第3話 ひとりぼっちの時間

扉の前に立っているのは、十日間ベッドに倒れ込んでいた少年。

黒い軍服に包まれ、右太もものズボンのところが破られ、傷に巻かれた包帯は微かな黄色を帯びている。片手で扉の縁を掴んでやつれた体をかろうじて立たせようとしている。ベッドの傍に置いていた黒いキャップを被って、見つかった時とそれほど変わっていない恰好だ。蒼白な顔にかさぶたがちらほら残され、右目の下に、鼻から耳までの細長い傷跡が見える。

驚きながらも、レアは心なしか心配の気持ちを口にした。

「動くのはだめですよ。太腿の傷口が開けてしまいますよ」

少年は聞き流したような素っ気ない顔をして、よたよたと進んでいた。どうすればいいか分からないレアがその場で突っ立てるほかなかった。少年を止めようとしても怖くて触ることができなくて、更に発するべき言葉もいきなり思いつかない。

頭がぐるぐる回る中、昔似た光景を目のあたりにしたレアは急に恐怖心に襲われた。じたばたとコートの内ポケットから拳銃を取り出し、片手で持って背後に隠したが、正面扉を見据えたままの少年はそれに気づいていないように一途レアに向けて進んだ。

圧迫を感じて後ろに下がり始めたレアは、

「何をする気、ちょっと」

言葉の中身に釣り合わない弱々しい声で言った。

それでも少年は躊躇わなく、よたよたと、しかし真っすぐにレアのほうへ突き進んだ。

少年の鋭い眼差しに、レアは怖くて心臓がドンドンと鼓動し、拳銃を持っている右手に冷や汗が滲んできた。

「と。とまりなさい!近づくな!」

レアが拳銃を背後から持ち出して少年を狙った。

突拍子もない行動に少し動揺したように、少年は一瞬足を止め、目つきにも僅かな変化が出たが、すぐさま元の行動に戻った。

手が震えているせいで拳銃からはカチャカチャと金属の擦れ音がする。

少年は目の前に進んできた。冷徹な目つきにさらされ、レアの恐怖は抑えきれなく噴き出した。あと一歩、レアに触れそうな距離に入った途端。

目を閉じて、レアは何処を狙っているのかすら分からないまま、トリガーを推した。


想像したような銃声は起きなかった。

指にはトリガーが押された感触があったが、何も聞こえなかった。

目を開けると、すぐ顔の前に少年がいた。

少年はレアが反応する前、右手でレアが持っている拳銃を穏やかに推しおろして、レアを避け、後ろの正面扉を出た。

張りすぎた精神が一気に緩んで、体がふやけて、レアはへなへなと座り込んだ。


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桟橋の縁に座った少年は何かを考えているように、両目を前にして凍った湖の中を覗き込んでいる。陽が東から着々と登っていき、暗闇に包まれていた森が姿を現し、日差しが少年の横顔に降り注いだ。口から吹き出された水蒸気と重い呼吸音は、時が止まったようなこの白い世界に少年の存在を強く謳っている。

シャレーの前に屋根を支える柱に寄り掛かり、レアは少年の背中を見つめて心がむずむずする。ブランケットを持ってあげようと思ったが、少年に対する恐怖はそれを阻んだ。

その後、シャレーのリビングルームに戻ったレアにとって、随分と長い一時間だった。

座っても立ってもいらいらする。少年がどうなっているか気になって、何回も見に行こうと思う反面、少年はそのまま行ってなくなればいいとも思った。

知らぬ間に、太陽が再び雲間に姿を隠し、シャレーの空気も重くなった。湖面には再び霧が濃くなり、森の形も曖昧になっていく。

寒さに耐えられないようで、少年はついにシャレーに戻った。

扉の軋む音を聞いて、レアは飛び上がって少年に注目した。

少年は先の気迫がなくなって、寒さに震えている。

鋭い眼差しには虚しさが感じ取られた。

突っ立っている少年は、キッチンの棚に置いてあったトーストに目を向けた。

レアが怯えながらも棚に向かって、ほぼ投げるようにトーストとジャムをキッチンテーブルに乗せた。

「お腹。。。空きました?」

おずおずと言いかけ、上目遣いで少年の目を眺めた。見返して、少年は戸惑った視線を送って口を微かに開いた。レアはふっと思った。さっきからずっとフランス語で喋っていたことを。少し息を吸って、口を再び開けて喋った。

今回はドイツ語。

久しぶりに使ったドイツ語で、発音が緩んだか心配もしたが、少年は目の形が変わって、驚きの様子を見せた。どうやらうまく伝わったみたい。

それでも少年は返事も、動きもしなかった。ただ冷たい目でレアの動きを、まるで敵を観察している哨兵のように眺めている。視線を浴びたレアは、心の感情が少し変わった。

十日間面倒を見てきて、きちんとした睡眠も取っていなく、少年の心配をしたのに。

なんだよ、この態度。

と、心の中で唸った。

むきになったレアはチキンの棚からチーズ、野菜、ハムを取って、自分なりにサンドイッチを作り始めた。もともと朝飯を作るつもりだったので、自分を無視した少年を返り討ちに同じく無視していいと思った。

トマトを輪切りにして、生野菜の根の部分を取り、ハムとチーズも薄く切る。食器とともに皿に載せると、キッチンテーブルへと移して、レアはゆっくりと座った。

少年は動かないままそれを観察していたが、皿に載せたものを見ると、唾を呑んだ。

レはさりげない顔をして、淑やかに食材をトーストに載せ挟んだ。

そして目を逸らしたまま少年に声をかけた。

「食べたいなら、座ってもかみませんよ。それともそのまま立っても私が気にしません」

唇を震わせながら、少年は自分の中にある何かと戦っているように拳を握った。

挙句の果てに内心の欲望に負けて、固まった足を動かした。

重い足取りでキッチンテーブルに近づき、椅子を引っ張って座った。

「まず簡単なものを食べてください。いきなりたくさん食べると体に悪いからね」

少年と向かい合って座ったレアは、お皿とコップを少年に差し出した。トーストに野菜とハムを挟んだサンドウィッチと温めておいたミルクだった。

しばらくお皿を見つめて、少年は手を動かして食べ始めた。最初は穏やかなペースで食べていたが、速度は段々あがり、がつがつと食べるようになった。

「何してたんだよ。つまらない意地を張って馬鹿みたい」

レアはフランス語で小声で呟いた。

少年はそれでも言葉を一つ発さなかったが、目にはちょっとした変化があった。

怒られたと感じて、気が咎めているようにみえた。

無言のまま、二人が各々とお皿を平らげた。町長家の人間以外と食事するのは、ここに来てから初めてのことだ。自分ひとりで食事するのがほとんどであるレアは、こうして知らない人と対面して最初はそわそわしていたが、もりもりと食べるようになった少年を見てやがてすっきりした。

皿を平らげ、温かいミルクも飲んだ少年は、顔に血色が薄々と現れた。そして、体を固めたまま、首をこっくりこっくりと動かし始め、やがて目を完全に閉じた。直立姿勢のまま眠る姿にレアは感心半分、あきれ半分で口を開き、クスッと笑った。

「やはり軍人さんがこういうもんですか」

ぼそっと言い残し、レアは平らげられた皿とコップを持ち上げ、調理台に戻した。

そのうち、少年はだんだんと頭を垂れて、最後にテーブルにうつ伏せた。


少年が起きた時、日はすでに落ちていた。冬のお昼は短くて、十七時でシャレーはとっくに夜の帳に包まれていた。少年はキッチンテーブルから顔を上げて、頭が痒いように少し掻いた。輝く金髪には、ほこりと土がまみれで粘りつき、ヒゲも何日間も剃られない様子で、汚らしく惨めな姿を見せた。

