第7話 崩れていく世界

一晩中暴れまわっていた暴風雪が一片の痕跡も残さず消えていた。

平らな湿原には厚い雪が積もって、森の枝から大きな雪の塊が断続的に落ちている。

水が流れるせせらぎの下に貯まった黒い土には豊富な有機質が含まれ、たくさんの生物を育てている。夏の時には様々な鳥が生息して、花の群生が大地を飾り付ける。

このベルギーで一番高い場所と称される湿原は現在、硝煙の匂いがくすぶっている。


「中佐。奴らが来ました」

若きドイツ国防軍の兵士が望遠鏡を降ろし、後ろに立っている士官に渡した。

中佐と呼ばれる人は厚いコートに包まれ、目に望遠鏡を当てたまま遠方を凝視する。

灰色の空軍軍帽に翼を広げた鷹の帽章。長い馬顔に精悍な顔つき。左側の目には黒い眼帯が付けられ、右側の青い瞳が澄んだ湖の水のように綺麗な色を放っている。

細長い体に強い筋肉がついて、口を開けずとも威厳を感じさせるような人だ。

望遠鏡には戦車の隊列と周りに分散されて警戒隊列を取った兵士たちが映っている。

米軍のM8装甲車、M3装甲車、シェルマン戦車。

大地の震動は敵の数を語ってくれている。

主に低木と草原で埋め尽くされた湿原は、僅かだが数本の木が寂しげに立ち尽くしている。既に木の位置と高さを把握している中佐は、望遠鏡内の敵戦車の高さと見比べば敵との距離が直ぐに分かる。


「ラインの守り作戦」(Wacht am Rhein)

ドイツ軍が後退しつつある西部戦線において実施された大規模な反撃戦。

目的は守りが薄いアルデンヌ地方の連合軍防衛ラインを突破し、ベルギー北部にある重要な補給港、アントワープを占領し連合軍の補給を切断することだ。これにより、ベルギーにおける連合軍を包囲し、撃破することが可能となる。「第二のダンケルク」を再現しようとする最高司令部(OKW)の野心を現す計画そのものだ。

それに何より、北部戦線はヒトラーの精鋭部隊、第1SS装甲師団と第12SS装甲師団が攻撃をしかけるため、たまごをつぶすように容易く米軍戦線を潰せると期待されたが、まさか。


ため息がもう尽きたぐらいがっかりさせられたシュタインベルガー中佐がいる。

降下兵が作戦前日に米軍後方に投下され、重要なクロスロードを確保して敵の増援を阻むのが任務だった。当時の予想では数日間も経たないうち敵防衛ラインを突破した装甲師団が到着し、それで任務が完了するはずだった。

が、もう何週もここに釘刺されている。

兵士たちの服がぼろぼろで、栄養が足りないせいで体もやせ細る。


エルセンボルンリッジ。

ほぼ作戦の出発地点のところに足止めされた装甲師団の無能ぶりに呆れた。

心の中で毒づくシュタインベルガー中佐は不満を抑えて、西の森に目を向けた。

森と湿原の境に姿を隠している対戦車砲も残りわずか数基、このままだと撤退せざるを得なくなる。

しかし無理だ。撤退すれば全てを失う。

敵はもう国境まで迫ってきた。ドイツにはもうあとがない。


中佐が右手を上げると、背後に配置された迫撃砲の隊列が撃ち始めた。

遠方の米軍の隊列の中で爆発が起きて、土が跳ね上がるのが見えた。

そして戦車と装甲車が歩兵を後にして前に出た。

司令官の性格が丸見えだ。戦車を消耗品としか考えていない。

情報通りだ。情報の提供者は好ましい人物ではないが、情報の内容は確実だ。

再び右手を上げて、拳を握って発砲を中止させた。

百メートル近くまで迫ってきた戦車隊は、森の影に隠れている中佐たちの姿を掴めないように、戦車指揮官が砲塔上部を出て、望遠鏡で周囲を見回している。

この程度の練度か、と中佐は鼻で笑った。

突然両側の森から閃光が閃き、戦車にあたった砲弾が鋭い金属音をあげた。

側面からの対戦車砲撃で何台もの戦車がやられた。

雪地に潜伏していた対戦車兵もパンツァーファウストを持ち上げ、近距離で装甲を撃ちぬいていく。

それと同時に甲高いライフルの発砲音が無数に起きて、弾の雨が後ろに残された米軍歩兵に降り注いだ。森から無数の閃光を見ている米軍は、何処に向けて反撃すべきかもわからず、そのまま地に伏せて制圧されている。

戦闘の勝敗が決した。

中佐は振り向いて後ろに立つ士官に、

「敵部隊が撤退後、観測部隊だけ残し、本隊を森へ移動させろ。砲撃がすぐに来る」、とさらっと言って、どたどたと森に入ってその場を離れた。


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中佐は森の深部を目指している。

途中は何回も自分の兵士とすれ違って、敬礼を交わすと両方とも素早い足取りで自分の向かう先へ急いだ。

急な斜面を降りた先、数十基のテントが木々の間に立てられる光景が見えた。

森の中は特に木が茂るところで、偵察機が上を通ってもなかなか見つけられない好立地だ。

中佐はテントの間を通って、中身に一瞥を送りながら進んだ。

並べられて白い布に覆われる人の形をしている物体。喘ぎながら苦しんでいる負傷兵たち。焚火を囲んで一休みを取っている降下兵たち。

野営地が暗い雰囲気に囲まれている。

中佐は指揮官用のテントに入って、木製弾薬箱を重ねて作られた臨時用のテーブルに向かって座った。テーブルの上に作戦地図が広がって、地図の中に無数の線と丸のマークが入っている。


ここに投下されてからもう三週間が経った。

ベルギーの最高所であるこの高原は、敵占領下のアーヘンからベルギー東部の各重点町を繋ぐ大路線が通っている。ベルギーに進軍した南部集団軍の側面が危険にさらされる恐れがあるため、作戦開始直後に降下兵が敵戦線後方に投下され、重要なクロスロードの占領を計った。作戦の一週間以内に装甲部隊が敵戦線を突破してここに辿りづいたはずだったが、エルセンボルンリッジでほぼ全ての主力作戦師団が止められたせいで、孤立無援の状態が続いている。


そろそろ撤退すべきだと、シュタインベルガー中佐は何回も思った。

疲弊した兵士、底をついた弾薬、死んでゆく負傷兵。

撤退しない理由は、祖国への忠誠か、それともただ命令なき撤退は厳しく罰せられるというヒットラーの厳命か。ため息をついた中佐は腕を組み、頭を冷やすために目を瞑った。

「シュタインベルガー中佐、よろしいでしょうか」

生真面目な顔を見せるのは二十代前半の、軍服を着こなしている好青年を思わせる少尉士官だ。開けたテントの外から声を出している。

「なんだ」

「我々は森で哨戒していた際に、不審な焚き火の煙を発見して、近づくと、樹洞の中に我が軍の兵士を見つけた」

「どこの所属だ」

「武装親衛隊のものだと思われます」

「思われる?」

シュタインベルガー中佐は疑わしげな視線を少尉に投げた。

「あの、民間人に見える少年ですが、このような封書を所持しています」

少尉から渡された封書を一瞥した。封書の正面にはスワスチカの紋章を掴んでいる鷹の印と「秘密」(Geheim)の印。

命令書か。

ここの無線機が壊れたから、下の SS 部隊を通じて送り届けられたのか。

「その兵士をここに連れてこい」


連れてこられたのは、右顔に大きな傷跡が残った金髪の少年だ。

ごく普通の民間人の服を着て、意識が遠のくような表情。

中佐は封書の封印を破って、中の命令書を目に通した。

暗号化された命令書。

自分の懐にあるコードブックで解読できるものだが、なぜこのような命令書は目の前にいる少年の手に渡ったのか、中佐は疑わしげに少尉に声をかけた。

「兵士手帳を所持しているのか」

「いえ、見つかっておりません」

少年の後ろに控えている少尉は硬い口調で返事をした。

「お前、下のSS部隊からきたのか」

魂の抜けたような顔。少年の視線が何も存在していない虚空に向かっている。

「シェル・ショックか」

だが下の城から来たら途中に敵兵がないはずだと思いつつ、シュタインベルガー中佐は疑わしい視線を送りながら、ゆらゆらと不穏な体を前後に揺らす少年の姿を見て、少尉に命令をくだした。

