第4話 クリスマス

久しぶりに訪れたティルマの町は記憶とは違って、色褪せた暗い色調の絵に見える。雪の降り積もった町並みには濃い色の建物がぎっしりと並び、石畳の道がずっしりと伸びていく。中央広場の少し外れたところには大聖堂が聳え立っている。二本の尖塔は粛然とした巨人のように町を俯瞰している。空に厚く積もった曇りが町を灰色に染めていき、淀んだ空気の中には雪片がちらちらと舞い降りる。

その薄暗い街道の交差点に一人の少年が立っている。立てられた道標の上に矢印の形をしている金属板が載せられ、上から下まで並べられている金属板には、リエージュ、アーヘン、ほかにいくつかの名の知れない町名が書かれている。

それを眺めて、厚いコートに包まれた少年は思案にふけた。

「アントワープに向けて進撃し、敵の補給を断ち切る」という荒い声が頭の中に響いている。そのほかの記憶は断片のまま。頭の中におぼろけに残されたのは、わずかな字句と作戦地図の輪郭だけだった。

だがドイツの国境に近い場所はまず間違いない。

作戦中の部隊と合流すれば部隊に帰れる、と思った途端、興奮のせいで唇と歯が不自然に震え、心臓の拍動が胸で強く感じられた。それを吹き払うために、ハンスは深い吐息をし、一旦軍隊のことを頭から除いた。


レアの言った通りであれば、明日はクリスマスの日のはずだが、町中にはクリスマスの雰囲気がほとんど感じられなかった。人々はみんな厚着で、どこかに向かっているように早足で歩いている。楽しく買い物をする家族も、子供たちの騒ぐ姿もどこにもなかった。曇った空が人々が家に帰るのを促すように、雪片を絶えなく落としている。

ハンスは道路を渡って、三本の道路をつなぐ円形交差点の向こう側にある広場に向かった。広場を囲むレストランと洋服店が綺麗な外装を見せびらかしている。

今は通行人がまばらだが、綺麗に飾られた店先から昔の賑やかさが伺えた。

ベンチに座っているレアの姿がハンスの目に入った。ベレー帽を被って俯いているレアは近づくハンスをちらっと見て、寒さを感じたようにコートを首まであげて、体を震わせる。

苦悶の吐息とやや蒼ざめた顔を見て、ハンスは屈んでレアの耳に軽い声音で問いかけた。

「どうした。体の具合でも悪いのか」

「いや。突然気分が悪くなっただけ」

ドイツ語を聞かれるのを危惧し、レアは唇をなるべく動かさないよう声を出していた。

広場には数少ないとはいえ、往来する人々の姿がしょっちゅうあった。

上目で目の前に行き交う人々を見ると、胸に黒い感覚がこみ上げた。

眩暈が激しくなって、レアは頭を垂れて眉をひそめた。

レアの中は今、恐怖と恥に満ちている。知らない人に見られるなり、話を掛けられるとこうなってしまう。町に入った途端、ふっと気づいた。

人が怖かった。目を合わせることすらできなかった。胸が締め付けられるようにきつくなってきて、ついに今のように動けなくなった。見苦しい自分に、自分の不甲斐なさに涙がこぼれそうになった。

黒い感覚が全身に浸透しつつ、レアを飲み込もうとする瞬間、不意に左手にはなにかが当たった感触がした。

手袋をはめたまま、微かな感触しかないが、目を開けると、五つの指が左手の手背に優しく触れているのが見えた。

最初は隙間を保ったまま、微かに触れられただけの感じだった。

それでも指先の温もりが伝わってきた。

それはレアの左手より少し大きめな、小さい傷跡が散らばって、傷だらけでも暖かい手だ。

ハンスはなにも言わないつもりでいた。ただ静かにレアのそばに座って左手を優しく掴んでいる。レアはその手の温度だけに感覚を集中させていた。人の温もりがこんなに優しいものだと長い間忘れてしまったような気がした。

胸に巣くう黒い感覚がだんだんと取られて、消えていった。

表情が和んだレアは、ハンスに顔を向けて軽い声で話した。

「もう大丈夫だ。ありがとう」

目が合う瞬間、ハンスは慌ただしく目を逸らし、顔を赤くしてぱっと手を引いた。

「それはよかった。では、はやくやるべきことをやろう」

さりげないふりで立ち上がって、ハンスはレアから距離を取ってわざとらしく背を向けた。レアはその背中を眺めてほくそ笑む顔を浮かべた。


ふたりは行動を再開した。

的の店を探るために、レアは道行く人を止めて聞こうと思ったが、知らない人に声をかけるのはやはり苦しかった。見返す人の目を見ると、緊張のあまり息が止まりかけて、強張った頬にぎこちない笑顔しか浮かべられなかった。思いついた返す言葉は真っ白な頭の中に海に捨てられた石のように消えてしまって、対面の人が何も言わないレアに戸惑い顔をして離れていった。

少し距離を取って壁にもたれたハンスはそのやりとりを終始眺めていた。

レアがハンスに近づき、心が挫けて泣きそうな顔をみせると、ハンスは慰める言葉を言うつもりがなくため息だけをついた後、ゆっくりと右手を差し伸べた。

「一人じゃだめなら、二人でいけるかもしれないな」

ハンスの声は近くにいるレアにしか聞こえないぐらい軽かった。

レアは重い顔でハンスの右手にはめた赤い手袋を眺めて躊躇った。

顔をあげてハンスの青い目を見つめると、ハンスは唾をのんでさっと目をそらした。

奇妙な対峙がしばらく続いた。

ちらちらとレアの顔を見たハンスは、この変な場面にようやく耐えきれなくなるように、「まったく」 と言っていきなりレアの左手を掴んで、歩き出した。


二人で粉雪の落ちる町に肩を並べてゆっくりと歩いている。

二人の身長はほぼ同じで、顔も同じような若い気質を放っているが、髪の色がだいぶ違うし、他人の目から年齢の近い兄弟には到底見えない。

そのため、たまにすれ違う人から好奇の視線を浴びることになった。

でも恐怖を感じるのは前より少なくなった。

レアは町の人と目が合うことがすこしできた気がした。

人出を感じる商店街が目に入り、二人は一旦そこを目指した。

閉ざされた店が多いが、食料品、おもちゃ、装飾品などを売って、普通に営業している店もある。レアは綺麗な吊り看板を下げるパン屋に入り、的の店について尋ねることにした。

若い男性店員さんが手つないでいる二人に気さくに挨拶をした。

レアは店員さんの視線に向き合うたびに胸が詰まって手を震わせたが、ハンスはそれに気づき、繋いだレアの手を励ますよう優しく握った。

レアは目を閉じ大きく息を吸って、 頭の中に言いたい言葉を整理して、口を開いた。


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一時間後、レアは縄で縛られた四角い小包を手にして小さい町工場から出てきた。街灯の柱にもたれて待っていたハンスは、頬を少し上げて薄い笑顔を見せた。

手に持った古いスパークプラグをそのままお店に見せて新品を頼むと言うと、中年の店主がすぐ新品を渡してくれた。

「簡単だと言ったでしょう。任務完了ということで、これをとこかで食おうか」

ハンスは足元に置いたパンの入った紙袋を持ち上げ、胸の前で抱えてレアと歩きだした。

先ほどのパン屋で焼きたてのパンの香りに惹かれて、シャレーでトーストとバゲットしか食べられなかった二人は、チョコレート、レーズンとカスタードクリームの匂いにゴクリと唾を飲んだ。やがて蜂蜜がたっぷり垂れたワッフルもいくつか買うはめになった。

