第18章 境地

麻呂子王子と拓磨は茜の遺体を赤石(現代の明石)まで運び、檜笠岡の上に茜こと舎人王女を埋葬した。


麻呂子はそのまま播磨から難波に船で戻ると、葛城の里に引き返し、二度と新羅へ向かうことはなかった。


事の顛末を報告された厩戸王子は豊浦宮に赴き、額田部女王と相談をする。


その結果、次の大将軍は任命せずに、厩戸王子の名の下に任那の兵や入植者を引き上げさせる手続きが進められることになった。

大臣もその決定を追認した。


「正しき政策を実行するために泊瀬部大王を誅したというのに、これまでのことは何だったのでございますかな」と、後日豊浦宮に姿を現した蘇我大臣馬子が呻くように言った。


「間違いを正すために、敢えて我らは手を汚しましたが、その結果がこれです」と厩戸王子も沈痛な面持ちで答えた。


「十年以上かかったわけですが、遅すぎると悔いてばかりでは、これまでの犠牲が無駄になります。

私たちは後ろばかりは向いていられないのですよ。

今こそ、正しき道を実行に移す時です。

我らの蒙を照らすために麻呂子王子は英雄的行動を示されたのですから」


「はは」と厩戸王子と蘇我大臣は大王に頭を下げた。


額田部女王は二人の様子を窺っていたが、面を上げた厩戸王子の表情を見咎めた。


「麻呂子王子も辛い思いをしているでしょうが、私には厩戸王子の落ち込みようが気がかりです。あなたまでがどうかなってしまうのではないでしょうね」


「私なら大丈夫です。

麻呂子王子には返せぬ借りが出来ました。いや、これまでも、ずっと借りばかりを作ってきたのです。

私が兄と言うだけで、麻呂子には甘えてばかり。その度に麻呂子は健気に私を助けてくれました。ただ、私は申し訳なくて・・・・・・・」


「会いに行ってやってはどうですか」


女王の言葉に厩戸王子は表情を曇らせた。


「私には麻呂子に会わせる顔がありません」


「それでも、あなたは会う必要があります」


女王のいつにない毅然とした物言いに、厩戸王子は静かに頷いた。


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厩戸王子は自ら葛城に赴き、麻呂子の屋敷を訪れた。


麻呂子は自ら迎えに出て、厩戸王子を上座に案内する。

最初は厩戸王子もこれを固辞したが、麻呂子の沈みきった顔を目にし、勧めに従い腰を降ろす。


厩戸王子が座に就くと、麻呂子は深々と頭を下げた。


「この度は最後まで勤めを果たしきれず、申し訳ありませんでした。本来であれば、自ら斑鳩に出かけて報告するべきところを、兄上にご足労願い、恐縮の至りにございます」


厩戸王子は麻呂子王子の物言いに、その傷の深さを改めて感じずにはいられなかった。

それもこれも自分の命令によって起こった事なのである。


「そのような形式張った物言いは止しましょう。

私の願いを聞き入れるために、麻呂子には多大な犠牲を強いることになった。申し訳ないと謝って済むものでもない。恐縮するのは私の方で、麻呂子は立派に私の頼みを達成してくれたではないか。

むしろ、私の方が麻呂子には恨まれても仕方のない立場なのだ」


「兄上、正直なところ私には少しも恨めしく思う気持ちなどありません。ただ、私の至らなさが茜を死に至らしめてしまったか、と悔いるばかりなのです」


「麻呂子のおかげで大和に仇なす鬼は退治され、誤った決断によって外地に行かされていた兵達は続々と帰国することになる。

そうなれば大事な人を待ちわびていた家族は安堵し、本来の仕事に戻れる。村々の働き手が増えれば、国は富み、民は豊かになる。

麻呂子のしたことはそうしたことの大事な一助になるのだ」


厩戸王子の慰めるような言葉に麻呂子は首を振る。


「そうしたことが大切と聞こえるのも大事な人が生きていればこそ。

茜のいない世界では、どんな不幸な世の中だったとしても、気にならないくらいにどうでもよく感じてしまうのです」


ただ沈み込み、生気を失ったかのような麻呂子のそばに厩戸王子はにじり寄り、その冷たい手を取った。


「だが麻呂子よ、舎人王女はそんなことを望むであろうか。そんな考えに囚われて生きていく麻呂子を知れば悲しむであろう。いや、死んでも死にきれぬと未練を残すであろう。

それでは舎人王女に申し訳が立たないではないか」


麻呂子はうなだれて涙を流す。


「確かにそうです、確かにそうです・・・・・・頭では分かっているのですが・・・・・・私のここがまるで死に固まったかのように、何も感じないのです」と自分の胸を指す。


「いや、麻呂子よ、今お前は涙を流し、悲しみに暮れている。だがそれでも、お前の心までが死んでしまった訳ではない。お前の心の傷は余りにも深い。その痛みの余りにもう一度血を流す苦しみを怖れて、心を閉ざそうとしているのだ。

時間をかけて、亡き舎人皇女の遺志には応えていけば良い」


「ありがたい御言葉ですが、それだけではないのです」と麻呂子は涙を流し続ける。


「どうしたのだ」と厩戸王子が問い掛けると、麻呂子はぼそぼそと三上嶽での戦いの有様を語り聞かせた。


「そう、もしかすると茜の魂は鬼に連れ去られたのかも知れない。あの土熊の掌中に握られたまま、異界の地獄を彷徨っているのかも知れない。そんなことを考えると、可哀想なのと我が力の至らなさで居たたまれなくなるのです」


厩戸王子は頷いた。


「お前の不安は分かる。

だが、そのような何もかも見通したかのような物言いをする魑魅魍魎共が麻呂子によって倒されていったのだぞ。なんでそんなことが出来たと思っている?