「ギュンター少尉。正式な命令を持っているから、我が軍の兵士だろう。飯をくれてやって、休ませろ」


一基のテントに案内された少年は、口を噤んだまま焚火の前に座らされた。

大きくもないテントの中に十人もの兵士がいて、みんな何気ない表情で少年を見ている。

柔らかい草と衣料品でできた臨時用のベッドの上に横たわって休んでいる兵士もいた。

開けたビーンズの缶詰を少年の前にさっと置いて、ギュンター少尉は言った。

「まともな飯をあげてやれないのはすまないが、大変な時期なので辛抱してくれ」

片膝をついて、失神したような少年にギュンター少尉は穏やかに話を続けた。

「名前と出身は」

少年は無言のまま、焚火を見つめている。

「こんなに若いのは、12SS のものか」

ため息をついて、ギュンター少尉は立ち上がりテントを離れた。


湿原の方向から着弾音の鳴りが立て続けに伝わってきた中、動揺も恐怖も一切示さず、テント内の兵士は元の姿勢のまま寛いでいる。

テントの隅に据えた円木の上に、ドイツ軍の制式ライフル Kar98k とラインメタル FG42 自動小銃が並べられて、降下兵用の丸く縁が滑らかなヘルメットが銃の先端にかかっている。

着弾音の鳴りを聞いて、少年は動揺したように顔を両腕に埋めた。

じっとしてきた少年の突然の反応に気づき、草の塊の上にコートを敷いて体を預ける兵士は話しかけた。

「おい、ガキ。その缶詰、食わないのか」

少年は顔を両腕に隠したまま何も言わなかった。

返事のない少年に薄笑いを見せて鼻を鳴らしてから、少年の元に近づき、缶詰めを取った。元の位置に戻り、口をわざと大きく開いて、スプーンで食べながらぐしゃぐしゃと咀嚼音を立てていた。


砲撃が止んでから半時間が経過した。

ギュンター少尉がテントの中に戻って、外の誰かに話しかけるように振り向いた。

「ここだ、ワルター。お前の知り合いかもな」

さらっとテントの中に入ったのは、十代後半の少年。

伸びた黒髪が目のあたりに差し掛かって、その下の半分の顔がひどい火傷を受けたようで、でこぼこの皮膚に瘢痕が異様な図形を成している。縮んだ皮膚に引っ張られた下瞼が垂れて、右目が歪んだ形を見せている。

焚火の前に座っている少年は、ワルターという名前を聞くと、顔を両腕から上げて、頬を震わせながらテントの入口を見やった。

立ち尽くしている黒髪の少年ワルターが見返して、怪物でもみたように目が大きく開いて、頬が引きつった。

「ハンス」

狭い喉の開口から絞り出された、鋭く聞こえるワルターの声は、気流の鳴る音がたっぷりとはいっている。喉にひどいけがを負って、上手く振動させないことが原因だ。

獣のようにワルターが喘ぎ始めた。殺意に満ちた瞳には焚火の前で恐怖にこわばる少年の顔が映った。

飛び込むようにワルターがハンスに押しかかり、ハンスの服の襟を掴んで地面に押し込んだ。

「お前!何であの時逃げたんだ!このくそやろ!殺してやる!」

引き裂かれてぼろぼろになった声が少年の顔にぶち込んだ。

ギュンター少尉は力づくでワルターを少年の元から引き離して、テントの外に連れて行った。

地面に倒れたまま、少年は体を縮めて腕で顔を隠そうとしている。

同じテントにいる降下兵たちは何も言わずに、表情も崩さないまま冷やかに全てを見届けていた。

「すまなかった。。。すまなかった。。。すまなかった。。。」

少年が口にしたのはその言葉の繰り返しだった。


暫く戻ってきたギュンター少尉は、ワルターと出くわした時の哨戒任務について語った。

服半分が燃やされ、半分の顔と上半身が恐ろしい火傷に見回され、喉から上手く言葉を伝えられず、気流が喉を擦るような音しか出せなかった。

敵戦線後方のため、病院にも届けられず降下兵の野営地に連れてきた。

一日、二日死ぬと思われたが、何かの執念にこの世に引き留められたように、もがきながら体の苦しみを乗り越えていた。その後、包帯をまとったまま戦場で敵兵が残した装備を漁る仕事を任せた。声を上手く出せないが、なかなかの仕事ぶりで、シュタインベルガー中佐からもよい評価が出された。


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その夜、金髪の少年は再び指揮官用のテントに案内された。

静かな夜に下がり続ける気温。

油灯の光に照らされているシュタインベルガー中佐の厳しい顔がやけに険しく感じられた。

「もう一度聞く。お前は下のSS部隊から来たのか。どうしてワルターがお前を知っているのか」

「は。。。」

無気力ですっかりと落ち込んだ少年からの単音節を聞いて、中佐の顔に不快感が上がった。

「ワルターとは知り合いだったら、12SS のものだろうか」

「は。。。」

「しっかりしろ!戦時中だ!お前は兵士だろうか!兵士でない人はどうしてここに来るのだ!」

「申し訳ございません」

目を地面に落として、中佐の鋭い目線が怖そうで目を合わせなかった。

「何で謝るのだ。もういい。下がってろ」

怒鳴りつけたことに後悔したようにため息をついて、がっかりした声で少年の背後に控えているギュンター少尉に命令を出した。

「少尉、こいつを連れて返せ。そのあとは作戦会議を開く。各隊の士官を集めてもらう」

ギュンター少尉は静かに敬礼をし、落ち込んだ表情をする少年をその場から連れていかれた。


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忙しい一日を終えて、ローランドは自分の郊外にある屋敷に戻って、赤い色のソファチェアに沈んでいた。増え続けている避難民と物資の不足が慢性的に問題になっている。戦争が今だ自分の町を訪れていないのは幸運だと感じたが、このままではいつ略奪が始まってもおかしくはない。市役所を徴用している米軍士官に米軍の進駐について問い合わせしても、あやふやの回答しかもらえない。


色んな抱えている問題の中で一番ローランドを心配させているのは、ドイツ軍がふたたび町に進駐しうることだ。農牧業と林業で発展してきたティルマには、まともな工業施設もなく、交通の便もかなりわるく、ドイツの占領時代においても軍隊の出入りがほぼ見られなかった。


それでも米軍との繋がりができていたら、話が変わってくる。

自分だけだったらまだましだが、町全体が報復を受けたら町長たる自分は責任重大だ。

そしてなにより心配しているのは自分が匿ってきた少女のことだ。

そう考えると、ローランドは頭をソファに沈めて、大きなため息をついた。


ふっとドアベルの鳴り音が正面扉から聞こえた。

続いてメードが慌ただしく廊下を走る音が響いていた。

精神的に疲れたローランドは、来客が誰であれ追い返すつもりだったが、部屋に入ってきたメードのことづてを聞くと、表情が変わって早い足取りで正面扉に向かった。


そこに立っているのは、厚いコートとスカーフを身にまとっている黒髪の少女だ。


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肩を揺らされ、ブランケットの上に倒れ寝ている少年が起こされた。

「おい。部隊が移動するから、お前も起きろ」

屈めているギュンター少尉の硬い表情が少年の目に入った。

テントの外には太陽が既に高く登った正午時刻だった。

起こされた少年は、ギュンター少尉の後ろに続いて、森を括りぬけていく。

昨日まであったテントの大半は少年が眠っている間に撤去されたようだ。

雪の量は昨日よりすこし減っていたおかげで、二人はすんなりと森を通って道路に出た。

そこには、暗いグレーの塗装を施されたフード付きのジープと二人の降下兵の姿が見えた。

中佐は後ろの席で目を瞑って休みを取っているようだ。

その後、シュタインベルガー中佐の隣の後部座席に乗せられて、森を潜る道路を走った。連続ヘアピンカーブの道路で降りているゆえ、タイヤチェーンをつけたにも関わらず、曲がるとき運転手の慎重さが感じられた。敵兵も恐れず山道を降りていくということは敵位置に関する情報にはよほどの自信を持っているようだ。途中は少年がただおずおずと自分の膝を見て口を出すことがなかった。シュタインベルガー中佐は少年の存在を気にせずに目を瞑ったままだった。


ある交差点でジープが左に曲がって、濃い森に続く狭い道に入った。

城の尖塔が森の上部に徐々と見えてきた。

やがて低い塀と鉄のゲートが見えて、二階の小さい建物がゲートの傍に立ち、二階の建物から機関銃の銃口が見えた。

操縦士はそれを気にせずにすらりとゲートを通った。

城前の広場には士官服を綺麗に着こなした大尉と迷彩服の兵士数名が位置を構えて、森厳な雰囲気が漂っている。シュタインベルガー中佐が来ることを事前に把握したように、グラフ大尉が城前の広場で立って待っていた。下車したシュタインベルガー中佐一味に向けて、グライフ大尉が右手を上げた。

「ハイヒトラー。シュタインベルガー中佐殿。お待ちしております。命令、お受け取りになったようですね。今朝、貴殿の先導部隊が既にきており、現在目標地点に向かっているようです」

「ハイヒトラー。ハプトストルムフューラー・グラフ。現在我が部隊は司令部の命令通りに移動していますが、司令部は我々の状況を把握しているのでしょうか。既に半月以上あのクロスロードを死守してきて、部隊は疲弊しております。町の防衛は現在の我が部隊にとって不可能に近いものです」