仕事を終わらせた爽快感は二人の顔に現れ、行き場所について話し合うことにした。

ドイツ語を聞かされないよう、二人は頭を回して互いの耳に軽く話すようにしている。

「先の広場に戻るか、それとも」

ハンスは目を上げて大聖堂の尖塔をちらっと見て、「あそこはどう」と。

「大聖堂の横には公園もあるので、いいと思うよ」

レアの唇から伝わる気流を感じ、ハンスは耳が赤くなって、さりげない表情を装っても顔には不自然な強張りを見せた。


突然、二人の間を割り込むような勢いで、遠雷の唸りのような音が伝わってきた。

頭を回して、周りの街道に目を配ったレアは戸惑っている中、ハンスはそれが何なのか直ぐに分かった。

重砲の発射音だ。

一発、二発、三発。

雷のような爆音が間欠的に鳴っていく。

距離は、十キロ以内だ。

勘のようなものでハンスはそれを自然に判断することができる。

その場で立ち尽くしたハンスは南の空を眺めて、脳裏に戦場の景色が浮かんだ。


爆音とともに土が跳ね上がり、破片が金属を掠った音。

戦車砲が耳の傍に轟き、車体が衝撃で揺られる。

『助けて。。。』

頭の中に馴染みのある声が響いている。

それは、自分に助けを求める声だとハンスは知っている。

何故か知っている。


「あれは。。。」

耳元に囁かれたレアの声に現実に引き戻された。

目が瞬き、唇が震えていたハンスは気を取り返し、強張った声で返事をした。

「戦争だ」

口を微かに開けて話を続けようとするハンスの目には恐怖が見えた。

湖のような青い瞳に、今曇りがかかったように色褪せた。

その恐怖は町中の人々にも広がっているようだ。

バルコニーから体を乗り出した老婦人、背広を着て帽子をかぶっている紳士、遊びにふけていた子供、皆時間が止まったように南の空を眺め始めた。

「ここを離れよう。いられたくない」

レアはハンスの腕を摑まえ早い足取りでその場を離れようとした。


町の雰囲気がそれから一変した。

行き交う人の数が減っており、皆足取りを速めていた。

大通りを抜け、二人は小走りに細い路地に入った。

片腕がレアに摑まえたため、胸に抑えて抱えているパンが危うく落ちそうなところだったが、ハンスは何とか姿勢を保った

掴まれている腕で感じた力加減はレアの不安を伝えてきた。

兵士として、こういう時こそ落ち着きを示すべきだと思ったが、先ほど頭を過った光景、心臓を締め付けられるような重苦しさは今でも消えてはいない。

ガソリンが燃える匂い、中に何が変な、焦げた匂いが混ざっている。

肉が焦げた匂いだ。

心臓の締まりが強まっていく。

歯を噛みしめ、目の前に生じた白さは、幻想によるものか、地面の雪なのかうまく把握できない。


突然目の前の白さが揺らめいて、回って、世界がくるりと回転した。

気が付くとハンスは前向きの姿勢で大通りの地面に貼りついた。

レアが尻もちで苦しい顔。

二人は路地を出た瞬間に人にぶつかった。

レアが目を上に向けると、背の高い、カーキ色の分厚いジャケットとズボンを着た大男が目に映った。男は頭が緑のヘルメットに収まって、馬顔から放った厳しい眼差しの中には僅かな侮蔑の念が含まれている。

アメリカ兵だ、とハンスはすぐに判断できた。

男は手を差し伸べるつもりがなく、転んだ二人を鋭い目で観察している。

右目の上にある深い傷跡が男に一層の威勢を加えた。

レアが男の目を見ると、右目は普通の楕円形ではなく、傷跡のせいで歪んだ形になっている。レアがおずおずと目を逸らし、周りを見た。

何人もの米兵が壁にもたれてタバコを嗜んでいたり、緑の軍用ジープの座席に転がって寝ていたりしている。しかしレアに違和感を感じさせたのは、轟く砲声の中でも全員が沈黙を守っていることだ。まるで自分の存在をこの町から消そうとしているようだ。

ハンスの様子を確認するために目を向けると、既に立ち上がったハンスは例の大男に向き合い、睨み合っている。

レアは座ったまま冷や汗が噴き出た。

砲声の中に緊張感が更に高まっていき、空気が一気に冷えている感じがした。

睨み合いが続く中、一人の米兵が素早くレアに向かって、何の気なしに懐から英語の大文字が書いてあった板チョコレートを取り出して、レアに差し伸べた。

「すまなかった。うちの部下がお二人にぶつかった。これを補償として取ってくれないか」

英語の分からないハンスは警戒を緩めなかった。

ハンスは大男と狭い路地に出くわした獣のように睨み合い、次の動きを計っている。

「ありがとうございます」

レアはチョコレートをおずおずと手を伸ばして受け取った。

目の前にいる米兵が和やかな笑みを浮かべた。

大男と違って傷のない綺麗な白肌が顔に張り付いて、他の兵士が着ているジャケットとも違って厚いコートを羽織っている。大男の兵士に向け、頭を振って下がるよう命じた。これで大男がようやく身を引いてハンスから距離を取った。

「では、お先に行ってきます」

その機を逃さず、レアが突っ立っているハンスの腕を掴んでその場を逃げるように離れた。


少し離れたところでレアが肩の力が抜けて、「ああー、死ぬかと思った」と、ため息をついた。そして咎める口に変えて、「なんであんなふうに攻撃的になったのよ。ばれたらどうする。相手はアメリカ兵だったよ」

ハンスはレアの愚痴を聞き流したような素っ気ない顔。

何か考えているように、無言なままレアに連れていかれたが、ふっと何かに引っかかったようにハンスは振り向いて、兵士たちがいた赤レンガと茶色の石ブロックでできた二階の建物を眺めた。

