が広場を中心に回って撃ち合っている。回転時の震動で弾丸が大きく外れ、周辺の建物に当たって瓦礫と粉塵が飛び上がる。

「もう徹甲弾がない!」

「榴弾装填!」

ルディー軍曹の叫びにハンスは考える余裕がなく即座に判断を下した。

シェルマンの回転スピードが速い。このままじゃ背後に回されることになる。

そして砲塔の回転速度もシェルマンに追いつかない。

このままじゃ背後が撃ちぬかれる。

ハンスが対策に苦慮している間にもシェルマンがますますケーニヒス・ティーガーの背後に近づいてきた。

「ワルター!俺が合図を出せば、煙幕弾を放つと同時に右の履帯に急ブレーキをかけろ!」

「何をする気だ!まさか!」

「そうだ。一か八かだ!」

ハンスは後ろ向きのペリスコープに顔を移して、シェルマンの車体前半が既に視野に入っているところ、「今だ!」と叫ぶと、ハンスは煙幕弾の発射ボタンを押した。

ケーニヒス・ティーガーの周りに煙幕が爆発した勢いで広がり、ケーニヒス・ティーガーの姿を消していく。

固く止められた右側履帯が強く地面に食いつき、赤色のタイルブリックを剥ぎ取っていく。煙幕の中でケーニヒス・ティーガーは全速運転の左側履帯に引っ張られて地面を滑りながら荒っぽく大回転を成し遂げた。エンジンの入った後部車体は虎が振り出すしっぽのように円弧を描いていく。

激しく震えている車内で強い遠心力を感じながら、ハンスが砲塔回転ペダルを踏み、砲塔を車体と直線に戻していた。

パンと、一発の砲弾が煙幕に飛び込み、前面装甲を掠って飛び去った。

後部エンジンだと思われた場所を狙ったシェルマンは的を外した。

やがて、ケーニヒス・ティーガーの車体がほぼ 180 度を回ったころ、ハンスは叫びだした。

「全速前進!」

煙の中から飛び出したケーニヒス・ティーガーは獰猛な虎のようにシェルマンに突っ込んでいく。

次弾が装填されるまで、ぎりぎりまで接近する、と思いつつ、ハンスは口の中で、「一、二、三」と、秒ごとに数えた。

先ほどの砲撃戦では敵の装填速度を把握した。

最短でも七秒かかるので、残り五秒だ。

「四」

極近距離まで詰め込んで、照準の中にシェルマンの砲身の穴が目を刺すように大きく見える。

「五」と数えた途端、ハンスは躊躇なく発射レバーを引いた。

88 センチ口径の主砲が噴火して、砲弾が秒速300​メートルの超高速で飛び出し、目標へ突き進む。

極近距離で爆発した榴弾の爆発音が凄まじかった。

強い風圧で煙と塵が四散し、地面の雪が飛ばされ銀色の霧を形成した。

ケーニヒス・ティーガーの中でも衝撃波が壁を貫き通し、金属が強い衝撃を受けた時の高鳴りが乗員全員の脳裏に響いた。


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銀の色だ。

嵐に見舞われた森は朝を迎え、銀色の輝きを放っている。

その輝きの中に灰と銀の毛を持つオオカミが佇んでいる。

長い間待っているように、森の出口で座って長い前足を伸ばしている。

鋭い視線は相変わらず自分に向かって刺してくる。

私は顔を上げて、その灰色の瞳を見返した。

心の中に悲しい気持ちがどうしたか一瞬こみ上げて、私は目を落とした。

足元の雪がとても眩しくて、目を閉じたいぐらい。

ため息をついて、私は歩き出した。

森の出口に向け、恐れずに大きな足音を立てて歩いていた。

オオカミとすれ違った時は、彼の口の喘息と喉の低い鳴りが僅かに聞こえた気がする。

外見では判断できないが、きっとオオカミも疲れたのだろうと私なりに考えた。

森の外の光がとても眩しくて、その熱量を私は顔で感じた。

そろそろ、ここを出るのか。


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轟音が収まり、爆発で飛びあがった塵埃がゆらりと落ちている。

