第5話 旗を高く掲げよ

1943年六月。ドイツ ハンブルク郊外。

金髪の少年は時速 120 キロでアウトバーンを走っている。

超高速で回転するエンジンの轟音すら聞こえなくなった風切り音は耳を満たし、少年の青い瞳が道路先の地平線を見つめて、前方の車両を避けながら運転している。通った車の中で運転手が口をあんぐりあけて、風のように駆け抜けたモーターバイクを見送っている。

周りの畑が色鮮やかに広がっている。あちこちに点在している風車は果てしない平原でのんびりと回っている。

もっと速くできるかもしれない、と思いつつ少年はハンドルをさらに回した。

BMW の仕様には最高時速 140 キロであると記されている。カタカタと激しく振動している車体を、少年が力強くハンドルを握りしめて抑えようとしている。

問題ない。私なら行ける。

自信にあふれた少年は目を凝らし、獲物を注視する鷹のごとく道路の状況に注意を払う。何かが道路脇から飛び出してぶつかったらただじゃすまない。ヘルメットすらつけていなく、ゴーグルだけで目をカバーしている少年にとって予想外のできごとは死を意味する。

それでも、怖がるわけにはいかない。

ドイツの男たるものがこれだけのことで怯えてどうする。

それにドイツのアウトバーンは世界一平らで安全な道路だと少年は強く信じている。

強い風が少年の全身を通り過ぎ、猛暑の暑さを取り除いていき、一群の鳥がほぼ同じ速度で少年の頭上を飛んでいる。

気持ちよかった。何でもできる気がしている。胸躍らせるスピード感とエンジンの轟音。少年にとってそれはモーターバイクのかけがえのない魅力である。

ハンドルを緩め、ゆっくりと速度を落とし、道端に停車した少年はアウトバーンと平行して人工的に作られた坂を登り、そのまま草地に寝そべった。

太陽の光が降りかかり、少年の頬を染めていた。

強い日差しで少年は目を閉じ、そよかぜが届ける草原の匂いを鼻に広げた。

冷静で落ち着いている性格の少年でも両手を頭のうしろで組んで、薄い笑みを浮かべた。


---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------


一時間後。少年に散々回された BMW R71 は汚れまみれでハンブルク郊外にある別荘に戻された。ゴーグルを抜いた少年はバイクを車庫に入れ、ガーデンに向いて洗面台でじっくりと顔の汚れを取っていく。

「やあ、ハンス。調子はどう」 という声が水声を越して伝わってきた。

少年は顔を上げ、タオルで顔を拭いながら返事した。

「エンジンの調子は絶好調だ。この前きちんと調整したおかげだ。新しく付けたダンパーもちゃんと動いている。さすが BMW に頼んだ特注品だ」

「また他のパーツも来るよ。その時も頼むぜ」

と言っているのはハンスと同じ金髪をもつ青い瞳の少年、フランツだ。

車庫にはドイツ製のものだけでなく、フランス、チェコ、及び戦前に輸入されたアメリカやイギリスのバイクも置いてあり、ナチス第三帝国では一二を争う品揃えとも言える。

「因みにお前は最近、あの子とはどうだ。もうやっちまったか」

「どういう意味だ。まあ進捗があるような感じかな」

「お前は少し照れてくれよ。それに彼女を載せたバイクは俺のものだぞ!俺の!自慢すんな」

フランツはハンスの肩を力強く組み、冗談半分で言った。

その後二人は話しながらバイクの清掃作業に入った。

フランツはナポラ学校で最後の一年を過ごせば士官学校に入学する予定だが、でもそれはあくまで彼の父親の願望だ。堅苦しい軍隊より大学で遊んだほうが彼の性に合うと自分なりに考えているようだ。

「ドイツの男児はこれからの千年帝国の運命を背負うものだ」

と滑稽な顔で自分の親父の声を真似するフランツに対し、ハンスは贅沢な選択肢だなと思いながら、濡れた雑巾でバイクをバリバリと拭いている。

二人が忙しく作業を続けている中、突然荘園正面の鉄のゲートが開き、キャンとした音を立てた。その後各種車両のエンジン音が次々と聞こえ、このような車隊列で護衛された人は他にいない。

ハンスとフランツはそれに備えるため、軍事演習のように迅速に汚れた手を洗い、身だしなみを整え、車庫の外で列隊し、直立の姿勢を取った。

先頭車両のジープは本館の側に停車し、降りた兵士は素早く正面玄関の両側に身を構え、ローマ時代の彫像みたいに直立した姿勢を取ってじっとも動かなかった。

兵士たちが迎えたのは黒車体の光沢がきらきらと光っているメルセデスベンツの高級車。平穏で安定なエンジン音と滑らかな動きに技術の結晶が詰め込まれているのを感じた。車の整備場で働いているハンスにとっては幻の名車で、ニュース記事でしか見たことのない車だ。

車から降りた中年男性は、黄色の軍装を着て、ハンスとフランツがいる車庫をちらっと見て近づいてきた。

「ハイー、ヒトラー!親衛隊少将(ブリガーデフューラー)!」

ハンスとフランツは右手を上げ元気で挨拶をした。

「ハイー、ヒトラー!若者たちよ。元気そうに見えてなによりだ。ただし家で私のことをブリガーデフューラーと呼ばないでくれ。友人には堅苦しい挨拶がいらん」

元気よく話しかけているのはフランツの父、親衛隊少将、ブリガーデフューラー・カール・ボーマン。きっちりと分けられた短髪、精悍な面構えに鋭い目付き。ドイツ第三帝国政府の上級官僚がよくもつ特徴だ。

ナチスドイツで泣く子も黙る SS 親衛隊に少将にあたる職位、ブリガーデフューラーまで上り詰めたカールはまるで自信の塊のような男だ。一挙手一投足に感じ取られた精力と機敏さが周囲の目を嫌でも惹きつける。