「先のあそこは何の場所だ」

レアが首をかしげた。

「市役所(Hôtel de Ville )だが、どうした?」

「変だ。あの人たち」

「どこだよ。アメリカの兵士が前も町に来たよ」

むっとした口調でレアが反論した。

ハンスは自分に襲いかかる違和感の正体について思い巡らせた。

見た目ではなく、匂いだ。

それは鼻で嗅ぐような匂いではなく、群がる獣の中に集団的に生み出され、個体の中にもしみ込んだ特殊な気質だ。

先の奴の目つきにも、声の抑揚にもその特殊な匂いが含まれていた。

結論を出す前に思案にふけっていたハンスはレアに連れられて前に進んだ。


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ティルマの大聖堂。

近くにいるとそれほどの大きさが感じられない。

ハンスは正面の二本の塔を見上げてそう思っていた。

塔の高さはせいぜい七階。

でもここは紛れもなくティルマの最高の建物。

歴史を感じるが所詮田舎のものだ。

ハンスは心の底でこっそりと呟いている。


重砲の音が既に止んでいた。

重厚な石造りの大聖堂に穏やかな雰囲気が漂い、聖人たちの彫像に見舞われて、先ほどの局面を抜けたばかりの二人の心が徐々と静まっていった。

二人は大聖堂の左側の広い公園敷地にあるベンチに座って、大聖堂の斜め後方に位置するL字の二階の修道院建築に見守られる中、さっき買ったパンを食べ始めた。

「うーまい。やはり蜂蜜とワッフルは最高の組み合わせだ」

「確かにそうだ」

頬張りながらワッフルを口に入れるハンスはこもった声で話していた。

「ただの小麦粉と蜂蜜なのにこんなに美味しいんだ。ドイツではトーストに蜂蜜やジャムをつける食べ方もするんだが、どこが違うんだろう」

「生地が違うという概念がないのか。。。今度は私の故郷に来たら本場のリエージュワッフルをおごってあげるわ」

レアの熱烈の発言に返ったのは沈黙。

予期せぬ沈黙にレアはハンスをちらっと見て、ハンスは頬を動かしながらフラットな表情で前を眺めている様子が目に入った。突然何かの思いに捕らわれ思索に陥ったそうだ。

「返事がないの」

むっとした口調でレアは斜めにハンスを睨んだ。

気を取り戻したハンスは堅い表情で謝った。

「すまん。まだ考え事をしていた」

ハンスは短い返事の後また直ぐ物思いにふけるような表情に戻った。

「気になるか、米兵のこと。大丈夫だよ。シャレーにいた時にああいうふうに言ったが、実はドイツ語を話しても大丈夫だと思う。もともとドイツ系の住民が多い地域から、私達みたいな子供がドイツ語を喋っても疑われないと思うよ」

「もう子供じゃないんだけど」

履き違えた返事にレアは大きくため息をついて、諦めたように顔を逸らした。

それに気づいたハンスは言葉を変えた。

「すまん。リエージュのことについて何を言った?」

「もういいですよ」

沈んだ声でレアは会話を切り上げた。

人の話を聞かず、話し相手を尊重しない男の子に少し不快感を覚えた。

ハンスを横目で睨むとレアはあることに気づいた。

ハンスにむりやり自分の父親のコートを着てもらったせいで、コートの袖がはみ出して、裾も不自然に足元近くまで伸びている。

よく考えてみれば、ハンスと出会ってからは半月しか経っていない。

毎日一緒に暮らしていたから、時間が、流れていく川の水のように去っていくのを気にかけもしなかった。

いくら話したとしても、笑顔を振りまいても、隣に座っている少年は遠きふるさとから離れて、戦争に赴き、そして森に死にかけていた少年兵だということは変わりがない。いつの間にかレアはそれを忘れてしまった。

「ちょっと思い出した?昔のこと」

雰囲気を変えようとして、レアは優しい口ぶりで問うた。

「いや、記憶が失ったどころはそのままだ」

今回は会話が途切れないよう心掛けたように、ハンスはレアに先に質問を投げた。

「リエージュのこと、もっと教えてください。レアはそこでどんな生活を送っていたか」

「過去のこと、あなたから何も言っていないよ。なぜ先にわたしのほうから言うの」

「ああ、そうだな。でもごめんな、今はちょっと言い出せない気がして」

「覚えていることも喋ってくれないもんね。私、一体誰を助けたのかな。森に住む妖精さんかな」

出会ってからずっと目先のことしか語らなかった。まるで二人は自分の過去を語ることを意識的に避けているように。

言うべきことを今一度思い出せないせいで、二人はしばらく黙り込んだ。

気まずくなることを心配していた二人が、意外と何もしゃべらずとも屈託の無い時を過せた。肩と肩を触れ合って、次のチョコレートパンを紙袋から取り出してかじった。

二人の位置からは教会正面の道路を眺められるので、教会を出入りする人が増えることに気づいた。先の砲声で心が乱されて安らぎを求めに来る人々だろう。

「ニュトンみたいだな」

突拍子もない言葉にレアは眉をひそめて、ハンスの顔を見た。

「どういうこと?」

「絵のことだ。あれはここだろう。今の私たちはそのニュトンみたいじゃないか」

「あっ」

先日シャレーの二階の部屋でハンスに見せた絵の中の一枚は、確かにこの大聖堂をモデルにして描いたものだ。ニュトンが大聖堂の前に並べられた一本の植木の後ろに隠れているシーンがあった。実はその絵は大聖堂の前に描かれたわけではなく、数回の訪問の記憶を辿っておぼろげなイメージを通して描いたものだ。

「ちゃんと見ていたんだ」

「記憶力がいいほうだぞ」

レアの感心した顔にハンスは得意げに笑った。

「私たちも誰にも気づかずにこっそりと人の成り行きを観察している」

「全然気づかれたと思うよ」

「これで私も晴れやかにニュトンの仲間入りだ」

ハンスは気さくにレアの言葉を遮った。

ハンスの言葉に含まれる意味がレアにはわかるような分からないような気がしていた。

しかしわかってくれる人がいると思うと、胸の中に暖かいものが湧いた。


目を閉じて、レアはゆっくりと頭を隣の人の肩に近づかせ、撫でるようにそっと当てた。

何年前のクリスマスイブだろう。

私もこのように頭を隣の人の肩に当てて寝ていた。

暖かい蝋燭の光に照らされる教会の中には子供が歌った聖歌がこだましていた。

気持ちが良くてうっかりと寝てしまった。

儀式の最中でも私を起こさないでくれていた。

とってもとっても穏やかで大きな肩だった。

少し硬い木製のベンチに座っていたが、うまい姿勢で寝ていたので気持ちが良かった。

ずっと教会の中で寝て、神と聖人に見守られながら人の温もりを感じたい。

このままでいいんだ。

私が望んでいることはただそれだけかもしれない。

どうして。こんなちっぽけな夢も私には叶えられないのだ。


ダンーダンーダンー

鐘が打ち鳴らされる音が聞こえた。

実際に耳に入っている音だった。

現実に引き戻されたレアは、体を起こして隣の人の顔をちらっと見た。

「や。。。やはり疲れたかな。じゃ帰るとしようか」

少しの紅潮がハンスの顔に残り、緊張した口でレアに話した。

レアは意識朦朧とした顔で正午の太陽を見上げて目を細めた。

そして目を擦ってハンスに返事した。

「いや。昨日話した件、覚えている?暫くある場所に行かないといけないので、あなたにここの大聖堂にいて頂戴。二時間以内に戻るから」

「出歩くのはだめなのか。二時間も教会にいると寝っちまうそうだ」

「じゃ寝てもいいよ。教会はだいたい寝心地がいいから。だが戻る時あなたがいないと私自分一人で帰るよ」

「了解。が、パンは俺が持っていることをお忘れのないように」

「意地悪い。。。本当に出歩くのはだめだよ。まだ先みたいにトラブルに巻き込まれたら私は助けてあげないよ」

「肝に銘じておきます。では、お気をつけて行ってらっしゃい」


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灰茶色のレンガ造りの屋敷の前で一人の少女が見上げた。

それは二階建ての建築で、各階には三つの窓が並んで、左側には塔の型式を取った中型の邸宅だ。屋根に雪が積もって、煙突から白煙がじわじわと上がっている。

左側の角塔の尖った屋根から綺麗なダークブルーの生地が見えた。


屋敷は町の外縁部の森にあり、三十分ほどの歩行でたどり着けるところだ。

後ろの丘に生えている森が灰と銀が混じった色で輝いている。

元は町の中心部に屋敷を構えていたローランドが、妻の死後にここに移り住んだ。

喧騒な街から離れて心を癒すためにやってきたと言われているが、実際に何を考えているのか町の住民にも分からなかった。

その屋敷の中央にある素朴な木扉に少女が佇んでいる。

上にはバルコニーがなく、とっても簡素な入り口だ。

扉の横に来客用のベルボタンがあって、少女が押すと中からリングベルの音が聞こえた。

しかし一分経っても扉がじっとも動かなかった。

少女はもう一回押した。

だが人が出てくるような気配が感じられなかった。

少女が身を回し諦めようとする瞬間、一人の男が突然現れた幽霊のように静かに扉を開けた。振り向いて男を見た少女は、気を引き締めて姿勢を正し、口を開いた。

「フランク兄さん、お久しぶりです」

屋敷の扉に向け、細身の少女が挨拶をした。

黒髪に黒い瞳。濃い色のコートをまとった少女の顔に僅かな怯えの色を見せている。

扉越しに立っているのは、地味なセーターを着ている四十歳前後の男だ。

少し乱れた茶色の髪と無精髭。丸メガネの後ろに隠された瞳に輝きがなく、目のクマもはっきりと見えている。男は今、頭一つ分の身長差を持った少女に疑り深い目を向けている。