目を巡らせると、一人の少女が畳んだ服とタオルを手に持ち、近づいてくるのを見た。

「これから晩飯を作りますから、その間お風呂にでも入ったらどうですか」

少年は頭を傾け、困惑したような目つきでレアを見た。

レアは自分がフランス語を喋っていたことに気づき、あっと口を開き、再び話しかけた。

訛りのあるドイツ語だが、すらすらと喋れることに少年は感心したような顔を見せた。

それに気にしていないレアは、指で浴室の位置を示し、少年を急がせた。

「臭いから早く入ってください。あと傷口は絶対水に濡らさないでくださいね。あとあと、杖を使ってください」

ずけずけと言ってテーブルに掛けてあった杖を指差して少年を後にした。長い間浴室に入ってない自分の体を嗅いで、少年は立ち上がり、杖を脇に入れどたどたと浴室に向かった。


浴室に入った少年はタオルを水桶に浸し、暖かいタオルで汚れた皮膚を拭いた。沸き出す蒸気が彼の心を鎮めくれたが、太腿の傷がくすぐったくなる。慎重な手つきで傷口に巻かれた包帯に触れて、密に何重に巻かれたさまに少女の丁寧さを感じた。


軍服を脱いで、着替えの服、小麦色のセーターと厚手の黒いトラウザーを纏った少年は、前と比べて稚気がやや顕れたが、顔の目立つ傷跡と冷徹な青い瞳が軍人の気質なおも物語っている。右足を引きずって、キッチンのテーブルに戻って端正に座った。

ガスストーブの上にある鍋から蒸気が既に濛々と上がってきた。レアは振り向いて少年を一瞥すると、注意力を再び料理に戻した。

暫く経つと、少年はつまらなそうに室内の物体を見まわし始めた。電灯のつけていない部屋は、暖炉からの光と置いてあった複数の灯油ランプで照らされ、薄暗く見える。綺麗に飾った置台の上にある古い蓄音機。大きく古い本棚。暖炉の上に斜めにかけている長いライフル。掛け心地のよさそうなアームチェアとソファ。暖色の壁に絵画と写真を掛けて、趣きを感じさせるリビングルームだ。

視線を調理台に向けると、少女がテーブルに近寄るのを見て、人参の入った籠をひょいとテーブルの上に置いた。

「働かざる者は食うべからずという言葉聞いたことがありますか?」

レアはわざとらしく厳しい表情を見せつけてやってみた。

それに戸惑ったように少年は視線を緩めた。

「ドイツ語で何というでしたっけ」

しばらく考えると、レアは諦めたように次の言葉に移った。

「切ってもらいたいです。この厚みでお願いします」

レアは人参一本を取って、手本として素早く輪切りにしてみせた。

少年は分かったかのように頷いて、包丁を手に取って緩やかに切り始めた。


「ゆっくりていいですよ。手を切らないように気を付けてください」

と言い残すと、レアはストーブのほうへ戻った。

十分後、レアは蒸気が濛々とあがる鍋にポテト、キノコと薬草を入れると、振り向いて少年の調子を確かめてみた。そして、大きなため息をついた。まな板の上に形状大小ばらばらに切られた人参の塊が無様に散らばっている。

「はは。。。男の子は家事が下手なのかな」

レアは食材を鍋にばりばりと入れながらフランス語でぶつぶつと言った。

少年は冷たい顔のまま、返事ひとつもしなかった。包丁をまな板に置いた。

仕方なく、レアは足元にあるクルミに満ちた籠を持ち上げて、再び少年の座っているキッチンテーブルに近づいた。

「仕方がないですわ。。。クルミの殻を潰すぐらいはできるでしょう」

信頼してよいのかと考えたレアは、ハンマーを手に取った少年が一粒を潰すまで様子を見ることにした。しかし次の瞬間のことに驚かされた。少年は手っ取り早く一粒のクルミをハンマーで当たってみた。先ほど包丁の手際と違って、一粒目で力加減を計ると、続きのクルミは工場の生産ラインで処理されているかのように潰され、次々と流れていく。

「意外と手際がいいですね。しかし切るのは潰すのと、何処が違うでしょう」

軍隊でなんのことをしていたのだろうと思いつつ、レアは鍋のほうへと戻って作業を続けた。


お皿から白い湯気があがり、シチューの香りが室内に満ちていた。

二人は黙々と目の前のビーフシチューを味わっている。

レアは飢えきったかのようにポテトと牛肉を貪っている少年を感心そうに眺めていた。

大病が治ったばかりの少年のことを考慮して、わざとソースを少なめにし、香辛料も使わなかったが、美味しく食べてもらえているのは努力が報われた気がする。

このように同年齢の人と食事するのは久しぶりだった。

ここに来てから、町長家を訪れる時以外は基本一人で食べることになった。

とはいえ、ドイツ兵との晩御飯。さすがに思いもよらない事態だ。

しかも男の子。

牛肉を口に運びながら自分の立場のあやうさを再び反芻した。朝のことを思いかえすと心臓がまだどきどきしはじめそうだ。だが今、目の前の少年は何の危険もないように見えるし、むしろ従順な態度を示している。拳銃を取り返そうとする様子もない。

長年一人の雰囲気に溶け込んだこのシャレーは、もう一人の存在ということはまるで建物の構造そのものが変わったようだ。

空になったプレートを前に、少年は意味ありげな眼差しでレアを見つめている。二人はしばらくお互いの顔を見た。

そしてレアが沈黙を破った。

「何。言わないとわかりませんよ」

レアはからかうように笑った。

口を開くのを我慢するように少年は唇が震えだしたが、ついに飢えに耐えられずじまいだ。

「お。。。おかわりお願いします」

少年の初言葉に、レアは、動揺したように目と口も小さく開けた。

「なんだ。口がきくんじゃないですか」

自然体になって不意にフランス語が口から漏れた。

シチューをスーププレートに盛って、からかうように少年の目を覗きこむと、少年は気恥ずかしくて目をそらした。少年の声は意外と若かった。もちろん見た目は若かったが、軍服を着て戦場を駆け回った軍人にしては、もっと重くて厚い声を期待していた。

目の前の少年のことについて、色々と思いを巡らせ始めた途端、異変が起きた。

なぜか眩暈が起きた。

俯いて、自分の手が震えているのに気付いた。冷たい汗まで出てしまった。

どうした。自分はどうした。

顔を上げると、少年の目に合わせた。

胸が締まるように痛く、息が止まりそうだ。


レアは突然テーブルを離れ、戸惑っている少年一人を残して暖炉の近くにあるアームチェアに腰を掛けた。目を閉じ、心臓の鼓動が双眸の中の暗闇を揺らしている。

息を吸い、息を吹き出す。

湖の最下層に潜む暗闇を想像してみた。

そこは何も存在していなく、無限の静寂が広がっているような空間。

そこには自分しかいない。

自分を徐々に暗闇に沈ませていく。


食事を終えた少年は、テーブル上の食器を黙々と流し台に戻すと、少女に礼を言おうとしてリビングルームに向かった。いきなりすたすた離れた少女に、ほんの少しの心配を抱いて目をやると、アームチェアに目を閉じて眠る姿を見て一安心した。

再びリビングルームの装飾を眺めて、好奇心が煽られた少年は見回ることにした。少女を起こさないよう軽い足取りで歩いた。右足がそれで痛んでも我慢した。

綻びた花のような蓄音機のラッパがきらきらと金色に輝く。

暖炉の上の壁にかけた猟銃はドイツのマウザー社のライフル、軍用のやつとは形が少々違うが、使用された木材と金属を見てすぐ分かった。

壁にある黒白写真に目を惹かれた。髪を撫で上げられ、背の高い中年男性と両側に立っている妙齢の女性と十歳前後の少女が付き添う姿が映っている。左手で女性の肩を抱いて、右手が背の低い少女の肩に触れている。少女の髪は後ろに流されてポニーテールにされている。髪型は違うが、ちんまりとした鼻と大きく開いた目を見ると、今アームチェアに寛いでいる少女に違いない。二人の大人は両親であろうか。母も似たような目を持っている。