低い呼吸音と喘ぎがケーニヒス・ティーガーの車内を満たしている。

眩暈に襲われた乗員たちは項垂れたり、ヘナヘナと頭を壁にあてたりして、魂が抜けているように見える。

最初に動き出したのはハンスだ。

頭を大きく振り回し、不自然な瞬きをしながらゆっくりと体を起こして頭上のハッチを開けて外に乗り出した。

シャレマンの黒ずんで煤けている砲塔には深い凹み傷ができており、戦車が死んだ獣のように完全に動きが止まってしまった。中の乗員が衝撃波で気絶したとハンスは思った。

戦車から飛び降りて、ハンスは大聖堂に目をやった。

シュタインベルガー中佐がいたはずの塔はもう存在していない。

残ったのは建物の本体に繋ぐ低層部の残骸。

体を前に倒し、膝に手を置く。ハンスは大きくため息をついた。

戦車前方の横にある駆動輪のあたりに、ハンスは背をもたれて座った。

硝煙を吸いすぎたせいか、呼吸が体の動きに追いつかない気がして、胸を大きく上下させ酸素を貪っている。

ギュンター少尉とワルターがその間も続々と戦車から出てきて、ハンスと同じ向きで戦車の横にもたれて座っている。

三人の寛ぐ姿からまるで戦闘が終わったように見える。

実際のところ町の中では断続的な銃声が起こり続けていても、三人はそれに動じずぼんやりとしている。ワルターの顔をハンスがちらっと見た。火傷の瘢痕が残りつつも、顔に常に張り付いていた険しさも、目にまとわりついた憎しみも、もう見当たらなかった。

そこにいたのはただの、疲れ果てた普通の少年。


「ルディー軍曹は何をしている。戦車の中に」

暫く経つとギュンター少尉は始めて口を出した。

三人とも見つめ合って、肩をすくめた。

体が疲れ切った三人はそれに構わず考えるつもりもなかった。

後部ハッチが開けられた金属の軋む音がして、ルディー軍曹がようやく戦車から出た。

「大聖堂に集合。無線からの命令だ」

冷淡な口ぶりで、ルディー軍曹が座っている三人に伝えた。

「行こうか」

ハンスが何気ない顔で、指揮官として全員に伝えると、三人が立ち上がった。

戦闘時の険しい表情も、甲高い叫びも消えなくなり、今のハンスには十六歳の少年の気質が戻ってきた。戦車を離れ、ハンスは先頭に立って大聖堂を目指し始めた。

ようやく生き残ってレアに会えるのだと。

パンと、背後から銃声が起こった。驚かされ振り向くとギュンター少尉が前に倒れているところをハンスが見た。額に穴ができて、血が噴き出た。次の瞬間、ルディー軍曹がワルターにも拳銃を向けて発砲した。胸に弾が当たったワルターは尻もちをついて、喀血しはじめた。

一瞬頭が真っ白だったが、気を取り戻したハンスはワルターの元に駆けて、背中を支えて傷口を手で塞ごうとした。歯を噛みしめ、怒りと憎しみに満ちた視線をルディー軍曹に送った。

「そこをどけ、ハンス」

「どうして」

「どうしたって?もちろん大尉殿の命令だ。大尉殿が全員連れて投降するとでも思っているのか。人数が多ければ多いほど口を漏らす連中が必ず出るんだ。先ほどの混乱でも偽情報を流して SS と降下兵を殺し合わせていた」

悔しい顔をして、ハンスがルディー軍曹に大声を出した。

「この畜生め。さっき一緒に戦った仲間をやすやすと撃てるとは。お前人間なのか!」

罵られたルディー軍曹も激怒したように、銃を握りなおして大声で反論をした。

「先ほどの爆発も見たんだろ!あの国防軍の中佐も殺された!あいつが知りすぎたから!」

年下の子ともに侮辱された怒りを収められないまま、ルディー軍曹は続けた。

「いつまで赤んぼでいるつもりだ。いい加減にしろ!あの娘の面倒を見ていた町長も息子も俺がやった!戦闘に巻き込まれて死んだと、あの娘に伝えればいいんだ。なんだよ。貴様。一体生きたいのか、生きたくないのか!臆病な小僧のくせに、善人気取るんじゃないよ!戦争が終わればあの娘と一緒に楽しくやっていくのはお前も望んでいるのではないのか!口を噤んで、戦争で起きたことを全て忘れればいいのだ!」