「レアちゃん。どうした。何故ここにいる」

そう言った後、男は目を細めて扉の外を見まわし、何かを警戒しているようだ。

男の咎めめいた言葉にレアはたじろいだが、来意をきちんと伝える意志をもっている。

「あの。。。ローランドさんはいますか」

「ここにいない。米軍のところに行ったかもしれんが」

レアの無邪気な顔を見下ろして、フランクという男は気を抜いたようにため息をついた。

「まぁ、まず入ってくれ」

そう言った後、フランクは踵を返して、屋敷の廊下を通った。振り向きもなくひたすらに中へ向かっているフランクに、レアはおずおずと後ろに付いていた。


レアが案内されたのは、屋敷の一階にある客接待用のリビングルームだ。

それほど豪華なリビングルームではないが、きちんと手入れされた感じがした。

淡色の家具に花と植物の紋様が描かれて、壁に肖像画と風景画が並んでいる。

「元気そうでなによりだ」

二人がソファチェアに座ると、フランクが会話の口火を切った。

しかし世間話でもするような雰囲気ではないとレアが感じた。

不自然に床を叩いた足と顔に現れた引きつりからフランクのイライラさが伝わってきた。

無表情なままに言っていた言葉に感情を感じさせないほどの冷たさがある。

最初に会った時から情熱的な人ではないと分かっていたが、今のフランクには生気すら失ってしまったようだ。

「おかげさまで。今まで無事でいられました。ありがとうございます」

「結構大胆だな。もう街に出歩くようになったのか。連合軍が既にベルギーに来たとはいえ、ここはドイツに近い地域だ。とりわけ現在のアルデンヌはほぼ全域が戦場になっている。状況がいつ変わるのか誰も知らないのだ。気をつけたほうがいいんじゃないか」

「ごめんなさい」

感情のない言葉の羅列に、怒られたと思って、レアは気まずい表情を見せ目を落とした。

「いや。そういうつもりじゃなかった。すまない」

ため息をついて、フランクは自分が不意にさらした怖い雰囲気について謝った。

「で。レアは今日来る理由は」

「町に来たから、ローランドさんに挨拶をしようと思って、それだけ」

「父さんはいつ戻るかわからない。ここで待ってもいいが、メイドを呼んで何を作らせてあげようか。お茶を飲みながら待ってはどう」

「大丈夫です。いないのなら私はすぐ家に戻ります」

レアが立ち上がるのを待っているフランクは、予想のほか座って俯いたままのレアに異様な視線を投げた。何かを躊躇っているようだ。やがてレアはおそるおそると口を開いて質問した。

「ひとつ聞いていいのかな」

「うん。なんだ」

「父さんと母さんのことについて聞きたいの。戦争がじきに終わりそうで、いつ帰ってくれるのか知りたくて。。。その、教えてくれないかな」

一個一個の単語を絞り出すにつれ、レアの胸がだんだんとおどり始めた。

「フランクさんはリエージュの市役所で働いているよね。知っていると思う。お願い」

俯いた顔を上げ、レアは懇願を込めた表情でフランクの顔を覗き込んだ。

しかし目に入ったのは両目を大きく開き、怪物でも見たような色を失ったフランクの顔。

「何を聞きたいの」

唇の周りが震えているせいで歯切れが悪くなる返答にレアが怯えて、言葉を濁した。

「その。。。普通にどこにいるのか。。。今何をしているのか。。。そういう。。。知らなければ別に構いませんから。。。」

「お前まで俺を責めるつもりか」

手を上げてメガネを握ったフランクは、手が激しく震えだした。途切れ途切れになった言葉が異様なリズムで出てきて、レアは眉をひそめた。

「俺のせいじゃないよ」

自分に言い聞かせるような低い声でフランクが唸った。

「言われた通りにやらないと真っ先に死ぬのは俺だぞ。どうして皆が俺のせいにするんだ」

言葉の中から滲み出る恐怖と怒りが膨らんでいくのを感じて、レアはたじろいで硬直した。

「占領中に何もしなくてただ見ていたのに、情勢が変わると直ぐに善人ぶって悪人を叩く面をした、くずども!」

強気に罵る言葉を並べた後、フランクが力強く拳で机を叩いた。

ティーカップとティーポットが僅かに浮いては落ち、ぶつかる音に驚かされたレアは硬い体が小刻みに動いた。


「もういいんだ!」

レアの後ろから甲高い声が響き、部屋の雰囲気を一変させた。

リビングルームの入口に背広姿のローランドが立っている。

威厳のいい顔をして、失態を冒した息子に鋭い目線を向けた。

「レアの前に何をしておる。さっさと失せろ!」

杖を強く地面に叩きつけて、自分の息子に命令を出した。

眉を顰めて、取り乱した自分に恥を感じたフランクは、逃げるように部屋を飛び出した。

部屋に残された気まずさにレアは俯いたまま、「ごめんなさい」と言った。

何に対して謝ったのかレア自身もうまく把握しきれていない。

ローランドが背広の襟を正して、ゆっくりとレアに向き合って座った。

「この野郎。ブリュッセルから帰ってきてからずっとあんな感じだ。気にするな」

「どうしたの?。。。それに、リエージュの市役所で働いていると聞いたが」

ローランドが大きく嘆息をし、目を閉じて考えを巡らせているような真剣な表情を暫く顔に留めた。やがて腕を組む姿勢で、目を開けて言い出した。

「ドイツの占領下で協力しないといけない事情があるからだ」

米軍との会合で疲れた町長がこの話題を続ける気がないと察し、レアは深入りすることをやめた。話を止めたレアにローランドが表情を和らげて話の流れを変えた。

「ちなみにレアちゃん、明日はクリスマスイブだから、私は客人を招いて市役所で宴会を開くつもりだ。町に避難してきた人や米軍の兵士たちは家族と一緒にいられないので、少しながらも彼らにクリスマスの雰囲気を感じてほしいと思うね。その場でレアちゃんにいてもらってもいいと思うよ。米軍の指揮官も来るから、その場で会って気軽に話してもいいと思うが」