父は背広、少女はドレス姿で端正に立っている。母が意外なところ、シャツとズボン、あえて中性的な服装を着て、楽しい顔で父の腕を掴んでいる。

「本当にお客様気分だよ。この人」

アームチェアに掛けたまま、知らずうちに目を覚ましたレアはフランス語で呟いた。

「あの。これを言いたいだけなのです。晩御飯、美味しかった。。。。ありがとうございまました。。。」

ぼそぼそと言葉を並べたあと、照れくさそうに目をそらした。

「どういたしまして」

レアは凛とした声で返事をした。目を合わせないまま、二人はしばらく顔を俯いて口を噤んだ。少年はどうやって話を続けられるか、考えているうちにふっと小さなくしゃみをした。夜が深まり、気温が下がっている。

「寒いなら、あちらのソファで寛いではいかがでしょうか」

テーブルを挟んだ先のソファを指差した。

少年は、震えながらソファに近づき、ソファにあっさりと沈んでいった。

レアは暖炉棚の上に置いてあったブランケットを二枚を取り、一枚を少年に差し出した。ブランケットをかけ、暖炉の温もりも受けた少年は、瞬く間に眠りに陥っていた。


再び起きた時、一番最初に目に入ったのは、足をアームチェアにあげて本を読んでいる少女の姿。青いブランケットに包まれた少女は穏やかな口調で彼に言った。

「今日は寝るばかりでしたね」

「うん。。。なぜかいつも疲れていたから」

少年は目を揉んで姿勢を正した。

少年は二時間ほど寝ていた。ぐうぐうと眠っていた少年は最初の固まった姿勢から、徐々に体勢を崩しソファに横たわるようになった。起きた少年を見て、朝より顔色が大分良くなった。

「あなた、名前はなんと言いますか」

いきなりの問いかけに、レアは本を閉じて、真面目な表情で返事をした。

「レアと呼んでいいですよ」

「ハンスです」

「人の家に入りましたのに、自己紹介は遅いですね」

「聞かれませんでした。捕虜は自ら名前を出すことがありませんよ」

「捕虜はこんなにいい扱いを受けることもありませんよ」

ハンスという少年は、返す言葉もなく黙り込んだ。

「それで、ハンス君は軍人さんですよね。何故あんなところに倒れていたのですか?」

ハンスはなにかを考えているように、しばらくの間に両手を組んで目を閉じた。

レアはその真剣な顔を唾を呑んで見守った。

眉に皺を寄せて、ハンスはついに目を開けて重たい表情で答えた。

「思い出せない。。。部隊がベルギーに移動させられたのは覚えているが、それ以降のことは。。。なにも」

しばらくハンスは、壁炉に閃く炎に目をやって失神した。

レアはその姿を見ながら、その言葉を信用していいか考えた。

「思い出せなくてすみません。でも助けてくれてありがとうございました」

炎から目を離し、軍人らしい真剣な眼差しをレアに向けた。

「自分は、明日ここを出ます。長居するのも迷惑ですから」

浮かない表情をして再び暖炉の炎に視線を戻した。

その姿に心のどこかで刺されたレア。

「あの足で長くは歩けないでしょう」

少しこみ上げた感情が声に出て、咎めるように言葉を投げた。

ハンスは反応なく同じ表情のまま静かにレアの言葉を聞いていた。

この数日間にレアの頭にはいろんな考えがぶつかりあった。少年のことを町長に言うべきか。言うのなら少年の運命はどうなるのか。拘束されて町の人に引き渡されるのか。そのまま行かせたら、ドイツ軍をこの町に連れてきたらどうなるのか。

目の前の少年をもう一度じっくりと見た。

憂鬱な青目、ばらばらに乱れた金髪、傷跡が付いた滑らかな頬。

軍人より、稚気の抜け切らぬ青年といったほうがふさわしい。

レアは唇を噛みしめて、決心した。

「行く場所が見つかる前に、ここに残してもかまいませんよ」


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その日はいつもよりもはやくベッドに入った。


夢に映しだされた景色は、緑の顔料に塗りつぶされた鬱蒼とした針葉樹林だった。父と母は、小さな獣道に先導に立って私を導いてくれていた。揺れる視線と不穏な足取り。もしかしてこの夢は私の幼い頃の出来事かも。森が深まれば深むほど、物語の主人公のように徐々に未知の世界へ旅立つような気持ちになってたまらなかった。森を出ると目の前に岩石を基地とした建てられたお城が佇んでいた。それほど大きいお城ではなく、フランスにおいてシャトーと呼ばれることもあるだろうが、外周壁、防衛壁、高塔がきちんと備えられている。壁と塔には射撃用の狭間が整然と設けられ、基地とした岩石が天然の石垣となり、戦争時に小さい防衛拠点として機能しても無難だ。


私はその綺麗なシャトーを失神したように眺めていた。気が付いたら、周りはもう誰もいなくなっていた。ひとりぼっちになると、周りの全ての景色が怖く見え始めた。シャトーの高い尖塔は自分を脅かしようと威圧しにくる。高い木々は監獄の看守のように目を配って見張ってやる。


私は怖くて、しゃがんで泣き始めた。地面が泥沼に変わって、私は沈んでいく。しかし泣き続けた私は逃げようともしなく、飲み込まれるのを許した。体が深い深いところに沈んだような気がした。それは凍った青い湖の底だ。溺れかけそうになって、私は息苦しくなった。何かを掴もうと手を差し伸べた。ただ感じていたのは凍てついた氷が放った寒気だけだった。


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次の日は晴れの日だった。朝日を受けて、凍った湖面がてらてらと光っている。

冷え込んだ冬夜に蟄伏していた動物は次から次へと身を起こし、貴重な日差しを浴びて羽を伸ばしている。それとは逆に、レアがいつもより遅く起きていた。部屋を出ると、既に日が高く昇っていた。階段を降りて、一階のリビングルームに入ると、馴染んでいた空間には微かな変化を感じた。

目を細めて観察すると、きらきらと綺麗に掃除されたリビングルームと台所が目に入った。太陽の光が汚れのない窓からたっぷり差し込み、リビングルームがいつもより爽やかに見えている。起きたばかりのレアは信じ難いように目を丸めて、リビングルームを見まわした。暖炉の床に積もった灰が消え去り、本棚にたまった埃まで取られた。

昨日の夜に、「残るのなら、ちょっとした仕事をしてもらいましょう。もちろん傷口が痛まない程度で。まず家掃除からしましょうか」と言い残した印象があったが、直ぐにしてくれるとは思わなかった。


何か動かされた騒ぎが床越しに伝わってきた。

地下室だ。

二階に続く階段の左側のドアを開ければ地下室に続く階段だ。

電気がないので、暗い中で階段をたどたどしい足取りで降りていく。

地下室の壁の上部に設置された窓から、外の明かりが細い光の糸として差し込んで、環境を薄く照らしている。何列も並んでいるスチール棚の周りに木箱と雑物が散乱している。

金髪の少年は雑巾を手にし、細やかに棚に置いてあった器具を拭いている。

今まで適当にものを詰め込んだ棚が綺麗になり、物品が形に合わせ井然と詰まっている。

「おはようございます」

レアがハンスの背中に向けて声をかけた。

「おはようございます」

レアのほうを一瞥して、ハンスはまた目の前の仕事に戻った。昨日の衰えた姿と対照的に、目の前の仕事に専念している、今の軍人の風格にレアは感心した。

「地下室だけなのに、そんなに綺麗にしなくてもいいですよ」

「一階の掃除は終わりましたし、あなたを起こさないように二階をスキップしたので、残りはここだけです。抜かりのないようにしておきたいのです」

「そ。。。そうですか。しかし、傷のほうはもう大丈夫ですか」

薄い笑みを浮かべて、レアは明るい口調を装った。

「ゆっくりと歩けばそんなに痛くはないし杖もいらない。それより、聞きたいことがありますが」

隅に居座っている機械に近づいた。

様々な形の金属外殻の組み合わせでできている機械に、数本のパイプが筐体に繋いでいる。

「この発電機、壊れたのですか?ガソリン入っているのに、動けそうにない」

というと、発電機の正面につけた紐をぱっと引っ張ってみた。

立ち上がる様子もなく、紐がすっと戻った。

「大分前に壊れました。だから君も見たように夜に電灯を付けられないし、暖炉の光で本を読むしかなかったのです」

昨日の夜、レアが蝋燭を持ち歩いていたことをハンスは思い出した。

「町の人に見に来てもらいませんでした」

「あ。あの。。。町には修理できる人間がいないと言われましたので」

気後れした顔つきを見せたレア。

「妙ですな。これぐらいの発電機を修理できる人間がいない町が存在するのですか」

ハンスは不可解な表情が浮かんで、目を発電機に戻した。

「解体して検査してもよろしいですか」

「え? できます?」

驚かされ、レアは知らずに素のままの声を出した。

「ドイツの男をなめるなよ」


しばらく時間が経ち、ハンスが黒い油汚れに染まった手袋を脱ぎ、地下室から上がった。リビングルームにはレアが見当たらないため、キッチンテーブルに掛けている杖を支えに、外に出ることにした。雪地では躓く危険性があるので、杖を使うことにした。