嫌味を帯びた眼差しを受け、グラグ大尉は苦笑を作ってみせた。

「残念ですが、国防軍の司令部が何を考えているのか私には知る由もありません。避けるべき戦は避けるべきというのも我々の考え方です。もうここにいらしたので、ご自身で連絡を入れてはいかがでしょうか。現にこの作戦区域の指揮権はもう貴殿に移譲されてしまいましたので」

話を一区切りにし、グライフ大尉は一緒に下車した金髪の少年に向かった。

「ハンス上等兵。先ほど、本部にお前のことを確認した」

キツネのような真意を掴めない目で少年の顔を覗き込んだ。

眉をひそめて、平静を装っている少年にグライフ大尉は皮肉めいた表情を見せた。

強張った体と不規則な呼吸音が少年の不安を暴いた。

「あんたの顔から見りゃ、こっちが言わなくても知っているんだろう。記憶喪失は嘘なのか、という問題に不問にしても、脱走兵はどう扱われるべきか、自分で言え」

大きく息を吸って、震えた体から絞り出した声は大きく聞こえるが怖さがたっぷりと感じられた。

「その場で射殺すべきです」

「それを知ってまた戻ってきたのか。それとも、ただ逃げ道がないのか。いずれにせよ。軍法は軍法だ」

腰につけたホルスターに手を伸ばした瞬間、シュタインベルガー中佐は素早く移動して少年の前に立った。

「いえ、この兵士の上官が現場にいない場合、作戦指揮権をもつ私が処遇を決めるのが筋だと思いますが、いかがでしょうか」

鷹のような鋭い視線でグライフ大尉の目を覗き込んだ。

「いつか役に立つかもしれません、我々のこれからの作戦の厳しさもご存じのはずです。戦時中になにが起きてもおかしくはありません。無益な人命消耗を避けたいと思います。それとも、私のことを信用しないのかい。親衛隊大尉?」

歪んだ笑みを返して、グライフ大尉はホルスターにふれた手をあっさりと降ろした。

「いえ、中佐殿。異存はございません」

「軍曹、君に任せた」

シュタインベルガー中佐は同じジープに乗っていた国防軍軍曹に近づき、耳元に短い何かを囁くと、城に続く坂道に向かった。グライフ大尉も後ろに続いていた。


広場に人がいなくなると、軍曹は少年の腕を強く掴んで、城の後部の森に向けて歩き出した。城の外縁防御には既に降下兵の兵士があたっているため、少年と軍曹は邪魔されないまま歩道に入った。

しばらく歩くと、軍曹は道の曲がるところで少年の腕を放って、顔に疑惑を浮かべた。

「なんか臭いな」

見回すと、視線を前に立っている少年に向けた。

そしてため息をついた後、少年の背中を軽く蹴った。

「小便まで出たか。臆病なガキだ。ささっと失せろ」

蹴られた少年はバランスを崩し、前に倒れて顔が雪にはまった。

「中佐の命令だ。戦争が終わるまで何処かで静かに暮らしてゆけ。もう自分を兵士など名乗るなよ。命を大事にしな」

軽々しく言葉を残して、名も知れない軍曹は何気なくその場から離れた。

暫くの間、少年は顔が雪にはまったまま動かなかった。

薄く降ってきた雪が彼の背中を白く染めた。

突然少年の喉から詰まった声が発された。

小さい喘ぎのような音が雪の中に押し殺されて、世界の何処にも伝わらなかった。


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それは霧が濃い日だった。

先日の曇雲が一晩の間に空の上から下に移り、森、湖、シャレー、全てを覆いつくすような勢いだ。未知に包まれながらも外の様子には関心を持たず、レアは二階のワークショップでイーゼルに載せた自分の画をみつめている。

荷造りをほぼ終えたあと、レアはゆったりとシャレーの二階に上がって、自分の描いていた絵画を一回り見ていた。この三年の自分を振り返っているような心情で、レアはやや悲しくも微笑みを頬に浮かべた。


一階に降りて、キッチンに向かってコーヒーを淹れた。

マグカップにたっぷりとブラックコーヒーを入れて、窓の外を眺めた。

霧が濃いせいで、ほとんど何も見えなく、湖の青い水が少し見えるぐらいだ。

そこにある長い桟橋の端には人影が見えた。

知っていそうな姿でレアは口をあんぐりさせた。

マグカップを置いて、慌ただしく外へ駆け付け、桟橋に向かって走った。

湖畔の桟橋で一人の少年が桟橋に座っている。

心の激動を抑えて、レアはハンスに近づき、後ろから声をかけた。

「何をしているの。仲間が見つからなかった?」

「ま。そんなこと」

返事の何気なさからハンスはレアが来ることを予想していたようだ。

懐かしい声を聞けてレアは胸を撫で下ろして、放心したようにため息をついた。

「私はたぶん軍隊に戻れないのだ」

「いいじゃない。戦争がいつかかならず終わるし」

「でも。他に行く場所もないようだ」

状況は掴めず、顔に心配な表情を浮かべてレアはハンスの隣に座った。

しばらく二人は沈黙して、霧に包まれた湖面を眺めていた。

「ね。教えてあげる。私、ここを出ることを決めた」

「どうしたの。急に」

「考えが変わったというか、心情が変わったというか、そんな理由かな」

明るい口調で言ってレアが曇った空を見上げた。

「なんだ。意味が分からない。家族の帰りを待っているんじゃないのか」

ハンスは聞こえないほど弱々しい声で問うたが、レアは曇った空を見上げたまま、自分なりに言葉を続けた。

「この森のことが好きだと思う。お父さんとお母さんの思い出がいっぱいで、静かで穏やかな空気、綺麗な景色、それらが好きだと思う」

レアは目の向かう先を空から湖の向こうにある森に移した。

「それと同時に、森が怖いとも思う。夜には一人で暗闇に囲まれて、周りには誰もいない時、すごく怖かった」

寒さのせいでレアは手のひらを擦り合わせて、目を落とした。

「人間の心もそうなんじゃないかなと思う。暗い闇と暖かい日差しで同時にできている。今の私は、それに向き合える、いや、向き合えようと思っている。たとえ一人でも、心細くて手が震えながらも、人の温もりと暗闇を感じたい、共感したい」

「心の中に暗闇しかない人間もいるんだろ」

その言葉を口にしたのは、寒さの中でもびくともしない、ただ湖面を見つめている少年。青い目は冷徹でダークブルーの湖のように深く底を計れない。

「行く場所がないなら、そのままベルギーに残ってはどう?」

レアの照れた笑顔に向けられ、ハンスの硬い表情は少し崩れていた。

本心で言っているのをハンスは知っている。

長くもない付き合いだが、それでも、知っている。

「なんだよ。ベルギーはいい場所だよ。美味しい食事が食べられるし、人も温かい。きっとドイツのような重苦しい場所とは違う生き方ができるよ」

少し息を抜いて、ハンスは半ば笑い半ば困惑の表情を見せた。

「俺、フランス語を話せないし、どうやって生きていくんだ」

レアは真剣そうな表情を装って、考えているふりをする。

「じゃ、とりあえず、うちのホテルで働いてもらおうか。貴方のスキルに相応しい仕事があるかどうかわからないが。でも試用期間は給料が出ないよ」

「それ、冗談だよね」

「ううん、本気だ」

笑いを我慢しきれず、レアは顔を両膝に埋めて隠した。

無言の時間が暫く流れていた。

空を覆った雲がゆらりと移動し、知らないうちに青空が雲の間から現れた。

霧が淀んでいた湖面には光が射し、霧を晴らしていく。白く染まっている森がぼつぼつと姿を現し、雪に覆われた湖面では白雪に微かな青みが映ってきて、無辺な白地に彩りを添えていた。

ハンスは青空を見上げて、沈黙を破った。

「ドイツの部隊に会った。でも、追い出された。全部、俺のせいだ。殺されかけたところでまだ誰かに助けられた」

強張った顔が震えだした。

「結局私は、最初から最後まで、どうしようもない人間らしい。助けられたばかりで何でもできなかった」

自嘲するようにハンスは笑い出した。

「ごめんなさい。助けてくれたくせに、こんな様を見せて」

ハンスの右手の震えが止まらなく、辛抱よく顔の動きを抑えているようだ。

レアはハンスの右手を和やかに握った。

「話していいよ。もう思い出したでしょう」

自分の家族の話を聞いているような優しい笑顔でハンスの目を覗きこむ。

無垢な黒い瞳。

「私、聞くから」


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「お前は司令部勤務だ。戦場に出るな」

ノルマンディーの湿った天気に鼻の調子が狂った中隊長がそう言っている。

鼻づまりの音が混じった、背の高い二十代後半の中隊長の冷たい音が耳に刺し込むように聞こえた。

同盟軍のノルマンディー上陸で後手に回された国防軍最高司令部は混乱の中、フランスとベルギーに駐屯していた部隊を向かわせた。第12SS装甲師団もそのなかのひとつ。

中隊長の話を聞いて、恥で顔が赤くなっても私は反論を口にできなかった。

周りで一緒に厳しい戦闘訓練を受けた若者たちの意気鷹揚な姿を見て、心の中の悔しさが計り知れない。

師部はノルマンディーの最大の都市、カーンの中心部から二キロ離れた郊外に本部を置いている。町の周辺から伝わってきた砲撃音は絶えなかった。イギリス軍とカナダ軍は現在総力をあげてカーンを攻め入れようとしている。

