第2話

 翌朝、環は見つかった。


 普通に自室にいたそうだ。研究の合間に外へ出たそうだが、街中というよりはホテルの周りを気分転換もかねてぐるぐる回っただけらしい。棋士にはよくあることだった。連絡が付かなかったのも、邪魔されたくなくてスマホの電源を切っていたと考えれば筋は通っている。


 一方で、剛己は未だ見つかっていない。仙台へと飲みに行ったっきり、連絡もつかない。


 昼になっても、夜になっても。いなくなって二日目に、警察へと捜索願が出された。


 しかし――。


 発掘された駒を眺めながら、誠明はあの時のことを思い返す。あの時に目撃した環は、他人の空似だとは思えなかった。あの剣呑な雰囲気を漂わせた人間は、ほかにはいない。それが女性で顔が似ているなら、それは環に違いないはず。


 だが、あの時の女性が環に違いないならば、問題が生じる。


 棋士たちが泊まるホテルは天童市にある。誠明だって環だってそうだ。天童から仙台までは車で一時間ほどの距離。そして、環は午後九時にホテルの周りを散歩していて、ホテルの従業員がそれを目撃していたらしい。ちょうどその時、仙台の闇の中へと溶けていった環の姿を目撃した。


 ありえないのだ。環がワープでもしない限りは。


「でもあれは環さんだよなあ」


 もやもやとした気持ちのまま考えていると、いつしか予定の時間になっていた。今日はインタビューが行われることになっている。というのも、第一局はここ天童で行うことになっており、現在チャレンジャーもタイトルホルダーもこの地にいた。折角だからインタビューを行おうということらしかった。誠明としてもありがたかった。防衛戦が近づけば近づくほど、インタビューを受ける余裕はなくなっていくのだから、今のうちに終わらせておきたかった。


 インタビューの場所は、ホテルの一室であった。ここにいるのは、地方紙と将棋雑誌の記者だ。主要新聞は、後日ということになっている。あくまで、将棋の日の一環として行われるインタビューだ。


 インタビューはつつがなく進められていく。ほとんどの質問は、誠明へと行われた。環の不愛想さは棋士以外にもよく知られているところであった。記者もそれを知っていたのだろう。そもそも、虚空を睨み、脳内の盤上で研究を続けているであろう環に言葉をかけられる人間は少ない。


 それでもインタビューである以上は、環にも質問は行われる。


「今度のタイトル戦での意気込みを教えていただけますか」


 太ももを叩いていた指が止まる。天井を突き抜け地球の外へと向けられていた視線が、ゆっくりと下りて、記者の方へと向けられる。


 不機嫌さを隠そうともしない鋭い視線に、記者の目が泳いでいる。不憫だと思いつつ、誠明も環の方を向く。言葉にはしなかったが、その不躾な態度はどうだろうと非難の意味を込めて。だがそれは伝わらなかった。


 真っ赤な舌が、薄い唇をなめる。


「今回も勝ちますよ」


「何か秘策でも?」


「秘策なんてない。――研究した量が違うから」


 それは、前のタイトルの時もそのまた前のタイトルでも耳にした言葉だ。それによって、とある棋士は顔をしかめ、またある棋士は口角泡を飛ばし激怒した。その澄ました表情は、ともすれば、見下しているようにさえ思えるだろう。


 だが。


 誠明にとっては、そのどれでもないように感じられた。


 本当に、研究量が違うのではないか。ただ単に、事実を言ってるにすぎないのではないか。環がどれだけの時間、研究を行っているのか誠明は知らない。ほかのプロ棋士だって知らないだろう。いや、環の弟弟子にあたる黒鉄ナル三段ならば――師弟関係以上であるとも噂されている彼ならば――もしくは。しかし、彼の姿はここにはない。彼は地獄の三段リーグで戦っている。


 どちらにせよ、うすら寒いものが背中にこみあげてくるのを感じる。和やかだった場の空気は、環の一言によってすっかり冷え切ってしまった。インタビュアーの困ってしまったのか、仕切り直しとばかりに手を叩く。


「そ、そうですか。では、誠明王将の意気込みを教えてください」


 記者の目が、誠明をしかと捉える。その視線に浮かぶのは期待だ。


 公式戦三十連勝。


 最年少七冠。


 この二つの大記録の成否は、王将戦ひいては誠明にかかっていた。


 誰もが、誠明の勝利を望んでいた。それがわかるからこそ、誠明は気が重い。


 ――ただ、振り飛車でどこまでやれるかを確かめたかっただけなのに。


 ポケットに触れる。そこには、出土したあの漆黒の駒があった。もちろんビニール袋に入れている。お守りにする許可だって――王将一枚であったが、王将戦が終わるまで得ている。