含みのある言い方にレアは気を咎めた顔で返事した。

「ありがとう。しかし私はやはり人の多い場所にしばらく行きたくない。ごめんなさい」

それはハンスのことを考慮して出した答えだけではなく、実際のところ自分もあのような場面に出るのを心底から拒んでいる。

「そうか。。。では、食い物は足りているかい?困っていることはないかい?」

「食料はこの数日間ならまだ大丈夫だ。ありがとう。私、一人でも大丈夫だから心配しないて」

微笑みを浮かべたレアにローランドは頷かざるを得なかった。

長年一人で何とか生きてきたレアに対しての信頼。そのものの表れだ。

「必要なものはクリスマスの後にフランクに届けてもらおう。レアはずっと行き来するのも大変だから。あとな」

言葉の続きを後にして、ローランドは立ち上がって暫く部屋を出た。数分後にローランドは長方形のプレゼントボックスを手にして戻ってきた。

金色のリボンを綺麗に結べた蝶結びに赤の包装紙。片手ででも持てる大きさ。

「プレゼントだ。クリスマスおめでとう」

心残りがあるような表情を残したまま、ローランドは穏やかな声を出してレアにお祝いの言葉を述べた。意外の念に打たれたレアは、しばらく言葉が出てこなかったが、やがて手を差し伸べて目の前に差し出されたプレゼントを受け取った。

「ありがとう。私からは何も用意していないのに、ごめんなさい」

震える声に感謝と悔しい気持ちが溢れている。


去年この屋敷で過ごしたクリスマスイブを思い出した。

正式な宴会にはレアが参加できないので、宴会の間にローランドの部屋に隠れていた。

一階のダイニングルームから歓声が伝わってきて、寂しい気持ちに満ちていたレアだが、仕方ない事だとわかって堪えていた。

宴会が終わって、来賓が帰った静かなダイニングルームにローランドが、レアのために作らせた小さいケーキをプレゼントにあげた。ローランドの妻が冷やかな顔を見せていたままでその場に同席した。少し乱れた食卓に三人でケーキを食べながら話していた。来年自分からプレゼントをあげるようレアは約束したが、この一年間ローランドと疎遠になっており、すっかり忘れてしまった。


それでも、ローランドさんは私のことを忘れていないのだ。

レアの泣きそうな顔に頬が赤く染まって震えている。涙をこらえているのが分かったローランドは前に出て優しくレアを自分の胸に抱いた。

「そんなことはいいよ。私はもっとしてあげたいと思っているが、これぐらいしかできないのは少し残念な気持ちでいる。もうすぐ終わるから、頑張ってね」

久しぶりにローランドに抱かれた。暖かい胸と心臓の鼓動を感じて、レアは穏やかな気分に戻って、両手でローランドの体に強く抱きついた。


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「お前の親父がドイツ軍に協力したんだろう!」

「だからアメリカ軍に摑まえた!裏切り者め!」

怒鳴り声が大聖堂の外から伝わってきた。

大聖堂の暖かい空気に包まれ、いつの間にか長椅子に沈んで寝てしまったハンスがゆっくりと目を開けて、目の前の聖人像と目が合った。自分を咎めているような魂のない石の目に見下ろされ、変な気分が湧いてきた。

「ドイツ人のせいでうちのばあさんがなくなった。隣町で砲弾に殺された!」

大聖堂の一番後ろに座っているため、外からの叫び声が嫌でも聞こえてくる。

フランス語は分からないが、アルマンドというドイツを指す単語が言われたので、気がひかれて外に出て覗いてみた。

大聖堂の正面には誰もいない。

思い返すと、確かに声が少し右側から伝わってきた。

ハンスはその思いで大聖堂の右側を回って、人気の少ない歩道を伝って進んでみた。

目に入ったのは十代半ばの少年たちだ。

三人の少年はハンチング帽を被って、動きやすいジャケットを着ている。 彼らが壁に向けて石を投げている。そこにいるのは金髪の幼い少年だった。身長は攻撃してくる相手より一個頭の差がついている金髪の少年は、片腕を上げて頭を保護している。

一番背の高い少年は突然現れた余所者に戸惑い顔を見せた。

「こいつ、誰。こいつの仲間かい」

と言い捨てると、再び金髪の少年に向けて石ころを投げた。

ハンスはため息をついた。

どこの国もそうだ。力のないやつがいじめられ、抵抗すればもっと痛い目にあって最終的に抵抗を諦める。

囲まれた少年の青い目には無力さと絶望の色が見えた。助けを求めているかのようにハンスのほうを注視していた。

くだらない。

弱いものが助けられるばかりだから強くなれないものだ。強くなれないものは自然と淘汰される。それは自然の摂理であり、我らの世界がここまでの進歩を成し遂げた理由だ。

見ていないふりをして離れようと思ったが、嫌な思いが浮かび上がった。

薄暗い町の路地に汚い水をかけられ、罵られて、家族にまであくどい言葉を吐かされた、もう一人の少年のこと。その時には怒りを覚えていた。銃を持っていればその場の全員を殺してもいいと思えるぐらいの怒りを覚えていた。

三人の少年がハンスを疑り深く見ていると、突然ハンスはなりふりかまわず前に出てその少年の腕を掴んでその場を引き離そうとした。

「てめえ、なんのつもりだ」

一人の少年がそう言ってハンスの肩を掴んだ。

軽々しくハンスは少年の腹を一発殴った。

大した力を出すつもりはなかったが、痛いせいで少年は腹を抱えて跪いた。

もう一人がかかってきて、ハンスはぱっと的確に相手の膝を蹴って、バランスを崩した少年の足に付けて滑らせた。

戦闘訓練を受けた兵士の手際よさだ。

ふっと右の後頭部に衝撃を覚えた。

ハンスの後ろで、一番背の高い少年が拳を握って偉そうにハンスを見下している。

一縷の血がゆらりと頬に流れ落ちて、ハンスの口の端に入った。

ハンスが逃げ出すのを待っているように、背の高い少年がハンスの表情を観察している。

しかしそこにあるのは、予想した怖気ではなく、歪んだ口元から漏れたにやりだ。

スイッチが入ったかのように、ハンスは高速に上半身を回して背の高い少年の顔に殴りかかった。ハンスの拳に一切の迷いも、憐憫もなく、突き刺す銃剣のように青年の顔に突き刺さった。

パンチを受けて身を引いた少年は、反応の時間すら与えられずもう一発を食らった。

次は鼻、顎。ハンスは人の弱点を一一狙い、的確に少年を崩していく。

ボクシングの選手みたいな鋭い攻撃で、少年はやがて気を失うように地面にどんと倒れた。それでもハンスは容赦なく、少年の胸に跨ってぶち殺す勢いで殴りつづけた。

ほかの背の低い仲間たちは阻止することができず、怯んだ姿で黙って見守るほかなかった。少年は生存本能で両手を上げてハンスの首を絞めていたが、それでもハンスを止めることができなかった。

出所の分からない異常な怒りがハンスを支配している。

普通は知らない相手に対してそれほどの怒りが湧いてくるはずがない。

それと同時にハンスの手と体の震えが徐々と大きくなり、呼吸も激しくなった。

まるで怒りと同時に何かに対する恐怖も出てきた。

もしくは、ハンス自身もよく認知していないことで、恐怖を怒りで抑えようとしている。

顔が腫れて赤紫色に変わった青年は喀血しはじめ、気絶するように目の焦点がずれている。


堅物が頭にぶち込んだ辛い痛みを感じた。ハンスを止めようとした少年の仲間が血の付いたブリックを手にして、恐怖に満ちて蒼くこわばった顔で突っ立っている。

目が狂い、顔が歪み、ハンスは少年の仲間に近づき、足取りは怒りがあふれ出るほど強く、一発殴って倒した。そして、ブリックを手に取って、高く上げて、吐息とともに吹き出たかの怒りが凄まじく、少年の仲間は殺されるのを感じて悲鳴をあげた。