正論を語っているような口ぶりでルディー軍曹がハンスに言った。

狂った。何もかも狂った。この世界は。

俺、一体何をしているのだ。

短気を起こし、ルディー軍曹はどたどたと二人に近づき、強い勢いでハンスの肩を掴んで飛ばして、ワルターに銃を上げた。

「やめろ!!!」

二発の銃声が同時に起こった。

胸から血がほとばしるディー軍曹が歯切れ悪く罵った。

「小僧、貴様。。。」

振り向いてハンスを見た瞬間、ルディー軍曹の体にさらに何発かの弾が当たった。

ギュンター少尉の拳銃を取って、自分に向けているハンスの姿が目に入った。

それは、ルディー軍曹の意識が残っている間の最後の景色だ。

ルディー軍曹の巨体が糸の切れた操り人形のように前に倒れた。

慌ただしく這うように進んでハンスはワルターの元に近づき、涙を堪えながら話しかけた。

「すまなかった。。。最後まで。。。俺は仲間を。。。守れなかった。。。」

ハンスの崩した表情とは正反対に、ワルターは吹っ切れたような顔をして、薄くにやっとした。まるで既に一回死んでいた人間が二度目の死を恐れない様子だ。

「指揮。。。うまくやったな。。。あんたを信じたかったよ。ずっと」

座ったまま、ワルターが息を絶った。

顔には恐怖も、憎しみも、悲しみもなく、残されたのは、失ってしまった宝物を再び見つけた時の安らぎさだけだった。


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ハンスはふらふらの足取りで大聖堂の扉を潜った。

正確に言うと、破れた木扉の残りの部分を避けて内部に入っただけだ。がらんどうの教会では壁が血に塗られて、SS 兵と降下兵の死体は床に倒れたり、壁やベンチに凭れたりしている。弾に撃ち抜かれた装飾品と壁に残された銃弾の痕は激戦があったことを示している。


大聖堂の教壇あたりはサンドバッグが積み重なって小さい防衛陣地になっていて、サンドバックの後ろに三人の SS 兵が警戒態勢を取ってハンスを見つめている。

サンドバックに囲まれている空間には弾薬箱が床の上に積み重なって、戦闘で壊れた家具が地面に転がっているのが見えた。その中に一枚のテーブルが綺麗な状態で据わって、その上に電源が入っている無線機がノイズを放ち続けている。グライフ大尉はそのテーブルの前に座って、何かの地図と書類を見て真剣に考えている。

サンドバックの近くまで近づくハンスに気づき、目を上げたグライフ大尉は、宴会でホストを賞賛するような高い声を出した。

「よくぞ戻ってこられた。よくやったね。ハンス君」

拍手したい気持ちを抑えて、続いてグライフ大尉が少し困惑した表情を見せた。

「あら、ルディー軍曹はどこにいるんだっけ。ま、ハンス君が生き残ってくれてよかった。これで無事に三人で仲良くやっていけそうだ」

「レアはどこだ」

「そんなに焦るな。こっちの準備作業はほぼ終わった。次は米軍に投降する旨を伝えればいい。レアはね、ちょっとした問題を起こしたが、最後に自ら来るのであろう」

ハンスはしばらく無言のまま立った。

やがて肩を落として体の力を抜いて大聖堂の長い椅子に座り込んだ。

「レアは生きているのか」

「ああ、もちろんだ。殺す気は端からなかったよ。私は誰に対しても恨みなどはない。与えられた任務をこなしてきただけの普通の軍人だから」

薄っぺらな態度で言われたグライフ大尉の冗談に誰も笑わなかった。

くたばれたように頭を垂れたハンスをみやると、三人の SS 兵はハンスに対する警戒を緩めて視線を大聖堂の扉に戻した。外から響いていた散発的な銃声が遠ざかっていき、戦闘が終わりに向かいつつある。

