第6話 森に潜む悪魔

「その後は軍を志願した。他に行く場所もないからさ」

長い物語を語っていたハンスは、いつか顔を上に向けてソファに倒れていた。

レアは目を開いて呆然とハンスの横顔を眺めていた。

見返されたハンスの視線にどのような反応を取るべきか分からないレアの目が右往左往し,

それに気付いたハンスは気まずそうに目を逸らした。

「ごめん。話すつもりはなかったが」

「いえ。私が悪いんだ。ハンスのお父さんのことを聞いたのが私だから」

思いに沈むような顔をして、レアが目を伏せていた。

「戦争は、たくさんの人から大切なものを奪っていたね」

「もう随分前の話だ。そんなことを抱え込んでいるのなら軍人をうまく務まらない」

鼻息をついて、ハンスはさりげない顔をみせて言った。

固唾をのんで、レアがこれからの言葉を伝えるべきか少し躊躇ったが、それでも口を開いて和やかに言葉を並べた。

「お父さんのことだが。それでも、愛していると思う」

ハンスに優しい視線を送って、淡い笑みを口元に浮かべた。

「うまく伝えられないかもしれないが、あなたのお父さんはきっとあなたを愛していると思うよ。自分の子を愛さない親がいない」

ハンスは沈んだ顔をしばらく天井に向けた。

「余計なことを言ってごめんなさい」

ハンスの気にさわることを心配し、慌てて話を切り上げたレア。

ハンスは体を回して、顔をソファに向けるようにした。

暫く経つと、ソファに向けたまま返事をした。

「いずれにせよ、聞いてくれてありがとう。人に聞いてもらうのは初めてかもな」

音がソファに吸収されたのか、それともはっきりと聞かれたくないのか、ハンスの声がこもったように聞こえた。レアは放心した表情で、ハンスの背中に話しかけた。

「こちらこそありがとう。教えてくれて、ハンス君のことがもう少しわかった気がした」

「じゃ、君はどうだ」

突拍子もない質問にレアは戸惑った。

「どういうこと」

「ここに暫く滞在するのではなく、ずいぶんと長い間ここに留まっているんでしょう」

ソファから体を起こして、レアに真っ直ぐ向ける身構えを取ったハンスは話を続けた。

「二階の絵もそうだし、時間を重ねて描いたものに見える。俺だって馬鹿じゃないのよ」

ハンスの真っすぐな目つきにさらされ、一縷の不安がレアの顔をよぎった。

目を逸らして、顔を両膝の間に沈ませていく。

ハンスも同じく目を逸らして、暖炉の火に目を移した。

「教えたくなければ別にかまわないよ。俺も俺のことを全部教えたわけではないから。記憶もまだ完全に戻ったわけではないし」

レアは目を一瞬にハンスに向け、また元の位置に戻した。噛みしめている唇からは、まだ何も出てこなかった。ハンスのさりげない口調からは無理に聞き出すつもりがないとわかったとしても、もやもやした気持ちが収まらなかった。

ハンスの過去を聞いた後、また赤の他人を扱うようなまねをしてしまうと、せっかく縮んだ関係性がまた遠くなる。

父親が頭の中に刻んだ言葉がこだましている。

絶対にいうな。自分の来歴を。絶対に知らない人に言うな。

分かれた際にレアの両肩を力強く掴んで、目の光が注ぐようにレアの瞳に覗き込む父親の姿が浮かんだ。それはただ子どもへの諭しだとは感じなかった。命の危険にさらされていることへの保身術、一歩を間違えば食いつぶされる危うさが父親の言葉から感じられた。

しかし自分の気持ちを抑えられなかった。寂しい自分の中に誰かと打ち明けたい、共有したい、分かち合いたい気持ちがあった。何年間もこの森にひとりぼっちで生きてきた。同年齢の友たちと一緒にショッピングをして、アフタヌーン・ティーを楽しんで、綺麗な洋服を着て人生を謳歌する年なのに、ずっと我慢して寂しい感情を抑えてきた。

もういいんだ。ハンス君ならきっと大丈夫。そう、信じているのだ。

「ハンス。私には伝えないといけないことがある」

固唾を飲んで、レアが何かの言葉を絞り出したいように唇を微かに開いた。


ぱんーと、正面扉が叩かれた音がした。

力を込めた一発のノックだ。

二人が一瞬音の方向をみやると、戸惑うように見つめ合った。

「この時間帯の来訪者、心当たりがあるか」

レアは静かに首を横に振った。

「ありえない」

ぱんと、もう一発のノックが重く扉に当たった。

「レア、俺の銃、何処にあるか教えてくれないか」

声を殺して、冷静な態度でハンスが問うた。

ハンスが目覚めた日以来、ずっと隠されている拳銃の話だ。

確かにその日以来、ハンスは拳銃の話を口にしたことがない。

主であるレアを尊重して預かってもらい続けたか、いずれにしても今はハンスに返すべき時だと、レアは蓄音機が据わっている棚を指さした。

「君にはしばらく地下室に隠れてもらう。僕の声以外は、何を聞いても出てくるなよ」

レアは頷いて、足音をたてずにこっそりと地下室の扉に向かった。


地下室に入ったレアは数分間暗闇の中で声を殺し、じっと身を潜めた。

月光が換気窓から差し込み、地下室の一角を照らして歪んだ影の模様を作っている。

意識を研ぎ澄まして、聞き耳を立てたが、上から何も聞こえていない。

天井からこもった重い衝撃音が響くまで。

何か重い物が床にぶつかった。

そのあとは数分間の静寂が続いた。

闇に包まれる地下室。そのせいで時間の流れが遅く感じている。

冷や汗が頬を流れ、焦る気持ちがゆくゆくと膨らんでいく。

倒れていたのがハンスだったらどうする。

心配で我慢できなくなったレアは、こっそりと階段をのぼり、地下室へ繋ぐ扉を音をださないよう手際よく開けて、キッチンを渡って正面扉のある廊下へとそっとのぞいた。


銀色の月明かりの下で、扉の内側の近く、ハンスが片膝を立てて、倒れた人の姿を前にしゃがんでいる。ゆっくりとした足取りで近づいて見ると、倒れた人のジャケットにハンスは手を入れて漁っている。

微かな光でははっきり判別できないが、倒れた人はカーキ色のジャケットを着て、カーキ色のズボンと黒い軍靴を履いている。ジャケットの腹部のあたりに大きな汚れみたいな染みが見られる。

白い肌に赤髪。目と口を閉じている姿から寝ているのか死んだのかうまく把握できない。


「この人、生きているのか」

「馬鹿、出てくるなって言っただろう」

レアに向けてハンスは顔をしかめた。

「アメリカの兵士だ。息はしているが、下腹部のあたりが撃たれた」

腹部あたりの染みが血痕だった。

「ハンス君、救急箱を持ってきて。助けましょう」

「もう助からん」

「この人はまだ生きている!なぜ先は私を呼ばなかった!」

咎めるような口ぶりで言われて、ハンスは驚いたものの、声を尖らせて反論した。

「なんで俺は敵を助けなければいけないんだよ!」

「私は君を助けたんだ!」

怒声へ変わり、レアは憎たらしい表情を見せた。

ハンスは気圧されたように口を噤んで、レアを凝視している。

大声で起こされたのか、ふっと目の前の兵士は大きく息をして、力強くレアの手を掴んだ。

蒼ざめた顔には生気がほとんど失われたが、皺ひとつない顔からは若さが感じられた。

レアの驚きがまだ収まらないうちに、最後の気力を集めたように、弱々しい声を出して言いながら、湖の遠い先を指差した。

「助けて。仲間を。。。」

米兵の口から出てきた微弱な声で話された英語に、レアは耳をすませた。

「城。。。」

微弱な息とともに絞り出されたことばを言い残し、青年の目には光が失われた。

微かに動いていた頬もとっさに鎮まった。


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夜が明けるまで二人ともうまく寝ることができなかった。

リビングルームの隅にアメリカ兵の死体を寝かせ、毛布で上半身を覆った。

二人は、部屋を暗くしたまま身構えしていた。アメリカ兵を撃った何者かが追ってくるかもしれないと、不測の事態に備えてハンスは拳銃をキッチンの卓の上に据えて窓の外を監視し続けていた。

疲れ果てたレアは目を閉じるとすぐに眠れそうになったが、意識の中に死体の姿が浮かび上がり、無理やり意識を現実に引き戻していた。


日が湖面の向こうにゆるゆると上り始めている。

レアはキッチンで淹れたコーヒーをハンスに差し出して、食卓の同じ側に座った。

クマが目の下に現れ、二人は疲れをとるためにコーヒーを啜った。

「多分花火を見て、ここにやってきたんだろう。うかつだった」

クリスマスの夜とは違う雰囲気を漂わせて、今のハンスは兵士の冷徹な顔をしている。

「アメリカ兵がやられているのなら、ドイツ軍はこの近辺に来たはずだ」

独り言を言い続けるハンスはレアの浮かない顔に一瞥もせず、コーヒーをもう一口啜った。最初に出会ったハンスも、このような顔でしたが、一緒に暮らしていく中で徐々に普通の男の子の顔に成り代わった。しかし今は、逆戻りして自分を怯えさせていたドイツ兵の顔に再びなってしまった。

