第17章 運命との対決 その3 崖
土熊がその動きを見て罵声を浴びせてくる。
「ふん、身軽な奴。いつまでそのような曲芸を続けていられるかな」と今度は飛び込むようにして棍棒を打ち下ろしてきた。
麻呂子はそれも素早く後ずさって避けて見せた。
だが、すぐに一息つく間もなく、土熊の打撃が続く。
あんな棍棒をまともに受け止めたら、さしもの天羽々斬剣であっても折れてしまい、麻呂子自身までもが叩き潰されてしまうであろう。
ならば避け続けるしかなかった。
麻呂子はちらりと後ろを見やる。
森の切れ目が遠く見える・・・・・・
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茜は弩を背負ったまま、斜面を駆け上る。
何度も躓き、滑りながらも登り続ける。
シロの鳴き声が続く限りは、まだ事は進展していないはずだ。
獲物が姿を現すと、シロは鳴き止み、人が獲物を仕留めるのを待つように躾けられている。
シロが吠え続けている限り、麻呂子には危険は迫っていないはずだった。
唐突にシロの吠える声が止まった。
茜は急いで向きを変え、明かりの見える方へと茂みを掻き分けて這い進む。
と、いきなり視界が開けた。
切り立った斜面の淵に出たのだ。
駆け足だったら止まらずに転げ落ちていたかも知れない。
そこから声のした左方向に見えるのは木々の生い茂る深い森。
茜のいる崖の淵から下っていく急峻な斜面と、その斜面を隠すように左側へ拡がっている森。
その陰からシロの鳴き声が再び聞こえてきた。
打ち合わせになかった事だ。
既に茂みの中で麻呂子と土熊の闘いが始まっているのであろうか。
茜は待つことしか出来ない立場がもどかしかった。
森の茂みは茜の下の崖で途切れているが、そこに開けた地面がある訳ではない。
途切れた先も崖をなす急峻な斜面が続き、谷となっている。
そこにある足場と言えば申し訳程度の取っ掛かりがあるばかり。
麻呂子が土熊を誘い出して飛び出してくれば、その僅かばかりの足場で立ち往生するか、さもなくば、そのまま谷底に転げ落ちるほかない。
束の間、茜は躊躇したが「もう、麻呂子を信用するしかない」と心を決めた。
意を決した茜は弩を降ろし組み立てると、弦を引き絞って固定する。
そのまま棘矢をつがえて茜はその時を待つ。
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土熊が現れてしまえば、拓磨とシロにはもう出番はないはずだった。
だが、今の状況は想定とは違っていた。
見通しの利かない森の中で麻呂子王子が土熊と対峙している。
麻呂子は何とかして土熊を森の外に誘い出したいはずなのだが、今や土熊の攻撃を避けるだけで精一杯である。
シロは低く唸りながら、時として興奮を抑えられずに荒々しく吠え声を上げながら、じりじりと土熊の後ろ姿との距離を縮めていく。
吠え声を上げる度に土熊は身を竦ませるようにして動きを硬くする。
シロはそんな土熊の姿を見て吠えかけながら、更に体勢を低くして、いつでも飛び掛からんばかりの勢いである。
傍から見れば、その姿は自分の出番を待っている様にしか見えない。
拓磨もシロに寄り添うように身を低くして戦いを見つめる。
何か事あれば、すぐにでも麻呂子を助けに駆けつけようという思いはシロと同じか、それ以上であった。
その時、シロが猛然と走り出した。
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麻呂子は必死で後ろに下がりつつ、土熊の攻撃を避けるのみであった。
明るい方向へ身を翻しながらも、土熊に対峙し、攻撃を受け流す。
ほんの少しに思える距離が永遠にたどり着けそうにないほど遠くに感じられた。
「何をそんなに必死になる。ただ、恐怖と苦しみを長引かせるだけだぞ。
仮にも大王の血を引く勇者の末裔であろう。ひと思いに決着を付けたらどうだ」
土熊の挑発とも取れる勝ち誇った声が麻呂子の耳に届く。
それでも麻呂子は歯を食いしばる。
そこへ棍棒が振り下ろされてくる。
麻呂子は咄嗟に避けたが、同時に森の切れ目が目前であるのを悟った。
ひと思いに背中を土熊に向けて跳躍した。
明るくなって気づく。
そこには平坦な地面はない。
麻呂子は着地すると足を踏ん張って振り返る。
土熊は森の茂みの闇から姿を現しかけた。
その瞬間、ヒュンという風の唸りが聞こえたが、それは森の闇に吸い込まれていった。
茜の矢だったはず。
「外したか」
麻呂子は絶望的な気持ちで観念しかける。
すぐにも土熊の棍棒が振り下ろされて来るであろうが、もうその一撃を躱して飛んでも着地できる余地を探す暇はない。
「ああ、私もここまでか」
その瞬間である、猛然と森の陰から駆け込んできたシロが雄叫びを上げながら土熊の脛に飛び掛かり、猛々しく噛み付いた。
まったく予期せぬ攻撃に土熊は怯む。
麻呂子は素早く崖を確認すると、足場になりそうな僅かばかりの取っ掛かりを目指して跳躍した。
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茜は麻呂子が森の陰から姿を見せた途端に緊張が頂点に達した。
土熊らしき姿が見えた瞬間には、狙いを定め直す暇もなく、引き金を引き、発射装置を作動させてしまった。
「しまった」と思った茜は、結果を確かめずにすぐに第二撃のために装置を引き寄せ、足をかけて弓を引き絞った。