「やめて!!!」

背後から、女の子の声が聞こえた。

その声で気が取り戻されたハンスは、両手に染めた血を見て、激しい呼吸が止まらなかった。ブリックを強く握った手は震え始めた。何か恐ろしいものが頭をよぎって、頭を切り裂く頭痛が襲ってきた。

体験したことのない痛みが感じられて、うなり声が口から漏れてきた。

戸惑った少年の仲間たちに見つめられながら、レアはハンスの腕を掴んで走り出すようにその場を逃げた。


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「ああ。死ぬほど緊張した。まず兵士にぶつかって、次は喧嘩。大人しくしてほしいって言ったのに。もう町に出るのは禁止!」


ぎりぎり日が落ちるまえにシャレーに戻った二人。

レアは文句をたらたらと言いながら、救急箱を食卓の上に開けた。

アルコールに浸かった消毒綿をピンセットで挟み、「横を向いて」と言って、ハンスの頭と顔の傷をゆっくりと手当てし始めた。

帰って来てから黙り続けているハンスの浮かない表情を見たレアは、「なぜ喧嘩をしたの」と、柔らかい口調に変えて、消毒綿をゆっくりと傷口のところに当てながら聞いてみた。痛みを感じたようにハンスはさっと目を瞬かせたが、暖炉の炎に向けた視線は僅かも動かなかった。

「返事は?」

「あんたには関係ない」

ハンスの返事は冷たくて無関心のような口ぶりだった。

それを聞いた途端、レアは手の動きがふっと止まった。

場の空気が変わって、静寂が淡い赤黄色の居間を支配している。

レアの吐息が静寂の中にに大きく響き、呼吸音に僅かな歪みが生じて喘ぐように聞こえる。深呼吸したレアが立ち上がり、部屋へ戻ったが、一分も経たずまたすぐ出てしまった。

レアの手にしたのはハンスの黒い軍服と帽子。そして、さっとハンスの顔に向けて投げた。

驚かされ、ハンスは戸惑い気味の表情を向けた。

「そうだね。私には関係がない。あなたにとって、私は赤の他人だから」

涙を一生懸命湛えて、真剣な顔でハンスを見つめている。悲

しみとも怒りともつかない感情が湧きあがり、顔が紅潮し震えている。

それを見て、ハンスは眉をしかめて動揺した目で見つめ返している。

「私が暇だからあなたを助けたと思っている?」

ぶら下げる拳を強く握って、レアは俯いたまま低い声で言う。

ハンスは何かを言い出したいように唇を微動させていたが、ついに噛みしめた。

「私と話すのはそんなに嫌なら、明日ここから出でよ!」

大声で言い残すと、レアはふり顧みず、大股で自分の部屋に戻った。


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「本当に行っちゃったか」

湖を前にして、レアはシャレーの玄関口に立って、そう呟いた。

そして、何気ないように背伸びをして、「んーっ」とうめき声を出した。

それでいいんだ。何も起きなかったように、全てが元通りに戻る。

昨日はちょっと言い過ぎた。

町中でいろいろと起きすぎて、自分の感情をうまく制御できなくなったかもしれない。

いいや。元々は私たちは赤の他人だ。

と、レアは自分に言い聞かせていた。


レアは何気ないように日常を続けることを決めた。

いつものように本を読んで、ご飯を作って、スケッチを描き、字を書いて、無駄に時間を埋めていく。だが、いつもの落ち着いた日常は取り戻せなかった。本をめぐる際に、手を動かして線を描く際に、鍋から上がる蒸気越しに窓外の景色を眺める際に、心の中にあるざらざらの感触は抑えられなかった。

元はソファで本を読む習慣だったが、今は無意識にソファチェアに座っている。

本を閉じて立ち上がり、キッチンの窓へ近づいた。

それほど知っている人でもないのに、知り合ったばかりの人なのに、なぜかレアは悲しい気持ちが抑えられない。

雪化粧された湖の景色はいつものように広がっている。

何年間も見てきた景色。

だが、今日はことさらその寂寥に、その静寂に心が苦しめられている。

涙が出そうなぐらい苦しんでいる。

自分は、ひとりぼっちだから。

いつの間にかレアはそのことを忘れてしまった。

正確に言えば、苦しまないために忘れようとしていた。

「私、寂しいんだ」

何もない湖面に向けてレアが呟いた。

心の底で、その言葉が遠い、遠いところまで届くよう願ったのに、大声で叫ぶことができなかった。大声で叫んだらまだ耐え難い現実に押しつぶされ、心が崩されるのを恐れているからだ。


ほとんどぼうとしたまま、午後を過ごしていた。

ただ湖の景色を見て、時間が流れていくのを待っていた。

いろんなことをするつもりだったが、結局台所の窓台に両肘をつけて、頭をのせたまま無為に過ごしていた。今日は、何もしたくない。

いつの間にか夕日が湖面に長く伸びはじめていた。

そろそろ晩飯を作ろうと立ち上がったレアは、一匹の灰色の猫がシャレー前の雪地に座っているのに気付いた。

グリーが背を向けたまま、湖面の右側を向いている。

レアは外に出て、グリーに近づき、後ろに跪いた。

「どうした、お腹が減った」

グリーが頭を回して、さりげなくレアを一瞥し、また頭を元の方向に戻した。

戸惑いながらレアも同じ方向に目を向けた。

右側の湖岸には細長い残影が見えて、深緑の葉っぱがゆらゆらと夕日の日差しの中にぼやけて揺らされている。その下にふらふらとこちらを向いている人影が小さく、湖面から広がる薄い霧の中にはっきりと見えない。

眉をひそめて、木の尖端が近づくのが見えた。

近づく人影はだんだんと輪郭が鮮明となり、唖然としたレアは口を微かに開けて、ハンスが目の前に来るのを見つめている。


ハンスは小さい針葉樹の木を地面に置いて、大きく息を吸った後に叫んだ。

「疲れたー!!」

レアは呆れた顔でしばらくぽかんとハンスを見ていた。

「何処に行ったの」

「今日は、クリスマスイブだろう。クリスマスツリーがないと拍子抜けじゃん」

「だから森に行って掘った?」

「そうだが、どう、このサイズのものを探すにはだいぶ時間がかかったぞ。あーいっでぇでぇでぇ」

足の傷が痛んでいるかのように、ハンスは右足の太ももを揉んだ。

「本当に馬鹿だ、この人」

涙をこらえながらも、レアは笑顔をほころばせた。


二人はシャレーに戻って、クリスマスツリーを地下室にあるお盆の中に植えこんで、

そしてハンスは発電機の修理に取り掛かり、レアは晩飯の支度をし始めていた。

クリスマスイブのため宴会を開く気持ちで作っていきたいレアは、まず目の前の現実にぶつかった。七面鳥の丸焼きをテーブルの中央に、パンと厚切りの牛肉、ポテトサラダ、ミートパイとチョコレートケーキ。頭の中に直ぐに思い浮かぶクリスマスイブの定番だ。料理書を見ながら作ってみてもいいが、手元にある食材が足りていない気がする。