「運悪く私に捕らえられたので、今日はうちの晩ご飯を食べてもらおう。拒否が許されない」

意地悪な笑みを浮かべ、一言を残したカールは素早く別荘の大扉を潜った。

「親父はベルリンで大物たちと会いにきたようだ」とフランツが言った。


フランツと出会ったのは三ヵ月ほど前だ。

フランツがハンブルクの倉庫街で汗を流してモーターバイクを押していたころ。

倉庫街の橋で運河を往来する船を眺めていたハンスが、同年代の男の子が最新仕様のモーターバイクを推しているのにすぐ気が付いた。

近づいて状況を問うと、エンジンがいきなり止まってどうしょうもなかったみたいだ。

修理を申し出るハンスを、フランツが疑いの目で見ていた。路上で出会った男の子に自分の大事なバイクを触らせるのは気がひけるが、日曜日のためほかにあてるどころがなかった。

サイドバックに備わった必要最小限の工具で、すんなりと作業を始めたハンスの手練れにフランツが口を開けて驚いた。

三分間も経たずうちにハンスが問題を発見した。

点火プラグが劣化して使い物にならなくなった。それだけ。

これは基本中の基本じゃないかと、ハンスは心底に唸った。どうやらフランツはバイク乗りだけに興味を持っていて、バイクの仕組み自体がよくわからないのだ。


予備の点火プラグを交換すると、バイクが再びエンジン音を高揚させていた。

それはハンスがフランツと仲良しになるきっかけだった。

同じバイク好きな者同士として、話すことが絶えずあった。

年はフランツのほうがやや上なので、ゆるりと技術のことを語る年下のハンスに感服していた。


「うちのフランツはお前のようにしっかりしていたらよかったな。お前みたいな有能で毅然とした若者が軍隊では必ず出世するんだ」

晩餐会の大きいテーブルに、主人の座に座っているカールが大きな声を響かせた。

私服に着替えたカールが右手をテーブルの上に載せて、意地悪そうな顔でフランツとハンスを見た。自分の息子を見くだすような言論がもう何度も聞かされて、毎回の晩餐会では必ず現れるシーンだ。ハンスとともにテーブルの右側に座らされたフランツはそれに対して気まずい顔で皿を眺めている。

ただ楽に生きたいというフランツの願望をハンスはよく知っている。

学業と体育の成績を及第点ぐらいに保つための最小限の努力をして、残りの時間を趣味に詰め込む。というフランツの生き方に対し、どんなことにも真剣に取り組むハンスとは対照的となり、嫌がらせの対象にされている。二人の向こう側に座るフランツの母親の冷たい目が動くことなく、目の前の皿に落とされたままだ。

「今のドイツに必要なのは勇敢な若き兵士だ。どうだ、考えてみないか。私の推薦で装甲兵学校に入ってもらってはどうだ。お前は機械の類は得意でしょう。戦車指揮官になって、ロシアの大地を駆け抜け、敵を蹴散らす。想像するだけでわくわくするでしょう」

「ハンス、どうだ。滅多にないチャンスだぞ」

問われた本人より興奮したフランツは肘でハンスを小突いた。

「お前黙ってろ。ハンス君に聞いているんだ」

声を低くして、威厳を滲ませたカールの顔に真剣さが伺われた。

一気に黙り込んだ食卓には、皆の視線がハンスに注がれている。

「申し訳ございません、カール。僕は母親と妹の面倒を見ないといけないので、今すぐお答えすることができません」

カールの真剣な眼差しを見返し、ハンスが目に強い意志を宿らせていた。

沈黙が暫く続いた。カールが何かを詮索しているように見え、頬が不自然にぴくぴくと動いた。テーブルを叩いた指が上下に動き、硬い音を立て続けた。

「結構!家族を思う気持ちも重要だ!」

拳の一発をテーブルに当たって、皿と金属の食器がぶつかる音がした。

「お前の家の場合は」

含みのある表情でハンスを眺めた後、カールが話を続けた。

「これからさらにいろんな面倒なことがあるかもしれないが。ま、気が向いたらいつでも言いたまえ」と、話を豪快な笑顔で気さくに切り上げた。

勝手に話題を持ち出して、勝手に切り上げる。

カウフマン邸の晩餐会の会話は大体こういう雰囲気だ。

黙って聞くがいい。

力のある人が持つ特権だから、弱い自分がどうこう言う筋合いはない。

それからの会話の流れも枠を超えることなく、戦争の方向性、総統(フューラー)、アドルフ・ヒトラーの新しい演説、ナチスの政治理念など、少年たちにとってありふれた、または面白くない話題ばっかりだった。

でもそれを聞いて、覚えれば必ず何かいいことが起こるんだとハンスにはわかる。

植物が太陽光を吸収したり、動物が空気を吸ったりする時も、面白いかどうかは関係がない。テーブルで黙々と食い続ける人はみんなそれを認めたはずだ。

「千年帝国の明るい未来を祝して乾杯しようではないか!諸君!」

ワインで頬が微かに赤くなったカールは大笑いしていた。

ハンスもそれに合わせてはにかんだ笑顔を出して、赤ワインが注がれた高級ガラスをあげた。

------------------------------------------------------------------------------------------------


翌日の午後。

ハンブルク東側の街区にある自動車整備工場をハンスが訪れた。

多数の労働者が住んでいるハム(Hamm)区は赤レンガ造りの民家と小さい店舗が立ち並び、ハンブルクの中心部の華やかな雰囲気とは違って素朴なイメージを与える街だ。

ハンスの目の前にあるのは天井の高い、なんらかの倉庫みたいな建物だ。

赤レンガの壁に金属の屋根。車を出入りさせるための大きめのスライド扉。

中を覗かせる大きめの窓。倉庫だと思われる建物の内外にはたくさんの車が立ち留まり、熟練の修理工が車を囲んでタイヤを取り外したり、ボンネットを開けたりして、忙しく車の修理にあたっている。

