第3話

 扉を抜けた先は、闇だった。


 真っ黒の世界。いや違う。そこには何もないのだ。何もないから、脳はそこが漆黒だと認識しているに過ぎない。


 虚無空間に目を向けると、扉の光からちょっと行った先に、何やら置かれている。棋士にとっては親よりも親しいとさえ感じられるもの。


 それは将棋盤だ。将棋盤が、無の中に浮かんでいた。


 後ろの光から、環もやってくる。誠明の隣に立つと、扉が閉まり、バタンという音とともに、光は霧散した。


 唯一の光がなくなったにもかかわらず、将棋盤はよく見えた。やはり、闇というわけではないらしい。


「さあ」


 促されるまま、将棋盤に近づく。盤を挟むようにして、座布団が置かれており、脇息まであった。駒台もあれば、肝心な駒は、既に所定の位置に並べられていた。いつでも対局が行えるようになっている。


 お膳立てされた場に、環は座る。当然のごとく腰を下ろしたのは、上座であった。昔は偉い人が上座に座るというのがマナーだったが、今では、タイトル戦を除けば、あまり重要視されていない。


 誠明は何も言わずに、下座に腰を下ろす。


「どちらが振り駒をする?」


「……じゃあ僕が」


 並べられた歩を五つ手に取って、両手で覆ってシャカシャカ振る。放り投げて、歩が多かったら上座が先手、と金ならば下座が先手、というわけだ。


 一つが立って、残り三つがと金。つまりは下座――誠明が先手。


「そっちが先手だ。よかったね」


「…………」


 現代将棋は先手が有利とされている。とはいうものの、他の盤上遊戯と比べると、その差は極めて少ない。勝率にして51%前後だ。


 だから、どちらがいいかはわからない。後手でしかできない戦法もあるからだ。特に振り飛車にとっては、相手の動向をうかがえるという点で、むしろ後手の方が都合がいい場合も少なくない。


 だが、この対局においては、作戦というものはなかった。――すでに何をぶつけるのか誠明は決めていた。


 自らの得意戦法である石田流だ。


 歩を並べ終えた誠明は、よろしくお願いします、と頭を下げたのちに飛車をつまみ上げ、動かした。



 将棋のマスには番地がある。先手から見て縦軸をアラビア数字で、横軸を漢数字で表す。先手の角の隣に飛車が動くとしたとき、その飛車は奥から数えて7段目、右から数えて八筋目のマスにいることとなり、着手は7八飛となる。先手の初手が7八飛の場合、そのまま7八飛戦法という。石田流を志向した手で、何をどうしても、石田流に組むことができる。少し前に流行した手だ。だから、両者ともに勝手知ったる道とばかりに、ポンポンと手が進んでいく。


 ちらりと、盤の向こうの環へと視線が向く。いつもならば気にも留めないのに、意識がそちらに向いてしまう。


 環は、盤上ではなく、その向こうにいる誠明のことを見ている。駒の配置には目もくれず、ただひたすらに睨みつけている。


 そこに込められているのは、純粋な殺意。


 いつだったか、将棋は真剣勝負、と環は発言していた。彼女にとって、将棋というものはただのゲームなどではなく、生き死にのかかった勝負なのだ。


 そんなことを、誠明は思ったこともなかった。誠明だけじゃない。多くの棋士が、相手を殺すつもりで対局に臨んでいない。好きでやっているとか、才能があるからとか、そんな理由だろう。


 だからこそ、殺気にあてられたとたん、脳がフリーズする。恐怖し、何事も考えられなくなり、普段通りの力を発揮できなくなる……。


 覚悟の違い。意志の違い。


 それを、まざまざ思い知らされる。


 誠明もそうだった。いつもは盤上と先の展開を読むことに集中して、相手のことなんか考えないし、そんな余裕もない。だが今回ばかりはそうもいかなかった。


 普段とは違う環境。


 絶対に負けられないという状況。


 それが、誠明の集中力を奪い、殺意が心を容赦なく蝕んでいく。


 今にも声を上げて、逃げ出したくなる。――だが、体は金縛りにあったみたいに動かない。動くのは足がすくんだというよりは、逃げ出さないよう座布団に縫い付けられてしまったかのよう。


 面妖な雰囲気。


 石田検校が遺した古文書の中に、そのような記述があったが、確かにそうとしか形容しえない邪悪なオーラが、環からは放出されていた。


 幸か不幸か、考慮時間――制限時間のことだ――はないから、いくら考えてもいい。――考えることをやめても、対局が終わらない分、苦痛は大きいかもしれなかったが。


 だが、降参することは許されない。自分の命が懸かっているだけではないのだ。他人の運命もこの対局には懸かっている。


 それが誠明の双肩へと重荷のようにのしかかってきて、ひどく苦しかった。そのようなプレッシャーなど感じたことは、一度たりともなかった。好きな戦法で、好きなようにやっていたら、いつの間にか三段リーグを勝ち抜けプロの一員となり、気が付けば王将となっていた。