「早く、早く」と気が急く。
必死の思いで弓を引き絞り、固定させる。
そこから弩を再び射撃位置に固定し、箙から棘矢を取り出す。
そのズシリとする重さとひんやりとした感触が茜の気持ちを幾分か落ち着かせる。
下を見ると、麻呂子が崖の斜面で何とか平衡を保ち、身構えていた。
先ほど姿を現していたはずの土熊が、もう一度繰り返すかのように森の陰から姿を現した。
「はて、何があったのか」と茜は不思議な感覚に襲われるが、迷っている場合ではなかった。
「今度こそは外さない」と、もう一回だけ深呼吸して狙いを定める。
次はない、ということがひしひしと感じられる。
その緊張の中、茜は狙いを定めた。
狙いが定まり、発射装置に触れようとした瞬間、弦が切れた。
矢はそのまま発射されたが、その反動で弩が宙を勢いよく舞う。
茜のこめかみ目がけて弩は勢いよくぶつかって来る。
あまりの衝撃に茜は倒れ込んだ。
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麻呂子は崖の斜面の足場で平衡を保ちながら、天羽々斬の剣を構える。
こここそが正念場と麻呂子も心得た。
茜の矢の当たり外れに関係なく、この剣で一撃を加えなければ勝利はない。
土熊は脛に齧り付くシロを蹴り飛ばすと、もう一度麻呂子の方を睨みつけ、崖に向かってきた。
もう、相手に逃げ場がないのを見て取ると不敵な笑いを浮かべ、棍棒を振りかぶった。
まさにその瞬間、風が鳴った。
見れば、紛うことなき棘矢が、土熊の鎧を纏った胸を刺し貫いているではないか。
その痛撃に、さしもの土熊もよろめいた。
これが最後の好機である。麻呂子は土熊に向かって跳びはねると、鎧の隙間である首元に向かって剣を向けた。
全身全霊の力を込めたその剣戟は狙い過たず、土熊の喉元に深々と突き刺さった。
「勝った」
麻呂子が確信した瞬間、土熊の左腕が勢いよく振り下ろされてきた。
間一髪で麻呂子は首をのけぞらして避けたが、その爪が彼の胸を切り裂いた。
その激痛に身を竦ませた刹那、首の後ろに衝撃が走った。
土熊の爪が茜から借り受けた勾玉の首飾りに引っ掛かっているのだ。
最早、土熊はその力を失い、崖から滑り落ちつつあった。
だが、その爪は首飾りを捉えて放そうとしない。
麻呂子は足を踏ん張るが、足場が悪く土熊の巨体を支えることはとても無理である。
「ここまでか・・・・・だが、兄上、勤めは果たした!」
そう諦めかけた途端に、麻呂子の体を支えるものがあった。
麻呂子を落とすまいと拓磨が飛びついてきたのだ。
彼は麻呂子の体に腕を回し、ずり落ちそうな麻呂子を引き戻そうと踏ん張る。
「麻呂子王子、諦めてはなりません」
「拓磨、お前までが一緒に命を落とす必要はない。その手を放せ!」
「何を仰います。弱音を吐いてはいけません」
だが、二人がかりでも悪い足場では踏ん張れるものではない。
土熊の爪は外れず、二人して滑り落ちそうなのは変わらない。
そうでなくても、麻呂子の首に食い込んだ首飾りの紐が、首の皮を裂き始め出し、土熊の重さに耐えるのも限界に達しようとしているのだ。
「これまで」と麻呂子は拓磨の腕を振りほどこうとした。
だが、次の瞬間、シロが飛びついてきた。
シロが拓磨の腰帯に噛み付いて、四本の足でがっちりと二人を支えようとする。
麻呂子と拓磨は一瞬であるが、二人して崖の斜面に重心を取り戻し、踏み止まる感触を得た。
それだって束の間の安定に過ぎないことは分かっていた。
崖の斜面では二人と一匹ではどうにもならないのだ。
土熊の重みに引きずられる・・・・・・
まさにその時、プツリと首飾りの革紐がちぎれた。
完全に支えを失った土熊が宙を舞うのが見えた。
「無念・・・・・・これだけはもらっていくぞ」
それが土熊の断末魔の叫びであった。
そのまま崖から墜落していくと轟音だけが谷底から響いてきた。
崖から麻呂子を引き上げると「勝ちましたな」と拓磨が安堵の声をもらして腰を落とした。
拓磨にすり寄ってくるシロの頭を撫でて「よしよし」と誉めてやる。
だが、麻呂子の心中はそれどころではない。
勾玉を失ったことと、土熊の最後の叫びに胸騒ぎがして成らないのだ。
「茜はどこだ、茜は」と崖の上を見上げる。
「茜、茜!」と呼びかける麻呂子に答える声はない。
土熊を倒したはずなのに、麻呂子には達成感や勝者の昂揚などは微塵もなかった。
「茜」と叫びながら、急いで来た道を引き返し、崖の上に通じる道を探す。
無事でいるなら返事があるはずなのに、何の返事も聞こえてこない。
麻呂子は生きた心地がしない。
右往左往しながら崖の上に出る道を見つけたが、そこで麻呂子が見たものは無言で倒れる茜の姿であった。
麻呂子は駆け寄って茜を抱き起こすが、彼女はぴくりとも動かない。
「茜、茜、茜・・・・・・・」
麻呂子は涙にむせびながら愛しき妻の名を呼ぶが、彼女は何も応えない・・・・・・・
「お前のおかげで私は勝った。生き存えた。だが、お前を失ってはそれに何の意味があるというのだ」
麻呂子王子の嘆きに応える者は誰もいなかった。
遅れてやって来た拓磨も余りの事態に一言も発することが出来ずに立ち尽くすばかり。
ただ、シロが麻呂子の脇にすり寄り、その涙に濡れた頬をペロリと舐めるのみであった。
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