「もし、あの辺の情報を知っていれば、教えてほしい。あいつが最後に言った、城ってもんはなんだ」

マグカップをテーブルの上に置いて、レアは難しい顔でハンスに返事をした。

「湖の向こうにある丘を見たよね。後ろに小さい城がある」

「城か。拠点としては悪くないが、我が軍はこの人里離れた場所で一体何をしている」

ハンスが詮索している間、レアは隅に寝かせられている死体を一瞥した。

若いアメリカ兵の最後の表情は、未だに目に見えているようにはっきりと覚えている。淡い黄色の瞳にこもる懇願の気持ち。

一つの傷もなく滑らかな肌からは、戦場を初めて経験したもの、もしくは前線に立つことがない士官。

冷たい手から伝わってきた最後の言葉、その願いは未だ心の中に共鳴している。

「あの人の仲間を助け。。。」

レアの言葉がまだ終わっていないうちに、ハンスはレアの言葉を遮るように自分の拳銃をレアの目の前に突き出し、渡そうとした。

「その拳銃を持ってくれ。拳銃なら女の子も扱えるはずだ。このあたりは戦闘が起きる可能性もあるので、銃の使い方を覚えたほうがいい。その代わりに」

ハンスはリビングルームの暖炉に近づき、その上の壁に掛けたライフルを外して、両手で掴んだ。

「これをくれないか」

木製の長い銃身の上に黒鉄の機関部が装着されている。

ドイツ軍の制式ライフルの Kar98k と同じボルトアクション方式だ。

ハンスは試しにボルトを引いてみた。長さは Kar98k より長く、ボルトホルダーの形も違うが、使い方がほぼ同じで、弾倉の大きさもそれほど違わない。Kar98k の前世代の品かもしれない。

弾が地下室に存在しているのはハンスが清掃していた際に既に把握済みだ。


キッチンテーブルの上に、潤滑油、雑巾、鉄ブラシと弾薬クリップを揃えて、ハンスはライフルの整備を始めた。手際よくボルトを外して解体した。あらゆる形のパーツが一個ずつテーブル上に増えて、最後に長いばねを外した後、油をかけて鉄ブラシでパーツを磨いて汚れを取り除いていた。

兵士の手練れを感じさせ、レアは再びハンスが本当の兵士だと実感している。

綺麗な金属色を放つパーツを再び組み立て、ボルトを銃身に戻す。

弾倉に五発の弾を固定した弾薬クリップを押し込んで、ボルトを前に押す。

ハンスは立ち上がり、試しに窓の外に向けて狙う姿勢を取った。

目を細めて、鋭い視線が獲物を空中から狙っている鷹のようなものだ。

銃に実弾が入っていると考えると、レアの顔にある緊張感が一気に高まった。

「緊張するな。ここで撃つことはない。それより、君に銃の扱い方を教える必要がありそうだ」

長いライフルをテーブルの上に置いて、レアに立つよう願った。

後ろに回って、レアの両手を下から包むようなかたちで触れて、拳銃を握らせて、使い方を細やかに教え始めた。

「使う時、まずこういう風にセーフティーを解除するのだ。いいか、使わないとき必ずセフティーをつけるのだぞ」

レアの親指をゆっくりと動かし、銃の左側の後ろにあるセーフティーレバーを上に押しさせ、そして目の前まで拳銃を引き上げさせた。

「自然な力で掴んでいい。力が大きすぎると逆に狙いにくくなる。手には一定の余裕に残し、呼吸の都度に狙いを調整すればいい」

レアの固い手付きを感じて、穏やかな声でレアの耳元で囁いていた。

「最後に、トリガーを押す」

かちゃの音がしてハンマーが落ちた。

弾が装填されていないため、銃声は起きなかった。

「使う余地がないのが一番いいことだ。兵士は武装していない民間人に手を出さないと思うが、脱走兵が強盗に成り代わる可能性がゼロとは言えない」

浮かない顔のまま、レアは渡された拳銃を両手で掴んだまま凝視している。

金属生地の黒い銃身、木製のグリップ。人を殺すための道具の重さを、物理的より心理的に重く感じている。

自分は銃なんか使えるわけがない。

「ここからはもう離れたほうがいいと思う。ティルマの町に行かないのか」

試すように聞いてみたハンスはレアの浮かない顔を一瞥すると、口を噤んだ。


曇りが続いている日。灰色がかった湖面越しに二人の前に果てない森が広がっている。

前日に降っていた雪がなおもしっかりと枝葉にくっついている。

「ドイツの兵隊さんに会ったら軍隊に帰るの」

湖向こうの丘を眺めて、レアは浮かない顔で尋ねた。

「ああ、そのつもりだ」

ハンスの短い返事に決意を感じた。

「もう、帰ってこないってこと」

「戦争が終わるまでは。。。ないと思う」

「そう。。ですか.」

この関係がとっさに終わってしまうのは予想外だが、延々と続くとも思っていなかった。

いつかハンスはここを離れることは既に心のどこかに留めておいた。

「銃は、どうするの」

「そのまま持っていい」

レアは黒い金属の光沢を放つ銃を見下ろして、難しい顔をした。

「女の子にくれるものにしては、不適切だと思う」

「そんなこというなよ。ルガーは誰でも配れているわけがないんだ」

軽い口で言われたハンスの言葉に、レアの気持ちはちょっぴりとも晴れていない。

肝心なことは、結局言えなかった。

しかし言ったとしても何になる。ドイツ軍人であるハンスは、最初から関わるべからず存在だ。

今のレアにとって、ハンスは近い存在か、遠い存在か、まったく掴めなかった。

二人がこの日から各々の世界に戻り、二つのおとぎ話に生きる主人公のように永遠に関わることがない。

突如に衝突した二つの世界がきらきらしい花火を散らし、あっという間に無に返す。

浮かない顔に眉をひそめて、レアは俯いたまま頭を振った。

まだ終わらせたくない、まだ話したいことがある、言うべきことがあるはずだ。

「湖の向こうに行くには、橋を渡る必要がある。せめて、橋まで送らせてください。あなたも道が分からいから」

「遊びじゃないんだ。おとなしく残ってください」

「できるかぎり君を最後まで見守ってあげたい。人を助けた以上、最後まできちんと終わらせたい」

真っすぐで揺るぎないレアの顔にハンスにはこれ以上の口出しをやめた。


シャレーの左側の森の中。両側の木の群生地が挟んだ開きに二人は進んでいた。足を踏んでいる所は冬が終わると車が通れる道だとレアが言った。右側の森を覗くと、湖の青々しい姿が道と同じ方向に続いている。

歩を進めると、その青さも段々と消えていき、取り替わったのは白く濃い霧だった。

二人は黙ったまま道を進んでいた。

何を言い出そうとも、この最後の時に何故か言葉をうまく浮かべられなかった。

知らないうちに、二人は森の縁にたどりついた。

目の前に倒れた木が何本も積み重なって、道を塞いでいるように見える。

それを越えた先に大きい主幹道が横切っていて、主幹道を出た右側に、湖の対岸とそれを繋ぐ橋が見えた。


濃い霧に包まれた石造りの橋が湖の上にかかっていて、両側の岸と森が霧の中に姿をくらましている。橋の一端に肩を並べている少女と少年の姿がこの五里霧中ではとても危うくて不確かに見える。

「どうやら、ここまでだな」

少年が一歩を踏み出し、橋の石畳みに足を伸ばした途端、背後から力強い呼びかけが伝わってきた。

「やめてもいいんじゃないか!」

「何のことだ」

振り向いて、ハンスの目に映るのは、レアの見たことのない深刻な顔。

眉をひそめて、黒い瞳に強い決意が宿っている。

「軍隊に帰ることだ。あんな怪我をしたんだよ。もう戦わなくても済むでしょう」

「お前には分からないかもしれないんだ。私達ドイツ人は皆、信念と忠誠をもって戦ってきた」

目を落として、レアは沈んだ声で呟いた。

「そうだね。私は結局何もわかっていないかも」

場の空気が凍り付いた。

「人が死ぬのが嫌です。今でも、昨日死んだ人の顔を忘れることができない。ハンスの元でもたくさんの人が死んだでしょう。戦争はやめましょう。ここで静かに暮らして戦争が終わるのを待って。。。」