 何かのために、対局するのはこれが初めて。


 緊張が、環の尋常ではない威圧感が、誠明の思考を凍りつかせる。臨機応変天衣無縫と称される誠明の力は今や見る影もない。プロが見たら、大いに驚くことだろう。これが、当代最強の振り飛車遣いの差し手なのかと。


 それが、誠明自身にもわかるから、なおさら焦ってしまう。


 形勢は随分前から環へ傾いていた。それでも何とか食らいついているのは、誠明の自力か、それとも環が手を抜いているのか。


「いつもの粘り強さはどうしたの」


「っ」


 待ち駒――王の逃げ場所に、先回りして駒が打たれた。


 誠明は血眼になって、盤面全体へと目を凝らし、脳内の盤上で先を予想する。


 打つ手がない。


 すうっと血の気が引いていくのが、はっきりとわかった。


 今はまだ、詰まされない。だが、何十手先にこの対局の終焉が見えた。枝分かれする未来は、そのすべてが、環の勝利で終わっている。


 詰み。


 それは、王様の死と同時に――棋士の死でもある。

 

 死ぬ。

 

 あまりに現実味がなくて、誠明は叫びだすことも逃げ出すこともなかった。死の恐怖すらも、大いなる絶望の前には機能不全を起こしているかのようであった。


 がっくりとうなだれた誠明は、鈴を転がしたような笑い声を耳にする。


「ほら、早く次の手を差して」


 促されてもなお、誠明は差せなかった。


 どこかにまだ、手があるのではないか。あるに違いない。そうに決まっている。


 そうじゃないと僕は――。


 誠明は必死になって、考える。だが、考えれば考えるほどに深みへとはまっていく。冷静な思考が過熱し、燃え尽きていく。


 その時であった。


 ポケットがもぞもぞと動いているように感じられた。最初は気のせいだと思った。だが、次第にその動きは強くなり、くすぐったさを覚えるようになった。


 ポケットの中の駒が、一人でに動き始めていた。


 誠明は手を伸ばし、もぞもぞと動く駒を取り出す。


 駒は眩い光を放っていた。その柔らかな光は、虚無の闇を柔らかく照らしていく。無味乾燥なものではなく、温かい。


 手からするりと逃れたそれは、宙を漂う。ぷかぷかと浮かんだ王将の金文字を目にした環が――いや、彼女の向こう側にいるかの神が――驚愕の声を上げる。


「それは退魔の印」


 駒は、底面の花押を中心として、光を放っている。その浄化の光は、邪悪な神様を寄せ付けぬアミュレットとして、十二分に機能していた。


 女性らしからぬ苦悶の声を上げる環と、呆然と光を見上げる誠明のちょうど中間、盤の上空に駒が移動する。放たれる光は強さを増し、何かの像を結ぼうとしていた。


 それは人の形をしている。


 古風な着物に杖を携えた人。


 それ以上のことはわからない。特に顔はぼんやりとしていて、のっぺらぼう。――だが、誠明にはわかる。


 彼は、石田検校その人に違いない。


 確信するとともに、誠明の胸が打ち震える。歓喜とわずかばかりの申し訳なさに。


 光の人は、神妙に頷いたかと思うと、手を打ち据える。それは、棋士が気合を込めて、着手するように力み、気合がこもっている。


 光が盤に触れた瞬間、生まれるはずのない音が生じた。


 静かな駒音。だがそれは心まで揺るがすように、虚無の中で厳かに響き渡った。


 それは、何世紀も彼方から届く先祖からの、子孫への激励。


 光は霧散し、駒も粒子となって掻き消えた。


「目障りな奴め……。またも邪魔をするというのか」


 環の口を動かし、何者かがそう吐き捨てた。邪悪で、耳障りな言葉。聞いているだけで、身の毛がよだつような怨嗟は、先ほどまでの誠明ならば、気絶していたかもしれない。


 だが、駒音を聞いた誠明の心は、凪いでいた。さざ波一つない心の海は、鏡のように何もかもを映し出している。目の前の存在も、この異様な空間も、そして盤上も。


 八十一のマスに並べられた陣形は、明らかに誠明が不利なことを示している。だが、誠明は目をそらさない。盤へと乗り出すように、上半身を傾け、ゆっくりと揺らす。腿の上に置

かれたこぶしは、ぎゅっと握りしめられている。それが、誠明が思考にふけるときの姿。


 頭の中では無数の盤が浮かび上がり、駒が自動で動く。考えられる差し手を行った時の展開をシミュレーション。そのどれもが、環の勝利で終わる。


 根っこのように絡まった未来の一本一本の行く末を、誠明はほどき精査していく。脳を酷使する大変な作業に視界が明滅する。脳が酸素とエネルギーとを求め、あえいだ。疲れた脳は、安易な回答に飛びつこうとする。諦めて、楽になりたいと訴える思考をなだめ、ただ一つの未来を追い求め続ける。