カーンには既に大量の物質が運び込まれていた。

弾薬、食料、燃料などが積み込んだ木箱を次々とあけて、一列に並んだ戦車隊から少年兵が忙しくそれらを戦車に運び込んでいる。中には背の小さい少年もいて、それでも自分の身長の半分以上の大きさを持った砲弾を両手で担いでいる。

12SS に仕える多くの少年にとっての初陣。顔に綻んだ紅潮が心の激動を反映している。

長い訓練での苦労がついに報われる時が来て、敵を殲滅し誇り高いドイツ兵士として故郷に帰れると思うんだろう。

なぜ私だけが残されたのだ。

激動する雰囲気の中、東部戦線で戦ったことある中隊長がわりと冷静な目つきで状況を俯瞰している。

「司令部勤務は大事な役目だ。きちんと務めたまえ」

それを言い残し、中隊長が大きいアンテナを張り付けた四号戦車に乗り込み、エンジンの轟音とともに戦車が遠ざかっていった。

渡された書類束を皺が出るほど力強く握り、後ろを向いて司令部にされた二階の建物に入った。


無線通信の騒音と書類の束に悩まされていた日々、記憶に耽ることが多かった。

ベルギーの訓練キャンプでのこともその中の一つ。

12SS 専門の訓練キャンプでほかの武装親衛隊から数多くの実戦経験者を招いて、未来の若き戦車兵の教育に当たった。

成績が優秀な生徒は戦車長の教育を受けて、無事に合格すれば、少尉に任官され、戦車長となる。というのは、12SS 戦車兵が踏むはずの出世道だった。紙上の知識、戦車の構造、戦術、運用方法を早くも掴め、実戦訓練でも上達が早かった。特に射撃において私は優れた腕前を見せた。キロ先の目標を狙うたび、僅かな度数で戦車砲がずれたら、狙い先に大きいずれが生じる。頭の中で計算するのはもちろん重要だが、実際の運用において、勘で判断することが多かった。


ある日、中隊長が泥と油に黒く漬けられた迷彩服をまとって、野戦病院の出口のあたりに立てられたテントの外に立っている姿を見た。

戦場帰りの雰囲気ではなく、落ち着いた様子に戸惑った。

この一週間、知り合いの顔が野戦病院に運ばれたのはほぼ毎日だった。

頭の半分が包帯に包まれ、手や足が一本なくなる人も多くいた。

「ハンス君か、どうだ、司令部勤務は」

「無事にこなしております」

と淡々と答えた。

それを気にしないように、中隊長がタバコを迷彩服のポケットから取り出して、火をつけた。顔を上げて、口から煙をわざと高く噴き出した。

「くそ熱い、ここは。戦車の中はなおさら耐え難い。ロシアの夏はよっぽどましだった。まあ、冬は地獄だったけと」

空を見つめながら、中隊長は思いを巡らせていた。

晴れ渡る空は綺麗な青色に染まっている。戦闘機が空を駆ける音がないゆえに、二人はこの危険が潜む青色を穏やかに眺められるのだ。

「君を戦場に行かせない理由は知りたいかい」

空に向けたままに、中隊長がさりげない口調で問うた。

前線に着いてから抱えてきた疑問を当事者みずから口にした。

それに対し私は既に答えをもっていた。

「多分、私は臆病者だから」


「そう思われたのか。仕方ない」

燃え尽きたタバコの残りを地面に捨て、足で踏んだ後、中隊長がきびすを返し私を覗き込んだ。

「あんだ。なぜ実戦訓練の時、通信が途絶えた」

先ほどのぼんやりとした視線とは違って、真剣な眼差しに私は体が固まった。

「仲間の話によると、お前はぴたっと固まった。呼んでも返事をしない。目すら動かない」

その時の光景が頭を過った。敵陣に入り込み、敵の戦車に囲まれたという訓練時の状況だった。叫ばれた仲間の言葉はよく覚えている。しかし、頭が回らなかった。怖くて射撃ハンドルを握る手が震えていた。戦車長の命令が頭の中にある黒い穴に吸い込まれたように消え去っていた。

「東部戦線では、俺は多くの仲間をなくした。しかし、誰でもポルシェリストにやられたわけがない」

「自分が死を選んだ人も、仲間のせいで死んだ人も数多くいた」

「それは臆病者だ。ドイツにはそういうやつはいらない。男として失格だ」

「そういうふうに言われるんだろ。しかし俺は違うと思っている」

真剣な眼差しで私を見返し、中隊長は続けた。

「誰でもいいやつだった。立派な男だと俺は思った。しかし、戦場ではなく、ほかの場所で戦うべきだ」

「隊長。その言い方は。。。士気低下の罪(ヴェーアクラフトツェアゼッツング)を犯したやつをかばうようなものです。やめていただいたほうが良いかと思っております」

「好きに言わせてくれ。強いて言えば、俺たち全員はもう罪人だ。子ともを戦場に駆り出すぐらいの罪すら犯している俺たちはな」

「みんな、祖国を守る願いを抱いて入隊を志願した」

「それでもだ。祖国を守るために何をしてもいいのか。それを考えたことがあるか」

落ち着いた足取りで私の傍に近づき、片手で私の肩に触れた。

「君は素晴らしい才能をもつ若者だ。君を戦場に出さないのは俺の私心による結果だった。これからもそうさせてもらう」

冷たさも、皮肉さも感じられなく、自分の生徒を優しく諭す学校の先生みたいだ。

横に立っている中隊長の表情が見えない。わざと見せないようにしているのかもしれない。あるいは次の言葉をどのような顔で切り出すか迷ったかもしれない。

「悪く言わせてもらえば、君が仲間を死なせるようなまねを見たくはないんだ」


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数日後、中隊長が死んだ知らせが届いた。運ばれてきた怪我人が伝え聞くと、戦闘機からの爆弾を受け戦車ごとが爆発したそうだ。

その日は同じく晴れた日だった。空を駆ける戦闘機の音が大いに響き、戦車の上から爆弾を次々と振り落とした。鉄の箱に積まれた少年たちは逃げる機会も与えられず、燃やされ、粉砕され、消えていった。

自分の故郷が潰された時、家族が殺された時と同じように、最初は悲しむことはしなかった。ただ虚ろな目で、無関心な表情で、それを眺めていた。

生き残った仲間に臆病者だと、えこひいきだと揶揄されても、感情が湧きあがらなかった。


二か月間も私たちの部隊がカーンを死守した。ノルマンディーから撤退が決まったとしても、私たちの部隊はしんがりとして最後まで戦場に立たされた。慌ただしくトラックに入れられて、司令部とともに移動しつつ、やがてドイツに戻された。自分の中隊の生き残りが半数も超えなかったことはドイツに戻ってから初めて知った。国内のプロパガンダ映像では 12SS の戦いぶりが大々的に取り上げられ、祖国の少年たちの勇敢な姿は観客の目に焼き付けられた。戦場に踏み入ることすらできなかった自分にがっかりした。凄まじい恥を感じて、ハンブルクのカール家に近況報告をする勇気がなかった。


それでも部隊の再編、再装備と兵員補充が始まった。

ドイツ国内において発言力がますますと高まった武装親衛隊の政治力とあって、三か月も経たないうちに部隊は元の八割の人数に戻った。その間に休暇を取って、実家に戻る人が多かったが、私は部隊に残り、次の戦場に備えて身心を整える訓練に励んだ。今度こそ、戦場で汚名を返上すると決めた。


そして、私の中隊には新しい中隊長が配属された。

30 代後半の、部下に関心を持たない冷酷な人柄をもつ細身の男だった。元々は第一SS 装甲師団のもので、私のことを蔑むような目で見ていた。

戦場を出ないためになんか汚い手を使ったと思ったから、侮辱的な振る舞いが、たとえ私が前線を志願したとしても大した変わりがなかった。


そして、冬季に入り、次の戦場が訪れた。


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アルデンヌに到着した時には、森の外縁部にある泥道に既に無数の兵士、トラック、ハーフトラックと戦車が集結し、車体に施された三色迷彩が白い雪原の上に一直線に伸びて、意地悪い子供が白いキャンバスの上に一本の線を塗ったような景色だ。