静寂な大聖堂の中にはグライフ大尉が筆を振るう音だけが響いている。

白い壁に囲まれている大聖堂の内部を、教壇の後ろから十字架に付けられた、体の半分を失ったイエスの木像が頭を傾けながら見守っている。

突然大聖堂内の静寂を破るかっちゃの音が響いた。

グライフ大尉と三人の SS 兵が戸惑いながら首を回し、音の元に向かった。

そこでハンスが軽機関銃を構えた姿が目に入った。

座ったまま撃っているハンスは、左から右側に掃射をかけた。

ボルトの往復する金属音と銃声が響き、撃ち抜かれて飛び出した血が周りの空気を赤く染めていく。反撃の余裕もなく、銃を構える前に三人の SS 兵が亡魂へと化していた。

打ち破られた祭壇からの木屑が空中に漂い、視野を遮る。弾倉が空になったハンスは銃を構えたまま煙の中を見つめている。煙霧の中から閃きがふっと現れ、銃声が起きた

ハンスの座っている長椅子の木が弾に破られた。ハンスは素早く床に横たわり、弾を避けようと身を低くして走り出し、柱を掩体に身を隠していた。

「おやおや、どうしたのハンス君。いきなり撃ってきて」

グライフ大尉の大声のほかに、祭壇から金属のカチャ音も立て続けに伝わってきた。

何かの武器を装填しているに違いない。

その間はハンスが返事することなく、柱の後ろで喘いでいた。


「返事しろよ!ハンス!」

ハンスの沈黙に苛立ったグラフ大尉は毒づき始めた。連れがいなくなって、計画も狂ったグライフ大尉は態度を崩した。

「このクソガキ!!お前の女を殺すぞ!お前たちはバカなのか!どいつもこいつもバカ余計なことをして!いいな。お前たちがいなくても、俺には別の手がある。プランBだ。だからもう一度考えよう!まだ間に合うのだ。三人とも米軍に投降して、無事にこのくそたれな戦争を逃れるのだ」

「もう、彼女の人生を壊すな。。。」

最初に自分に言い聞かせるように呟いたが、激動した心情を抑えきれずついに叫び返した。

「両親を殺して、今さら彼女に嘘をつかせて、何もない顔をして、この悪夢を一生背負わせるなんて、そんなことより、ここで俺とお前が死んだほうがましだ!」

「お前には何がわかる!俺は生きたいんだよ!今まで生きるため必死にやってきた!人を殺す!ハイ!拷問をする!ハイ!仲間を裏切る!ハイ!生きるためなら俺がどんな汚い手でも使ってきた!お前が死にたいなら、自分勝手に死んでいけ!クソガキ!」

MG42 機関銃が凄まじい連射音を出した。ハンスが隠した柱が粉塵を噴き出して蜂の巣にされていく。いつもの冷静さを失って、グライフ大尉の歪んだ顔には殺気に満ちている。