シャレーの表に出たハンスは目の前の景色に心が惹かれた。太陽が高く空にかかって、地表に生息している命に温もりを与え、万物の輪郭を明瞭に描いている。湖岸まで積もった雪が木綿のようにふわふわと膨らんで、凍った湖面の青さに白いわたあめを映している。

湖岸の向こうに茂った森は枝葉が白く染められ、遠方の二つに分かれた丘まで延々と続いている。写真集に載せたいほどのものではない、ごく普通でありふれた雪景色だが、長い間室内に閉じ込められたハンスは並み以上の新鮮感を感じている。

「疲れましたか?仕事に真剣なのはいいことですが、傷口が痛まない程度でお願いしますね。骨にダメージを受けていませんが、傷口が裂くとまずいですよ」

シャレーの脇にいるレアは雪を乗せたシャベルを上げながら問いかけた。昨日の夜に雪が多めに降ったから、これを機に何日もしていなかった除雪作業を行うことにした。

暗い赤色のコートを着ている少女、青いスカーフに束ねられた後ろ髪は今もふわふわと揺れている。シャレーの外には小さい木製倉庫が建てられた。そこに続く道を覆っている雪をシャベルで取り除いている。倉庫の中にはたくさんの薪と乾燥肉が入っている。

ハンスの視線を感じて、レアはちらっとハンスを見て、口を再び開いた。

「どうされましたか」

「とても立派な小屋だと思いましたので、ここでなにをしているのか気になりました」

「除雪していますよ。見えませんか」

「いや。この誰もいない場所で何をしている、という意味です」

目を逸らして、レアがその疑問への回答を目の前の雪に捨てたように作業を続けた。

「誰もいない場所で暮らしたい人もおるとは思ったことがありますか?それと、私は別にずっと一人ではありませんよ」

「家族と暮らしていますか?」

「ええ。両親は暫くの間に遠出をするからここにおりません」

女の子を一人にする家族もおるのか、ハンスは思いを巡らせたが、深入りすることをやめた。

「発電機の修理、順調ですか?」

目をそらしたまま、レアは話題をさらりと変えた。

「いや、やはり壊れたところに交換部品がないとどうにかできません」

「そうか。じゃ油灯と蠟燭の暮らしが続きますか」

表情には一つの変化もなく、既に受け入れた現実を語る時の淡い口調。

女の子を失望させて気が少し落ちたとあって、気分転換に周囲の景色を見回った。

とても綺麗な大自然の景色だが、ここは一体どこだ。

雪、森、山、湖。

それしか視野に入ってこない。

ため息が出るほどのヒントの欠如。

北欧神話にはワルキューレの伝承が残されている。戦場で死んだ人の中から栄誉あるものを選び出し、死者の館に連れていく女性の神のことだ。ワルキューレは死者の館で選ばれた兵士たちに給仕として密酒を与え、いつか起きる終末戦争ラグナロクのための戦士として備えているという話だ。

呆れた。

除雪をしている黒髪の少女に再び目をやって、ワルキューレとしてはさすが小柄すぎるじゃないかと、馬鹿げた考えが一瞬過ぎた。ヴァルハラ(死者の館)についてもいろんな形の伝承が残されているが、こんな小さいシャレーは戦士を養う場所として不向きにもほどがある。

ハンスの思考を遮った声がレアから伝わってきた。

「明日、あなたを見つけた場所に連れていってあげましょう。何か思い出せるかもしれません」

その後、レアは除雪の作業を続け、やることのないハンスはキッチンテーブルに座って、自分が淹れたコーヒーを飲みながら暫くの暇を取った。シャレーの外からは薪割りのカーンの音が、時計みたいに一定の間隔ごとに伝わってきた。

知らない猫がアームチェアの上の枕に体を沈んで、仰向けで気持ちよさそうに眠っている。大きめの頭で口を大きく開き、ふわふわとした灰色の長い毛が呼吸とともに膨らんだり縮んだりしている。


掃除が終わる頃、陽が既に落ちかけていた。夕食は昨日残されたシチューに固いバゲットで済ませ、二人は昨日のようにリビングルームで寛いだ。

何事もないハンスはソファに倒れこんでつまらなそうにあくびをしている。

軍隊ではつまらなさは日常茶飯事的なもので、ハンスにとって別に忍べないものでもないが、二人きりでなにも喋らずいられるのはさすがに気まずく感じる。

ソファチェアに座り、両足をソファチェアに上げて本を太ももができた斜面に寄りかかるように置くような姿勢で読書するレアは、束ねられなく自然と両肩から流れる長い黒髪にハンスは見入った。

ハンスの視線に気づき、レアは顔を上げて頬を少し赤らめた。

眉をひそめて、リビングルームの隅にある三層の本棚を指差した。

「まじまじ見ないでよ。つまらないなら本ぐらい読んでもどうだ」

濃い茶色の本棚に本がぎりぎりまで詰め込まれたせいで、入れない本が重なって地面に置かれた。ドイツの本を探すために少し時間をかけたハンスは、ある本のタイトルが目に留まった。

「変身、フランツ・カフカ。(Die Verwandlung、Franz Kafka)」

それを手にして、いつもの席に座ってめぐり始めた。

「面白い本を選んだね」

意味ありげにいったレアは、何かを確認したいようにちらちらとハンスを見ていた。

ただ黙ったままページをめぐっているハンスを見て、放心したように目を自分の本ページに戻した。この空間で人と一緒に読書するのは奇妙な感じがした。昔、父と一緒に夜の書房で読書したことを思い出した。ぺらぺらと本をめぐるとき立った音、空気に漂う古書の香り、分厚い本を読んでいる父の真剣な顔。幼い自分はその愛おしい時間が永遠に続くと思うのだった。

こういうふうに一緒に同じ空間で過ごしているのに、目の前の少年についてまだ何もわかってない。こっそりと見てくるレアの眼差しに気づき、ハンスは本から目を上げて、レアにさりげない質問を投げた。