鼻に突く潤滑油と燃油に含まれる有機質の匂いが当日の三十度近い気温で増強されてしまったが、普通の人に忌み嫌われるその匂いはハンスとって親しみのある日常だった。

なににせよ三年間ここで働いたから。


フランツと知り合ってからもうここで働く必要がなくなったが、修理工の中には面識のある人が数多くいて、挨拶ぐらいしようと思ったが。

いいか。

そもそも最初からハンスはあまり歓迎される存在ではなかったので、親しんでくれる同僚が一人もいなかった。ただ道具として扱われていたのかも。

来意を受付の人に伝えて暫く経つと、禿げた頭でずんぐりとした体をもつ中年男性が出迎えてきた。工場長のアンストだ。個性がやさしく地元に尊敬される人で、ハンスの家の事情を鑑みて、親切な心でハンスを受け入れて自分の工場で働かせることにして、ハンスがここで働いていた期間にも常に温厚な態度で接してくれていた。

ハンスを見ると、アンストは頬を動かして笑顔を出したが、それは作られたものだと長く付き合ってきたハンスには直ぐに分かった。

会いに来た人の名前を伝えるとアンストはやや渋い顔に変わって、工場の斜めにある建物に大声を出してとある名前を叫んだ。

グレターー!

二階の窓から顔を出しているのは長い金髪をもつ少女だ。

端整な顔立ちから少し大人げな雰囲気を感じさせる少女は部屋着のまま、陽気溢れる表情でハンスに手を大きく左右に振っている。


------------------------------------------------------------------------------------------------


「君の親父がなんで渋い顔をしていたんだよ」

ハンスがモーターバイクを運転しながら、後ろ座席に座っているグレタに質問を投げかけた。さり気なく周りの風景を見ながらグレタが返事をした。

「ハンスが変わったと言ったから、一緒にいてほしくないかな」

「どういうことだ」

「昔はもっと大人しかったというか、今は少し怖い感じがしたとか、私にはよくわからないが。私の感覚ではハンスはハンスのままだ。昔でも、今でも、同じ子ともみたいなもんだ」

「子供なんで。俺は今年もう十五歳だぞ。もう子供じゃないんだ」

「そんなことをいう男の子は大体子供だ」

横向きに後ろ座席に座るグレタの長い金髪が風になびき、夕日の光の中に輝いている。

グレタはハンスが働いている自動車修理工場のオーナーさんの一人娘だ。十三歳から工場で働き始めたハンスは、グレタが修理中の車の周りにうろついているところを何回もみていた。ずっと綺麗な洋服を着ていたグレタがなぜこんなところにやってきたのか、疑問を抱いたが、すれ違う時に目をすっと合わせて軽い挨拶をするばかりだった。

工場に入ってから一年、十四歳になったハンスはある夜、車の下の修理作業を終え、キャスターボードで滑り出たところ、車の車輪軸の隣に跪いているグレタと一瞬目が合った。二人は暫く無言のまま見つめ合っていた。

最初に話を切り出したのはグレタのほうだった。

どうも、グレタといいます。お仕事中すみません。邪魔だった?

グレタの目の色が緑だと初めて気付いた。

理由を問うと、どうやら自分のお父さんの仕事を知りたいらしい。

しかし、父親に聞いても、女の人はそんなことを知る必要がない、という返事が返ってくるばかりだった。大人の修理工に聞いても相手にしてくれなかったそうだ。

自動車ね、毎日乗っているけれど、動き方がわからないんだ。教えてくれないのかな。

それはグレタからの初めてのお願いだった。


夕日がグレタの白い洋服に影を落としている。

十六歳になったグレタは背がさらに伸びた。

もともと背がハンスより少し高かったのだが、今となって更に差が付いている。

「このバイク、乗り心地がいいね。ダンパーはいいものを使っているのでしょう。あと、車輪の幅もちょっと違うかな」

「ああ。今日は特注品が来ていたので、早速試してみた」

レアがハンスの肩を越して横顔に向け、

「ナチス党のお偉いさんから貸したものだね」と話した。

ハンスはそれに答える様子がなく、無言なまま運転を続けた。


モーターバイクが河岸に近い大通りを走っている。

数日前のイギリス軍の爆撃が残した傷跡がまだあちこちに見えて、土砂崩れのように建物の残骸が道路脇に流れ落ち、道路の数箇所に大きな穴が空いている。

聖ニコライ教会の建物がほぼいなくなるほどの大損害を受けたが、教会塔だけが燻ぶった姿で奇跡的に生き残っている。

瓦礫を除去するためにやってきた国防軍兵士は民衆と消防士とともに瓦礫をトラックに載せて、猛暑の中、全員薄着や上半身裸にし、汗を流して街の修復にあたっている。

左側に連なる倉庫街から大勢の人出が見えてきた。

事務員姿の女子の群れと工作服を着た大柄な男のグループが分かれて交差点で信号待ちをしている。男たちは服が汗に濡れて、汚れた顔に生気が感じられない。戦況が日々厳しくなっていく時勢の中、戦場に行かず後方に残された男の力仕事も増えていく一方だ。