「貴様も SS の一員だ!偉いことを言うな!」

ハンスには突然激痛が走った。右手を見ると、小指と薬指の半分が飛ばされていた。

身を隠すため体の動きだけに神経が集中したから、弾が当たったことに気づかなかった。

痛い。痛い。

飛ばされた指のところを必死に握って、ハンスは柱に凭れて身を縮め、苦しい顔で俯いている。あまりの痛さで涙がこぼれ出た。


怖かった。実は死ぬのが怖かった。弾に撃たれるのが怖かった。


ハンス君は戦争なんかに向いていないよ。向いていないことはやめてもいいんじゃないですか。ハンス君は優しい人だから、人を殺す仕事なんかできないのは当然だろう


違うんだ。私は戦争なんて、戦うなんてできなく、人にも優しくできないただの臆病者だ。

家族まで私は捨てて逃げ出した。

町が爆撃で破壊された次の日、父親が生きているのを見た。

その目は希望を見たかのように私を見つめていた。

懇願するように顔色を変え、微かに動く口には何かを語っているように見えた。

しかし私は父親に近づこうともしなかった。

見ていないふりをしてその場を離れた。

私は父親を捨てた。

何でこいつが生きているんだ。

その時の私はそればかり考えていた。

本当は私の中の誰も愛していないのだろうか。

自分を偉く見せるために、大きい口をたたいてみんなを守るふりをして、いざという時、自分を守るために人を切り捨てるような、卑怯な人間だ。

そんな弱くて卑怯な私を救った女の子がいた。

そして、私に生きる意味を与えてくれていた。

一人で絶望の中に生きても人への優しさを忘れていない、美しく強い女の子。

ユダヤ人の彼女はとても愛おしく、私の憧れだった。

大人たちが教えたのはきっと嘘だ。彼女より私たちの方がずっと底辺で醜い人間だ。

もう少しで彼女はこの悲惨な暮らしから解放されるのだ。

彼女が幸せになるのを見たい。そのために私がどうなってもかまわない。弾に粉粉にされて、苦しみながら死んでも、彼女を救いたい。

嘘をつき、悪夢を抱えるまま生きていくのを見たくない。


腰帯につけた柄付き手榴弾を手で掴む時そう考えていた。

レアが救われるのなら俺の命は惜しくはない。

そう思いながら、手榴弾のピンを引いた。

12 SS の少年兵が素手で戦車相手に戦う時の光景を思い出した。戦車砲を撃つと周辺に必ず煙が生じ視野が悪くなる。その際に飛び出して、戦車に極限まで近づき、前方機関銃が見えると、束にされた手榴弾を砲塔に投げ出す。

砲身がほとんどの場合破壊され、使えものになくなってしまうが、運が良ければ後部のエンジンに落ちて戦車そのものを爆発させることができる。

もちろん前方機関銃に裂かれた本人はもう確認するすべがなかった。

できるだけ近づき、確実に相手を仕留める。

弾が切れかけの際に大きくなる往復機構の金属音が聞こえ、ハンスはタイミングを狙い、柱の陰から飛び出した。

何も考えず、ただ教壇の前に駆ける。

弾倉を替えている大尉は突然の起き事に恐怖が湧きあがり、慌ただしく拳銃を収めたホルスターに手を伸ばした。

拳銃を取り出した時はもう遅かった。

拳銃を上げるまでの余裕すら与えずハンスは教壇から僅か数メートルのところまで詰めてきた。

大尉の手にある拳銃は斜め下まで上げられ、緊迫の中で大尉がトリガーをなりふり構わず押すと、弾が当たって地面から砕片が飛び上がる。

そして、一発の弾がハンスの太ももに当たった。

倒れかける際に走る勢いで手榴弾がハンスの手を飛び離れ、手榴弾の柄が回って曲線を描きながら大尉の目の前に飛んでいき、顔の横を通って大尉の後ろにある弾薬箱を目指している。

走馬灯のように時間が凍結した。

二人を待っているのは爆発の音とその後の静寂。


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大きい爆発音が大聖堂のほうから聞こえてきた。

町の中心部に身を隠しながら進んでいるレアとクラーク少尉は思わず顔を上げた。

大聖堂の塔が倒壊したとはいえ、元々他の建物より高い大聖堂の本体が直ぐに二人の目に入った。

町長のマンションから町の中心部までの街区はドイツ軍の後方なので、近接戦闘の跡が見当たらないが、砲撃で倒壊した建物が多数存在している。残った建物は窓と扉が固く閉まっている。

砲弾で掘られた穴を避けながら、二人は無人の街道の上に足を速めた。町の西側から伝わってきた銃声と比べて大きく響いた大聖堂の爆発音がレアの焦りを煽った。

ハンス。どうか無事でいてください。


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塵が舞い降りて、ハンスの横顔に厚く溜まっている。

前に倒れた姿勢で地面についたハンスは目を閉じて、口を開けたまま横顔を地面につけている。喉に物体が詰まった時のような苦しい悲鳴をあげ、ハンスは突然目を開けた。

両手で体を支えて、ハンスは顔を上げて周辺を見回した。

粉砕されたイエスの木像。ばらばらに飛ばされたサンドバック。燃えている木箱とテーブルの残骸。

座りなおして、ハンスは激しい耳鳴りに見舞われ、俯いて苦しい喉音を吐き出している。

耳に触ってみると、血が耳から出ているのを感じた。

教壇の横の柱からぬっと人影が現れた。

ゆらゆらと歩いている姿。目指す先のないように弱い足取りでぶらついている。

そこにあるのはグライフ大尉のばらばらになった体。

左の腕が飛ばされ、半分の顔が潰された。

ちぎれた服から骨の塊と筋肉の繊維が見えて、地獄から訪れた屍のような姿。

「俺は。。。生きたいだけだ。。。くそ。。。くそ。。。好き嫌いでやっていたわけじゃない。。。ごめんなさい。。。母ちゃん。私はちゃんとやるから。やり直すから」

意識が混乱しているようで、グライフは意味不明の言葉を並べ始めた。

血が溜まりすぎた喉から詰まった声が出ている。

ハンスを見た瞬間、怒りが顔に上がって殺気立った。

「死ね。。。死ね。。。死ね!!!」

最後の力で叫びだした大尉が残された右手で拳銃を上げた。

諦めたようにハンスは後ろに倒れ、茫然と穴が開いた大聖堂の天井を見上げている。

塵に塗られている顔は空白の絵みたいに、表情も、感情もない。

ハンスの中に残されたのはただ一つの短い願いの言葉。

レア。ちゃんと生きてくれ。


銃声が起きた。


炸裂したのはグライフ大尉の右手だ。

大尉は茫然と自分のなくした右手を見て、口を開いたまま銃声の先を見やった。

大聖堂の脇扉から人影が現れた。

それは左肩を壁にかけ、体を支えながら FG42 を構えているシュタインベルガー中佐の姿だ。軍帽がいなくなり、ぼろぼろの軍服に塵が張り付き、頭から血が顔に流れて、右目の眼帯を濡らしている。