 あの謎の花押が印された王将に触れていると、心が安らぐような気がした。ご先祖様の霊に守られているかのような。たとえ錯覚だとわかってはいても、誠明は安堵していた。


「どんな相手だろうと、どんな記録がかかっていようとも、全力で相手するだけです」


 誠明の言葉に、感銘を受けたかのようにほうと息をついた記者は、ボイスレコーダーを止める。


 それで、インタビューは終わった。


 記者が出ていって、扉が閉まる。誠明は自分がインタビューをされるほどの人間だとは――少なくとも大記録がかかった環の方が適任だ――思っていなかったから、ようやく重荷の一つが下りたと肩をぐるぐる回す。


 緊張が緩んだところで、誠明は環からの視線に気が付いた。振り返ると、環が誠明を見ていた。


 その顔は笑っていた。――美しくも獰猛に。


 心臓がぎゅっと握りつぶされたような恐怖が、一瞬にしてこみあげてくる。視界がちかちかと明滅を繰り返し、頭は真っ白に染まった。


 蛇睨み。


 誠明の脳裏に、そんな単語がよぎったが、怯えた心をなだめられたわけではなかった。


 対局の時は盤面に集中していたから、今この瞬間まで、誠明は感じたことがなかったのだ。


 その場に釘付けとなった誠明の前まで、環はやってくる。その足取りは先ほどまでのけだるげなものと比べると、幾分か跳ねていた。


「あなたも棋理を追いかけているの?」


 棋理――将棋の真理。つまりは必勝方法だ。それは、AIが導入され始めた今でも見つかってはいない。長い将棋の歴史の中で数多の棋士たちが追い求めてきたただ一つの答えは、今もなお、81マスの宇宙の向こうに姿を隠したままだった。


「棋理なんて、僕なんかに見つけられるものじゃないですよ。ただ、振り飛車でどこまでいけるかを知りたい」


「ふうん」


 誠明の言葉には、興味がなさそうであった。というよりは、棋理の追求以外のことはどうでもいいといった反応だった。


 一瞬、探るような値踏みするかのようなねちっこい視線が、誠明を襲う。次の瞬間には視線はそれて、環は部屋の外へと歩き始めている。


「待って」


「研究しないといけないから」


「――あなたが棋士を消してるんですか」


 ぴたと環の足が止まった。


「どうしてそう思うの」


「昨日、仙台で見たんです。あなたの姿を」


「でも私は、ここにいた」


「それは……」


 何か、不思議な力を使って瞬間移動を行ったんだ。――とは、誠明も言えなかった。あまりに非現実すぎる。いやしかし、とも思わないでもない。先祖が遺した古文書に記されていたことを信用するならば、神隠しが行われていたのだ。