「君はドイツの本も読めるのか。ベルギーの人はフランス語やオランダ語しかできないと思った」

突然の質問にレアは慌ただしく言葉を流した。

「小さい頃から勉強させられたから」

「お父さんかお母さんはドイツ人なのか?」

「うちの爺さんはドイツ人なんだ」

「ではアリアンの血も流れているということか」

レアは突然目をそらして目を瞬かせた。震える頬に戦慄が走るのを感じられた。

その小さな変化に気づかないまま、ハンスは話を続けた。

「家族は今どこにいるの?」

問われたレアは息が詰まりそうになり、頭の中で適切な答えを必死に探している。

「私。あの。。。両親は仕事でドイツに行った。戦争のせいで今帰られないので、ここで待つことになった」

「そうか。でもなんでこんな山奥の場所で?」

さりげない口調で投げられた質問であっても、レアの緊張はみえみえだった。

「田舎のほうが安全だと思っただろう。ほら、小さな町なら爆撃とか、襲撃とか、まずは会わないでしょうね。ここは、私がまだ小さい時、父さんが買ったシャレーなの」

緊張で早口になったレアは言葉の流れが少し乱れた。

ハンスはその緊張を疑問に思ったが、深く考えることはなかったように話を続けた。

「風景のいい田舎でシャレーを建てるなんで、お金持ちの家で間違いないだろう」

「人の家の事情を勝手に憶測しないでください」

レアはその話題を断ち切ろうと、わざと怒ったように振舞った。眉を顰めるのも自分の緊張を隠すための演出だった。

「はい、すみませんでした」

気が咎めてそれ以上のことを聞かないようにしたハンス。

目を再び本へと向け、二人は沈黙の読書時間に戻った。

目をページに留めたにもかかわらず、レアは紙に書いた文字を全然読んでいない。頭の中は家族のことでいっぱいだった。


レアはリエージュの商人の家に生まれた。祖父はドイツからの移民で、ドイツとの貿易で大金を稼いで家を立てられたが、いくらの財産を以てしても祖父を砲弾から救うことができなかった。三十年前の戦争でリエージュがドイツ軍に囲まれた際に榴弾砲で命を落とされた。

その時、レアの父は僅か十四歳で家を継ぐことになった。祖母は父を祖父みたいな商人に育てるために、厳しい指導を施した。苦々しい思春期を過ごした父は、それに反発するかのように、二十五歳のごろレアの母と恋に落ちた。大学生だったレアの母は、アクティブなフェミニストで、大学にも入って政治活動にも参加していた。シャツとズボンを着てジャズクラブで踊る姿に父の目を引かれた。社会的ルールに捕らわれない情熱と大胆さに心が大きく揺られた。

一年間の付き合いの後、家族の猛反対を押し切って二人は結婚した。一人目の子を産むと、たくさんの子の世話に悩まされたくないという理由で二人目を諦めた。父は母の自主性を尊重した。それ故、一人娘のレアに家を継がせることになって、幼い時から一流の教育を受けさせていた。英語、ドイツ語などの外国語はもちろん、数学、芸術、音楽などの学問も家庭教師を雇って勉強させた。

それほどの大金持ちではないが、レアの両親はできるだけのことをし、レアに上流階級の生活を送ってもらっていた。舞踏会、演奏会、オペラなどの定例行事に無論参加してもらい、ベルギー南部のリエージュはフランス語圏のため、花の都と称されるパリにも連れて行ってもらった。

貴族のように華やかに育てられたレアには、一つだけレアの母が断じて許されないのは上流階級において習慣的に行われていた政略結婚だ。だから両親はレアの私生活に口を出すことはほぼなかった。労働階級の子供たちと遊ぶのも、公園で出会った貧乏な娘との付き合いも許された。

自由自在な幼少期を送ったと言っても過言ではない。

本当に父母に感謝しても感謝しきれない。

ハンスとの読書時間が終わり、疲れた目で二階にある自室のベッドに潜り込んだレアは、そう考えながら父と母の顔を脳裏に浮かべた。

掛け布団を顔まで引き上げ、涙を隠そうとする。部屋の中に誰もいないのに。


------------------------------------------------------------------------------------------------


翌日、正午少し前の太陽は冬の中で目を刺すほど眩しかった。

崖っぷちに座って、空を見上げるレアは手で強い日差しを遮る。

ハンスは一歩離れた場所に立って、周りの景色を見渡している。

怪我を顧みず無理やりついてきたハンスにはむかついたが、ゆっくりと歩けば痛くはないと主張したから、仕方なくついてもらった。

「町か」

バロック式の大聖堂を中心に広がった町をハンスが目を大きく開けて見つめながら呟いた。淡い緑の二本の尖塔が聳える大聖堂とずっしりと立ち並ぶ建物のダークブルーの屋根。

「ティルマという町だ。綺麗でしょう」

意気込んだ様子を見せたレアには、意外と薄い反応が返った。

「ド田舎」

「偉そうに。まさか都会生まれ?」

「ハンブルクって知っている?」

「もちろんよ。ドイツの屈指の大都市だよね。出身はあそこ?」

「ああ」

「じゃ田舎の生き方はよく知らないんだ。これからも私の指示通りに動くんだ」

昨日の夜からレアの喋り方が突如変わった。今まで上品でお淑やかな、お嬢様気分の喋り方が太陽の熱気に蒸発された雪のように消え去り、変わってきたのは、クラスの中の成績抜群で男子を見下すような賢い女子の喋り方。

返事に詰まったハンスはため息をついて、話の内容を変えた。

「しかし、こんなに綺麗な雪景色は見たことがないな」

町の向こうに広がる雪原に、雪に染まった森が銀色で輝いている。

ぎっしりと生え茂る針葉樹の森がふわふわのマシュマロを連想させた。

雪原に点在している農家の家は銀白色の荒野にやや寂しく見えているが。

「ハンブルクは雪が降らないの?」

「降るけど、山がないから平野が雪に覆われた景色しかみたことがない」

「山といえば、南ドイツにアルプス山脈ってあるじゃない。すごく高い山で、尖塔のような峰がみえるらしいよ。行ったことがないの?」

鼻で息をして、ハンスは屈託無い声で返答をした。

「そんな余裕がなかったよ。僕の家には」

「それは残念だね。アルプスは私が行きたかった場所の一つなんだ。アルプスの少女ハイジみたいに壮大な連峰が背景に瑞々しい草原を走り回りたいな」

「なんだそれ」

「知らない?」

レアの呆れた表情にハンスはむっとして眉をひそめた。

「なめるんじゃない。僕が読んでいた本の内容はお前には絶対分からない!」

「別にー」

レアは背伸ばししながら、

「そんなことは言っていないよ。さあ行こうか」

と言い残し、崖っぷちから立って森に向けて歩き出した。

「町に行かないの」

「ド田舎の町には所詮見どころがないよ」

振り向かず、皮肉な口ぶりで言ったレア。


森に入って十日ほど前に歩いていた山道を辿った。

同じ下り坂を降りると。渓谷に流れる川が見えた。

「このあたりであなたを見つけた。木にもたれて死んだと思った」

「他にないのかね」

「どういう意味」

「ほかの人間がいたかという話だ。戦闘が起きたのか。銃声ぐらいは聞いたんだろう」

「いえ。いつも通り人影がない山道だったよ」

ハンスは暫く周りを観察した。川に流れるせせらぎを見たり、目まぶしい太陽を見上げたり、森の深部を見つめたりしていた。

「どう、何がわかった?」

「いえ、何も思い出せない」

頭を振ってがっかりした顔をみせた。

「仕方ないね。見つけた時はもうすっかり気を失って死にかけていた状態だった」

「ちなみにこの山道はなんだが、人影がなくてこの橋もぼろぼろじゃないか」

ぼろぼろの橋の上でハンスは屈んで感心しない声で言った。

「猟師が昔よく使った道らしいが、獣がだんだんとなくなって、使わなくなったと聞いた」

「こんな誰も通るはずのない場所に僕が倒れていたっていうことか」

橋の上からゆっくりと流れる細流にそって視線を動かし、上流のほうへ目をやった。

「上流はどこか。教えてくれないか」

「よくわからない。たぶんうちのシャレーの前の湖と同じ、上の湿原から水が流れてきたと思うわ」

「あそこに行けるか」

「今は無理でしょう。何時間も歩かないといけないから、足のことを考えなさい。それに今はもっと大事な任務があるんだ」

橋の上のハンスを背け、自ら山道の先を進んだ。

少し歩くと、レアは山道を外れ、一本の木の前に足を止めた。

周りの木と見分けがつかない、特徴のない木だが、レアは熱心にその根元の雪を掘り始めた。そして、華やかな笑顔を作って、掘り出された穴の中を見据えた。

ハンスを運ぶために橇から捨て、雪の中に埋めた缶詰の上部がレアの目に入った。


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「足の傷が完治するまで、行かせるつもりはない」

リビングルームのソファチェアに座ったレアは視線を本のページに残したままハンスに話した。豊かな晩​御飯で腹いっぱいになったハンスはソファに横たわり、渋い顔でレアを見返している。