雪が戦車を覆いつくすほど終わらず降り続けていた。

荒野に設置された大量の火砲陣地が空に向けて絶えなく噴火し、凄まじいほどの数の雷雲が一か所に集まって放たれた雷鳴のごとく砲声が西の同盟軍戦線に向けて咆哮をあげた。

真っ新な装備を身に着け、森に次々と入っていく兵士は意気鷹揚に軍歌を歌い、整然とした足取りで歩き進んでいた。


森の中に入った戦車隊が脆弱な米軍防衛ラインを蹂躙した。

履帯が塹壕を踏み潰し、逃げ出した米兵の背後を同軸機関銃で掃射していた。

投降した米兵が大勢集まって、ドイツ軍の進行方向を逆に歩かせていた。

襤褸をまとい、戦意を失った表情をする米兵に私達は嘲笑った。

肉片と人間の四肢に赤く染められた雪地に我らは米兵に彼らの仲間の墓を掘らせてやった。

燃え上った敵の戦車、塹壕に散らばった敵の装備、幹のところから折れて倒れた大量の木、雪地に残された大きい砲撃穴。

当時の私たちはそれが勝利を導いてくれる地獄の絵図だと思い込んでいた。

血と硝煙の匂いが甘美な蜂蜜の匂いとさほど変わらないように感じていた。


しかし私たちの群れの中にはそれほど血が騒がない人間もいた。

新しく徴兵された少年の中には、ノルマンディーの生き残りも混ざっていた。

ノルマンディーで生き残った人はもう既に少年の顔を失っていた。

その顔は血を求める獣の顔ではなく、ただ雪地に孤独に包まれながら行先も知らずただひたすらに歩み続けるオオカミのようだ。

オオカミの目と羊の目をそれぞれ持ちあわせて私たちは戦場に臨んでいた。

人は自分のことを意外とよく知らないが、きっと当時の私は羊の目をしていたに違いない。

そして、私のような羊の目をしている少年たちはオオカミの目をしている二十代の青年の車長にくっつけられることが多かった。実際の戦闘経験をもつ人が、血の洗礼を体験していない青二才を引率するほうが、戦況が激化しつつ戦闘員が不足している中で一番効率のよく合理的なやり方だった。


アルデンヌでの最初の数日間は私にとっての晴れ舞台だった。

ノルマンディーで戦場に出ない臆病者の汚名を晴らしたい一心だった私は、常に気を高めて忠実な軍人を演じていた。返事の際の声を人より一倍大きくして、砲塔の回転速度を人より一倍早くして、撃破数を人より一倍多くすればきっと人に認められると思っていた。

当時同じ戦車に配属された操縦士の少年は私のように真面目てやる気にあふれた人だった。

丸い顔の上にある二つの黒く無邪気な瞳。いつもゴーグルをつけていたせいで目の周りに黒いすす汚れがうっすらと残っていた。子犬のように稚気が抜けない雰囲気を見せたが、操縦の腕は確かだった。命令を受けると素早く返事をし、手際よく幾つかのレバーを押し引き、戦車を指定の角度にぴったりと回すことができた。

黒髪の少年はワルターというのだ。

面倒見がいい人だった。

私と同じく貧乏な家に育てられたようで、話もそこそこ通じてあった。

東部戦線帰りの車長は最初冷たい態度を取ったが、徐々に馴れていき普通に冗談を言えて薄ら笑いも見せるようになった。


最初の一発を撃って、敵の戦車を撃破した際に私は意外と平静でいられた。

何百回繰り返された訓練手順を実行しただけのことをした気がする。

車長の頼もしい命令、手際のいい乗組員の動きに、私は指揮官訓練の時と違って恐怖を感じなかった。緊迫する戦闘の中でも私は常に何か大きな力に導かれた気がして、心を落ち着かせて冷静な態度で戦闘に臨むことができた。

その後の数日間、私たちの四号戦車は全中隊のトップの撃破数を誇ったエースだった。

私と操縦士のワルターは息がぴったりだった。移動と射撃の連携がとりわけ抜群で、走行中射撃すら実現できた。

私はエースだ。祖国に恥じぬ戦士だと初めて自負を感じた。

少なくとも車長が爆撃で飛ばされて、頭に痛い傷を負ったまでのことだった。


「聞いてくれ。ハンス、お前は車長訓練をきちんと受けていたから、中隊長の指示に従い、学んだ通りにやればいい。きっと大丈夫だ。俺はお前を信じている。。。」

包帯に包まれた両目から血が滲んで包帯を赤く染めていたが、それでも私の震えている腕を掴んでいる車長の手は川の底に沈んだ石のように堅くて力強かった。


突然の指揮任務に私は不安でたまらなかった。

だが、それは自分の能力を証明し、自分は力を持つ人間だと世に示すチャンスだと思った。

戦車の車長席に座った時、心には言葉にできない自信が湧きあがった。

車内の人を見渡して、皆優秀でやる気満々の戦士だ。

できる。私はできる。私は上位の成績で訓練を卒業した人間だ。

実戦までは、私はずっとそういう風に考えていた。


無線越しに中隊長の声がヘッドホンに伝わってきて、私を現実に引き戻した。

「各車に通達。今回の任務目標は既に伝えた通り、敵火砲陣地の破壊にあります。現在敵の砲弾もエルセンボルンリッジにある我が軍に降り続けており、我が軍の攻勢を妨げつづけている。我々の任務は戦局を左右するほど重大であることを心に銘じて、全身全霊をもって戦闘にあたれ。私からの言葉は以上だ。諸君らの健闘を祈る」

冷徹な中隊長の言葉に私は体の震えが起きた。これから自分が一台の戦車を指揮し、乗組員の命を背負うことになる。

「中隊前進!」

轟くエンジン音と共に私のいる隊は森から平野部を出た。遠方から届く爆音と燃え上げた黒煙から友軍が敵拠点から強い砲火を浴びていることが分かった。

先の雪原にある敵の火砲拠点が小さく見えて、その前に敷かれた防衛陣地には塹壕と反戦車砲が険しく立ちはだかっている。

「発砲しながら敵陣地に突っ込む。怯むな」

一斉の斉射で敵の防衛陣地に爆炎と煙があがった。

反撃してくる反戦車砲の砲撃はそれに比べて勢いが劣るように見える。

精度が低いせいで砲弾が隊列の前に着弾したり周りを通り過ぎたりしていた。

二回目の斉射で米軍の防衛陣地がすっかりと潰れた。

戦車内のペリスコープで米軍兵士の混乱ぶりが目に入った。

中隊の十七両の四号戦車がハイスピードで米軍の塹壕を跨り越えて、先を進んでいた。

訓練通りの指示を出していればいいと私はそればかり考えていた。

緊張でたっぷり汗をかいている私は水筒の水を大口で飲み込んだ。

突然無線から中隊長の声が聞こえてきた。

「中隊に通達。大隊本部により入電あり、敵空爆部隊が発見とのこと。全員停車、全員停車!」

前を駆けていた隊列がぴたっと止まった。

戦場が突然のことに静まってきた。エンジンの轟音だけが私の耳に響いていた。

ワルターが後ろに振り向いて、私をちらっと見た。

「待機だ。しばらく待機」と私は緊張を隠しながら言った。

ペリスコープを覗き込み、私は回りを見てみた。

かん、との衝突音が起き、突然左前方の戦車が被弾していきなり爆発した。

砲塔は炎とともに跳ね上がって、地面に強くぶち当たった。

爆風と塵土は監視窓から飛び込んできて、飛び散った破片は車体にぶつかって、奇異な金属音が鳴っていた。

左側の森から無数のシャーマン戦車が出てきた。

「左側敵戦車隊接近!!車長、指示を!!」

「ハンス!」

先ほどの爆発で私は一時的に頭が真っ白になって、呼吸すら忘れたような気がした。

名前が呼ばれて、私は気を取り戻して、大きく息を吸ってから言った。

「車体を左へ三十度回転、徹甲弾装填」

私の震えた声で乗組員の皆は気を引き締めて、強張った表情を見せて行動に移った。

その間、ヘッドホンから小隊長の命令が入ってきた。

「小隊に通達。中隊に後退命令が出された。我が隊はほかの小隊の撤退を援護する。反撃を開始!」

何を言っているのか。敵は中隊規模だぞ。

砲撃は私たちの戦車に雨のように降りかかっていた。破片が装甲に強くぶつかって、金属のぶつかり音を密に立てた。

冷や汗が雨のようにかいた。

砲塔が動く際のモーター音とエンジンの轟音以外に何も聞こえていない。

発砲の際の爆音で私は体がびくっと動いた。

「ハンス!こっちの観察窓からうまく見えないのだ。敵戦車の方向を教えろ。ハンス」

「ハンス!どの敵戦車を狙うのか、指示を!」

仲間の声がはっきりと伝わってきたが、私はそれに上手く反応することができなかった。

心臓が圧迫された痛みが胸を締めて、眩暈が起きて私はうまく呼吸することができなかった。凄まじい恐怖が襲いかかり、やがて私の意識は真っ白になった。


今の私はその時に何が起きていたか、はっきりとわかっている。

私は逃げたかっただけだ。逃避していた意識は自ら現実から切り離していた。


私の意識を取り戻したのは、頬に感じた痛みだ。

どうやら砲手のヨヒムが私の顔を殴ったのだ。

「命令をくれ!車長!みんなを死なせたいのか!」

ヨヒムの顔が目に入った。怒りと困惑の感情が顔に現れ、私を睨んでいる。

「逃げるのだ。森に移動して逃げるのだ」

意識は混沌の状態のまま、私が最初に思いついたのはそれだけだった。

怖かった。死ぬのは嫌だ。

「それは命令なのか、ハンス」

操縦室にいるワルターが無線越しに冷静に聞いてきた。

外の発砲音と弾着音が続く中でもワルターは操縦士の構えを崩すことなく、両手でしっかりと操縦レバーを掴んでいる。

「ああ。。。ああ。。。」

声があやふやだった私の気弱な返事を受け、ワルターが右手と左手の操縦レバーを同時に引き、戦車を後退させた。離脱している私の戦車に気づいたように小隊長が怒鳴りをあげたが、無線に大きい衝撃音が起きて、そのあと雑音だけが伝わってきた。