 江戸時代と現代の連続行方不明事件が、同一のものならば、その犯人である環もまた、神隠しを行っている。


 だが、こんな可能性はあってほしくなかった。棋士が、仲間のことを行方不明にさせているだなんて考えたくはなかった。聞きたくないことではあったが……。


 答えづらい質問を受けても、環の陰気な表情には変化がなかった。少なくとも、機嫌を損ねたわけではなさそうで、誠明は安堵する。


 よかった。環さんは神隠しを行ってない――。


「その顔。本当に見てたんだ」


 あまりにもあっけらかんと環が言うものだから、その言葉が、肯定していると理解するのに時間がかかった。


 その表情はいつもと変わらず、悪びれる様子もなければ、悪役のように誇っているというわけでもない。


 淡々と言葉を続ける。


「今まで見つからなかったのに、あなたに見つかるなんて、なんていうか、運命ってやつかも」


 口角をわずかに上げて話す環は、どことなく嬉しそうに見えて、誠明は困惑した。


「え……?」


「私がやったよ。気に入らない人たちを消して回ったの」


「どうしてそんなことを」


「将棋を探求するための必要な犠牲ってところかな」


「必要な犠牲」


「そう。かの神はいけにえを欲しているの。屍を積み重ね、魔力を集めることでかの神はこの地に降臨する」


「何を言って――」


「素晴らしいってこと!」その顔には狂ったような笑みが張り付いていた。「だから、多少の犠牲はいいよね。どうせあの人たちは必要なかったんだし」


「必要ない?」


「だってあの人たちってAIなんかに負けた人たちじゃない」


 その言葉には、侮蔑の感情が多分に含まれていた。


 そこで、誠明は気が付いた。姿をくらませた棋士たちは皆揃って、AIと戦い、敗北した棋士たちであった。


 環は、ここにはいない棋士たちを睨みつけるように眼光を鋭くさせ、言葉を続ける。


「機械に負ける奴なんか、棋士である資格ない」


「…………」


 気持ちはわからないでもなかった。人間が、機械に負けるなど考えられない。その事実はなかなか受け入れられるものではない。ことに、長い歴史を積み上げてきた棋士たちにとってはそうだった。


 だが、人類は負けてしまったのだ。それはまぎれもない事実で、受け入れるほかない。だからこそ、棋士はAIにライバル意識を持つのではなく、友とすることにした。二人三脚で、まだ見ぬ妙手を発掘するのだ。


 そうすれば、真理を見つけられるかもしれない。


 少なくとも、誠明はそう考えている。――だが、目の前の棋士はそうではない。AIというものに敵意を抱いているのだ。


「そんな理由で、人を消したっていうんですか」


「そうだけど、それが何か?」


「人が消えてるんですよ!? それがどういう意味か――」


「だから、あの人たちは、この世にいる資格がないからだよ」


 怒りが、マグマのごとく噴出した。衝動のままに、誠明が環の胸倉をつかんでも、彼女は不気味な笑みを浮かべ続ける。それが何よりも不気味で、怖気づいてしまいそうになる。


 こんなの狂ってる。


「戻してください」


「戻すって言われても――」


 ふと、言葉が途切れた。環の視線は、あらぬ方向へと向いている。誠明が視線の先を見ても、そこには何もないし、だれもいない。ここにはいない誰かとコミュニケーションをするかのように、無言の時間が続いた。


 わかりました、という小さく呟かれた言葉が、誠明へ向けられたものではないことは明白であった。


「いなくなった棋士を戻してあげる」


「本当ですか」


「ええ。かの神はそうおっしゃられている。犠牲になった人々も、時を戻して呼び出すと。すっごく寛大な措置よ、感謝しなさい」


 感謝なんてできるものかと、誠明は環を睨む。環はその視線をいなして笑っている。暖簾に腕押し。何を言っても無意味のようである。


 条件を飲もうか、どうするか誠明は迷う。


 相手は神様で、時を戻すこともできるし、何人もの人間を消すことができる。そんな存在が好意から要求にこたえるとは思えなかった。それに、簡単に復活させていたら、消滅させた意味がないではないか。


「……何が望みですか」


「あ、わかった? 望みは、私と一局差さないかってこと」


「それだけでいいなら……」


「もちろん、それだけじゃあないよ。負けた方が言うことを聞くの。あなたが勝ったら、望み通りまだ死んでいない生贄を全員解放する。でもあなたが負けたら、あなたも生贄の仲間入りってわけ」


 どうする?


 環は、問いかけてくる。強制するわけでもなく、選択権をゆだねてくるところが、不愉快であった。よほど、自信があるらしい。インタビューであのような受け答えができる人間に、自信がないわけがなかった。


 勝利への絶対の自信があるのだ。


 ――自分はどうだ。


 考えるまでもないことであった。自信がなくともやるしかない。まだ生きていると思われる棋士たちを助けるには、それしかないのだから。


「勝てば、本当に開放するんだね」


「それはもう、神の名に誓って」


「わかった」


「そうでないと」


 環は言うが早いか、懐から何かを取り出す。よく見ると、それは鍵だった。銀に輝く重厚で古めかしい鍵は、吸い込まれるような不思議な魅力がある。それが宙へ突き出された途端、光が空間を四角く区切る。まるで、そこに扉が生まれたかのよう。鍵を持った手がひねられると、ガチャリと鍵が開く。


 目の前で起きた超自然的な現象に、誠明は息を飲むことしかできなかった。そんな様子が面白いのか、環はくすくすと笑う。


「門の創造。いうなればどこでもドアってやつ」


「これで瞬間移動を……」


「そういうこと。さあ入って。危なくなんてないからさ」


 空間に突如として生まれた扉が開かれていく。その先に待ち受けているのは、銀の光。一抹の不安を抱えながら、誠明は光の向こうへと歩みを進める。

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