心の底に上がった一縷の心もとなさを振り払い、目の前にある食材を再確認してみた。

何とかしないといけない。

このシャレーで初めて人と一緒に過ごすクリスマスイブだから、きちんと用意したい気持ちはレアの中に変わりなく大きいままだ。

今は五時半だ。九時開始とすればあと三時間半。


七時ごろ、ハンスは地下室から上がった。

リビングルームはいつも通りに暖炉と蝋燭の光で灯されて、ハンスのドヤ顔に長い影を落としている。キッチンの蒸気の中で忙しく動いているレアに声をかけた。

「修理完了だ。見に来てよ」

暫く手元の仕事をほっといて、レアはハンスに続いて地下室に降りた。

油灯の置いた地面に整然と並べられた工具セット、発電機にケーブルが繋いだ変電ボックス。万事整った雰囲気だ。

「じゃ、始めるか」

ハンスは発電機の右下にある紐を手に取って、ごくりと固唾をのんだ。

「とっ」

発電機の紐をはっと引き、黒煙が断続の爆音とともに噴き出した。

不穏な爆音が次第にしなやかな低音に変わった。

「スイッチ、試してみ」

レアは地下室の壁に付けたスイッチをおずおずと押した。

長い間灯っていない電灯が僅かな間ぴかぴかと閃いた後、平穏な光源へと変わった。

信じがたい顔でレアが呟いた。

「光った。本当に光った」

リビングルームに駆け、電灯のスイッチを一々つけていく。夜になると暗くて暖炉の光だけを頼りにしていたリビングルームが今、昼間のように明るく照らされている。

蓄音機にレコードを入れて、電源をつけた。

レコードの回転とともに、穏やかなジャズ音楽が穏やかに流れ始めた。

「音楽。。。音楽が聞こえた!!!」

喜びのあまりにレアは飛び上がって不意に叫んで、ハンスに飛び込んで抱きしめた。レアの予期しない行動にハンスは手足が固まって目を大きく開いて冷や汗が噴き出た。レアはそれに全然気づかず、何気なく手を離してふたたび蓄音機のところに飛び込んで、苦笑交じりのハンスをその場に残した。


流れているクラシック音楽に満たされ、暖かい光の元にレアが晩飯の準備を再会した。

一人で支度をしているレアは手が回らないほど忙しかった。

ハンスも地下室に残されたクリスマスの飾りをクリスマスツリーに付けて、黄色の星をトップに、小さい赤い靴下と黄金色の杖を枝に付ける。

各種色のゴムボールが床に散らばって、グリーは遊びにそそのかされたように、猫の手でボールを押しまわして、クリスマスツリーの下を走り回る。


約九時ごろ二人はテーブルの上に飾ったクリスマスディナーを囲んで目を光らせた。

野菜たっぷりのポテトサラダ。缶詰のフォアグラとフルーツの詰め合わせ。香辛料とハーブをたっぷりかけた七面鳥の丸焼き。一番手を込んだのは即座に作ったビュッシュ・ド・ノエルだ。ロールケーキの表面に茶色のバタークリームを覆い、ビュッシュ(丸太)の外観を持たせており、切った断面に半分切ったイチゴの赤、ケーキ生地のダークブラウンと茶色のクリームが螺旋の形を描いている。


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平らげられた皿をテーブルに残し、腹を満たした二人はリビングルームに慣れた形で寛いでいる。違うのは、今暖炉の光ではなく、天井の電灯の強い光が注ぎ、クリスマスツリーの星をきらきらと輝かせている。

流れているクラシックの中で二人は無人島を逃げ出したばかりの遭難者みたいに、体を深くソファに沈ませて人類の現代文明を嗜んでいる。

ぼっとした雰囲気の中に昨日の出来事が二人の中にぽちぽちと蘇った。

二人が心が通じ合うようにお互いをちらっと見たが、恥ずかしく感じて再び目を逸らした。クリスマスツリーの下で二人を眺めていたグリーはあくびをして何気なく寝転がった。


最初に話を切り出したのはハンスだった。

「あの。すまなかった。君の気持ちに気づかなくてひどいことを言ってしまった」

テーブル越しに真面目な顔でレアを見つめるハンスに、レアが微笑を浮かべて返事した。

「私も、言い過ぎた」

ため息をついて話を続けた。

「本当に行っちゃったと思ったよ。ようやく元のように楽に生きていけると思ったが、残念だね」

お互いに笑顔を見せた。

二人は暫く無言のままクリスマスツリーを眺めていた。

「クリスマスツリー、綺麗だね」

「ああ、運ぶ途中に大変で投げ出そうと思ったぐらいだ」

生まれた家で祝ったクリスマスイベントとは全然比べ物になっていないが、レアは今、充実感に満たされている。

「そうだ。見せたいものがある。少し待って」

意味ありげな微笑を浮かべながら、部屋に入っていたレアは、十分後に再び出てきた。

「私がもらったクリスマスプレゼント」

ダークブルーのドレスを身にまとい、淡色の格子柄のリボンを胸につけ、爽やかな夏風の雰囲気が醸し出される配色。腰の曲線を強調するドレスに雅やかな三つ折のスカート。六つの茶色のボタンが胸から腰までドレスの中央に並べられ、端麗な雰囲気を作り出している。スカートの下に白皙で細いすねが見えた。

言葉が浮かばないハンスは驚きながらもレアのドレス姿を見つめていた。

レアは長い黒髪をなびかせて、自慢顔をハンスに見せた。

「どうだ。綺麗でしょう」

「あ、あ、とても綺麗だ。ドレスは」

ふっと喉に何かが詰まったようにハンスは気まずい表情で軽いせき払いをした後、平静を装って言葉を続けた。

「俺は今年の調子ではたぶんプレゼントをもらえないと思うわ。ちょっと残念な気持ちなんだ」

ドレス姿のまま、レアはすこし気おくれたように唇を尖らせた。

「出ていったと思ったからしょうがないでしょう。。。そうじゃないと私から何を用意してもいいんだけれど」

可愛らしく首を傾けて、瞳をすこし斜め上にずらして思いめぐらせていた。

ふっと何かを思いついたように、笑顔を出してハンスに含みのある視線を投げた。

「では、別の形にしてあげよう」

駆け足にレコードプレーヤーに寄って、周りに置いたレコードを一枚一枚見回って、やがて一枚のレコードをカバーから取り出してタンテーブルの上のレコードと交換した。

新しいレコードがゆっくりと回り始め、今まで流れていたクラシックよりテンポの早いジャズミュージックに変わった。


軽快なリズムに合わせて、レアは体を左右に回し、両腕を体の前にして上下に振りはじめた。ドラムの軽い音がリズムを引き出し、ピアノとチェロの音が背景音としてギターとサクソフォーンのソロがバランスよく音楽の明るく楽しい雰囲気を醸し出している。

完全にダンスの気分になったレアは距離を取ったままハンスに手を差し伸べて誘ってみた。

「俺、踊れる人に見えるかい」

苦笑を見せて椅子の上にじっとするハンスは動く意志がまっぴらと見えない。

「適当に踊っていいよ。私も別に上手ではないよ。それに、私みたいの女の子と踊れるチャンスは二度とないかもしれないよ」

レアはハンスにゆっくりと近づき、ハンスの両手を掴んで無理やり立たせ、スウィングの曲のリズムに合わせて手と体を揺らし始めている。

苦い顔をしていたハンスは、最初はすこし拒んでいたが、だんだんと体を合わせて体をも小振りにし始めた。

曲が進むにつれ雰囲気はどんどん盛り上がり、レアは足踏みを速めて、跳ぶように体を飛ばしている。途中にハンスはレアの足を踏んだこともあるが、レアは全然気にしない様子だった。

徐々にコツを掴んだハンスは、ぎこちなくてもリズムに合うようになり、楽しい顔でレアを見つめている。


------------------------------------------------------------------------------------


