第60話 磊々落々

 石勒せきろくの遺骸に縋りついて泣く男。


「おとうさんッ」


男の慟哭が宵闇に包まれつつある宮城にこだまする。

しかし、その男は石勒の息子ではなかった。

男は石勒のことを時折り兄と呼んでいたが、それは本心を押し隠した呼び方であった。

石勒その人が死んで初めて、男は石勒を本心から呼びたい呼び方で呼んだ。

父、と。

男の名は石虎せっこ、字は季龍きりゅう

幼い頃に両親を亡くし、石勒の一家に養われた男。

長じては将軍として石勒の麾下で活躍し、比類なき武勇を発揮した男。

石勒が実の弟のように愛した甥っ子。

しかし、石勒から石虎への愛情と、石虎から石勒への愛情は、重さも湿度も異なっていた。

そして、その重みと汁気によって、愛は歪んでしまっていた。


 弟子の黒檀のような手から差し出された竹簡を、一つづつ丹念に読んでいくのは、齢百を超えた大和尚こと仏図澄ぶっとちょうであった。


「新しく皇帝に立った大雅たいが様に味方するものが次々と殺されておるようじゃの。やはり、石虎殿による簒奪は時間の問題かのう。ご苦労じゃった、黒略。これからも頼むぞよ」


弟子の一人で石勒十八騎でもある郭黒略かくこくりゃくは、師を拝すると退出していった。


「まあ、返って都合がいいくらいじゃ。石虎殿は残虐無道の魔王のようになるやもしれぬが、幸いにもわしの法力を信じきってある。あらゆる者が殺され、破壊されても、仏教は保護される。若い頃に丹念に騙したかいがあったのう」


呵呵大笑する仏図澄を見て、愛弟子の釈道安しゃくどうあんが問う。


「お師匠さま。お師匠さまが、信者からの情報を集めて予想しただけのことを予言のように言ったり、手の込んだ手品で石勒殿や石虎殿を欺いたのは、本当に仏の御心にかなうことだったのでしょうか」