驚きと怒りが渦巻くグライフ大尉の顔を見つめながら、シュタインベルガー中佐は容赦なくトリガーを押した。

銃声が雷のように大聖堂の中に鳴り響いた。

血の霧が広がり、頭の一角が削がれたグライフ大尉はしばらく立った姿勢を取っていたが、突然崩れた積み木のように体が地面にどんっと落ちた。

血が軍服に染みた中佐は重い呼吸を繰り返して、ゆっくりと近づけてグライフ大尉の顔を見つめた。

「愚かなやつだ。人を始末するのなら、自分の目で確認しないとな」

ゆったりとした足取りでシュタインベルガー中佐はハンスの元にも来て、ハンスの上に向いた顔を見て話しかけた。

「重傷はないようだ。立てるか」

傷を負っても平然と話しかけてくるシュタインベルガー中佐は、ハンスの左上腕を掴んで、ハンスの体を引き起こした。座る姿勢を取ったハンスは、ため息をついて、左手を地面に付け辛うじて立ち上がった。背の高いシュタインベルガー中佐を前に、閉じそうな目を何回も瞬き、直立の姿勢を取った。

「ギュンター少尉はどこだ」

逸らしたハンスの目を見て、中佐の顔には少し感傷の色が現れたが、直ぐに元の硬い表情に戻った。

「任務を完遂したな。これで米軍は撤退せざるを得ないのだろう。お前の戦果は必ず上に報告してやる。ご苦労だった、ハンス上等兵。お前はこれから撤退してもらう」

軍人の威厳ある姿を一片も失わない中佐の前でハンスが息を吸って僅かに気を取り直した。

薄い笑いを浮かべて、シュタインベルガー中佐は目をハンスから離し、周囲に倒れている部下と SS 兵の死体を見回した。

「中佐は」

淡々とハンスは聞き返した。

「俺は生き残った部下を探す。そのあとは、ま、お前に関係のない話だ」

FG42 自動小銃を掴みなおして、シュタインベルガー中佐は大聖堂の正面扉に視線を送った途端、眉を顰めて、いつからそこに立っている二人の人影を直視している。

ハンスも扉のほうへ振り向いて、そして頬を震わせた。

そこに立っているのは、黒髪の少女。

動きやすそうなセーターと長ズボン。簡潔に結びあげた黒髪の上にベレット帽。

「レア。。。」

「ハンス。。。」

二人はお互いの名前を呟いた。声は聞こえないが、注がれる視線でお互いを呼んでいるのが分かる。

震える頬、揺れる視線、強張る顔。二人には見えない不思議な結びつきで結ばれている。

突撃銃を斜め下に下げ、クラーク少尉は警戒態勢を維持したままレアに聞いた。

「レア、この少年はあんたが言っていた人か」

軍服を着ていないクラーク少尉の英語を聞いて、シュタインベルガー中佐は直ぐに反応し、一番近い柱の後ろに駆けて姿を隠した。

「ハンス!敵だ!銃を取ってこっちに来い!」

シュタインベルガー中佐の素早い動きに驚かされ、クラーク少尉も慌ただしく近い柱の後ろに身を隠した。

それに対照的にレアはぴくっともしなく、瞳の中にはハンスの姿しか映っていない。ぼろぼろの黒い軍服。塵と油の汚れにまみれた顔。

心に苦い思いがこみ上げて、レアは後先考えずにハンスのところに駆け付け抱きしめた。

「ハンス!投降しましょう!」

涙がこぼれそうな目でハンスの顔を見てから、ハンスの二本の指がなくなった右手を手に取った。

「もう戦わないで。指はどうしたの。痛くはないの」

髪を結んでいる青いスカーフを解して、ハンスのなくなった二本の指の関節部を包みはじめた。

目の前にいるレアをみて、ハンスは眉をひそめて苦しい表情になっている。

指の痛みなのか、胸の痛みなのか。区別がつかない。

ハンスは激しく喘ぎ始めた。

涙を抑えて、レアを抱きしめたい気持ちを抑えて、ハンスは俯いて苦しい吐息をこぼしている。結び目を作り終えて、レアはハンスの頭を自分の肩に優しくもたれさせた。

破られたモザイク窓ガラスを通して差し込む光は二人の体に複雑な模様を映している。

警戒姿勢を取っている二人の軍人の間に、一人の少女と一人の少年がこの崩れた現実の中に寄り添っている。