「俺は、総統(フューラー)と祖国に忠誠を誓った。自分の責務から逃げることができない」

ハンスはレアに向けたまま強い声で言い張った。

「その責務で!」

歪んだ顔、咎めるような目つき、レアは静まり返った霧の中で叫んだ。

「どれほどの人が死んだんだ!」

ハンスはずっと信じていた。

国のため、永久の平和のために犠牲が必要だ。

たとえそれが自分の命であっても。

ドイツの兵士には皆そう教えられた。

疑う余地がない。

戦争に苛まれている人々が多いとも、総統(フューラー)が示してくれた輝くヨーロッパの未来と比べれば、大した犠牲ではない。

「俺は反論するつもりはない。お願いだ。城への道を教えてくれ」

レアの目を見つめたまま、冷静な態度を取ったハンスを見て、レアは苛立ちが収まった。

冷え込んだ心には虚しさしか残っていない。

目を落として、寂しげな顔で返事をした。

「橋を渡って坂道を少し登ると、左側には城まで続く歩道だ。その歩道を登りきって森を抜けば城がみえる。今立っているこの車道でも行けるが、一番早いのは、このルートのはずだ」

やはり、私たちは違う世界の人だ。

二本の直線が一瞬に交差し、まだ各々の進む方向へと続くように。

一緒に過ごした時間、交わした言葉、握られた手の暖かさ、全ては幻だった。

一瞬にして瞬く星の光のように、またすぐに暗闇に消えていく。

ハンスは俯いて気を咎めるような顔をしている。

「君に感謝している。助けてもらったことも、そのほか、いろいろと。。。」

ちゃんとお別れを告げようとも、中途半端な言葉しか出てこなかった。

レアはハンスの言葉に返事しなかった。

「君と過ごした時間は楽しかった。俺にはもう家族がいないから、こういうふうにクリスマスイブを楽しむのが久しぶりの感じだった」

ハンスは眉をひそめて、真剣な眼差しでレアを見つめている。

「早く家に帰ってください。この辺はもう安全ではないかもしれない」

間をおいて、再び目を落としたハンスは、最後の言葉を絞り出した。

「もし、また会えるのなら。話の続きをしてもらえるか」

「何の話だ」

「昨日の夜、何が言いたいでしょう」

どうして、覚えているんだ。

私のこと、どうでもよく思っているんじゃないのか。

だからこんな簡単に、乱暴に離れられるんだ。

しかし、どうしてだよ。

いつも、いつも、私の言っていたことをきっちりと覚えている。

そして、一番苦しんでいるのは、そんなあなたは兵士に戻って人を殺さないといけないということだ。

怒っているか悲しんでいるか判断しかねる表情でレアは考えていた。

俯いているのはその表情を隠すためだ。

唇が震えているのは自分の言いたいことを抑えているためだ。

「ほんとに自分勝手な人だね。勝手に出ていき、まだ勝手に帰ろうとする」

俯いたまま、レアは低い声を絞り出して本心でない偽りの字句を綴っていく。

「戦争が終わったら、いつでも歓迎するよ。休戦中の敵同士ではなく、友達として」

顔を上げ、眉をひそめたまま笑顔を作って、手を振ってハンスを見送った。

自分が嘘を言っているのは知っていたとしても。

ハンスが無邪気な笑顔を出して、手を振って走り出した。

橋の上を小走りしながら、何回も振り向いて手を振っていた。

自分とほぼ同じ身長の男の子が、細長いライフルとリュックサックを背負って、前に進んでいる。

心のどこかに、あの橋を渡って、彼と一緒に行く思いがあるはずだ。

結局私は、その一歩を踏み出すことができなかった。

ずっと一人だったせいかも。

もう人を信じる勇気がなくなってしまった。

ハンスの目には、私はどういうふうに映っているのでしょう。

森の中に住んでいるちょっとおかしな女の子かな。

私のほんとの姿を知れば、同じく扱ってくれるかな。

この思いも、今までの関係も、全部嘘の上に成り立っているのを知っている。

だから、もう忘れたほうがいい。私たちはもう会うことがないでしょう。

灰にかかった空は雲が厚く積み重なって、複雑な模様になっていく。


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雪が薄く積もる砂利道が山の上に続いている。大きい石ころが道中に何回か踏んだことがあって、長い間放置されていた道だと感じられた。

霧が今でも濃いまま、目先に数メートルのことしか見えない。

また一人になった。

一人で霧の中を緩やかに進んでいるハンスは、自分に言い聞かせるように呟いた。

いつかレアのところを離れないといけない心の準備をしていたから、あまり苦に感じることはなかったが、心の中に靄みたいなものがかかってすっきりしない。

余計な感情を振り払うために大きく息を吸って吐息をする。

戦争が今でも続いている。自分が安全な場所に隠れてのうのうと生きるのは祖国への、仲間への裏切りでしかない。

レアは心優しい女の子だ。

今の自分は助けた恩に報いる力がないが、いつか、必ずまた会えて恩を返す。

決心を固めて、力強い一歩を踏み出す。


道が上り坂となって、息が重くなっている。

レアの言っていた歩道がふっと目に入った。

確かに上り坂が始まっているところだ。

雪がかかっても灰色の石の積み重ねでできた階段がはっきりと見えた。

そして、レアの言葉を脳裏に蘇らせた。


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最初にこの歩道を歩いたのは父母と一緒に城に行く時だった。

車を砂利道の脇に止めて、三人が車を降りると、金色に染まった森に誘うような一本の石階段が森の深部に伸びていた。

金色の黄葉に覆われた古い石畳みを一歩一歩登って、物語の主人公のように徐々に未知の世界へ旅立つような気持ちだった。

森を出ると目の前に岩石を基地とした建てられた城が佇んでいた。

それほど大きい城ではなく、人によって荘園と呼ばれることもあるだろうが、外周壁、防衛壁、高塔がきちんと備えられている。壁と塔には射撃用の狭間が整然と設けられ、基地とした岩石が天然の石垣となり、戦争時に小さい防衛拠点として機能することは無難である。


興奮した私は父と母より先に入り口に繋ぐ斜面を走り、太い鉄製の扉を推した。

扉が軋む音を立てて、綺麗な景色を期待した私は笑顔を収め、目の前に現れた廃棄庭園に不満な声をあげた。父と母は雑草が生い茂った庭園にピクニックシートを敷いた。

三人で昼食のサンドイッチを食べているうちに、父が城の歴史を語り始めた。


ドイツとフランスの間に位置するベルギーの土地は、昔から軍事の要衝として様々な国に占領され、統治されてきた。この城は最初にフランス人の貴族によって建てられた。

その貴族の家系が衰退した後、城はドイツ、オーストリア、スペインの貴族たちに次々と移譲されて、今に至っては所有者が不明となった状況だ。

庭園だけでなく中もぼろぼろだから入らないほうがいいよと父が言った。

その時から外から見て綺麗そうな城に残念な気持ちを抱いていた。


あれは何年前のことだろうかもうはっきりと思い出せなかった。


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同じ石畳みを踏んでいるハンスは、レアの言葉を思いかえした。

目の前に白い雪に覆われて寂寥感に満ちた森が秋の時に金色に染まるのはやや信じがたい気持ちでいた。

真っ直ぐに続いた歩道はある地点から方向が変わってくねはじめていた。

顔には温かみを感じて、気づかぬうちに霧が散っていた。

顔を上げ、空は曇ったままで、服の中に湿気がこもるのを感じている。

階段の段差が大きくなったから、ハンスは汗をかきはじめた。背負っているライフルの重さを初めて感じ取った。


道の曲がりに差し掛かって、階段を踏んだ足がいきなり滑った。

不意をつかれて、ハンスはバランスを失って歩道から飛び出て斜面に転んだ。

緩やかな斜面でもハンスは何回も回転してやや低いところに止まった。


口に入った雪を吐き捨て、目を開けると、恐ろしい光景が目に入った。

何人もの死体が半分雪に埋まっている。

コートを着ている死体。シャツだけを着ている死体。どちらもカキ色の軍服。

ハンスに一番近い死体の目が大きく開いて、やや広がった瞳がびくともしなくハンスを見定めているように見えた。

息が激しくなり、震えている体を起こして、大声で叫んだ。

「撃つな!自分はドイツ人だ!」

両手を上げ、周りを見渡した。

先ほど滑ったのはただの意外ではなかった。雪が踏まれて階段の表面に薄い氷の層ができたから。賭けが正しければ、この歩道は近頃頻繁に使われていた。

一人の兵士の姿が先ほどの階段に現れた。

白い野戦服に白い帽子。手には StG44 、ドイツ製の突撃銃を持っている。

手を上げたまま、ハンスは斜面を登って歩道に戻った。

兵士は突撃銃の銃口をハンスに向け、白い帽子の下にある青い目が疑わし気にハンスに向かっている。


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二人の兵士に監視されるがまま、ハンスは先頭を歩いて、階段を登っていく。