「かなうものかよ」


「ではなぜ……」


「仏の教えを広めるためじゃ。そのためならば、わし自身が地獄道に堕ちようとも、かまわない」


そう答える仏図澄の落ち窪んだ目が一瞬、真っ暗な木のうろのように見えて、釈道安は息を呑んだ。


 暗闇の中をひた走る青い頭巾の小男。

その背後からしなるような音が響き、頭巾の男は夜道にくずおれた。


「ひょほほ、悪く思うなよ、徐光じょこう。大雅様に与した者は皆殺せと、石虎様が仰せなのでな」


夔安きあん、あんた、先帝の若い頃からの部下じゃあなかったのかよ」


徐光の背後に立つ馬上の戦士は、蛇のようにくねる剣ウルミーの使い手、天竺出身の石勒十八騎、夔安であった。


「どうりでおかしいと思ったんだ。あの孔豚こうとんがあっさり暗殺されるなんて……畜生、昔馴染みのお前が、油断させて殺ったんだな!クソが」


毒づく徐光に対して、夔安は黄色い歯を剥き出しにして下卑た笑いを顔に浮かべた。


「俺はいつだって、強い者の味方なのさ。これが生き残る秘訣だ」


徐光はこの卑劣漢に侮蔑の眼差しを向ける。


「そうかい。悪党に媚びへつらって、せいぜい無駄に長生きするんだな、カスが」


「言われんでもそうするぜ。ひょほほほ」


夔安は止めとばかりにウルミーで徐光を突き刺し、立ち去っていった。

徐光の薄れゆく意識の中で、様々なことが巡っていく。


徐光は思う。

俺は石虎が簒奪を企むというのは予想していた。

所詮は甥に過ぎないので、大権を握ったままだと、親族の情などかなぐり捨てて帝位を奪いにくるだろう、そう考えていた。

だからこそ、石虎を排除するようにと様々に先帝の石勒を説得もした。

程遐ていかも同じく、説得に当たっていた。

しかし、石勒はどうしても首を縦に振らなかった。


「石虎は俺を兄のように慕っている。そんなことはしない。俺もあいつのことを弟のように思っている」


そんなことを言って、聞き入れてくれなかった。

今になって思う。

俺たちも石勒も誤っていた。

石虎は確かに簒奪をしかけてきたが、それは情の欠如によるものではなく、石勒への愛ゆえのことだった。

石勒は石虎を弟のように思っていたが、石虎のほうは石勒を父親のように思っていた。

だからこそ、石勒の実子である石大雅をあれほどまでに憎んでいるのだ。

俺こそが石勒の息子にふさわしいのだ、と。


「まあ、そんなこと今わかったところでしょうがないか」


どうせもう死ぬのだから、楽しかったことでも思い出そう。



石勒はある時、宴会の席でこんな事を言った。


「俺を古の創業の君主と比べたら、何等くらいかな」


俺は戯れに石勒をおだててみた。


「陛下の武勇と策略は漢の高祖に勝ります。尭舜禹ぎょうしゅんうの三皇以降で比肩しうる人物はいません。黄帝の類いといったところでしょう」


石勒は笑って言った。


「己のことがわからない者がいるだろうか。お前の言葉はおおげさだ」


石勒はぐいと酒盃を傾ける。


「俺がもし漢の高祖劉邦に出逢っていれば、北面して彼に臣従し、韓信かんしん彭越ほうえつと競って鞭を打っただろう。もし光武帝劉秀に出逢っていれば、彼と並び立って中原に覇を競うだろう。中原の鹿が誰の手にかかるかはわからないな」


そのように語る石勒に、俺は問うた。


「では、曹操そうそう司馬懿しばいと比較するとどうですか」


石勒は立ち上がった。


大丈夫だいじょうふたる者、事を行なうに磊々落々らいらいらくらく日月じつげつ皎然こうぜんたるがごとくあるべし」


持ってまわった言い方をする。

立派な男は事業をなす時は豪放磊落ごうほうらいらく、太陽や月が煌々こうこうと輝くようでなければならない、そんなところだろうか。


「俺は曹孟徳父子や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、媚を売って天下を取るなどという恥ずかしい真似はしなかった。俺は奴らには勝り、二劉の間に位置する者だ。神代の君主とは比較できんさ」


俺が万歳をすると皆んなも釣られて万歳をした。



石勒とともに、何もかもが過ぎ去ってしまった。


涙でぼやける徐光の視界に、煌々と満月だけが輝いていた。


 石虎は簒奪に成功すると、外には戦争、内には恐怖で臨んだ。

趙は悪の大帝国、石虎は大魔王のように恐れられた。

反対派の弾圧や外征のための重税、美女の略奪や大規模な工事を繰り返すなかで、特に晋の遺民である漢族は不満をためていった。


石虎の多くの子供達は石虎に似て残虐無道であったが、有能さは受け継いでいなかった。

彼らは石虎の死の前後から激しく争い合いあった末に、石虎の養子となっていた漢族の冉閔ぜんびんに滅ぼされた。


冉閔は胡人大虐殺を断行、二十万人の胡人が殺された。


胡族と漢族は再び憎しみ合うようになり、石勒の追い求めた胡と漢にまたがる大帝国の建設は水泡に帰した。


五胡十六国時代と、それに続く南北朝時代の混乱の中で、胡人と漢人は時に手を携えつつも激しく争った。

打ち続く戦乱の中には、時折ではあるが、胡と漢の融和を目指した劉淵や石勒の後継者と言うべき英主が現れた。

前秦ぜんしん苻堅ふけん王猛おうもう

後燕こうえん慕容垂ぼようすい

北魏ほくぎ拓跋珪たくばつけい

北周ほくしゅう宇文泰うぶんたい

多くの英雄が、胡と漢にまたがる大帝国の理想を追い求め、そして夢半ばにして散っていった。


石勒の理想が実現されたのは、およそ三百年後。

李淵りえん李世民りせいみんの父子によるとうの建国を待たねばならなかった。



石勒〜奴隷から始まる英雄伝説〜

<完>

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