シャレーの置き時計の針が十一時半を指している。

外の気温がマイナス十度に近づき、半月が空高くかかっている。

凛とした空気を吸いながら、ハンスは地下室にある塵まみれの箱を凍った湖面に乗せて、危ないと言われても箱を滑りながら湖の上に歩き出した。

背後からオイルランプでハンスの行く道を照らしているレアの視線から、ハンスの姿は段々と暗闇に消えていた。

レアは桟橋の上に腰を下ろして座った。厚いコートに包まれて、手袋を履いても寒さがしんと身に入っている。数分経つと、心配し始めたレアは、目の前の暗闇に目を凝らしてハンスの姿を探そうとした。


小さな光点が見えた。小さいが、安定して光っている。

放心したレアは一息ついた。そして、光の点が閃く始めた。

事前に話した通り、レアはオイルランプの傍においてあったモールス符号の変換表を参照して、湖の向こう側に閃く光点を見ながらアルファベットを書いていた。先日モールス符号のことをハンスから聞いたが、実際の光の点滅として見るのは初めてだ。


ブ。ジ。二。ツ。イ。タ。


それを示すモールス符号が 30 秒の間に点滅し続けた光源によって伝わった後、黄色の閃光が虚空の中から噴き出してきらきらと暗闇の中から揺れだした。約二十秒の燃焼の後、試しに使われた花火の輝きがとっさに消えた。

地下室に長い間眠っていた花火を使ってみようとハンスが踊りの後に提案した。

少し不謹慎かもしれないと思ってレアは躊躇っていたが、ハンスの高いテンションに敵わなかった。


ミ。エ。タ。


返事しなくちゃ。慌ただしく自分のオイルランプの蓋を規律よく開け閉めしている。長いのは二秒。短いのは一秒。ゆっくりしていい。と、ハンスの言葉を浮かべた。


タ。イ。チ。ョ。ウ。フ。


イ。マ。カ。ラ。ハ。ジ。メ。ル。


一分間も超えた光によるやりとりが終わると、映画が始まる際に光を放つスクリーンの前に座っているような感覚でレアの視野は一気に明るくなった。赤、黄、緑、青。光の蛇が次々と立ち上がり、木の半分の高度まで伸びて、ゆらゆらと光の炎舞を披露している。照らされた向こう側の湖岸には人の姿が薄っすらと見えた。屈んで何か準備をしているようだ。


やがて、光の炎舞が終わり、暫く周囲は暗闇に戻った。

突然、一個の光の弾が空に向かって飛び上がった。

爆音が起きて、黄金色の雨を降らせている。

花火の色が瞳に映って、空を見上げるレアは口を微かに開けて、感動と心酔の気持ちが表情に写し出されている。


花火が収まった途端、湖の向こうに再び光点が現れた。

弱くてもしっかりと点滅する信号はレアが紙に写した。


レ。ア。キ。ミ。ト。デ。ア。ッ。テ。ヨ。カ。ッ。タ。


涙を湛えて、赤い頬に笑いにも憂いにも当てはまらない表情。レアは自分のぶざまに恥ずかしくてどこかで隠したい気持ちでいる。

「簡単な話をこんなに難しい方法でしか言えないのか。ほんとにバカだ」

誰もいなくてよかったと思いながら、レアの止まらない涙が頬を伝って湖面に滴り落ちる。

今日の昼に感じた寂しい気持ちを一気に発散するようにレアは涙を流している。

寂しい。お父さん。お母さん。助けて。一人ではもうごめんだ。

一人ではないクリスマスなのに、寂しい気持ちがなぜか収まらないままでいる。

ここで寂しさを涙とともに追い払うつもりでレアは大きく泣き出してしまった。


------------------------------------------------------------------------------------


夜半を過ぎ、クリスマスの日に静まった夜が訪れる。

先ほどの花火の喧騒で揺らいだ心情が収まり、二人はリビングルームに戻って、冷めた体を温めながら心を落ち着かせている。つけられた電灯を全部消し、元のように暖炉の光だけを頼りにする。このような空間の中は何故か居心地がよく感じ、二人が暗黙の了解で自然とそうしていた。

寒さの中の作業で疲れたハンスはソファに倒れて、目を閉じて仮眠を取っている。

レアはブランケットを背中にかけて、泣いていた赤い目を隠そうと、目を閉じて仮眠を取っているふりをしたが、ハンスはそれに気付いていないと分かって、立ち上がってキッチンのポットにミルクをいれて温めてはじめた。

戻った際に、ハンスは既に目を開けた。ソファにもたれて、レアを待っているように見える。レアはホットミルクをハンスの前に置き、微笑みを浮かべてソファチェアに座った。

二人とも一口をホットミルクを啜った後、暫くの間沈黙が流れていた。

心躍る一夜を過ごして、少し疲れた気分で自然と口を噤んだ。

しかしそれは嫌な沈黙ではなかった。お互いの存在を感じながら、何も話さなくても気まずくはないという関係性が心地良いと思っている。

最初に切り出したのはレアだった。

「なぜあの時、私は人を怖がっているのを知った?」

「どういう話?」

「町に私は一人でベンチに座っていた時のこと」

さりげない表情でハンスは答えた。

「ああ。それか。残念だが、君は何を考えていたか知りもしなかった」

「じゃ、何故。。。」

「昔、知り合いの中にこういう人もいたからさ」

昔の記憶が蘇ったみたいで、ハンスは手を組んで俯いた。

しばらくすると、ハンスは歯切れのいい声で言葉を並べた。

「人間って、誰にでも乗り越えられない壁が存在する」

肩をすくめて、しょうがない顔を見せた。

「って言われたのか。その時の俺は聞き入ることはできなかったんだけれと」

ソファに倒れ、ハンスは天井を見上げて頭の後ろで両手を組んだ。

レアは両膝を抱えて、首を傾けてハンスを見ている。

誰の発言なのか、誰に向けて話された言葉なのか全然分からないが、もっと知りたいと思った。

「あの人のこと、教えてくれないかな」

ハンスは見返して小さなため息をついた。

「別に知らなくていいよ」

「知りたい。あなたのこともっと知りたいと思う」

小動物の奇妙な動きに惹かれたかのようにハンスはちらっと目をレアのほうに向けて、また前に戻した。そして記憶に探りを入れるようにじっと天井を見つめた。

暫く経つと、何気ない日常の出来事を述べる口調でハンスが口を開いた。

「あの人はもう死んだはずだ。今持っている記憶が正しければ」

それを聞いたレアの表情には僅かな後ろめたさが現れた。

「ごめん、やはりやめておこうか」

「気を使うのはやめてくれ。あいつが死んだとしても俺は悲しくはない」

それを聞いたレアは怯えながらもハンスの顔を伺った。

嫌味を帯びた表情ではなく、何かに対して失望の意を表す冷たい表情だった。

何かを言い出そうと、レアは、唇が微かに動いたが、諦めたか決心が付いていないかの結果、自分だけに言い聞かせるように唇を上下させ、誰にも届かない空気の振動しか起こさなかった。

それを見て、ハンスは一息ついて、座り直して真面目な表情をレアに向けた。

「だから、気を使うなって。言いたいことがあれば、あっさりと言えばいいんだ」

レアはただ無言のまま、不安そうに両手の指を掴んだり擦ったりしていた。

女の子を不安にさせたと思うハンスには、後ろめたい気持ちが徐々と浮かび上がって、やがて肩をすくめて自ら話し出した。

「話せば長くなると思うが、いいか」

ゆっくり、でもしっかりと、彼女がうなずいた。

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