グレタは男たちのへばった姿を一瞥して、顔を少し動かして前のハンスに話をした。

「今日連れて行ってくれる場所ってどこ。もう郊外に出るところでしょう」

「一旦秘密にさせてもらっておくわ。でもきっと好きになるさ」

河岸の道路を走り続けると、郊外に出て景色が変わり、一軒家の屋敷と林地のランドマークになっている。車の数も少なくなったので、ハンスはスピードを上げた。

涼しい風が二人の周りを流れていき、夏の熱気も連れて行かれた。

十分間走ると、道が内陸に曲がり始めて緩やかな坂道となった。

エルベ川の青い色が左側に現れ、川沿いの公園と散策道が見えてきた。

坂道を登りきると、道が狭くなりやや入り組んだ町に入った。

丘の斜面に建てられたヴィラが立ち並び、各々の個性を現す色鮮やかな建築群が見えた。


ハンブルクの西側の郊外にあるブランケネセの街並みは裕福な住宅街として知られている。

綺麗なヴィラを繋ぐ螺旋状の道路と階段が町に独特な雰囲気を与え、手入れが行き届いた植木の緑、エルベ川の青とヴィラ外壁の白、バランスの良い色合いが訪れた人の心を魅了し続けている。避暑地としても知られたブランケネセは、夏になるとたくさんのお金持ちが暑苦しい市街地からここへ逃れて長閑やかな生活を満喫する聖地とされている。


ハンスはモーターバイクを大通りの公園の脇に停め、アイスクリームショップでアイスクリームを買うとグレタとともに海岸に続く螺旋道路に入った。

ヴィラがぎっしりと並ぶ住宅街には石畳道が敷かれ、ヴィラの庭には違う種類の花が色あざやかなに綻び、盛夏の陽射しに艶やかに映っている。

甘いアイスクリーンを舐めながら歩いている二人の少年少女は談笑の声が絶えなかった。溶けたアイスクリーンの玉が地面に落ちて、ヴィラのバルコニーの椅子に座っている老人の罵声から逃れるために走り出すまで。


------------------------------------------------------------------------------------------------


青いエーベル川がゆらゆらと水を運んでいき、川辺の小さいドックが熱烈の陽光を浴びている。ドックの棧橋を一望できる川辺のビアガーデンで二人は白い木椅子に座って、ジュースを飲みながら会話をしていた。

カジュアルな薄着でエーベル川の景色を楽しんでいる周りの大人たちは、地味な服装を着ている二人の少年少女がこの高級住宅街を訪れていることにあまり関心を持っていないようだ。賑やかなビアガーデンではウェイターたちが忙しくビアジョッキを運び、日傘の下にサングラスをかけているおしゃれな男女の間を駆け抜けている。


日が西の空に斜めにかかる頃、二人は再び丘を登って一本の鉄のゲートの前に近づいた。

ーデンナーの服を着ている髪の白い老人が鉄ゲートに鎖をかけて締めようとしている。

「すまんな、若造。ここの公園は夜に開放しないのが決まりだ」

「まだ五時じゃないのか」

「わしは今日早めに切り上げたいからな。今日は金曜日だから、この時間帯には人がほとんどいない。さー、帰れ帰れ」

見下すような眼差しを二人に投げて、老人が手を振って、二人を追い払おうとした。

「名前、職業、住所」

「は?」

ハンスは老人を睨んで、感情のかけらもない声で三つの単語を並べていた。

戸惑い顔をしている老人が眉をひそめて見返した。

「なめているのか。名前、職業と言ったんだ」

「どういうことだ。何でお前に言わないといけなんだ」

「最後のチャンスだ。言え」

獲物を注視して殺し方を図っているオオカミの眼差しに老人は少し怯えはじめた。

それは十代の若者がもつべきではないものだと分かっている。

こういう眼差しをもつ大人たちと長い間付き添って学んだに違いない。

「お前の顔はもう覚えたから、言わなくてもお前を見つけられるのだ。職務怠慢の罪は戦時中では厳しく罰せられるのでしょう」

頬が不自然にこわばった老人にハンスは固唾をのんで話を続けた。

「入らせてもらうのなら、お前の顔を忘れることができなくもないが」

気圧されたように老人が黙ったまま閉めかけたゲートを再び開けた。

ハンスとはもう目を合わすことがなく、硬い顔のままゲートの横に突っ立っていた。

「一時間後にこの公園を出る。決まったルール通りだ」

と言い残すと、ハンスはひたすら鉄ゲートを押し開けてグレタを連れて入った。


それはブランケネセ東側の高所にある公園だ。

広い草地にちゃんと手入れされた庭園。ドイツではどこにでもあるような公園だ。

無理をしても入りたいような場所ではなかった。

「ハンス、どうしたの。あのようなゲシュタポの口ぶりはなに」

「ブラッフだけだ。気にするな」

何気ない口ぶりで緊張を遮るハンスは話を続けた。

「秘密の場所、もうちょっと先の所だ」

草地を渡ると林場に入った。

高い針葉樹林を潜る歩道が舗装されず泥道のままだった。

西側から射す夕日が二人に方向を示している。

森を潜った先に視野が一気に広がった。

辿り着いたのは、エーベル川の南側に面した崖。

金色に輝くエーベル川を見渡せる位置に朽ちたベンチがおいてあり、苔の生え具合からすると長い間放置されてきたようだ。

ハンスは自分のジャケットを地面に置いて、グレタに座るよう促した。

エーベル川の南側に小さな飛行場が見えた。

広いコンクリートの飛行場の上には数台の戦闘機と輸送機がずっしりと並んで、飛行場の先には田園風景が広がっていき、木造の民家と風車が夕日の中におぼろげに姿を現している。

