第4話

 目を覚ますとそこは病院だった。


 体を見れば、無数のケーブル。鼻の中に痛みを感じて見れば、チューブが突き刺さっている。ベッドの脇のモニターには、誠明のバイタルサインが克明に表示されている。


「目覚めたのですね」


 看護婦が言う。


 目覚めた。確かに自分は目覚めたのだろう。


 何があったのか、思い出せますか。そんな問いかけに、誠明はぼんやりとした頭を働かせ、霞がかった記憶を思い起こす。


 自分は吹き飛ばされ光の中へ――。


「環さんは、環さんはどこに!?」


「お、落ち着いてください。今先生を呼んできますから」


 看護婦が、部屋を飛び出していく。


 誠明はいてもたってもいられなくなって、腕やら鼻やらに通された管を引きちぎる。モニターが赤くなったが気にも留めない。突き刺さっていたからか、血液がほんのり流れてきて、真白の病衣を汚した。


 壁にはカレンダーがあった。将棋連盟製のカレンダーは、棋士の誰かがお見舞いとしてそこへとかけるように頼んだのかもしれない。


 一月のとある日に丸が付いている。


 王将戦第一局の行われる日。


 誠明は弾かれるようにベッドを下り、ブザーが鳴り響く集中治療室を飛び出した。


 赴く先はただ一つ。――天童だ。


 だが、病人に行ける距離ではない。知り合いにでも助けてもらおうと思って、誠明は千駄ヶ谷に位置する将棋会館へ向かった。


 珍しく、棋士の姿がない。いたら、こっぴどく叱られていたかもしれない――なんて、自動ドアをくぐってから今更のように思いついた。今の誠明は、病衣姿。それもわずかに血に染まったそれを身にまとっているのだ。知り合いでなくても、目を見開く。今頃警察に通報されていてもおかしくはない。


 しんと静まり返った中に一人、見知った少年がいた。


「黒鉄くん……」


 詰将棋と思われる本が、ぱたんと閉じられる。その顔が、誠明の方を向いた。


「お待ちしておりました」


「待つって僕を?」


「ええ。まもなく目を覚ますと思いまして」


 意味深長なことを、にこやかな笑みを浮かべてナルは言う。いつだって彼はこんな調子だ。何もかもを知ったような口ぶりをする。そのせいか環以外の人間と――年頃の子たちと談笑している姿を、誠明は一度だって見たことがなかった。


 不吉な感じがしたが、今はそれどころではない。


「タイトル戦はどうなった」


「それが心配で、病院から走ってきたんですか」


「いいから!」


「はあ。王将戦は中止になりましたよ」


「中止……」


 愕然とした頭の中に「現王将は全治数か月の大怪我で挑戦者は行方不明でしたからね。しょうがないでしょう」というナルの説明が絵空事のようにむなしく響く。


「タイトルは……」


「空位、ということになりました」


「そう」


 そうか、と誠明は繰り返す。タイトルがなくなったとか、王位の座についているものがいなくなったということはどうだってよかった。


 環がいない。行方不明になった、ということの方が大事だった。


 どうして。


 あの時手を伸ばしていたらよかったのか。自分にはどうすることもできなかったのか――。


「環さんの居場所、知りたいですか?」


「え」


「僕は知ってますよ」不気味に笑いながら、少年は言う。「こうしたことにはちょっとだけ明るいんです」


「どうして」


「環さんには将棋を教えてもらいましたし、こう見えても感謝してるんです。たかがゲームに熱心になるのかわかりませんでしたが、やってみるとなかなか面白い。昔やったチャトランガを思い出します。ご存じですかチャトランガって。将棋に似たゲームなんですが」


 ――環さんとの対局、面白かったですよ。


 どの対局を言っているかなんて、考えるまでもない。だが、この少年は、あの空間にはいなかったと誠明は記憶している。なのに、どうしてそれを知ってる?


 困惑のままに誠明はナルを見る。疑問に対する答えはなく、ただ、嘲笑するような笑みを浮かべるばかりであった。


「それで、どうしますか。ついてきますかきませんか」


「――――」


 手が差し出される。その手を誠明は、迷うことなくつかんだ。


 次の瞬間、二人の姿は消えた。


 銀の鍵の扉を超えた先に連れ去られてしまった棋士を追いかけ現世を離れる二人の姿を、目にしたものはいない。

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彼方より駒音は響く 藤原くう @erevestakiba

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