それこそ、奴等が口で言うように世の理を透徹する力を持たぬ証拠なのだ。

分かったような物言いで、相手を不安がらせ疑心暗鬼に陥らせる。そういう気持ちを起こすことで相手を操りやすくする。それが連中のやり口なのだ」


「そうは仰いますが、実際に三匹の鬼は恨みや怨念に取り憑かれた魂の力を源に現世に舞い戻ったのではないですか」


「穴穂部叔父や物部守屋、それに泊瀬部大王・・・・・皆、世に恨みを抱きながら異常な死に方をした者達だ。

いや、彼らの魂にしたところで既に輪廻の階梯に戻り、既に次の輪へと進んでいるのかも知れない。ただ、恨みに囚われた妄執こそが物の怪に利用されただけなのかも知れない。

惑わされてはいけない。

仏の教えの通り、魂は輪廻の輪の中で、悟りを得るまでは煩悩に苦しみ続ける。それを救うために御仏の教えを広め、祈るのです。祈りが悟りへの一助となるのです」


厩戸王子の言葉に麻呂子はがっくりと首をうなだれた。


麻呂子が黙り込んでいるのを厩戸王子は静かに待った。


やがて麻呂子が口を開く。


「兄上、改めてお頼み申し上げたい。

茜の魂を弔うために、いや彼女以外に亡くなっていった者達のためにも、寺を創建したいのです」


「この葛城の地に、ですね」と穏やかな表情で厩戸王子は言った。


「葛城の地にて茜だけでなく、これまでに亡くなっていった者達を弔ってやりたいのです。それこそが、当(まさ)に麻呂子の望むところです。他に私が望むことはありません」


麻呂子の言葉に対し、厩戸王子は暫し瞑目して考え込むかのようであったが、やがて目を開いて穏やかに答えた。


「分かりました。額田部大王に申し出て、勅許を得るように致しましょう。

そうですね・・・・・・寺の名前は当麻寺が良いでしょう――そう言えばあなたのお母様の父は当麻倉日子でしたね」


麻呂子は深く頭を垂れた。


「ありがとうございます」


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日本書紀には――

推古十一年夏四月の壬申の朔に、来目王子の兄の当麻王子(麻呂子王子のこと)を、代わりに新羅征伐の将軍とした。秋七月の辛丑の朔癸卯に、当麻王子は船で難波を発った。丙午に、当麻王子が播磨にいたったとき、従っていた妻の舎人姫王が、赤石で薨じた。そこで赤石の檜笠岡の上に埋葬し、当麻王子は引き返して、征伐しなかった。

――とのみ記されている。


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史書にある通り、額田部大王の治世十五年に大和政権は使節を隋に送り込み、正式の国交を結ぶことになる。


有名な「日の昇る国の天子、日の沈む国の天子に書を致す。恙なしや云々・・・・・」という書を送ったのはこの時のことである。


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その後、額田部女王の治世二十年に当麻寺は創建された。


麻呂子王子はいつしか当麻王子(たぎまのみこ)と呼ばれるようになっていた。

これは麻呂子の母が当麻倉日子の娘であったためと言われている。


以後、麻呂子の子孫は当麻を苗字とするようになる。


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完成した寺に佇み、麻呂子王子は独り思う。


華々しく朝廷の表舞台で辣腕を揮い、公私に渡る悩みや悲しみさえも歴史として記録されていく・・・・そんな兄を羨ましいと思ったこともあった。


だが、今頃になって分かってきた。


そんな大義と私事の区別の付かない世界で暮らし、どのように歴史に残されるのかまで気にして生きていくというのは、虚飾の中で生を営むようなものなのかも知れない、と。


それがまさしく兄である。


麻呂子は静かに考える。


――自分は最愛の人を失ったが、葛城の地で茜と共に生身の人生を紡いで来られたのだ。


華々しい事績を賛美され、聖人であるかのように賞賛される兄。

その一方で、弟の自分にあてがわれた役目は世間一般に知られることのない鬼相手の戦い。

むしろ世に明かされることを憚られた役割であった。


あまりにも違いすぎるし、誰からも評価されることのない自分の役回りに、不満や不平、妬みに近い感情を抱いたこともあった。


だが、それも全て過去の話だ――と。


麻呂子は美しい当麻寺を仰ぎ見る。


いつの頃からか、兄を羨ましいとは感じなくなっていた。

今なら本当の生を謳歌したのは自分の方だと分かるからである。


「ただ、それでも――いや、だからこそ、茜に生きていてほしかった」と思わず麻呂子の頬を涙が流れ落ちた・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


寺の創建の折りに久方ぶりで厩戸王子と当麻王子は顔を会わせる。

穏やかな顔で二人は挨拶を交わすが、それぞれの心には秘める思いがありすぎて、結局兄弟は何も語ることなく別れた。


二人の邂逅は生涯、それが最後であった。


(完)

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聖徳太子の弟~麻呂子王子の もののけ退治 紗窓ともえ @dantess

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