「綺麗だ。どうしてここを知っているの」

「地元の有力者から仕入れた情報だ」

「今日は楽しかったね。ブランケネセに来るのはだいたい大人に連れてこられた時だった。すっきりと楽しむことが初めて」

一隻の大きいオーシャン・ライナーがエーベル川の左側から二人の視界に入った。

西に向かうオーシャン・ライナーの巨大な船体はハンスたちの距離でも迫力を感じて、煙突から煙を放ち、汽笛の轟音が河の上に響いている。

「どこに向かうのだろう。あの船」

「さーな。ノルウェーかフランスだろう」

オーシャン・ライナーの姿が消えていくのを二人が静かに見守っていた。

日没の景色は人々の心を静める魔力を持っているようで、二人は黙ったまま河の上に落とされた船の長い影を眺めていた。

グレタはぼけっとしたハンスの横顔をちらっと見ると、柔らかい笑顔をハンスに向けて、あどけない口ぶりでハンスに声をかけた。

「先、入口のとこ、怖い顔していた」

「ブラフだって言ったろ」


口を尖らせて、グレタは話をつづけた。

「昔のハンスは、無表情の上に無口で、ちょっと堅物に見える男の子だったが、人を怖がらせるような真似をするような人ではなかったよ」

「向こうが悪いのは先だろう。ルールを守らないのはよくない」

「そういうのじゃなくてよ。私もよく言えないが、なんか何処でもぴりぴりとしている気がするから、人にもっと優しくしないと」

「戦争が続いているから、ぴりぴりしているのは当然だ。戦争時こそドイツ人としてきちんと法律と規則を守らないといけないのだ」

大きく息を吸って、グレタは空を見上げた。

そして吸った息を一瞬にぶっ飛ばすようなため息をついた。

「戦争がいつ終わるかな。うちの従業員がまだ徴兵されたのだ。このままじゃ人手が足りなくなって、店を閉めることになっちゃうかも。空襲も増えたし、町を出ようと父さんが考えているんだ」

天辺に羽ばたく鳥の輪郭が西に向かって緩やかに移動しているのを見て、グレタはいつもの明るい口を変えて、気音を含んだ弱い声で呟いた。

「夕焼けの先に行きたいな。ここを離れて」

遠ざかっていくオーシャン・ライナーが落とした影がゆっくりと、でも着実に伸びて細まっていき、焼いているように赤紅色に染まる空はふたりの目に映っている。

「何処でもいいさ。俺が連れて行ってやるよ。好きなところへ」

ハンスの突然の言葉にグレタは頭を傾けて、ハンスの顔を見つめた。

空を見ているふりをするハンスは、頻繁に瞬く瞼と震えている唇で緊張を現した。

「ナチス党で偉くなって、好きなところへ好きのように行けるようにしてあげるさ」

「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい。。。」

話が途切れたグレタの横顔に、ハンスがちらっと目を向けた。引き締まった表情で目を落としているグレタは、夕日の半分が地平線の下に落ちた頃、再び口を開いた。

「ハンス、なぜ私はあなたと一緒にいるのが好きなのか、知っている?」

その問いかけにハンスは首を回してグレタの方向に向いた。

グレタの緑の瞳がハンスの青い瞳に映っている。

それはとっても綺麗で真っすぐな眼差しだ。

「あなたとなら何を言ってもいい気がするから」

いつも明るいグレタの口調はこの瞬間から何かほかの感情が混ざっていて、平穏で冷徹なものになっている。だんだんと暗くなった空が二人の世界を作っていくように、二人の視線外のあらゆる存在の輪郭が薄らいでいく。

「だからハンスにそのままでいてほしいと思う」

「分かった」

すっかり暗くなった崖の上で二人は手を繋いだ。

「私、実は怖いんだ」

グレタの声には震えと締まった喉音が聞こえている。

「この世界がいつかいなくなるのが怖い」

「私はあなたを必ず守る。この世界がどうなろうとも」

二人は手を強く握り合った。

ハンスはグレタの顔に向けて、潤んだ緑の目は綺麗でも虚しく、何か着実で永遠に変わらぬものを求めている眼差しに、ハンスの心の中には強い炎みたいな決意を感じた。

ゆっくりと、二人の唇が触れ合った。


------------------------------------------------------------------------------------------------


夜、ハンブルクの薄暗い貧民街の狭い街道の上でハンスはモーターバイクを走らせていた。迷宮のように入り組んだこの町は 「回廊地区」(Gängeviertel)と呼ばれている。17 世紀の工芸職人が集まって住んでいたこの町は、もとより人口が密集している区画で、19 世紀の人口増加と都市化によって人が更に増え、衛生環境と公共施設の悪化が進行していたせいで、いつしか落ちこぼれの貧しい人々たちが集まる街となった。


モーターバイクのエンジン音が二メートルの幅しかない道路に響いている。

ぼろぼろの木窓から洗濯物をかけた棒がはみ出し、砕けた壁面が建物に張り付いている。酔って壁に凭れている汚い中年男に注意を喚起するためにクラクションを鳴らした。

くずどもが住んでいる町だ。

罵りながらハンスは前の角を曲がって更に狭い路地に入った。

人とぶつからないために微速で前進している。

ハンスの記憶の中では昔こんな場所に住んでいなかった。

普通の街で、普通の暮らしをしていた。

妹と母親と一緒に普通のパン屋に行って、普通の学校に通っていた。

しかし今の俺たちはここにいる。


三面の襤褸建築を囲んだ狭い空地にハンスはモーターバイクを停めた。

新しいバイクなので、盗まれないか心配もしたが、盗みを働く度胸をもつ輩はもうこの街に存在しないだろうと思った。

もともと再建設が進んでいたこの町は、数年前ナチス政府が更に建設計画を加速させた。

まず政府が着手したのは犯罪者と違法稼業の取り締まりだった。

そのおかげでゴミは排除されてよかった。

と思いつつ、ハンスは頭を上げ、二階の窓に潜む微弱の灯火をちらっと見た。

漆がすっかり剥がれたアパートの正面扉を開け、階段で軋む音を立てながらハンスは二階にあがった。不規則に点滅する電灯。鼻を突くかび臭い。隅々に積もったクモの網。

それらを凌いでようやく家の扉の前に辿り着いた。

ただいまとも言わず、ハンスはすんなりと扉をあけて家に入った。

薄暗い廊下を渡り、狭いキッチンに入って、母と妹がテーブルを囲んで何かを書いているようだ。

金髪をまとめ上げて、髪留めで留めた母は疲れ気味の顔で妹の宿題を手伝っている。

床に古いカーペットが敷かれて、壁と天井はシミ汚れがひどいが、棚とテーブルもきちんと手入れされて、塵とクモの網がみあたらなかった。アパートがもとよりましな状態で維持されているのは母の日々の勤勉の成果だ。