ハンスの軍隊手帳にざっと目を通して、背の高い兵士は、「まず指揮官に会ってから処遇を決める」と一言を残すと、後は喋ることがなかった。

銃口に向けられても、ドイツ軍の兵士だからハンスには恐怖をあまり感じなかった。

円錐形の黒い物体がついている銃口。ハンスの見たことのない装備だ。

謎の部隊にハンスの中に好奇心が湧いたが、口を利くのはしばらく控えることにした。


階段の終わりを迎え、歩道が平坦になり、城の尖塔が枝葉の隙間から伺えた。

森を出て、一本道が城の立っている小さな丘に伸びている。

城の本体は高さ三階の大きい円塔と二階の屋敷によって構成されている。

それに繋がっているもう一本の塔は、ピラミッド型の屋根を持ち、塔の下から上に並べられる五つの細い窓がこの城の一番高い建物の高さを示している。

敷地の尖端に小さい青藍の尖塔が目立つように据わっている。

それらの建物の間に人が越えられない石塀が立てられ、侵入者が簡単に敷地に入れぬようきちんと城としての機能を果たしている。


丘の外側には外縁防御の施設に見える低い壁が存在していて、三人が壁に近づき、壁のぼろぼろで既に倒壊した場所から抜けて、壁の後ろの平地に入った。

そこには使い捨てられたガソリン缶と弾薬箱が山積している。城の後方だからゴミ捨て場に使われていただろうとハンスが想像してみた。

丘を回る道を歩き、三人が城の正面広場に入った。数台の軍用トラックと軍用ジープが止まっている。大きい白い星のマークとオリーブドラブの塗装が装備の製造国を示している。


広場から一本の車道が二階の建物のわきを通って森に伸びていく。

建物の二階の窓から重機関銃の銃口が突き出して道路に向かっている。

広場の向こう側にある城に続く登り道から二人の兵士が近づいてきた。

二人とも米軍の制服を着て、それぞれアメリカ製の M1 ガーランドライフルとトンプソン・サブマシンガンを持っている。

城に向かうハンスたちとすれ違う際に二人は白い野戦服の兵士たちとドイツ語で挨拶を交わした後、ハンスと疑わしげな視線を交わした。


三人は砂利道の上り坂を歩いている。丘の斜面から岩石がごつごつと飛び出していることからすると、城は頑丈な岩石層の上に建っていることがわかった。

一度ヘアピンカーブを曲がると、三人がようやく城を囲む石塀の近くにたどり着いた。

先ほど見た尖塔がここの石塀の端っこに建てられ、城後方と登り道を監視する役割を果たしている。反対側の石塀には五階でピラミッド型の屋根を持つ四角い塔があって、違う方向の森を監視している。

遠いところから見て気づかなかったが、ここの石塀もぼろぼろで、石が抜けて落ちた箇所が見えている。


道の端の壁にある鉄の扉をハンスたちが通った。

意外と小さくて暗い鉄色の扉だった。錆がついたせいでひどい軋む音がした。

庭園は雪に深く覆われている。庭園の向こうに据わっている尖塔が寂しく城を見守っている。中の庭園に入ると、外の様子とは裏腹にそれほど大きい城ではなかった。

尖塔と庭園を挟む形で建てられた二階の屋敷は、幅の大きい円塔と高い四角い塔に繋がっていて、これらはもう城の全ての建物だった。


屋敷の扉に通され、大きいテーブルの周りに寛いている兵士に異様な目付きで見送られながら、螺旋階段を登って細長い廊下を通り、一本の派手に飾られた扉の前にハンスと一人の兵士二人が止まった。

いつの間にかもう一人の兵士がいなくなった。

何も喋らず行動を決めた。やはりなんらかの特殊部隊だとハンスは思った。

ハンスを護衛する兵士がノックをすると、扉が開き、向こうにフィールドグレーの軍服を着た大きい男が二人に強い視線を投げた。

「大尉殿がお食事中だ」

「まあ、構わん。通してくれ」

大男の荒い声とは違い、部屋の中から届いたのは落ち着いた声だ。


二人が入った部屋は、棚、食卓、執務机、ブラウンの木製の家具が揃えており、暖炉の火がぴりぴりと音を立てている。典型的な執務室に見えるが、年代物の石壁と比べて家具のほうが明らかに城の年代と合わず、近代的な品物だ。

食卓には一人の士官服の男が頬ばって皿の上のステーキを優雅に食べている。

綺麗に撫で上げたダークブラウンの髪に顔に張り付いたなめらかな白肌。

食卓の上に立つ赤ワインのボトル。

城周圍の粛殺さに不釣合いな雰囲気に包まれた男は、皿に向けていた目を上げ、入ってきた二人を見つめた。外した軍装のボタンからは、カジュアルに食事を嗜む時間を過ごしていたようだ。

「何の用件だ。この小僧、誰だ」

適当な態度を取った男の青の瞳はハンスに向けられている。

経緯を説明していた兵士の言葉が終わる途端、

「武装親衛隊上等兵、ハンス・シガー」

とハンスは踵を鳴らして自ら名乗った。

「お前、武装親衛隊の兵士?」

「軍隊手帳は確認済みです。たしかにそう書いてあります。軍服もリュックサックに入っています」

ハンスを連れてきた兵士は硬い声で付け足した。

人差し指で机の上を時計のように一定の間隔で叩い続けて、士官服の男が神妙な顔でハンスを上から下まで見ていた。

見られているハンスは背から冷や汗が出て、直立不動の姿勢を保っていた。

士官服の男がやがて口角に興味深い笑みを浮かべた。

「ハンス君だっけ。まず食事を済ませてくれませんか。軍務で忙しくて食事をする時間をなかなか取れないんです」

男の笑みに違和感を覚えたハンスは眉を一瞬ひそめたが、直ぐに気を取り直して、「はっ」と返事をした。

男が残りの食事を済ませるまで、ハンスは部屋の中に立ったまま待たされていた。護衛の兵士が元の任務に戻って、大男にハンスの監視役に引き継いでもらっていた。

その間、ハンスは数回大男と士官の男をちらりと見た。

大男の馬のような長い顔に表情の変化が一つもなく、町中の偉人の銅像のように硬い。右目の上の傷跡が深く、目の開閉に支障をきたしているように右目の形が楕円より三角形に見える。