ソーセージ、ベーコン、ザワークラウトと蒸したジャガイモを付け合わせたアルザス風シュークルート・ガルニ。ミートボールをトマトソースで煮込んだフランスの家庭料理。残ったミートボールを玉ねぎと一緒に炒めて、リエージュ特有のアプルー・ナシソースをかけるリエージュ地方の名物。炒めたバターと小麦粉を使った野菜ポタージュ。

豊富な献立にハンスは思わず唾を飲んだ。

勢いよくお皿を平らげたハンスは食後、空気の抜けたボールのようにソファーに倒れこんだが、昼間に話された湿原のことが気になって、再びレアに問いかけた。


予想通りの返事だった。

ハンスは質問の趣旨を変えて再度尋ねてみた。

「あそこに行ったことがあるよね。何で湿原のことを知っているの?」

レアは本を閉じ、顔をあげて返事をした。

「父さんがよくあの辺に狩りに行った。イノシシかエルクかキツネか、色んな動物が生息している」

「道路や町が存在しているのか?」

「あそこに続く道路があるよ。車で行った記憶が残っているから。町はたぶんないんじゃない。結構高いところだし、住むのは大変だと思う」

道路があれば、軍隊が通行することもあろうと、ハンスは思いついた。

あそこに行けば何が分かるはずだ。

「まず傷を治しなさい。それまでに遠出は禁止」

ハンスの心を読み通したようなレアの発言。

「もう治ったよ。今日は普通に歩けたじゃないか」

幼い子のように扱われてハンスはイラついているが、親切に思ってくれたレアにこれ以上楯突くようなまねはさすがにできない。

灰色の長い毛をもつ猫が突然リビングルームの陰から緩やかに二人の視野に入った。死んだ魚のような目付きでハンスを一瞥し、レアのいるソファチェアに向かって飛び上がった。暖かい寝床に戻ったように手練の動きで体を丸めて寛いだ。

「やはり飼い猫か。昨日も観た」

「ただの野良猫だよ。いつ来たかも忘れた。出入りも適当にさせている。好きな時間に出て、外にどこかでうろついて、腹が減ったらまたここに帰る。冬はそんなに出かけないかもれない。さっきどこに隠れていたかな。グリー」

「適当させるのは良くないと思う。やはり動物にはしつけというものが必要なんだ。ジャーマン・シェパードみたいに従順に仕立て上げたほうがいい」

しんと、レアは猫の頭を撫でて、毛を流しつづける。

明らかに無視されているのに気づき、テンションが下がってハンスは話題を変えた。

「グリーと呼ぶのか。どういう意味かね」

「フランス語では灰色という意味だ」

「名前の付け方も適当だな。。。だからラテン民族がだめなんだ」

ぱっと読んでいる本を閉じて、不機嫌な顔を向けた。

「ゲルマン民族じゃ偉いなの?戦争に負けているのに」

不意に尖った言葉を口にしたレアは、すぐ後悔し始めた。ナチスは全員戦争狂だと思われたから、こういうふうに戦争の勝敗で貶めると、発狂するのもおかしくない。おずおずとハンスを観察しながら、拳銃の収まる場所を記憶に蘇らせた。ところが、ハンスの態度はそこまで変わらず、やや不満げな表情で言い返すだけのことだ。

「しばらく負けているだけだ。私たちは正義のために戦っているから」

正義という言葉を聞いて、レアの中には腹立ちが恐怖に勝り、遠慮なく反論の言葉を口にした。

「何が正義だ。他人の国に入って好き勝手なことをするだけだろう」

「それは国際ユダヤ資本家が操っている腐敗した政権から民衆を解放するためなんだ。お前たちはどうしてわからないのだ」

教科書で覚えられたようにすらすらと難しい単語を並べて高揚するハンスに、レアは嫌な気分になった。遠い昔に捨てられた記憶の欠片が腐った肉片になりかわって、汚い血がちびちびと漏れる気がした。

「もういいよ。私は寝る」

レアは立ち上がって、後をも見ずに立ち去った。最後にハンスが目に入ったのは、怒りより悲しみに満たされたレアの顔だった。


次の日、一日中二人は会話すらしなかった。ハンスに会った際に冷たい表情を見せ、見て見ぬ振りをするレア。食事する時にも俯いたまま黙々と食べ物を口に運んだ。

ハンスはモヤモヤした気持ちを抱いて一日過ごした。ドイツでは誰でも反射的に口にする言葉が、他国の人をそこまで怒らせるとは思わなかった。

晩飯後、レアがテーブルを離れるに先立ってぱっと立ち上がって、ハンスは兵士らしく直立姿勢を取った後、

「停戦だ」

と固い口調で告げた。

困惑に満ちた眼差しで見返されて、ハンスは咳払いをして話を続けた。

「つまりそれだ。ここは。このシャレーは、中立地帯になってほしいんだ。戦争や政治は語らないことにしよう」

言い終えると強張った表情のまま、試すようにちらっとレアを一瞥した。

レアは口を開けて呆れた顔を見せた。そしてわざと怒った顔を作ってみせた。

「ここは私の家だから、勝手に決めないでちょうだい」

それを聞くと、ハンスは恥と緊張のいりまじった表情で慌ただしく回答した。

「失礼しました。わたくしの提案をご。。。ご検討お願いします」

と言うと、足を開いて体の後ろで手を組む姿勢を取った。稚気を脱していない少年は軍人の振舞いを見せて、レアは我慢できずほくそ笑んだ。

「それで誠意が感じられない。きちんと謝れば許すかもしれないんだけれと」

ハンスは言いにくそうに顎が震え、表情も固くなったが、我慢の末に言葉が口から噴き出した。

「昨日、すみませんでした!今後この家の主を尊重します!」

「いいでしょう。私も頭の固いドイツ人と政治議論するつもりはない」

笑みを抑えてから、レアはソファチェアから立ち上がった。

「誠意を見せてくれたから、特別に二階まで上がらせあげようか」

「二階って。何か特別なことがあるの。君の部屋を別に見たくもないよ」

「黙ってついて」

「はい」

作った笑顔を見せたレアの、穏やかな声に潜んだ険しさを感じ、ハンスは口を閉じて黙々とあとについて二階に上がった。

階段を登った先に小さいワークショップくらいの空間があった。イーゼルが立って、その上に一枚の未完成な油絵があった。地面に使い終えた油絵具が散らかり、木質の床に零れ落ちた顔料が色鮮やかなまだら模様になっている。イーゼルの後ろに大きい窓があり、昼中なら十分な光が差し込むはずだとハンスは考えた。

「絵は描いている?」

「うん。でも見せたいものはこの部屋にある」

左手の廊下に一つ目の扉を開けて、ハンスはレアに続いて扉を潜った。

手元のガス灯を地面に置き、手っ取り早く部屋に置いてあったガス灯を一つずつ付けておいた。明かりが増えるにつれ、ハンスは部屋の中に飾られた絵の数に驚かされた。壁にかけたもの以外に、壁に立てかけた絵も、棚に乗せられた絵もたくさんある。完成した油絵以外に粗雑に描かれたスクラッチ、描く途中から放置されたものも目に入った。

「ここに並んだ絵は全部君が描いたの?」

「そうだ。森を彷徨った時、町に行った時、気に入ったことがあったらその光景を頭に刻んで描く」

顎に手をやり、ハンスは絵のことを真剣そうな顔で覗いている。

「だからちょっとぼやけたところがるわけか」

「ぼやけたのじゃない!絵は写真ではないでしょう。そっくりにする必要がない!」

「ただディテールを覚えていないだろうか。。。」

「だからドイツ人はもう!理性の塊!」

レアの反応を見て、ハンスはにやりと笑った。

「でも、すごいな。僕には芸術のことをよくわからないが、ま、根性があるというか」

「ごめん、なんか褒められた気がしていない」

レアの冷ややかな口調にさらされながら、ハンスは部屋中の絵を見回ることにした。

絵のテーマは森の風景から、小動物の営み、人物画、町風景まで様々な種類がある。中には理解しにくい表現が多数存在していて、ただ描写が稚拙なのか、それとも深い意味が含まれているのかハンスには知る術もない。