ブーツが地面を踏む重い足音が響き、二人を現実に呼び戻していた。

二人の横を通り過ぎたシュタインベルガー中佐は FG42 を下げたまま、クラーク少尉のいる正面扉へと着実な足取りで近づいていく。

二人から距離を取ると、中佐は FG42 を持ち上げて、クラーク少尉に向けて構えた。

「止まれ!銃を。。。銃を捨てろ!」

柱から身を乗り出して銃を構えているクラーク少尉にシュタインベルガー中佐は発砲した。

クラーク少尉は柱に背を向け、銃弾から身を守ろうとしている。

石の破片が柱から噴き出た。シュタインベルガー中佐は撃ち続けて、柱を削っていく。

なりふり構わず発砲している姿は、まるで当たらないことが分かったのにわざと柱に向けて発砲しているように見えた。

弾が切れた時のトリガーの金属音が響き、それに気づいたクラーク少尉は再び柱から体を出して、中佐に向けて連続発砲した。

FG42 小銃が地面に落ちた衝撃音が響き、中佐はゆっくりと長椅子に向けて歩き出した。

ゆらゆらとしている上半身と重い足取りから、痛みを堪えているに違いない。

どっしりとした体を長椅子に預け、中佐は重い呼吸を繰り返している。

目の前に近づく人影を見上げ、中佐は青い血色の顔に皮肉のような薄笑いを見せた。

そして、初めて会った時のように、じっとハンスの目を見つめた。

衰弱した体でもなお強い眼差しを投げかける。

「雰囲気がちょっと変わったな。初めてあった頃の無様とは全然違う。もうなにか掴んだのか」

弱まった声でゆっくりと放った言葉には強い意志が含まれるのをハンスが感じた。

「中佐、どうして」

「塔にいたころ、爆発の衝撃を受けたから、そもそも長くは持たない体だ」

自分の胸と腹の穴を撫でて、シュタインベルガー中佐は身体の痛みで声が詰まった。

そして、誰かに聞かせてほしいように最後の言葉を語り始めた。

「初めは、三十年前の戦争でドイツの奪われた尊厳を取り戻すために、俺はふたたび戦場に赴いた。指導者は狂人であろうか誰であろうか、どうでもいいと思っていた。国のための戦争だ。妻と息子が殺される前に、俺は総統閣下が語ったこの戦争の正義を信じていた」

グライフ大尉の死体に視線を移して、何か冷たいものを感じたように、中佐は口を震わせて断続的に息をついていた。

「汚いものを見ないふりをし始めた。そして勝つために大勢の仲間と部下を死地に送った。この戦争にはまだ意味があるのか、疑いもしたが」

ハンスを見上げて、片目から送られた視線の鋭さは弱まった体と反対になおも強く刺さってくる。

「兵士になった以上、国を裏切ることは決してない。お前はどうだ。一人のドイツの男として、どんな選択をするのか、何を信じるのか。いづれにしろ、責任を背負って前に進むのみだ」

シュタインベルガー中佐が血の染まった袋からドッグタグを取り出して、ハンスの手のひらに渡し、そしてしっかりとハンスの手に握らせた。

「お前へのプレゼントだ。残念だが時間がないので、これで何とかしてやれ。元の持ち主に申し訳ないが」

中佐は自嘲するように鼻で笑った。

俯いて、中佐は最後の気力を使いつくしたようで、沈んだ声で話をした。

「大人として最後のお説教はここまでだ。行くまえに、一つお願いしたいことがある。懐のポケットに写真がある。それを私の手に置いてくれないか」

ハンスは中佐の懐に手を入れ、ポケットを探って一枚の写真を取り出した。写真の内容を真剣な顔で見ると、慎重に中佐の手に入れた。

「行きたまえ。彼女のところへ」

ハンスの後ろに立っているレアを見て、すっかり気力を失った中佐は目を閉ざして頭が垂れ下がった。


中佐には時間の流れを感じ取ることがだんだんとできなくなった。雲の動きに伴い日差しが緩やかに穴を開いた屋根から差し掛かって、空気に漂いていた塵と木屑が中佐の制服に降りかかった。