見たことのある目だ。その士官もそうだ。それに極最近のことのはずだ。

ハンスは思いを巡らせて記憶の中を探ったが、緊張のせいか頭がうまく回らなかった。

士官が食事を終えた後、ゆっくりと立ち上がった。

「すみませんね、ハンス君。これから用事があるので、君にも来てもらいたいと思います。いいですよね」

階級の低い若者に向ける態度にしては緩すぎるとハンスにすら思った。

「はっ。問題ありません」

それでも深く考えることもなく、兵士らしく返事をした。


三人が向かうのは、長細い廊下を渡って螺旋階段を降りた先にある地下牢屋。

湿気の多い空気がカビの臭いを淀んでいる。壁の隅々に蜘蛛の巣が張られて、壁の隙間から生えてくる苔が壁に奇妙な模様をなしている。

鉄格子に隔てられた牢屋には一人の人間が木椅子に縛られている。カキ色の軍服を着て、頭に麻袋を被ってじっとしている。

部屋の入口で待っているドイツ兵たちが踵を鳴らして右手を上げて敬礼をした。

「お待ちしております。大尉殿」

「尉官を捕まえるのは滅多にないことだ。怪我をさせていないよね」

「手を出しておりません。大尉殿は自ら尋問するとのお達しをいただいたので」

麻袋の中から微弱な呼吸音が聞こえた。寝ているか気を失っているか判断できない。

大尉と呼ばれた男は縛られた男に近づき、麻袋を一気に取り上げた。

突然の起き事に先ほど麻袋に視線を遮られた男はぴたっと体が動いた。

そして目を地面に向けたまま、低い声で英語を繰り返し唸った。

震えている体は地下の寒さか、それとも恐怖によるものか分からない。

ジュネーブ条約では、捕虜が自分の階級、名前と軍籍番号だけを述べていいと決められていた。英語がハンスには分からないが、そうしているのが大体分かる。


それから数分間、大尉が流暢な英語で捕虜の男に何度も質問をしていた。

しかしどれほどの言葉を投げても、帰ってきたのは同じ言葉の繰り返しだけだ。

その間は男が大尉の存在を直視することができないようにずっと地面に向けたままだ。

やがて大尉が諦めたように肩をすくめて、手を上げて牢屋の扉の傍に立っている兵士に合図をした。

兵士が牢屋の外からなんらかの物体を引きずるように米軍の男の前に移動させた。

それほどの重量があるものらしく、灰色の布に覆われている。

そして真っ先に周りの人に気づかせたのは、鼻をつく悪臭だ。

兵士が手際よく布を引き抜いた。

そこにあるのはぼろぼろの木製の椅子とそこに縛られた男の死体だ。

雪のように真っ白な色で固まった男の顔には、半分開けた口から舌が微かに出て、生気を失った両眼が異様に斜め上に向かっている。

まるで恐ろしい怪物に目撃されて驚かされたような目つきだ。椅子の肘掛けに縛られた両手は十本の指がひとつも残っていなく、全て切り落とされた。

目の下に乾いた血の跡が口まで伸びている。

同じく縛られてでも生きている男は明らかに怯えている。

目を大きく見開き、口まで震えているのがみえた。

前に座っている大尉はさりげない態度で男に英語を話したが、同じことを繰り返すような声からは、同じく軍籍番号のみを口にしている。

頭を垂れて失望の意を表した大尉が、ベルトに付けた短剣の鞘から短剣を抜き出して、男の目の前でおもちゃのように弄んだ。

米兵の目には恐怖が膨らんだ風船のように爆発寸前に見えた。

激しくもがいていたせいで椅子ががたがたと大きな音を立てて震えている。

大尉の合図で周りの兵士が米軍少尉の震える右手を抑えて、大尉が楽しそうな表情でナイフを高く上げて、勢いよく落とした。

米軍少尉が悲鳴を上げて、口から唾がぽたぽたと垂れている。

ナイフは取っ手の指の一センチ前のところに刺された。

「これで話す気が出るんだろう。まだ話さないのなら、指を一本ぐらい切り落としてもいい」

「はっ!」

床を踏み鳴らし、監視の兵士たちが右手を上げて敬礼をした。


「お待たせしました。話の続きをしましょうか」

元の道を辿って、ハンスはグライフ大尉とともに執務室に戻った。

グライフ大尉は先と違って、両足を机の上に載せて、寛いでいる気持ちが見え見えだった。

体が強張ったハンスは拳を強く握り、平静を保つのに必死に顔の表情をコントロールしている。

「怖いのかい。あいつをそうさせたのは死んだあとのことだ。ただの脅しだよ」

本物を言っているのか、嘘を言っているのか、掴めさせない歪んだ笑顔。

それにはっきりとは言えないが、先牢屋でのやり取りの中に自分にこっそりと向けられた視線をハンスが感じていた。

試されていたんだ。

ハンスは自分の表情を抑えて、なにもないような顔を作って体を直立した。

大尉が咳払いをして、真面目な口ぶりで話の内容を変えた。

「改めて自己紹介をする。自分は親衛隊大尉(ハウプトシュトゥルムバンフューラー)、グライフだ。軍隊手帳を見させてもらう」

ハンスの軍隊手帳を細い目で見て、手帳を少しずらしてハンスの顔を照らし合わせてから、机の上に投げ捨てた。

「第12SS装甲師団か。子供だらけの部隊だ。それで、どうして配属先から外れて、どうしてここが分かったのか。一から話してもらおう。同じ SS でも我々の居場所は機密で知るわけがないのはずだ」

「自分は戦闘で頭の傷を負ってこの半年間の記憶を失いました。傷が治るまである所に身を隠していた。ここから逃げ出した米兵に遭遇し、彼の口からここの情報を聞き出した」

「なんだこれ、映画を見て考えたセリフなのか」

グライフ大尉は顔を手で覆って、笑いを抑えるために顔を下に向けた。

「お前。ただの脱走兵で運が悪くうちの隊員に捕まった、というのが筋が通る気がするね」

「自分は誇り高き武装親衛隊の一員です。嘘はつきません!訓練生時代の駐屯地、上官、関与した作戦を伝えてもかまいません。12 SS の司令部に連絡する手段がお持ちでしたら確認していただきたい!」

これを聞いている間、グライフ大尉はタバコ箱を懐から取り出して机の上に置き、一本のタバコを指で挟んで火をつけ、一息を吸った。

「本気でそれを言っているのか」

間を置いて、もう一口を吸って白い煙を吐き出した後、話を続けた。

「事実を教えてやろう。お前さんの部隊はすでに敗退した。今頃はもうドイツに戻ったのかね。そのおかげで、こっちは大忙しいのだ」

横目を向けて、沈黙に陥ったハンスのことをなめているような口で、「遭遇した米兵は、どうした?ちゃんと殺したよね」と言った。

「はっ。遭遇時に既に傷を負ったので直ぐに死んでおりました」

レアのことを伏せて、残りの事実だけを述べているのでハンスの表情にはぼろが出るほどの変化がなかった。

「確かに捕虜が逃げ出したという報告を受けた。これで捜索隊を撤収させてもいいか」

「捜索隊をどの方向に向けさせていらっしゃたんのでしょうか」

「なにか、気になることがあるでも?」

「いえ、なにもありません」

ハンスは硬い表情を保ったままグライフ大尉の後ろの壁を直視している。

「お前は戦車兵といったな。残念だがうちには用がない。うちの隊の任務は情報収集、捕虜の尋問、そしてなりより情報戦の遂行だ。戦闘はできる限り避けたいところだ。しかし、お前をそのまま行かせるわけにはいかない。俺がお前のことを完全に信用しているわけがないからな。しばらくここに残ってもらおう」

タバコを机上の灰皿に押し潰して、グライフ大尉が話を続けた。

「それにお前が何週間も部隊から外れたということが事実なら、今さら戻っても脱走兵扱いだ。状況がはっきりになるまで、俺のところにいるのが得策だと思うが、どうかな」

「お気遣い。ありがとうございます」

ハンスの回答をもらったグライフ大尉がハンスの兵士手帳に何かを素早く書き込んだ。

「これでお前は暫くうちの預かりだ。しばらく大人しくしてくれ」

グライフ大尉は兵士手帳をハンスの方向へ押し戻した後、先ほどの真剣な顔を一変し、演目を終えた役者のように頬に笑顔を載せた。

「まあっ。うちのメシは意外とおいしいのだ。ハンス君には深く考えずにきちんとと休んでもらっていい」

意味を読み取れない大尉の笑顔にハンスの背筋に冷たいものが走った。

「ルディー軍曹。ハンス上等兵を独房に送ってやれ」と大尉が言って、ハンスの後ろに控えていた軍曹がハンスの肩に手を当て、部屋から連れ出した。


部屋を出た二人は長い廊下を通っていた。

途中でカキ色の米軍制服を着ている兵士と何人か遭遇していた。白い野戦服のドイツ兵に押され、気息奄々に歩いている米軍兵士の顔に恐怖と失望が混ざった感情が現れている。

「これほどの捕虜を捉えるのは、相当の戦果を上げていると思っております。お勤めご苦労様です。軍曹殿」

ルディーと呼ばれた軍曹は目の前の少年に冷ややかな視線を投げた。

「先ほどの大尉殿のお言葉を聞いてなかったのか。私たちの任務は情報収集だ。真正面から戦うことではない。ここの捕虜は全て敵後方に捕まった」

「後方に捕まったというのは、つまり。。。」

「あ、誘拐したぞ。クロスロードとかの所で米軍の制服を着て待っていれば、しばしば獲物が通るんだ。米軍が駐屯する町に入って誘拐したこともあるが、それはさすがにリスクが高かった」

ルディー軍曹があくびをして、さりげなく語った。

「それよりあんた、気軽に話しかけてくるんじゃねえ。あんたはうちの仲間ではないのだぞ。あんたは今俺の監視下にある囚人ということを自覚しなさい」

口ではそういうものの、軍曹がハンスを城の小さい部屋に連れてくるまで、喋るのはとまらなかった。特に敵防衛ラインを突破できない装甲師団について散々悪口を言い散らした。

「でかい戦車に乗って軍事パレードでにぎにぎしく見せびらかした連中は本当の戦場に出ると腰抜けになっちゃうんだ。役立たずめ。そのおかげで俺らはもうここに何週間も居続けた。計画通りに進めば、俺たちは既にドイツでクリスマスを祝っているはずだ」

と言いながら、ルディー軍曹とハンスはいつの間にか目的地の部屋にたどり着いた。鍵を使って扉を開けると、ルディー軍曹がハンスの肩を乱暴に押して部屋の中に投げ入れた。

小さい部屋の中にベッドとその上の汚いマットレスがあって、それ以外はなにもなく牢屋みたいな空っぽな状態だ。

小さい空間のわりに大きめの窓が壁に張り付いている。三階の高さで飛び降りる心配がないと予想したのだろうか、それともただ牢屋として使える部屋の数が足りていないのか、ハンスには知る由もない。