「おかえりなさい」

笑顔を出してハンスを迎える母の顔の皺が深まり、光沢のない青い瞳から積もる疲労を感じられた。

「今週稼いだ分だ」

大した会話をするつもりがないように、ハンスはライヒスマルク(Reichsmark)の札を何枚かテーブルの上においた。

「ありがとう。最近工場の仕事が順調?」

「ああ、そこそこだ」

心配をさせないための嘘だ。

カール家の仕事では随分稼げたので、工場にはもう行かなくなった。

「お兄ちゃん。宿題教えて」

「数学の問題か。お兄ちゃんの得意分野だ」

妹の声を聞いて、ハンスの沈んだ顔が突然一変して、優しい笑顔を見せて妹の傍に座った。

黄色い電灯の光の下で兄弟二人が真剣な顔で宿題を載せた紙に向き合った。

今年十歳になったハンスの妹、エヴァが小学校(Volksschule)に通っている。

義務教育の小学校は学費がかからないが、更に進学したい場合は優秀な成績を収めて選抜されないと国から学費援助をもらうことができない。

しかし、ハンスの家の場合は選抜されることが不可能だとも言える。

金色の三つ編みのお下げ髪。ハンスみたいな細い顔にある無邪気な青い瞳には挫けない自信を感じさせた。小さい頃から何に対しても真剣に取り組むハンスに憧れを抱き、いつも付きまとったエヴァのことを可愛らしくと思って、ハンスはどうしても妹に進学させたい思いで必死に働いていた。

コンロの上から肉スープの匂いが漂ってきた。

ハンスの母はお皿にスープを入れて、テーブルの上に載せた。

ジャガイモ、ニンジンと豚肉を煮込んだスープだ。

「二人は少し休憩を取りましょうね」

ハンスはスプーンを取って、食べ始めようとする時、

「その前に、ハンス、これを父さんの所に持ってきて頂戴」

更に一皿をハンスの目の前に置いてハンスの母は優しい声で頼んだ。

ため息をつき、ハンスは難しい顔を出してじっとしていた。

「いやだ」

「ハンス。お父さんと会うのは久しぶりでしょう。今日はお金を稼いできたって胸を張って言ってきて」

「俺はあいつのためにお金を稼いだわけではない」

ハンスのむっとした顔にエヴァは少し怯えた顔を見せた。

「そいつのせいでみんなが苦しんでいるじゃないか。なぜ食わせてやるんだ。ああいうやつは労働収容所にいれるべきだ」

「そんな言い方はやめなさい!あなたのお父さんだ!」

いつも優しい表情で接してくれた母はこういう時こそ声を上げて、いかめしい表情をみせた。キッチン内の雰囲気が一気に重くなっていた。


ハンスの父は母と結婚する前にドイツ共産党に入った。共産党に入った頃の父は理想論に酔いしれた青年だった。同志と宿酒場で演説会を開き、町中にパンフレットを配り、支持者を集めようとしていた。そのために親から引き継いだ財産を惜しみなく投入した。

しかし彼の夢見た理想郷が訪れないどころか、経済恐慌の不況の中でナチスが勢力を一気に伸ばし、いつの間にか共産党は鼻つまみ者になってしまった。父の同志はことごとく投獄されて、彼だけが知り合いの役人のつてによって牢屋を免れた。

しかし、日常的な差別は免れなかった。共産党員の家族として、ハンスの母親はまっとうな仕事を見つけることができないうえ、ハンスが学校でもいじめを受けていた。

お前の家族はみんな赤の豚どもだ。

国家と民族のことを思わない恥知らずめ。

家に引きこもった父は正気を失ってしまうように意味のわらない絵を描き始めた。

経済状況が悪化しつつ、学校を出ると進学もせず重労働の自動車工場で働かざるを得なくなった。

小さい頃から機械に興味を持っているハンスにとって、それほど苦しい仕事ではなかったが、家に帰って家族とも会話せずただひたすらに意味の分からない絵を描き続ける父親を見て、いつからか怒りを覚えるようになった。


作られた肉のスープを手にしたまま、ハンスは渋々とアパートの廊下を渡り、汚い木扉の前に立った。

ノックをしてみようと片手をあげたが、どうせ返事をしてくれないだろうと思って再び手を下げた。しばらく扉の前に立っていた。自分がこの空間に入ることを拒んでいるのが分かっている。手にしたお皿の湯気が自分を催促しているように見えた。

扉を軽く押して、ハンスは無言のまま部屋に入った。

電灯のつけていない部屋には男の背中が見えた。

椅子に座っている男が蝋燭の光を頼りに小さいキャンバスの上で筆をゆっくりと動かしている。部屋の床に服と酒瓶が散乱して、汗と有機物の匂いが混ざって鼻を突いてくる。

「父さん。飯だ」

ハンスの父は振り向くつもりがないかのようにひたすらに筆を動かしている。

蝋燭に照らされた絵の内容をハンスが覗いてみた。

黒い空の下、骸骨と化した人間たちが破壊された街の中でもがいている地獄絵図だ。地に伏せたり跪いている骸骨が手を組んで空を見上げ、何かに対して許しを求めているようだ。