私たちの戦車だけが左手の森に向けて後退しつづけている。

前方の小隊は既に壊滅状態に陥っている。炎が各車の車体から燃え上った。

怯えていた私は砲塔にある車長席で頭を抱えながら体を震わせている。

しかし敵のシャルマン中隊は私たちを見逃すつもりがないようで、徹甲弾の鋭い音が装甲の外に響いた。

「くそ、ハンス。森まで後どのくらいだ。ペリスコープで見てくれ!」

とっさに耳の近くで激しい金属音が鳴り、弾薬が爆発したような音とともに戦車が揺れ、強い波動が全員の意識を奪った。最後に感じたのは耳鳴りと曇った視野。


眠っているような感じだった。もううんざりだ。戦うのは、勇気を出すのは。ずっと我慢してきたので、このまま寝てもいいのか。

しかし現実は私の逃亡を許さなかった。

「目が見えない。。。目が見えない。。。」

砲手のヨヒムの悲鳴が私を起こした。

手で目を遮ったヨヒムは体を前後に揺らし、半分泣き半分叫ぶような声を出している。

痛かった頭をずらし、隅に倒れた装填手のクリスの死体が目に入った。

頭の半分がぶっ飛ばされて、血の肉片がぐっつけた壁に丸い穴が空いた。

戦車の内部は死んだ獣の腹の中のように静寂で余熱だけが残っている。

破れた電線が装甲版から垂れて、火花が断続的に飛び散る。

無線から誰かの叫びが聞こえているが、それに構えられないほど私の頭が痛かった。

先ほど装甲版があげた悲鳴は今でも頭骨を擦っている気がする。

なんだよこの悪夢は、早く終わらせろよ。

後部エンジンの蓋から垂れ流れたガソリンはいつの間にかヨヒムの足元に溜まった。

一点の花火がゆらりと落ちて、一瞬引火して、炎がヨヒンの足元を伝って体を包み、徐々とヨヒンが叫ぶ火の柱へと化した。

私は異世界のショーみたいにそれを眺めて、無関心な顔で終わりを待っていた。


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レアの手の震えを肌で感じたハンスはしばらく口を閉じた。

「すまない。やっぱり聞かせてあげるべきではないよね」

乾いた喉から絞り出したハンスの声が弱々しく聞こえた。

「大丈夫よ。続けてください」

柔らかく優しい声には堅い決意が感じられた。


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突然砲塔脇のハッチが開けられた。

「逃げるのだ。ハンス、聞こえるのか。おい!」

前のハッチから逃げたワルターが顔を出して戦車の中に向けて叫んだ。

燃え尽きて体の動きが止まったヨヒムと隅に体を縮こませる私を見て、ワルターが私の服の襟を掴んでハッチに向けて引っ張りだそうとしていた。

「このまま爆発するのだ!出ていけ!」

二人が力の反動で雪地に落ちた。

外の冷たい空気を吸って、私は少し気を取り戻した。

空の低い鳴り響きが敵空爆部隊の到着を示している。

「ハンス!!しっかりしろ!逃げるのだ!」

気力を失った私を肩で支え、無理やり立たせた。

しかしもう遅かった。

戦車が凄まじい勢いで爆発を起こした。


そのあとは随分と気を失った気がした。

故郷のことを思い出した。グレタのことも。

静かな夜の食卓。エーベル川の赤い夕餉。賑やかな倉庫街。魚の匂いが溢れる市場。

戻りたい。あの時に戻りたい。もうごめんだ。逃がしてくれ。許してくれ。


右の太ももの痛みで私は気を取り直した。

ゆっくりと立ち上がろうとした私は、痛みで悲鳴を上げて、体勢が崩れてふたたび地面に倒れ込んだ。そのあとの私は、子供のように号泣をしつづけていた。

背後から弱い声が聞こえるまで。

「ハンス。。。」

振り向いて、ワルターの姿が目に入って、私の泣き声が喘息の声に変わった。

半分の顔が焼かれ、体にまとう服がちぎれ、小さい破片がはめ込んだ肌から血が滲み出ている。

空に響いている戦闘機のエンジン音が近くまで来ている。

掃射と爆撃の音がゆくゆくと増えてきた。

立ち上がろうとする私は太ももの痛みで再び跪いた。破片が私の右太ももにはめて、形が歪んだ金属が自分の体に刺し込んだことで私は再びパニック状態に陥った。

「あああああー」と叫び、私はその場に座り込み、激しい悲鳴を上げて太ももを掴んだ。

「助けて。。。ハンス。。。助けて。。。」

動く気力を失ったようにワルターは微かに唇を上下させ、無力な目で助けを求めている。

二人の間に異様な風景ができた。

徐々と近づいてくる爆撃の中に、悲鳴をあげる子供と血にまみれて助けを求める子供。

今の私が振り返ると、それは神様の冗談みたいだと思えた。

手を伸ばして、ワルターを助けようとすら思っていなかった。

こんなに痛いとは思っていなかった。涙が出て私は理性を失った。

ワルターに目もくれずに私は痛んだ足を引きずって森のほうへ走り出した。


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視線を落とし、水面に映った自分を見て、ハンスは拳を握りしめた。

「どうだ。聞いて、嫌気がさしたんだろう。俺のせいで仲間が死んだ。俺が臆病者のせいで仲間が死んだ。女の子の前に偉い顔をして、自分が兵士とか、ドイツの男どか、気持ち悪いだろう」

震える身体。詰まる喉。ハンスは頬の強張りを隠そうと更に頭を垂れた。

「怖くて動けなかった。砲弾が落ちた際の爆発音と炎の熱量が私の記憶の底からあの日のできごとを引きずりだしていた。燃えた町から吹きあがる、天まで繋ぐ炎の竜巻を前にして、私はただ怯えて。。。怯えて。。。なにもできなかった。町に足を踏み入れて、大事な人を助ける勇気がどうしても湧きあがらなかった。体に覆いつくす黒い塵が焼かれた人の痛みを帯びているようにちりちりと皮膚に沁みていく」