「暫く大人しくしろ。暖かい飯を食えるだけで感謝すべきものだ」

とルディー軍曹が言い残すと、力強く木扉を閉めた。


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ハンスは小さい部屋の窓を越して外の景色を眺めている。

細い眉の姿を模した月が雲間から黄色い光を放ち、夜闇に飲み込まれた城が朦朧な姿を現している。ハンスは窓から下を見下ろして、城の正面ゲートと二階建ての建物が目に入った。この方向だと、今自分がいるのは幅の大きい円塔に違いないとハンスは思った。

城の周辺の雪地には一縷の人工光の痕跡も見えない。完璧に姿を消しているグライフ大尉の部隊の手練れにハンスは感心した。


石舗装の床の冷たさが足の裏から伝わり、ハンスは片足を窓台に上げて、沈んだ青い瞳を夜空に向けている。

レアも同じ空を見ているのか。何故かその質問が頭の中に浮かび上がった。

彼女は今なにをしているんだ。

本を膝の上に乗せて、暖炉の光を浴びて静かに読書をしている姿を思い出した。

長い黒髪。青色のニットスカート。頁をめくる淑やかな右手。黒い瞳を囲むアーモンド形の目。


もう会えないのか。

頭を振って、必要のない感情を振り払おうとした。

あそこを離れた時は既に決心が付いていたはずだ。

戦争の中で感情にとらわれるのは無責任な行為だ。

これからは責務(プフリヒト)を果たすことだけを頭に置いていい。


その責務で!どれほどの人が死んだんだ!

レアの声が脳裏に響いている。

そうだ。たくさんの人が死んだ。

でも、それは意義のある死だ。犠牲なき創造がない。

総統(フューラー)の言葉には疑う余地がない。


しかしこの先には何があるというのだ。

私の傍にはもう誰もいない。

新しい世界では、私の居場所はどこなんだ。

俯いて目を閉じたハンスは、ふっと強い孤独を感じ始めていた。


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白昼が訪れ、雪で白く染まった城はとても和やかで、子供の読むおとぎ話の絵本に出てきそうな城の姿を見せた。

この夢のような秘境の中でハンスが持っているのは変わらぬ現実。

執務室に呼び出されたハンスは、昨日と同じ位置に立ち尽くしている。

任務にあたる準備を整えた兵士の雰囲気と自信に溢れていて、グライフ大尉の後ろの壁を直視している。

頭に手を当てて、何か困っている様子を呈したグライフ大尉は、目の前にある土色の封書を見下ろしている。

やがて、大尉はハンスを見上げて口を開いた。

「ハンス上等兵。お前に任務を与えてやる」

手を組んで、グライフ大尉は真面目な口で言い渡した。

「この山の更に奥は降下兵の戦闘区域にあたる場所、あそことの無線通信は途絶えたゆえ、命令書を指揮官に手渡ししてもらいたい。シュタインベルガー中佐宛てだ」

グライフ大尉が机の上にある土色の封書を渡した。

封書の正面にはスワスチカの紋章を掴んでいる鷹の印と「秘密」(ゲハイム)の印が見えた。

「この命令書を奴らに届けるのはお前にぴったりの任務だ。民間人の服を着ている君みたいな少年が敵に遭遇しても無事に切り抜けることができるのであろう。それに、お前たち 12 SS 装甲師団を長らく待ち望んで戦ってきた降下兵たちだ。自分の部隊の失態も自分の口で伝えてやれ」

「大尉。12 SS と連絡をお取りになりましたのでしょうか」

「残念だが、無線沈黙が敷かれているので、こちらから連絡を取れる部隊が限られている。焦るな。うまく任務を完遂できれば、こっちから上にいい話をしておこう」

昨日とは違い、ハンスにそれなりの信頼を置いているグライフ大尉の態度の変化にハンスが少し疑わしくなった。

「シュタインベルガー中佐の部隊の具体的な位置は」

「残念ながら、無線が途絶えたので、私たちも把握してない。前回通信時の位置をルディー軍曹が後ほど伝えてやる」

「了解いたしました」

淡々と返事をしたハンスに、グライフ大尉が何かに苛立っているように手を振って、出てもらうように指示をした。

その後、ハンスはルディー軍曹から一枚の小さいマップをもらい、ルディー軍曹はそのマップの上に部隊の居場所を示すクロスマークを付け、城の傍らから一直線を描いて山を登る路線を描いた。持っていたライフルと兵士手帳が返されないまま、ハンスは城の鉄扉をくぐって送り出された。

ルディー軍曹が何の表情もないまま、ハンスは振り向いて敬礼する暇を与えず素早く城の鉄扉を閉めた。まるで厄介払いをしているように、何の言葉も残さず、ただハンスが早く消えてなくなってほしいみたいだ。


執務室に戻ったルディー軍曹はいつもの悪人顔が崩れて、あきれた顔つきで聞いてみた。

「大尉殿、この大事な任務は出自の分からないやつに任せていいのか。天候も芳しくなく見えている」

「まあ、気にすんな。ルディーちゃん」

その瞬間、グライフ大尉はにやりとして歪んだ笑顔を浮かべた。

「自分の仕事に戻りたまえ」


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ハンスは城の傍に流れる小川に沿って上流に向かった。

緩やかな登りが続き、小川の幅はだんだんと縮んで、雪の厚みが増していく。

幾つかの小滝を乗り越えたハンスは、自分の体力が以前ほどでないと感じた。体力の消耗は予想以上に激しく、気温が下がっているのを感じた。

どんな困難な状況においても与えられた任務を忠実にこなすことこそ、大ドイツ国の兵士と呼べるものだと、ハンスは気を高めてむりやり足を前に運んだ。


数時間重い足取りで坂を登りきると、また森に入った。

それはとても気味悪い森だった。葉がほぼ枯れ落ちて、灰色の枝がとげみたいに鋭く、入り組んだ枝が空を切り刻んで気色悪い図形を描いている。

首を上げて、曇った空を眺めると、気持ち悪い物体が目に入った。

降下兵の死体複数が森の木々の上からぶら下がったり、パラシュートの縄に縛り付けられたりして、力を失って垂れる四肢がマリオネットのように見える。

足を速めて、この森を通り抜けようとするハンスは、徐々と天候の異常を感じた。

風が強くなり、頬を吹き通った風が熱を奪い続けているせいで、少し眩暈を感じてしまったハンスはいらいらしはじめた。

雪片が飛んできて顔に当たり、ハンスは今、森の中で迷子になった、ただの少年に見えている。


暴風雪に見舞われるのは予想外だ。

このままだとやばいことになる。

しかしもう少しだ。この森を抜ければ例の部隊の駐屯地だ。

雪片は顔にぶつかる勢いで襲い続けている。

全身の震えが止まらなかった。コートを力強く掴んで、体の熱量を必死に保とうとしても、意識が段々とぼやけていく。

霞んだ視線には一縷の光を感じた。

懐かしい色だ。

シャレーの暖炉の光。まさか。

きっと幻覚だ。

頭を振って、再び顔をあげると、光がやはり消えた。

持ちこたえるんだ。ドイツの兵士はこんな程度のもんじゃない。

戦え。戦え。戦え。戦え。

あと少し歩けば、きっと身を隠せる場所が現れる。

ロッジではなくとも、洞窟か樹洞でもいい。


頭を動かして周りを見ると、側面になにかの物体が存在していると気付いた。

それは灰色と銀色の毛を持つオオカミだ。

昔にもみたオオカ?。。。記憶がそう囁いている。

オオカミの鋭い視線が自分の魂を覗いているようだ。

暴風雪の中でもびくともしないオオカミにライフルを向けた。

俺がどうせ凍死するから襲ってこないのか。

なめられたな。

怒りにかりたてられ、俺はトリガーを押した。

銃声が起こり、反動で足が滑った体は後ろに倒れて斜面に転び落ちた。

体が回転しつづけて低い所に着くまで止まらなかった。


雪だらけの体を起こした瞬間、目の前に現れたものに気が止まった。

戦車。四号戦車だ。

ドイツ軍の主力戦車の一つで、暴風雪の中でも一目で姿を見分けることができた。

グレーの塗装。こちんまりで精緻に組み立てられた砲塔と車体が伺えたが、片側の履帯が脱落し、オイルが漏れた砲塔は油圧を失って、重力の影響で砲身が片側に回っているようだ。

自分の手にしていたライフルを探そうとしたが、ライフルの形態らしいものがどこにもなかった。

最初から存在していないことを探しても意味がないとハンスは薄々と感じた。

なにかおかしい。それは自分なのか、それとも世界なのか。

しかし体に沁みる寒さは本物に違いない。

頭を上げて目の前の四号戦車をもう一度見た。


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ライターを手に取り、砲塔の上部ハッチから入って微弱な光で戦車の内部を照らしてみた。戦車の内部にはところどころに錆がついている。鉄の壁には生え茂ったつたの枯れ跡が灰色の網の模様を綴っている。