相変わらずわけがない。

これ以上話すつもりがないので、ハンスは皿をテーブルの上に置いて、一言言い残して出ようとした。

「ここに置いておくから、それじゃ」

「お前、ナチスの連中とつるんでいるよな」

前触れもなく、ハンスの父は突然声を出した。

背を向けたので、口の動きが見えないが、疑う余地もなく父の言葉だ。

かすれた声は辛うじて喉から絞り出されたように気流の雑音が混じっている。

「お前の母親から聞いた。おしゃれなバイクに乗って、ひけらかしおって」

嘲笑いが混ざって尖った声でどこか狂気みたいなものを感じさせた。

「ま、いいや。好きにしろ。どうせ、世の末だ」

皮肉めいた内容を投げつけたハンスの父親は背中を向けたままだったが、口が歪んでいるのはハンスの目には見えたかのようなものだ。

お前こそ何をしていた。母と俺が必死に働いている時はお前はどこで、何をしていた。

どんな口でそんなことを言っているのか。

何か反論を言ってやろうとずっと思っていたが、それでも我慢をして自分の父の話を聞いていた。情けない。こんなくずが自分の親父だと、恥と怒りが混じった感情が胸にこみあげてくる。

ハンスはテーブルの上に置いた皿を手でこぼした。

スープが床に落ちて、湯気が一気に上がって、部屋の汚い空気に溶け込んだ。


お父さんも苦しんでいるから、許してあげて。

とハンスは何度も母親に言われた。

人間って、誰にでも乗り越えられない壁が存在する。

聞きあきれた言葉だ。


その夜には母がまだ父の部屋に入っていた。

音を聞いたハンスはこっそりと廊下を渡り、扉の隙間から父の部屋を覗き込んだ。

俯いている父の手を握って、優しく話を聞いている母。

その姿はまるで天使のようだ。

ごめんなさい。俺は父親としては失格だ。ハンス、エヴァ、ごめんなさい。悪いことを話してごめんなさい。

ハンスは扉の外に隠れて、泣いていた父親の話を聞いていた。

気持ち悪い。それで許されると思っているのか。弱音を吐いても結局なにも変えるつもりはないだろう。元の家から追い出された時も、引きこもりはじめた時も、酒に溺れはじめた時も。何ひとつ変えようともしなかった。

何でこんなやつの手を握るのだ。こんなやつを捨てればいいんだ。

母さんの馬鹿野郎。

あいつが何もできなかったくずやろうなら、俺が守る。

力を手に入れて、偉い人となって、グレタも、母も、妹も、全部守る。

そのために俺は何でもやる。

自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返して、繰り返して、やがて少年は決意を固めていた。


------------------------------------------------------------------------------------------------


「嬉しいぞ。ハンス、これでお前も誇り高き武装親衛隊の一員だ」

秘書にタイプライターで写ってもらったある書類にカールが手際よくサインしている。

早いスピードで紙の上にすすっと音を立てて移動している高級万年筆をハンスは目を離さず見つめていた。カールの手の動きが止まると、ハンスは視線を真っ直ぐに戻して、大声を出した。

「ハイ、ヒットラー!総統アドルフ・ヒトラーのために、大独逸国のために戦うことを誓う!」

カールの豪華な執務室でハンスは右手を高く上げて、ナチスへの忠誠を誓った。

カールが立ち上がり、テーブルを回ってハンスの近くに来てハンスと力強く握手を交わした。カールのテーブルの後ろの壁に飾った油絵から、黄色の軍服を着ている総統アドルフ・ヒトラーがたくましい顔つきで二人を見守っている。


その後、カールはまた用事があってベルリンに向かった。

ハンスは屋敷の広い庭でフランツとフランツの姉妹と一緒にアフタヌーンティーを楽しんでいた。二人とも綺麗なドレスを着て、佇まいと口の利き方からお嬢様の気品を感じさせた。芸術と音楽、文学と歴史、パリへの旅行等々の話はハンスがすこし追いつかないが、フランツのフォローアップもあって、ハンスは頷きながら三人の会話に少しずつ入るようになった。

庭の先には北ドイツの田園風景が広がり、強い陽光の中に輝く麦の苗がゆらゆらと微睡んでいるように揺れている。大きな風車が穏やかに回り、絵の中に描きたいほどの綺麗な弧線をもつ塔体から機械に隠されている幾何の美しさを実感した。

まるで夢のようだ。

このままでいい。世界がこのように続いてほしい。

突然強い風が吹き、机上のハンカチが風に飛ばされて、庭にある小さな池に落ちた。

ハンスは池に近づき、手を伸ばしてハンカチを掴もうとする瞬間、水面上の自分の投影が見えた。そこにあるのは、将来有望の気高き装甲兵学校の新入生の顔のはずだ。

しかしそこに映っているのは違う自分だと感じた。

青い目は自分の目だと分かっているが、憂鬱に満ちて気が引ける目つきであの時を思い出させた。


路地裏で囲まれて、罵られたころの自分を思い出させた。

拳を握って突っ立ったままの自分の顔に汚れた水がついた。

何か打って出ようと、戦おうと思ったが、体が震えて頭がうまく回らない。

路地の外側に立って、幼い自分を見ている現在のハンスの姿は、悔しくても何もしてあげることができなかった。街灯の光の中に落とされた自分の影がツタのように蔓延している。路地全体、そして自分も食い尽くすかのように。


はー、とハンスは大きく息を肺から吹き出した。

目に入っているのは薄暗く、雲のない空。

夕日がほぼ完全に落ちて、地平線に一縷の黄赤色だけが残っている。

どうやらソファチェアの中で寝てしまったようだ。

アフタヌーンティーが終わると、全員一旦解散し、フランツもバイクに乗って出かけた。

自分は寝不足のせいでしばらくソファチェアの中で目を閉じていたが、知らずうちに寝てしまった。自分の体の上にかけられたブランケットは使用人のご厚意に違いないのだろう。