「これは、なに」

ハンスは大聖堂の絵を見て指差した。

ハンスの半身ぐらいの大きさの油絵に、浅い緑の塔が二つ聳える大聖堂が描かれている。

大聖堂の前に植木が立ち並び、淡色の石造りの建物の前が鮮やかに茂る。

一つの植木の後ろに小さな人影がある。

それは絵の中に描かれた通行人とは違う体型で、赤い三角帽子を被って人の膝までの身長。

「ハンス君、目がいいね。それはね。ニュトンだよ」

ハンスは思いを巡らせながら、他の絵も逐一見回った。

「他の絵にもいるね。それにどっちでもちょっと目立たないところに描かれている」

「ニュトンはね。小さい人形のような人で、神話にもよく出る生き物」

「あ、ドワーフ。子供が読む童話によくあるやつだ。レアはまさかまだ子供の本を読んでいるの」

「年齢に関係がない!」

レアはむっと頬を膨らましてハンスを睨んだが、すぐにハンスのからかいに引っかかったのに気づき、恥じるように顔を赤らめた。

「すまない。冗談なので怒らないでよ。実はとっても興味深いのだ」

真剣な表情に変わって、何かの思いが浮かび上がったような眼差しでハンスは、絵の中の小人を見つめた。

「ただ遠いところで人の営みを見て、うまく距離を保って生きていく命」

と、レアも冷静に戻って穏やかにハンスに告げた。

「しかし、それはとても悲しい、とは思わない」

絵を見つめたままのハンスは、レアの返事が来ていないことに気付き、場の雰囲気を変えようと話を続けた。

「いいんだ。こういうことばかり考えると偏屈な人になるぞ」

だが、自嘲するような笑みを浮かべ振り向いたハンスに向けられたのは、俯いてわびしげなレアの顔と、冷やかに並べられた言葉。

「そうね。私は、偏屈な人かもね」

場の気まずさを感じて、ハンスはほかの絵に移して話の流れをずらかそうとした。

絵は、両側の建物に囲まれた長い石造りの階段が高所から下に伸びて、階段の先に大きい川が市街地を横断する景色。

「これ、大きい町ですね。どこですか」

「リエージュ。私の故郷」

「リエージュ。。。」


ベルギーの南方、ドイツの国境に近い都市だとハンスには分かる。

しかし疑問に思うのは、なぜそんなことがわかるか、ということ自体だ。

記憶がひらめきのように一瞬掠った。

作戦。。。敵を突破。。。川を通り。。。町を占領。。。

激しい頭痛に見舞われている。


------------------------------------------------------------------------------------


雪地に一人で倒れている。

降りつづける雪に半分の顔を覆われて、冷たい感触が顔の肌に沁み込んで血が凍る。

ここはどこだ。

右の太ももはずきずきとした痛みを感じる。

上半身を辛うじて起こして、自分の体の調子を確認するよう目を配った。

黒い軍服を着ている自分は下半身が雪に埋まっている。

周りを見ると、針葉樹が集った細身の巨人のように自分を見下ろしている。

灰色の空気が森に漂って、月明かりが木々の隙間から差し込む。


どうなっているかわからないハンスに鋭い視線を感じた。

一匹のオオカミが森が落とした陰からゆっくりと歩き出した。

灰色と銀色の毛が混ざって体を覆い尽くし、獲物を見ているような視線には敵意を感じている。魂まで食いつくそうとする、眼球を抜けて頭の中に刺しこむような険しさ。


逃げなきゃ。かじかむ両足はうまく動けそうにない。

ここで死にたくはない。死にたくはない。

心の中でそう唸っている。


------------------------------------------------------------------------------------


目を開けると、額に暖かい感触がする。

レアはハンスの額のところに手を当てている。

ハンスが起きたのに気づき、優しく問いかけた。

「大丈夫?いきなり倒れそうになって、熱が出たかと思った」

先ほどいきなり膝を地面につきゆらゆらと倒れそうなハンスに、レアは慌ただしく駆け付け、肩に触れて体の調子について尋ねたが、返事がなかった。そして、顔色の悪いハンスを支えながら階段を降りて、一階のソファに寝かせた。

「どれほど倒れたんだ」

「十分ほどかと。返事もしてくれなかったし、心配していた」

「カッコい悪いところを見せたな」

レアはうすら笑いを浮かべて、馬鹿にしている目を向けた。

「最初の頃はもう忘れた?私の中のハンスは大体カッコ悪いんだよ」

ハンスは恥ずかしい顔をして、体を回し顔をソファの内側に向けた。

それに対し、笑みを収めてレアは和やかな表情で話しかけた。

「今でも私の目にはハンス君はまだ病人だから、もっと自分の体を大事にしてください。困ったことがあれば何時でも言ってください。気楽にして、ここが自分の家だと思っても構わない」

真摯で心を込めた言葉。

顔を背けたまま、ハンスは無言を貫いている。気にせずに、レアはゆったりとソファフェアに体を沈めて、天井を見上げた。そして深呼吸をして、天井を見つめたまま話を続けた。

「ハンスのドイツにある家は、どんな感じかな。覚えている?」

それでも無言だ。

レアは諦めず次の言葉を独り言のように呟いた。

「ハンスの家族はきっとハンスの帰りを待っているよね」

「そんなことがない」

ふっと切り出された話だが、ソファに向けたせいで声はこもったように聞こえた。

難しい顔になって、「ごめんなさい」と言った後、レアは話を続けられなかった。

ハンスは体を起こして座り直った。

「気にしていないよ。僕は普通じゃないから、お前が悪くない」

レアの気持ちに気を使い、自分から言い直した。

ため息をつき、ハンスは表情を変えて和やかに笑った。

「さっきのニュトンの話し、続きを聞かせてもらうよ。子供の話みたいなんだけれど」

「あ。それはいいアイディアだね」

本棚に向かって、一冊の分厚い本を取り出して、ハンスに見せた。

表紙には「アルデンヌ地方の神話」という文字が書かれ、黒いハードカバー綴じられた本。本を渡されたハンスにはフランス語が分からないので、ぺらぺらと図のあるページをめくるばかりだった。

「あのな。。。フランス語で書かれてるぞ」

「アルデンヌ地方の神話を紹介する本なんだ。伝説の生き物や古の神々にまつわる物語を載せている」

様々な内容が入っている本に、章ごとに綺麗なカラーイラストが描かれている。

乱れた髪を下げ、卑猥な笑顔を見せながら呪いをかけているふりをするウィッチ。

ケルト時代の女神と銀色の毛をもつ狼神。

さらにページをめくると、ようやく狙いの内容が目に入った。色鮮やかな服を着て尖帽を被るドワーフだ。辿り着いた見開きのページにドワーフの生活が描かれる図があった。図にある物体から推測すると、ドイツのビールジョッキぐらいの高さを持つ小さい生き物だ。洞窟の中で織物、制靴と冶金などの仕事をしている。

「フランス語がわからないので、ドイツ語で内容を教えてよ。大体でいいから」

立っていたレアはハンスが座っているソファの空きスペースをぱっと見ると、目を瞬かせて、何か気まずいことを思いついたように頬を強張った。ハンスと目を合わせると、固唾をのんで、ソファに近づき優雅な動きで座った。そして自分の緊張を隠すために本の内容を見つめて口早に説明し始めた。

「ニュトンというドワーフだが。その帽子の力で自分を見えないようにすることができて、人の家に入って、人が眠っている時こっそりと仕事をしてくれるという物語も言い伝えられている」