完全な静寂が戦車内を支配している。

空間の中に命のあるものは私と装甲板の隙間に沿って生えている僅かな緑の苔だった。

戦車砲の薬室に張り付いている錆が戦車が山林に留まっていた年月を示している。

疲れ果てた私は戦車の残り箇所を確認もせず、砲台にある車長席に倒れこんだ。

腐った匂い、堅い座席、狭い空間。それでも眠気が殺されず瞬く間にぐっすり眠り込んだ。


外の暴風雪が遮断されていたとしても、車体内に熱源が存在しない以上内部の気温がそれなりに低かった。この寒さの中にどれほど眠っていたんだろうか、よくわからなかった。

疲れすぎたので、時間と空間に対する感覚を失ってしまった気がする。

でもどこかすごく懐かしい感じがしている。

家にいるみたいだ。気持ちよく寝たい。ずっとこのように寝たい。長い旅路を歩んだ旅人が家に戻って馴染みのアームチェアにもたれているように深い眠りに沈んでいた。


顔に僅かな熱量と瞑った目に微光を感じたまで。

その微弱な刺激に自然に反応して微かに目を開けると、細い線になっている視界に妙な物体が動いている。

「起きたか」

赤く染めたおぼろな背景に小さい人形みたいな物体から音が出された。

目をもう一度閉じて、また開いてみた。

今回は目の前の物体がはっきりと見えた。

それはビールジョッキぐらいの身長をもつドワーフだ。

膝まで伸びている長い髭。皺がきっちりついている顔。肩までかかった白髪。

ゴーグルをかけたせいで、目の形が見えなかった。

「そんな顔をするな。ここはわたしの仕事場だ。勝手に入り込んだのはそっちのほうだ」

薬室の丸い穴の中が燃えているように赤い光を放っていて、ドワーフの老人がその穴から高温で輝いている金属の塊を火箸で取り出して、薬室前に鉄板でできた平台に据えた鍛治台に載せた。

目を微かに開いて、しばらくぼうとそれを見つめていたが、不思議なことに強い違和感を感じなかった。風が戦車の壁にぶつかってひーひーの音を立て、外はさっきと同じ森、同じ暴風雪だと分かる。

「なにか話せ、不審者。先お主はぐっすり眠ったので、起こさなかったが、ニュトンの仕事場に踏み込んだ理由を話せ」

「ここは廃棄されたと思って、吹雪を凌ぐために入っただけ。。。逆にご老人、ここに何をしている」

「見ている通り鍛冶をしているよ。いろんなものを鉄から作れるのだ」

「誰のために」

「さな。わし自身にも分からなくなった」

山奥にある戦車。おとぎ話の生物。不思議さがさらに上がらない飽和状態に近づきつつある。鍛冶台の上の鉄の塊を鉄槌で力よくぶつけて、赤く焼かれた鉄の塊から光る屑が飛んでいた。金属音は脳内に響き、眩暈を起こしていた。

「皆行ってしまった。わしみたいな老いこぼれしかこの山に残っていない」

「なぜ。。。ですか」

「わしだけが森の出口を見つけることができないからな。君こそ、何のためにこの山奥に来たかい」

「思い出せないのだ。。。なぜここに来たのか」

「そうか。しかし、君はここにすごく馴染んだように見えるが、この巨大な鉄の塊を探しに来たと思った」

「違うと思う。だが、ここはなぜか居心地がいい。とっても懐かしい感じがする」

「そうかそうか。。。わしの仕事を邪魔しない限り、ここに寝泊りしてもいいぞ」

ニュトンの老人が嬉しそうに言った後、すぐに普段の落ち着きを取り戻して再び仕事に戻った。ニュトンの老人の仕事ぶりを見つめている私の目が、薬室内の炎の光に刺されているように薄い痛みを感じた。

目を逸らして、下の砲手席に視線を移した。薄く照らされている照準テレスコープの二つの見口が、私を監視しているように見えた。

「君には、悲しいことがあるかい」

それに気付いたニュトンの老人が、目に付いたゴーグルを上げ、灰色の瞳で私を見た。

「ないはずだ」

「そうか。それでいい。私たちニュトンは人の不満や不幸を解消するための存在だから、人の悲しみを言わずとも知れる。あなたの話を聞いて気が軽くなった」

「悲しいと言ったら、解消してくれますか」

「どうかな、昔のわしは躊躇なく助けてあげるのだろう。今はどうかね」

自嘲するように、ニュトンの老人が乾いた笑いをして、頭を軽く振った。

「ま。言ってみりゃどうだ。助けられる約束ができないが」


「たまに炎が見えるのだ。凄まじい炎だ。自分の周りのすべてを飲み込むような。その炎の中にいる私は、とてもとても悲しくて、ただ座り込んで頭を抱えることしかできなかった。炎はあまりにも強くて、周りには誰がいるかさっぱり見えない。それは、涙さえ蒸発させるほどの強さだと感じた」

老人は手を止めて、背を向けたまましばらく考え込んだ。

鉄の塊は赤色の光を放つままに静かに鍛冶台の上で眠っている。

「炎を消したいのかい」

「消してもいいでしょうか」

「それはわしにもわからない。決められるのはお前自身だな。しかし、何もしないといつかお前が炎に飲み込まれるのだろう」

真剣な顔に変わったニュトンの老人がため息をついた。

「炎を消す方法は残念だが、わしにもわからない。しかし炎を怯えない心得を待ち合わせている。わしは長年この職業をこなしてきたからな。まずそこからはどうだ」

固唾を飲んで、私は軽く頷いた。

「炎を怯えないことにするには、まず炎を見つめることからだ。とは、わしの師匠は鍛冶の修行が始まったごろわしに伝えた言葉だ」


私はニュトンの薬室の中に揺らぐ火焔に目を凝らしはじめた。最初は何も感じなかったため、ニュトンの言うことを疑い始めた。しかし、見れば見るほど、炎には何らか暗い、もやもやとした何かが存在することに気付いた。

次第に私の注意は完全に炎のほうに引かれた。


炎越しに見えたのは、燃えている町と赤く染められた夜空。空中から野獣の悲鳴のごとく轟音が押しかかって、背後から人の悲鳴が聞こえた。私が振り向いて、見えたのはゾンビのように彷徨う、炎に飲み込まれた兵士たち。彼らは口を大きく開けて、力を尽くして悲鳴をあげた。しかし、助けに来る人がいない。私は彼らがもがいて、制服が焼かれて、やがて黒炭になるのをただ、見ているだけ。


その場から逃げ出すために、私は走った。

骸骨と化した町の人は、地に伏せたり跪いたりして、手を組んで空を見上げ、何かに対して許しを求めているようだ。私はそれを全部無視して、ひたすら前に走った。どこを目指しているのか私にも分からない。ただ、怖くて逃げたいのだ。


倒れかけたアパートから馴染みのある声が聞こえた。

それは女の子の声だ。助けを求める甲高い叫び声だ。

しかし私は足を止めなかった。どうして止まらなかったのか。

どうしてだ。

自問自答の繰り返しの中で、いつの間にか周囲の景色がぼうやけしていき、やがて周囲には何にも消えてなくなった。

真っ白な、世界。

残されたのは私一人だ。

結局いつもそうだ。

真っ白な世界の中央に立たされつづけていた私は、いつしか寂しい気持ちさえも薄まっていった。


頭を引き裂くほど激しい金属音が聞こえた。

鼓膜が破れそうな音で耳鳴りが起きた。

「炎から目を逸らすな!!!」

ニュトンの老人が白い背景の中に現れ、鍛冶台上の鉄の塊を強く打っている。

白い背景にひびが入り、老人が打つにつれひびが拡大していく。

最後の一撃で白い背景が完全に砕けた。

目に入ったのは同じく白の背景だ。

でもそれがこの世の中だと分かる。

広い雪原が目の前に広がり、近くには一台の四号戦車が燃えている光景が目に入った。

ぼろぼろな軍服をまとい半分の顔が焼かれた少年は、戦車の履帯あたりに凭れて、血まみれの中に頭を垂らしている。


私は、覚えている。

いや、最初から忘れていない。

ただ忘れるようにしている。


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最初にシャレーに来た時は春だった。

湖の向こうの森が鬱蒼として、青い湖水は魚が泳いでいる姿を見透かせるほど綺麗だった。

土色と濃い茶色の岩石でできたシャレー。青いとんがり屋根。

だがローランドさんの車を降りた時、やはり不安だった。

これから一人でここに暮らすかと思うと、不安な気持ちが重く胸に押しかかっていた。

ローランドさんの大きな手が背中に当たって、慰めているような笑顔を見せた。


最初の日ははっきりと覚えている。

ローランドさんとローランドさんの妻と一緒に寝具を整理し、必要なものを車から持ち出してシャレーの中に据えた。その後、三人でお茶をして、晩飯を作った。

最初の日は、ローランドさんが一階の部屋に泊まった。

私が寂しがり屋なので、そのおかげで二階にいた私はその夜泣かなかった。


次の日はローランドさんが犬を連れてきた。

ブリヨンと呼ばれる犬だった。顔に深い皺が重ね、大きい耳を持ち、白茶色の毛が長く全身を覆っている高齢犬だった。目と口のあたりに黒い毛が混ざって、レアにはどう見てもあんまり元気のない犬だった。年を取ったせいなのか、レアと会って以来一度も叫んだこともなく、ほとんどの時間はただ静かに扉の近くにある絨毯の上に跪いていた。

村長の話によると、ブリヨンは若い時に第一線に立っていた活発なシープドッグだそうだ。頭を撫でてもあまり反応をしてくれない犬だったが、一人ではないことを感じられるだけで嬉しく思った。

精力旺盛より静かのほうが人に気づかれないとローランドさんが言った。


その後の一か月間、ローランドさんはほぼ毎日の夜に訪れて、レアと話をしていた。

生活は大丈夫か?足りないものは?寂しくないのか?