その時、耳の中に何かざわめきを感じた。

気温が下がって、体に変化が生じたのを感じたが、耳の中に共鳴を起こすのがとうてい想像できない。耳を澄ませると、遠いところから薄々と尖った雑音みたいのが聞こえた。

屋敷の中に戻り、フランツは既に外遊びから戻ってきて、屋敷の使用人たちとともにダイニングルームのテーブルを囲んでいる。

テーブルの中央に置いたラジオをハンスが疑わしげに見た。

「ハンス。やばい、やばいよ。先、電話でも連絡が来たんだが、やはりラジオのほうが。。。」

電波雑音が突然消えて、ラジオの中からアナウンサーが緩やかに言葉を並べ始めた。

一字一句をはっきりとした発音で述べたことに事の深刻さを感じた。

「アッハトン、アッハトン(警告、警告)。空襲警報。こちらはハンブルク防空司令部。二十一時十二分現在、敵の爆撃機兵団、500機、ハンブルク西より接近中。繰り返すー」


500 機。

ダイニングルームにいる人は皆、呆れた表情でお互いを見つめ合っている。

遠いところからの空襲警報が今はっきりと聞こえてきた。

ウーーーという甲高い音が、距離があるが空に響いている。

ダイニングルームにいる人々が走り回って、慌ただしく避難の準備をし始めた。

ドレスを着ているフランツの姉妹は小走りに庭園の一角に向かっているが、フランツだけが余裕をもって緩やかに歩いている。

「おおいーハンス。こっちだ。防空壕はこっちだぞ」

庭園の一角に巧妙に隠されている防空壕の入口から、フリッツは SS の兵士と使用人に護衛されつつハンスを呼びかけた。フランツの姉妹と母が既に階段を降り始めている。

「ごめん。フランツ、俺、市街地の家族が心配だ。バイクを使わせてくれ」

「そうか、気を付けるよ」

とさりげなく言った後、バイクの鍵を投げつけた。


バイクのエンジン音が田舎道の上で鳴っている。

夜空にサーチライトの光条が幾つも現れ、爆撃機群の姿を捉えている。

この一年間何回の爆撃も起きたが、これほどの数の爆撃機はハンスが初めて見た。

頭上から伝わってきた爆撃機のエンジン音はうんうんと走っていて、数百機の爆撃機は魚の群れのように徐々にハンスの向かう先の逆方向へ移動している。既に爆撃を行って離脱している機群を見つめてハンスがバイクのハンドルを更に回した。


川沿いの道路を速いスピードでバイクが走っている。

ハンスに町の状態を考えさせる余裕すら与えず、重い低音が湿った風とともに伝わってきた。地平線の向こうから強い光が断続的に放たれ、地面が微かに震動している。

空に飛ぶ光の矢が町の周辺から連続した発砲音とともに続々と発射され、夜空があっという間に光の矢に満ちていた。対空砲火の音と爆弾の爆発音が混ざって、音の乱舞がハンスの耳に響いていた。地平線に主翼に炎が起きた爆撃機が鋭い飛翔音を立てて墜落していく姿が見えた。

エルベ川の上流方向を見ると、町は既に赤い背景色に包み込まれ、漆黒のはずの夜は夕方みたいに奇異な彩りに映っている。

町が燃えている。幾つかの火焔旋風が空に繋がって、町を蹂躙している。

異様な光景にハンスは口を瞠った。

神が下した神罰かと、一瞬ハンスの頭をよぎった。

竜巻のようにありとあらゆるものを巻き上げ、燃やし、塵だけを地上に帰す。

市街地に近づけば近づくほど、硝煙と人体の焦げた悪臭が強まっていく。

焦ったハンスはハンドルを強く握って、数百メートルの長さで連なる一連の軍用車と救急車を追い越して、街の中心部を目指している。


ハンブルク市街地に繋がる大橋は既に封鎖されていた。

軍用トラックとロードブロックが道路を塞いでいたせいで、ハンスはバイクを止め、河岸の草地に降りて対岸の様子を探ろうと思っている。

エルベ川の北側の河岸に大勢の人数が集まり、彼かの背後に立ち昇る火焔旋風が小人を見下す巨人のように大きかった。既にたくさんの人が炎から逃げるために川の中に身を投じている。エルベ川には次々と黒い物体が下流に流れていくことを見て、ハンスには不安が募っていても、なすすべがなく、対岸を無力に眺めるしかできなかった。


------------------------------------------------------------------------------------------------


翌日。また同じく陽光の強い猛暑の日だった。

顔が汚れに塗られたハンスは頭を上げたまま、虚しく青空を眺めている。

廃墟へと化した街並みでハンスが昔家の入り口だった狭い路地のあたりに、瓦礫に埋もれた路地にどう入るのか見当つかず、なすすべもなく瓦礫の上に座っている。町に満ちた悪臭がハンスの微かに開いた口と鼻に入っても、彼は動じることがなかった。

瓦礫を避けながら急ぎ足で走っている兵士と警察、埃まみれで襤褸をまとい彷徨う民間人がハンスの目の前を通っても、彼の虚ろな視線は動くことがない。

彼が見つめているのは昔、家と呼ばれた区画の廃墟と、瓦礫を一つ一つ取り除こうとしている人々たち。

彼にはわからない。なぜ自分は悲しみを感じないのかって。涙が出て、周りの人々みたいに必死に瓦礫を掘るところのはずだったが、なぜか自分が感じたのは虚しさだけだ。

自分は心のない人間でしょうか。自分は獣か畜生かと心の中で叫んだ。

そして、なにより憎んでいるのは自分の無力さと弱さ。

もう何もなかった。何もかも失われた。

感情を殺すのは、事実を無視したいからだ。

心のどこかの一線を越えてしまえば、自分が狂うのだと分かっている。

感情を血が滲み出るほどの力で雁字搦めにして、一切の動揺を与えないようにしないと、自分がここで倒れて廃人になるのが分かっている。

その夜、聖書の中で硫黄と火によって滅ぼされたソドムとゴモラのように、ハンブルクにおいて約一万六千軒のアパートビルが炎に飲まれ、約四万人のハンブルク住民が命を落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る