 時が止まったような空間で、どれだけ考えていただろう。


「あった――」


 震える手が、駒台へと伸びる。何度もつかみ損ねた。体が言うことをきかない。駒を握り締めるように手に取って、それを盤上へと打つ。


 環は一瞬、面食らったように硬直したが、次の瞬間には着手している。


「悪あがきは、よした方がいいよ」


 嘲る声は、耳に入らない。思考は、全エネルギーは、盤上へと注がれていた。


 誠明は即座に手を差す。環も応じる。ここにきて、差し手の速度が上がったことに、環の目が大きく見開かれる。


 先に手が止まったのは、環だった。


「嘘……」


 いつの間にか、形勢は逆転していた。勝利を確信していた環が油断してしまったからというのは確かにある。だが、天秤が傾いたのは、長い考慮の末にたどり着いた、誠明の妙手からだった。


 今や局面は終盤へと差し掛かっている。駒の損得は意味をなくし、相手を詰ませられるなら何もかも捨ててもいい。


 誠明の駒は、敵陣深くに鋭く迫り、王様の首に刀を突きつけている。自陣の王様の命も今や風前の灯火ではあったが、少しだけ余裕がある。


 その余裕は、たった一手。


 絶望的な差は、気が付けば先手勝勢にまで覆っていたのだった。


 環の瞳が大きく見開かれる。それは、環と、彼女に与する神様の驚きを如実に表していた。きょろきょろと瞳が仮想上の盤を駆け巡ったかと思うと、小さな肩ががっくりと落ちる。体から発せられていた、異様なオーラは今や完全に消え失せた。


 それでも、棋士としての矜持か、手が動く。力のない差し手に、誠明も無言で応じる。


 ぱちぱちと手が進む。


 王手の連続ののちに、参りました、という言葉が響いた。



 対局が終わった。


 いつものように感想戦が行われることはない。そのような余力がなかった。


 誠明は、盤上に目を落とす。かすむ視界の中で、金が相手玉を仕留めているのが見えた。だが、誠明自身では、どうして勝てたのかわからなかった。


 ただとにかく、疲れた。


 視線を上げると、俯いた環が目に入る。彼女もまた誠明同様に極度の疲労に襲われているのか、肩で息をしていた。


「約束は……」


 環が、力なく頷いた。手を動かす。それで闇の中に何かが生まれたわけではない。嘘をついたのか――脳裏にそんなことがよぎったが、誠明はすぐに否定する。彼女はそんな人間ではない。少なくとも、今の憑き物が落ちた彼女なら。


 再度、手が動くと、誠明の背後に光が生まれる。それは、環が門の創造と呼んでいた呪文によるもの。光が扉となり、現世へのゲートが再び開く。


 誠明はやっとのことで立ち上がる。扉へと向かおうとするが、環は身じろぎ一つしないのが嫌に気になった。


「行かないんですか」


「私はいいよ」


「どうして」


「わかるでしょ」ぎこちない笑い声がやってくる。「神様の力を使ったの。私は戻れない」


「でも」


「それに戻る場所がない。私、みんなにひどいことをした」


「…………」


「それに何より、この神様を現実には――」


 バキリ。


 何かがひび割れる音がした。


 音の方には何もない。――いや、目を凝らすと虚無空間にひび割れが生じている。何かかがそこから出てこようとしているかのように。


 環の顔にさっと恐怖が浮かぶ。


「早く行って! さもないと、あなたまで!」


「いったい何が来るっていうんですか!?」


 ひび割れが大きくなる。割れ目から漏れ出てくるかのように、重圧にも似たおぞましい空気が、ひたひたと増す。息が詰まりそうなほどの恐怖。


 あそこから出てこようとする神様はいったいどのような姿をしているのだ?


 誠明の疑問に答えるかのように、隙間からその姿は見えた。


 それは無数の玉虫色をした球体。


 球体は分裂し結合し、膨張と収縮を繰り返しながら、二人を睥睨する。目などどこにも見えないというのに、自分が見られているというのがはっきりと理解できる。


 あれが神様。


 あんなのが、この世にはいるのか。いてほしくなかった。


 合体と分裂を繰り返す集合体を目にするだけで、人間の矮小さに思い知らされる。かの神なら、人間の歴史をあっという間にして塵にしてしまえるだろう。そうに違いない。


 恐怖が、誠明の体を硬直させる。逃げようと考えつつも、一歩たりとも動き出せない。


 舌打ちが響く。それが誰のものなのかはわからない。


 環が人語ともつかない謎の文言を口にしたかと思えば、トラックと衝突したような衝撃が誠明を襲い、意識を手放してしまったからだ。

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