私はどんな表情で返事をしていたか今思い出せないが、ローランドさんはシャレーを出た時ずっと後ろめたい顔をしていた。


最初の一年は、寂しかったがつまらなくはなかった。

ローランドさんがしょっちゅう訪れて、色んなことを教えて、森の中で遊んでくれた。

本と絵描き用のツールも持ってきてくれて、やることがいっぱいだった。

何より重要なのは、この一年内に父母が戻ってくると思ったから。


花が鮮やかに咲いてくれる春が過ぎ、虫と雨に襲われる夏が過ぎ、金色の森の中でピクニックする秋が過ぎ、最初の冬が訪れた。

あの日は確かにその年で一番寒い日だったと思う。

ブリヨンがリビングルームの暖炉前でじっとしている姿を見て、近づいて頭を撫でてみると、ブリヨンの皮膚から冷やかな感触が伝わった。


初めて自分の目の前で死を感じた。

ローランドさんと一緒にブリヨンを葬った時は、私は泣かなかった。

シャレーに戻っても頭が真っ白だった。

本も読まずにただぼうっとして、天井を眺めていた。

夜に一人の部屋に戻ってベッドの中に入ると、心の中に苦い気持ちがようやく湧いてきて泣き始めた。暗い部屋の中に一人がどこかの深淵に吸い込まれそうで、恐ろしく寂しい気持ちが体中を満たしていた。


自分の中の何かが変わった。

ずっと複雑な色合いでできた絵には一点の白みがぽかっと現れたようなものだ。


それでも生活が続いた。続けないといけないのだ。

冬が終わりかけた頃、森の中でちょっとした出来事があった。

町から帰る途中、普段人気のない山道で、銃声が何発か聞こえた。

当時の私は、怖くて足を速めて、駆けるようにシャレーに戻った。

しかし次の日に、好奇心を抑えられないか、それでもただ退屈な生活に少しばかりの刺激を与えたいか、私は森に入って、銃声が起きたと思しき地点に向かった。

そこには横たわって死んだオオカミの死体が見えた。

殺されたオオカミのそばをふらふらと回っている灰色の物体が目に入った。

灰に白が混ざる毛色、丸くて潤った瞳をもつ小さい体で雪にもがきながら動いていた。

狼の子供だった。時に死体に小さい喚き声をあげて、小さい頭で死んだ狼の頭を突いた。

私は死んだオオカミの傍に蹲って言った。

あなたのお母さんかね。かわいそうに。

村人に殺されたかと思うと、心苦しくなった。

オオカミの子供が寒そうに体を震わせる姿を見て、胸が痛いほど悶えた。

知らないうちにオオカミの子供が私の足に突き当たった。

それを見た私はオオカミの子供を抱いて、体を撫でて温めようとしていた。


寒いよね。大丈夫だ。今日から私はあなたのお母さんだね。


辛い森での一人暮らしに小さい仲間が付き添うことになった。

ブリヨンの昔使っていた寝具、食器をそのまま狼の子供に使わせていた。

灰色に白みの毛色なので、グリッブ(gris blanc)という名前にした。


それは、シャレーに来てから二年目のことだった。

春にまだ子犬のようにどてどてと歩いたグリッブは、夏になるとすっかり大きくなり、レアとともに湖辺を走ることができた。

懐に抱かれた体型からすっかり成人犬の大きさになった。

山奥の夏は涼しくて、冬季とは違って暮らしやすい季節だ。涼しい風が湖面を滑って、森の香りをシャレーに送ってきた。森に暮らす生命が太陽の熱を受け、精力的に動き回り始めた。ずっとここに一緒にいればよかったなと思う時期に、別離が再び訪れてきた。


グリッブがシャレーに帰ってこない日が増えた。

そして、湖の向こうの丘に挟まれた夕日に向けて、何か眺めていたその日以降、グリッブは帰ってこなかった。

その後、本で読んだことがあった。

オオカミはいつか育つ親から離れて、自分の家族を作る習性があるようだ。


まだ一人で残されたのだ。

私の心は白さに容赦なく浸食されていた。

性格、考え方、話し方など、自分の中のもう一人の自分に取り替わっていく気がした。


元は一か月間に何回も町に行く習慣があった。危ないと言われても、やはり一人では退屈すぎて、頭をスカーフでカバーをして、町にこっそりと訪れることにしていた。

とも喋らず、ただどこかの静かな場所で人々の往来を眺めるだけで、心のもやが少し取れる気がした。


二年目の冬は、初めてそうするのが嫌だと感じた。人の顔はみんな何か未知な影みたいなものが張り付いているようで、見るたびに怖くなって直ぐに逃げ出そうとした。

それ以降はもう町に行かなくなった。


自分にがっかりした。自分はやはり異質者だ。

だからこのような人間になって、このような心をもつことになった。

自責の念か胸の底に浸かったように取ることができなかった。


段々と私は空っぽになった。

何も考えずにただ空と湖を見ている日が増えた。

ローランドさんが訪れるのも段々と期待しなくなった。

私は一体ここでなにをして、なぜ生きているのか。

お父さん、お母さんが必ず戻ってくると、毎日自分に言い聞かせて、信じ込むことでなんとか持ちこたえられたが、今の私は、もうこの森に根を降ろした植物のように、縛られ、囚われ、動けなくなった。

外の景色がどう移ろい変わろうとも、私だけは変わらない。

独りぼっちで、無意味で、異質者で、生きているふりをする幻影。


ローランドさんに申し訳ない気持ちがなぜか湧いてきた。

自分にそんなに優しいのにまともに話すこともできず、会う度に後ろめたい気持ちが溢れて、心が萎えていった。理由もなく泣いてしまうこともあった。


お父さんとお母さんを待っているなんて、実は言い訳だと、今は思っている。

私は、ただ、ここを出たくないと思う。

外のことが怖いことだらけで、このシャレーは自分の世界で傷つかずに済む。

ここでは何も考えずに、いつか苦しまずに消えてなくなり、森の一部になればいいと思った。全てが空白になる。苦しみも、悲しみも、寂しさも、全て感じなくていい。


そんな空白の中にあなたが突然現れた。

最初は怖かった。自分が正しい選択をしたか疑うこともした。

あなたの中に何が潜んでいるのか。

兵士、ドイツ人、子供、戦士、あるいは殺人者。

知りたいと思う。私とあなたは何処まで一緒で、何処まで違うのか。

あなたはとても強くて羨ましかった。

自分の考えていることを大きな声で言い出せてやり通せる。

何も伝えず口を噤んだ時もあろうが、実は人のことをちゃんと思ってくれている。

逃れられない現実に押し潰されでも必死にあがいて、無理やりに自分を立たせる。

残酷に見えるあなたは優しい心を持っている。

強そうに見えるあなたは泥沼の中で必死にもがいている。

しかし結局、私はあなたの全てを理解することができなかった。

だが、理解できたものもある。それは、人間がみんななんらかの葛藤に囚われながら生きていく存在ということだ。


私だけではなく、誰もがそうだ。私たちはみんな何かに囚われている。

振り向いて濃い茶色のシャレーをしばらく見つめた。

そこの正門にふわふわとした灰色の長い毛をなびかせている猫がいる。

いつもの怠い姿ではなく、ちゃんとした姿勢で座ったまま、灰色の無機質な瞳を自分に向けている。

見守られながら、私は低い声で呟いた。

ありがとう。ずっと私を守ってくれていて。

しかし、私は行かなければならない。

微笑みを頬に浮かべた後、私は再び前を向いて、雪地を踏み始めた。

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