第59話 巨星墜つ

 石勒は劉曜を倒すと遂に皇帝を称した。

劉凛は皇后となり、石弘を皇太子とした。石虎は中山王となった。

また領内に大赦をくだすとともに、こう宣言した。


「今後は処罰については、すべて法律に基づいて行なう。俺が怒って殺した者や、怒って処罰した者のなかで、もしその者の徳と位が高く、処罰が適切でなかった場合、あるいは忠勤の者が誤って罪に問われていた場合、門下はみな、それぞれ列挙して彼らのことを奏上せよ。俺は今までの非合理な行動を反省する」


石勒は富国強兵のために様々な政策を打ち出した。

そのいくつかをここに述べることとする。

石勒は、子を多く産んだ女性を称賛し税を免じ、褒美を遣わすことで、人口の回復を試みた。

また、漢人か胡人かを問わず各地に賢者を求め、また推薦することを奨励したため、多くの人材が登用された。

災害が起こっても天意とは解さず、ただ復旧と民力の回復にのみ力を注いだ。

漢人と胡人を公平に扱うため、互いの民族を侮辱することを厳しく禁じるとともに、訴訟においては両民族ごとの祭酒を設けて公正な裁判を行なった。

国制の多くは中華王朝を参考にしつつ、魏晋の時代に不合理に禁止されていた寒食などの地方の風習はその復活を許した。

度量衡を統一して商業を再興し、荒廃した農地を復旧して農業を奨励した。

また、失われた戸籍を再編して流民を農民として定着させ、税収を安定させた。

こうして領内は大いに改まり、各地の部族が貢物を持って帰服した。

東は高句麗こうくり、北は粛慎しゅくしん、西は高昌こうしょう大宛だいえんあるいは于窴ほうたんといった西域諸国からも相次いで使者が往来し、趙と国交を結んだ。

涼秋に独立していた前涼の第四代君主の張駿ちょうしゅんは、石勒の強勢なるを見て、使者を送り称藩する道を選んだ。


石勒が開いたこのちょうという王朝は、後の時代には後趙こうちょうと呼ばれることになる。

後とつくのは、劉曜が開き先に滅んだ趙を前趙ぜんちょうとして、区別するためである。

後趙は上述したように優れた胡漢融和政策を打ち出し、五胡十六国時代における五胡王朝の先駆的な存在となった。


しかし、この頃から程遐や徐光は、中山王の石虎が後顧の憂いとなるとして、事あるごとにその排除を石勒に訴えた。

ある日、程遐が言った。


「中山王の石虎様の勇武権智は群臣のうちに及ぶ者がありません。ですが、その振る舞いを観ますと、陛下以外の者を皆蔑んでおります。陛下が存命の内には二心は抱きますまいが、亡くなられてからは、おそらく皇太子の大雅様に従う事をよしとしないでしょう。今の内に取り除かなければ大変な事になりますぞ」


石勒は程遐に言った。


「天下は定まっておらず、大雅には石虎のような強い補佐が必要だ。お前が恐れているのは、幼主を補佐する際に実権を独占出来なくなることだろう。お前も顧命には参加させる。そのようなことを心配するんじゃあないよ」


程遐はしかし、涙をこぼして訴えた。


「私は公事について上奏しておりますのに、陛下は私事をもってこれを拒まれます。なぜ、忠臣の訴えを、陛下は襟を開いて聞き入れないのですか」


「しかし、あいつは俺にとって、弟のようなもので……」


「中山王は皇太后に養育されたとはいっても陛下の近親者ではなく、親兄弟の義理を期待してはなりません。彼は陛下の神規に従って鷹犬の功を建てるには至りましたが、陛下は恩徳を施してもう充分に酬いておられます。魏は司馬懿父子を任用したがために、遂に国運を握られてしまいました。このことを鑑みるに、中山王がどうして将来に渡っても有益な存在であると言えるでしょうか。陛下がもし中山王を除かなければ、宗廟は必ずや絶えることでしょう」


石勒は頷いた。


石虎は群臣に疎まれているのを感じとり、最近は自身の宮殿に引きこもっていた。

石勒が石虎の宮殿を訪ねると、石虎は泣き腫らした顔で現れた。


「殺しに来たんだろ。やれよ」


石勒は、しかし、帯剣していなかった。

近衛兵を引き連れてもいなかった。

石勒は石虎を抱きしめた。


「そんなはずがあるか。俺はお前のおかげで天下を獲れたんだ。それを殺すなんて、馬鹿なことはしない。だから、我が弟よ。お前も馬鹿なことは考えるな」


「弟、そうか、そうだよね、弟、弟」


石虎はぼんやりと繰り返した。


趙国の時は移ろうていった。

獅子身中の虫を退治せぬままに。

薄氷の上にあるような、脆い平和の内に。


 星が鄴の東北六十里の地点に落ちた。

その星は赤、黒、黄の雲を幕のように引いていた。

音は落雷のようで、墜落地点の気は火のように熱く、塵が舞い上がって天に連なった。

墜落した星を見つけた百姓が言うに、周囲の土は煮えたぎったような状態で、その中に一尺余の石が一つあり、青色で軽く、叩くときんのような音がした。


石勒は病に倒れた。

遺詔はこのようなものであった。


「三日で埋葬せよ。葬儀が終わったら、喪服はすぐに脱いでしまえ。喪を理由に宴会や結婚、祭りを禁止することのないように。地方の長官や将軍は、葬儀にかけつけたりするな。葬儀も金をかけず、棺には宝物を入れるな。どうせ、あの世には持っていけない。息子の大雅はまだ幼いから、周囲の補佐が必要だ。みなは各自の職務を全うしてほしい。大雅は弟たちと助け合いなさい。司馬一族を教訓として、一族はつとめて仲良くしなさい。中山王は周公や霍光の故事をよく考えて、お前を排除しようとする人に口実を与えることのないように」


石勒は咸和七年、三百三十三年に死んだ。

享年六十。

在位十五年であった。

テュルクの風習に従って深夜に山谷に埋葬されたため、その場所を知る者はいない。

墓に参るもののために、その後に遺体のない陵が作られ、高平陵と呼ばれた。

明帝と諡され、廟号は高祖とされた。

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