頭を垂れたまま、中佐は最後の力を出して写真を目の前に構えた。

そして意識が薄まった中佐は最後の言葉を口にした。

「マックス。ローゼ。俺は正しいことをしていたのか」

シュタインベルガー中佐が手に持った写真はゆらりと地面に落ちた。

写真には中年の女性と十代前半の少年の姿が映っている。

少年は顔が違うが、憂鬱で近寄りにくい雰囲気はどこかハンスに似ている。


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大聖堂を出た三人はレアのシャレーを目指した。

戦闘が終わっていない町で足を止め続けるのは危険だと、クラーク少尉はグライフ大尉が残したジープを使って二人をシャレーまで送った。

大小の傷を負ったハンスにレアとクラーク少尉は正規の医薬品を使って治療にあたった。ハンスはあまりの疲れで意識を失い、深い眠りについた。

町での戦闘が完全に終結し、米軍の増援が町の近辺に再びやってきた頃、クラーク少尉はハンスのことを秘密にするよう約束をし、レアに別れを告げた。

最後の一言は、助けられたご恩は一生忘れられないと。


ハンスが目を覚ますまでは長く経たなかった。

しかし起きてもあまり喋らず、レアの言う通り、休んで、食事をして、寝る。

グライフ大尉との間には何が起きたか、町でどんなことが起きたか、一切口にしなかった。

飛ばされた指にまとった包帯を見て、レアは心が痛くても深入りすることはできなかった。

ハンスが休養していた一週間、二人はうまく言葉を交わすことができなかった。

黙り込んだハンスを見るたびに、レアは気を落とした。

再びの再会で色々と語るべきことがあると思ったが、上辺の安い言葉しか口に出せなかった。


そしてある日の朝、食料が尽きて町に出ようと、レアは、ハンスの部屋の扉が開いたのを見て、慌ただしくシャレーを飛び出した。

ハンスはレアを待っているように、小さい木製倉庫の壁に背を預け、手を組んで俯いている。灰色のセーターとオリーブ色の長ズボン。MP40 突撃銃のストラップを肩にかけ、銃身を脇に下げている姿。

レアを見やると、立ち直して、淡々と告げた。

「ここでお別れだ」

「どうして。。。考えが変わっていないのか」

「そうだ。すまなかった。まだ色々と迷惑をかけたみたいだな」

気まずい笑みを頬に浮かべ、ハンスは詫びの意を両目に露わにしている。

「ハンス君が死ぬのはいやだよ」

飛行機の飛翔音がシャレーの上空に轟き、喧騒の中でレアはじっと、ハンスの顔を見つめている。

ハンスの顔に帯びているのはとても和やかな表情だ。

それはレアが今まで見てきたものとは違い、長い間積もった霧が消え去った、青空のようなものだ。どこまでも澄んで、どこまでも広がって、そして決して触れられない青い色に満ちている。

「ローランドさんも殺されたよ。私たちドイツ人の手によって」

ハンスは感情が含まれない、事実だけを述べている口調で言った。

「それは。ハンス君のせいでは。。。」

「私は、無実の人間ではない。ユダヤ人が殺されたことを私は知っていた。だが、何もしないことにした」

目を落とし、裁判台で判決を言い渡された犯人の諦観した雰囲気の中、ハンスはレアの顔を見つめ返した。

「お互いの世界に戻りましょう。私にはドイツに対する責務がある。それを捨てられない。捨てたら、私はまだ昔のようになってしまう」

レアを見つめた時の顔は悲しみに似ても似つかない感情がこもっている。

曇った瞳。緩んだ頬。微かに開いた唇。

ハンスはゆっくりとレアに近付き、肩にかけた銃を地面に置いて、優しくレアを抱いた。それは強い情熱をこもった抱きではなく、自分の家族を抱いているような暖かさと柔らかさに満ちた抱きだった。

「あなたから勇気をもらった。ありがとう」

ハンスと出会って以来、聞いたことのない優しい声音。

まるで別人みたいだ。

「いい人生を送ってください。今は一人でも、きっとまだ何処かであなたを愛する人に巡り合うでしょう」

世界の雑音が消えてしまった。彼の細やかな言葉だけが耳元で囁かされている。

そして、彼の両手が離れ、自分に向けて柔らかな笑顔をくれた。

彼の目には最初に会った時の空虚がなくなった。

恐怖で手が震える少年ではなくなった。

そこにあるのは、優しくも力強い目つき。

「いい夢を見させられた。ありがとう。お元気で」

地面に置いた機関銃を拾い、ハンスは向き直って去っていく。

「あ。。。」

レアは彼の後ろ姿を眺めて何かを言い出そうとするが、わずかな喉声しか発せなかった。彼の強い足取り、揺るがない姿を見て、レアは彼の決心を疑うことができなくなった。

叫びたい。

心の底から。行かないで、と。

心が裂くように痛くて、叫ぼうとする。

頭の中にはこの一ヶ月間に彼と共に過ごした日々が蘇った。

それでも言い出せなかった。喉に詰まった言葉がいくら積もってもそれらを出すことができない。パタパタと森に向かっているハンスは、姿がだんだんと薄い霧に消えていく。

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