叫びたい気持ちを押させているように、ハンスの声が鋭くなり、呼吸が混乱に陥った。

「森で俺が死んだほうがいいんだ。獣に食われて、なくなればいいんだ!」

「そんなこと、ないよ」

ハンスの激動の声を遮るレアの声は決して大きくはないが、真っすぐで人の心を貫くように凛としている。

「ハンス君を救ったことには後悔したことがない。これからも、一生後悔するはずがない」

レアは頭を振って、言葉を続けた。

「少なくとも、ここを出る勇気をくれたのはハンス君だ」

ハンスの赤らめた横顔を見て、右手を掴んだ。

「不器用でも前に進み続け、傷ついて、諍って、結局挫けたとしてもやり直そうと前に進み続ける。昔の私には。。。その勇気がなかった」

ハンスの手を掴んだまま、レアはため息をついて、視線を前に向けた。

「ハンス君は戦争なんかに向いていないよ。向いていないことはやめてもいいんじゃないか。ハンス君は優しい人だから、人を殺す仕事なんかできないのは当然だろう」

「優しいと言われたことは一度もない」

「それは、ハンス君のことを知らないだけだから。少なくとも私にとってハンス君は優しい人だ。口にしてはいないが、私の気持ちをちゃんと気づいてくれた」

レアは和やかな笑顔をハンスに向けて、自分の家族を諭すような口調で言った。

「自分の気持ちを、もっと口にしてください」

「もう言える相手がいないんだ。何もかも失ってしまった」

再び暗い深淵に沈んだハンスの声に狂乱さが出てきた。

「俺は。。。ただの臆病者だ。兵士でも英雄でもない。私は酷い人だ。家族も、好きな人も、仲間も救うことができないうえ、逃げ出してきた」

歯を噛みしめて、水面に向けてハンスは甲高い声で叫んだ。

「俺は心がないのか!感情がないのか!どうして逃げた!」

俯きながらハンスは力強く叫んだ。喉が詰まって叫びだした音が湖の上に響いていた。

レアはそっと手の先をハンスの頬に当てた。

「顔には涙が流れなくても、心には流れるのはわかるよ。私にはわかるよ」

思わずハンスの目に涙が滲んだ。

頑張って抑えようとも抑えきれなく、涙がひたすら流れてきた。

「ドイツの男は涙を流すわけにはいかないのに。。。どうした私」

泣き声で言いながら、手袋で涙を拭いている。

雪が知らないうちに再び降りかかってきた。

レアが穏やかにハンスを抱きしめた。

ハンスの喚き声がレアのコートに悶々となった。

あなたのせいではないと、知っている。

悪いのはこの残酷な世界。

この悲しみと苦しみが満ちた世界。

神様よ。どうして、こんなことが。

胸に様々な思惑を抱いて、レアがハンスの頭を柔らかく撫でた。

雪がぼつぼつと彼らの髪、服に降りかかって、小さい白花が咲くように綺麗に飾られている。凍って青く映えた湖面も徐々に雪に覆われていく。

白く染めた世界では彼らの姿はとても小さくて、遠くからは見ようとも見えない存在だ。

しかし、今のこの瞬間、この世界の果てに、お互いのことが自分の存在意味になるのだ。

その日はとても寒い日のはずだったが、お互いにとって知り合ってから一番、一番、麗しく暖かい日だった。


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一人でないなら、彼と一緒だったら、ここを出る勇気を掴めそうな気がする。

知り合ってから一か月も経っていないのに、可笑しなことに何故かそう思うようになった。

弱い自分と戦って諍う彼を見て、羨ましくも悲しい感触に心が揺らめいている。

戦いを諦めて、容易い道を歩む機会が何回も訪れていたはずなのに。

彼はそうしなかった。

自分の弱さに向き合い、強くなりたいと願いながら諍って、心から血が滲むまで傷ついて、それでも諦めなかった。

私はそうでありたい。そうであらなくちゃいけない。

私は、お母さんのような人になりたい。強くて、人思いで、何に会っても挫けることのない、そういう心を持っている人間になりたい。

もう、怖くはない。私はここを出て父と母を探す。


あの夜、レアがハンスに教えた。

自ら教えることなんか考えもしなかった。

それでも、彼に向き合い、自分が隠れている理由を教えていた。


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いつもの朝とは違う。起きたばかりのレアにはそう思わざるを得ない。

シャレーでの生活に終わりを告げるこの日の朝は、どうしても唐突感が溢れている。

太陽の射し方も、部屋に漂う空気も、喉の乾き具合も。

何もかも違うとレアは感じた。

何にせよこれは最後の一日だから。

ベットを綺麗に整頓したレアは、大きい亜麻色のリュックサックを担いで、一階に降りた。

キッチンのテーブルにハンスが一人で座っていた。

レアの挨拶に反応もなく、ただそこに俯いて目を閉じている。

そしてなぜかレアから渡された民間人の服ではなく、元の黒い軍服を着ている。レアはそれに対して違和感を感じながらも、リビングルームの床にリュックサックを置いた。

振り向くと、ハンスが頭を上げて緩やかに立ち上がったところを見た。

「突然だが、今からドイツに戻ることを決めた。すまない、やはりベルギーは性に合わないのだ」

テーブルの上に置いてあった武装親衛隊の軍帽を被り、ハンスは淡々と述べた。

かばんや身の回り品を一切持たずに、手ぶらの状態でハンスは身を回して、玄関に続く廊下に向かおうとした。

その瞬間、ハンスの背後からトリガーが引かれたかちゃの金属音がした。

「いきなり出るのは、どこに行って何をするつもりだ」

「心配しているのか。心配しないほうがおかしいだろうな」

背を向けたまま、ハンスがレアの問いに嘲笑うような口で答えた。

「お前の両親、捕まえたんだろう」

「だったらどうだ」

「捕まえたユダヤ人の行く末、教えてあげようか」

その回答は氷の針が心臓を刺すようにレアに息を止めさせた。

「でもな。お前は既に知っているはずだ。言わせてもらう必要があるのか」

ハンスの硬い表情には口を開くたびに僅かな強張りが起きた。

「お前がここで隠れていた間に、一度でも手紙をもらったことがあるのか」

「何を言いたいの」

「殺されたよ。我々ドイツ人の手によって」

ハンスの冷徹な声がレアの耳に潜り込み、眩暈を感じたレアは姿勢が不穏になっていた。

「嘘だ。どうしてあなたは知っている」

「お前、ほんとに両親がまだ生きていると信じているの」

咎めにも、嘲りにも聞こえるハンスの言葉がレアの返事も待たずに槍のように続いた。

「我々はユダヤ人を捕らえて、リゾート地に送って休暇を過ごさせたとでも思っていたのか。甘いのはほどほどにな。お前はここで何年待っていたんだ!」

激動するハンスの目が赤くなって、声もレアを叱るように甲高く絞られた。

レアに顔を合わせることができなくて、背を向けたままハンスが続いた。

「強制収容所(KZ)に送って、そこで死ぬまで働かせて、利用価値がなくなったら殺す。それはお前らユダヤ人の扱い方だ!」

拳を握り、頭を垂れたハンスが地面に向けて叫んだ。

「いいか。お前の両親はとっくの昔に死んだよ!人に踏みにじられた虫けらのようになあ!」

「なんでだよ。何もしていないのに、なんでお前らドイツ人は私たちを憎んでいるのか」

レアの憎悪と悔しさに満ちた声が背後から伝わり、空気が震えているようにハンスは感じた。

「なんでだよ!」

甲高い叫びとともに、乾いた銃声が響いた。

弾がハンスの右前方の木の壁に嵌め込んだ。

噴き出した木くずは粉塵とともに舞い上がって、やがて落ちて行く。

数秒の沈黙が降りかかって、ハンスは口を開いた。

「お前、銃の握り方を教えただろう!ちゃんと狙え!」

ハンスは叱るような大声を出し、そして振り返った。

レアの手に取っているルガーの銃口から出てきた白い煙がまた消え切らず空気に漂っている。涙を湛えたレアの目が赤く、苦しみに強張る頬が不自然に震えている。

それを見たハンスは、歯を噛みしめて、レアの前に勢いよく歩み寄った。

レアの肩を強く掴んで、自分の制服の襟章をレアの目の前に引っ張り出した。

銀の重ね稲妻のシンボルがレアの涙の湛えた目の中に幻影のようにゆらゆらとぼやけて見える。

「このシンボルの意味がお前にもわかるはずだ。どうして俺を救ったのか。この馬鹿野郎!」


父さんのホテルによく訪れてきた金髪の男も、この襟章をつけていた。男が手に持った鞭で父さんの顔を打った。レアはホテルのフロントに隠れて全てを目にした。

父さんの鼻穴から漏れた血を見ていた。

ホテルの豪奢な家具が運ばれていくのを見ていた。

酒瓶と硝子杯が木箱に詰め込まれるのを見ていた。

父母は犯人みたいに強引に連れ出されるのを見ていた。

ホールを漁っているドイツ兵が笑っていた。

あたしから全てを奪うのはそんなに楽しいことなのか。

何もしていないのに、何もしていないのに。

そして今も私から、残り僅かなものを奪おうとする。


セーターの襟が強く掴まれて、レアは現実に引き戻された。

「なにぼっとしている。俺も SS の一員だぞ。お前を殺すのもありうるのだ。なぜ今まで何も言わなかったんだ!もっと早く教えたら、俺は戻ることがないんだ!救われるより死んだほうがましだ!」

ハンスの手の力が強くなり、こぼれ出た言葉に激しい感情が入り込んでいると感じた。

「早くしろ!親の仇を撃って、気が済むならここから出ろ!」

ルガーの上部を掴み、ハンスは銃口を無理やりに自分の心臓に押し寄せた。

二人は顔を向き合う姿勢で見つめ合っている。

ハンスの激情に駆られた表情を見ると、レアは悲しい感情がこみ上げて、目から、頬、唇まで震え始めた。

「撃てるわけがないだろう」

雪が水面に落ちたように弱く、囁くような声で呟いた。

場の空気が一気に落ち込んでいた。

暫く経つと、レアは大声で叫んだ。

「撃てるわけがないだろう。この大馬鹿野郎!」

拳銃が床に落ちて重い金属音がした。

レアは涙を流しながら強い眼差しでハンスを眺めた。震えている頬は赤に染められている。

その目を見るだけで、ハンスは心が裂けそうに苦しかった。

なんでこんな優しい女の子が敵でなければいけないんだ。なんで彼女の両親が殺されないといけないんだ。なんで今でも自分を優しくしてくれているのか。自分はあの森の中で死ぬべきだった。色んな思いがハンスの中に渦巻いている。