真剣な眼差しで本を覗き込んでいるハンスを見て、レアは咳払いをして話を続けた。

「ここではアルデンヌの森のニュトンにまつわる伝説が書かれている。昔々、ニュトンはアルデンヌの森の外の大都市で人類とともに暮らしていた。夜にこっそりと人のために仕事をしてくれるので、町の人もニュトンの存在を有難く思っていた。最初は人の終わっていない仕事をかわりにしただけのニュトンに、願望が書かれた紙片があっちこっちに残されていることに気が付き、人思いのニュトンは、難しい願いでもできる限り黙々とかなえてあげた。人々は徐々とニュトンを頼りにし始めた。膨らむ願望に対応しきれないニュトンは、日々の疲労が重なっていて、やがてある日大きい事故を起こした。鍛冶をしているニュトンは、火の不始末で火災を起こし、町の半分が焼失してしまった。その件以降、人々は自分の全ての不幸をニュトンのせいにした。ニュトンのせいで仕事がなくなり、ニュトンのせいで町が貧乏になり、ニュトンのせいで町の文化が貧弱になった。すりかえられた罪に耐えられないニュトンは、徐々と人影の少ないアルデンヌの森に移住し始めた。それは、アルデンヌの森のニュトンの起源、だそうだ」

「それは、本の内容ではなくレアが作った話でしょう」

「。。。なに?」

「お話は本の中にある文字の数にあっていない気がする」

「ま。。。それはほっといて、アルデンヌの森の伝説として受け取ってください」

「て、続きは」

「数十年間の年月が経ち、ニュトンの一族はもうすっかり森の静寂に馴染み込んだ。静かな森には人類の喧騒もなければ、人類の欲望に振り回されることもない。ニュトンたちはただただ目の前の大自然に身を投じて、毎日の生活を営んでいた。徐々にニュトンは森と同化し始めていた。森がどこまで続いているのか、森の境目がどこにあるのかもうわからなくなった。まるでニュトンを外に出させないため森が姿を変化させつづけていた。だが、そのような静寂に耐えられないニュトンもいた。生まれた頃の賑やかな町の風景がずっと頭の中に根付いていて、振り払えることができなかった。夜中にそのニュトンは悪夢を覚えた。自分がこの森で死に、肉体が腐り、骨がばらばらにされることを夢の中で見せられた。森は、そのニュトンの苦しい姿を見かねないみたいに、ある日森の中にうろつくニュトンに出口を見せた。しかし通り抜けるのはそのニュトン一人だけだ。そこを通れば外の世界の喜怒哀楽をふたたび手に入れることができる。だが、そうすることも、自分の生まれたから付き添ってくれたことを全て置き去りにすることを意味する」

一段落の話が終わったように、レアは深呼吸をすると、ハンスに目を合わせて問いかけた。

「あなたならどうする?」

突拍子ない質問にハンスは眉をひそめて、呆れた表情をレアに向けた。

「え、物語の末はどうして私に聞くの」

「いいから、答えて」

ハンスは頭を垂れてしばらく思いにふけっていた。そしてゆっくりと頭をあげてレアの顔を見ながら答えた。

「私なら、今自分が持っているものを全て代償にしても、未来を手に入れたい」

ハンスの真剣な顔にレアは最初、口を開けて驚いた顔を見せたが、やがて薄笑いを頬に浮かべた。

「真剣に回答したのになぜ笑うの。。。」

「ごめん。そうか、ハンス君は強いのよね」

「君なら、どう選ぶの」

問い返された瞬間、レアの頬にあった笑顔が沈んだ。

瞼が落ち、何かの思いに付きまとわれているようにじっと体の動きを止めた。

「難しく考える必要がないのさ」

本をさっと閉じ、ハンスが真剣な目付きでも頬を動かし、薄い笑顔を作ってレアに言葉を投げた。

「時が来れば答えが自ら出るのだ。嫌でも、答えがお前の前に現れる。その時はもう選択する必要がない。選択する余地すらない」

ハンスの言葉に動かされたレアが目を丸くしてハンスの横顔を眺めた。

頬に伸びる長い傷跡が何かを語っているようにレアの目を惹きつけている。

そこに潜んでいるのは何なのかレアが知りたくなった。

時には哀愁、時には朴直、時には頑固。

しかしレアを一番驚かせているのは、ハンスが時折見せた年齢不相応の部分だ。

世間知らずの自分でもそれは少年が口にすべきことばではないと知っている。

散々付き合わされたあげく、レアは自分の目の前の少年に対して大した理解をしていないように感じ始めた


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その後の三日間、二人はフランス語とドイツ語の簡易講座を始めた。レアはフランス語の発音から、基礎文法まで教えた。ハンスの飲み込みが早くて、短い間に既に簡単な表現ができるようになっている。既にドイツ語を流暢に話せたので、ハンスはとりわけ専門分野の用語をレアに教えた。主に自動車関連の言葉だが、話がずれて軍事方面がテーマにされたこともあった。戦車の種類や通信手段の話にレアは心底に関心のいっぺんも持ち合わせていなくても、ジェスチャー混じりに熱々と語っているハンスの姿を見て止めさせるような野暮な真似をしなかった。


レアは絵の創作も続けていた。

見学のため、ハンスは傍の椅子に座ってイーゼルの前で絵を描くレアの姿を見ていた。

油絵の画紙に一筆一筆描いて、いろんな色を混ぜて新しい色を作って画紙に付けていく。美術の素養を身につけたことのないハンスには絵を描くこと自体がまるで魔術のように見えた。


しかしハンスの集中を妨げることもあった。

絵をみているつもりだったハンスは、レアの艶やかな長い黒髪に目をひかれたことが何度もあった。女の子の淑やかな動き、一挙手一投足に含まれる教養のよさ。

若い少年にとってそれは油絵よりもっと魅力的な存在だった。

絵描きに一段落が終わるころ、見惚れて口を開けたままのハンスと、それを見返して首を傾げるレア。その二人の姿が絵に描かれたいほど面白かった。


三日目の夜、いつもの食後の読書時間。

だがレアには読書の気分がなく、あることを伝えるために身を構えてハンスに向き合った。

「明日私は用事があって町に行かないといけないから、君はここに残ってもらうね。ご飯は事前に作っておいてあげるから。ノックが聞いても扉を開けないでくださいね」

町長ローランドが週一訪れるとの決まりだった。最近は忙しくて日数がちょっと伸びた気がしたが、前回の来訪からもう一週間ぐらい経ったので、ハンスのことを気付かれないよう先手を打て、自ら町長の家を訪れることにした。

しかしそれに同意できないように、ハンスはすらすらと反対意見を述べた。

「僕も行くよ。発電機の修理に必要な部品は町に行って調達しようと思っている。足も痛くなくなったし」

「直してくれる気があってありがたいけど、町に行かないほうがいいと思うよ。今ドイツ人はこの辺で人気者ではないから」

「なにも喋らなければドイツ人なんて誰も知らないだろう。必要な部品は君が店の人に伝えばいいんだ」

話を一旦止めて、ハンスは振り向いて、後ろに据えられた棚の上にある蓄音機を親指で指差した。

「聞きたいだろう。ラジオ放送。音楽。僕も退屈だ。ずっとここに閉じ込められて」

確かに電力がないと動かない。最初に来た時、よく両親の部屋に揃えたレコードを再生してリビングルームを音楽で満たしていた。ラジオも聞こえた。ベルギーとドイツのニュース、ラジオ番組をよく耳にしていたが、気味悪い内容が段々と増えてきたので聞くのは止めてしまった。

唇を噛みしめて苦悩している姿。レアは、苦悩に苦悩の末に同意した。

「仕方ない。しかし、絶対何も喋らないでくださいね。何があっても」

「難しいことはないよ。ドイツ人は大体の時、無口だから」

お互いに笑顔で向き合った。暖炉からの温もりが部屋に満ちて、体にゆくゆくと沁みていく。その光もカーテンを通して窓から漏れている。微光でしかないはずのその明かりが、この暗くて寂しい冬の山奥に輝いて見えている。


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