凍結されたような時間の中で、二人は体の姿勢を維持したまま俯いた。


その沈黙を断ち切るような、シャレーの正面から扉が蹴り開けられた音がするまでだ。

入ってくるのは冷たい風と馴染みのある声。

「おやー、ドラマチックなどころお邪魔をしてすみません」

聞いたことがある嘲弄を含んだ声だ。

声の主が緩やかな足取りでリビングルームに入ってきた。

グライフ大尉は冷笑を浮かべながら姿を現した。

ルディー軍曹もローランドの肩を摑まえて周りを警戒しながら続いて入っていき、後に続いている二人の兵士が短機関銃を構えてハンスとレアを囲む態勢を取った。

全員米軍の制服を着て、見た目では普通の米軍兵士とは区別が付かないほど完璧な偽装を行った。

ハンスは手をルガーに触れようとする瞬間、

「おっと。そうしないことをおすすめしますぞ。撃ち合いが始まったらどう見てもこっちの生き残りが多いはずです。フラウラインもあそこにいるでしょう」

大尉が目を細めてレアに視線を投げた。

一瞬戸惑ったハンスに一人の兵士が駆け付け、足蹴りでハンスを倒した。

「俺たちの居場所の情報を米軍に流そうとした。裏切者め!」

兵士が足でハンスの顔を踏みつけて罵った。

「ハンス君はこんなところで可愛いお嬢さんと何をしておるかね。いつ逃げ出したのか、後ほどきちんとシュタインベルガー中佐に聞かないと」

グライフ大尉はリビングルームを落ち着いた様子で見回りながら言った。

「やめて、町長に教えたのは私だ!」

レアはグライフ大尉を見上げた。レアの恐怖を帯びた瞳に大尉は表情を消して覗き込んだ。そしてレアに近づき、ゆっくりと拳銃をホルスターから取り出し、レアに向けた。

「やめろ。彼女に手を出すな」

疲れ切った様子のローランドはかすれた声を絞り出した。

「レアちゃん、ごめんなさい。あいつらのことを米軍だと思った」

町長の割り込みに気に食わない大尉の顔を伺い、一人のドイツ兵がローランドの肩を掴んでリビングルームの外へ引きずりだした。

「殺すなら俺を殺して、彼女を許してくれ」

抑えつけられたハンスは必死に言葉を口から絞り出した。

「小僧、お前はもともと死ぬべきもんじゃないか。取引にならないな」

ルディー軍曹が皮肉な口調でハンスを遮った。

「そして、この女、ユダヤ人だってよ。馬鹿馬鹿しい。親衛隊のくせにユダヤ人の女とつるんでいるのか」

鼻で笑うルディー軍曹の悪意にかまわず、ハンスは泣きだすような声で懇願をした。

「お願いだ。撃つな。。。撃つな。。。」

銃を構えながら大尉が小首をかしげて疑い深い目でハンスを眺めた。

「彼女があのお城のことを外のローランドさんに米軍に教えるよう頼んだぞ。お前も向かっていたくせに。こっちは大事な任務を抱えていたよ。戦闘が起きたら誰が責任を取ってくれる?」

大尉が持つ銀色のルガーは容赦なく獲物を見定めている。

先ほどの緩い態度とは違って、レアを注視している大尉の冷徹な目つきは冬の寒風のごとく場の空気を凍えさせた。

顔が地面に押さえつけられたハンスは、恐怖で唇を震わせ涙をこぼすレアをみすみすと目に収めるしかできなかった。低い嗚咽の声がのどにこもって、顔を抑えた兵士の膝に諍おうとも、兵士の姿勢はぴくっとも動かなかった。


さっと銀色のルガーのトリガーから金属音がした。

しかし銃声は起きなかった。

大尉は固い表情を崩して、トリガーを推した指を元の位置に戻し、まるで先ほど起きた事が全て冗談のように軽い口調で言い出した。

「ま、こっちも損害が出ないから。そもそもあの町にいたのは俺たちしかないんだ。米軍に伝えようにもまず私たちの耳に入ることになる」

拳銃をホルスターにおさめ、「今は、降下兵たちが町を制圧しているのだろう」と言って、ハンスの前に屈んで、子供を諭すような口ぶりで続けた。

「驚くなよ。君が届けた命令じゃないか。届かないほうがいいと思ったから君に任せたのに。ああ、これは困る。俺はあの町で命を落とすつもりがひとかけらもないのによ。ね、ハンス君、どうして逃げなかったの。お前、脱走兵だろう。最初に会った時は既に分かっていたよ。何だよその目つき。俺はどれほどの臆病者と裏切り者を見てきたと思う?お前が意地張っても中身が部屋の隅で一人で泣く子供のようなやつぐらい分かるのだ」

大尉がハンスを抑えた兵士を一瞥し、兵士がハンスを拘束する姿勢を解き立ち上がった。

そして大尉はコートに隠した命令書の写しをハンスの前に落とした。

”第三降下兵師団の残部と合流し、ティルマの町を制圧する。南下している米軍戦車連隊の進路を阻み、撤退中の本隊が完全に脱出するまで死守せよ”と。

「頭の固いやつだ、あのシュタインベルガー中佐は。無駄なあがきと言っても最後の一人まで戦うつもりなんだ」

困った様子でハンスの顔を覗き込んだ。

だが今でも恐慌状態にあったハンスは見返す気力がひとかけらも残されていない。

「もし命令が届かなかったら、俺はあっさりとドイツに逃げ帰るつもりだった。ハンス君もどっかに逃げればいいんだ。それで誰も責任を負う必要がないだろう。記憶喪失うんうんという脱走兵に騙され、命令が届かなかったと言い訳をすればよかったのに」

今でも座り込んで俯いているハンスを一瞥し、視線を移し恐怖で喘息をしているレアを見た後、大尉がため息をついて、場の空気を和ませるためかのように肩をすくめて笑顔をだした。

「過去を悔やんでも仕方ない。未来の話をしようじゃなか」

大尉がリビングルームにあるソファーチェアに座り、足を組んで、顎でルディー軍曹たちに指示した。兵士たちはハンスとレアを引き上げて、無理やり向かいのソファーチェアに座らせた。

「こちらからお願いしたいことがあるんだよ。聞いてくれないかね。今回はいい話だ」

謎かけのような口ぶりで大尉がにやっと笑った。

「ここにいる皆、幸せにする提案だ」


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「これ、うちの隣に住んでいたユダヤ人の懐中時計だ。綺麗でしょう」

「勝手に人のものを触るのはよくないぞ」

「どうでもいいでしょう。ユダヤ人はもうドイツにいないよ。いや、ヨーロッパ全土から追い出すって総統(フューラー)の言葉だろう」

「それでも、持ち主が持っていきたいかもしれないし、大事なものかもしれないしさ」

「それは心配ないよ。もう持ち主がこの世にいないから」

「どうして知っているの」

「うちの連隊には東部戦線帰りが多いじゃん。うわさ聞いたぞ」

「。。。。。。」

「キャンプみたいな場所がある。いや、露天監獄、っていうのが正しいかね。そこでね。

ユダヤ人を皆、殺しているんだ」


集っている少年兵たちは一部が疑い、一部が何気なく話を聞いている。目の前で起きたことではないので、実感が湧いてこない。それとも、戦場を赴く彼らにとって、他人の生死を構う心情が薄かろう。

だが、少なくとも私は真剣に聞いていた。煙突から綿々と上がる濃煙と悪臭。痩せこけて肋骨が肌の上に剥き出す犯人の姿。高圧電線に繋がった有刺鉄線。

大人はなぜそんなことをするんだろ。ユダヤ人は劣等人種(ウンターメンシュ)で、ヨーロッパから排除しないといけないと、学校の先生が教えた。子供たちもそう信じていた。ゴキブリが踏みつぶされ悲しむ人間がどこにいるのだ。


実際にユダヤ人を詰め込んだ列車を見たことがある。ハンブルクの郊外の駅を自転車で通った時。農家の狭い農舎の中に飼われた豚みたいに、座るどころか立つだけで苦しいほどの人数を木製の車両に詰め込んだ。

時間が経つにつれ、何も考えないようになった。誰もそんなことに文句を言い、反対をしたことがない。いらないものはどうだっていい。それに虫けらみたいなユダヤ人なのだ。と、私は思っていた。

しかし、レアは虫けらではないのだ。レアは美しく優しい女の子だ。本に描かれた角の生えた醜い化け物とも、シルクハットを被ってネズミの顔をしている守銭奴とも違う。レアはただ繊細な心を持つ普通の女の子だ。

好きなんだ。ユダヤ人かどうかそんなことがかまうもんか。レアが好きなんだ。

心の中で叫んでいるが、口にすることができなかった。

しかし俺も共犯者だ。レアの両親を殺した共犯者なんだ。そんな人には、これを言う資格がない。

学校で教えられたのは嘘なのか。大人たちが言っていることは全部嘘なのか。

いや、違う。前回の大戦でぼろぼろになったドイツを立て直した総統(フューラー)が間違ったわけがない。きっと何らかの原因か、何らかの誤解があるのだ。


結論はどうであれ、私はもう。

レアのそばにはいられない。

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