彼方より駒音は響く
藤原くう
第1話
「どうしてどっちも王様じゃないんですか?」
そのような質問が少年から飛び出してきたのは、大盤解説を行っているさなかのことであった。
抜けるような青空の下、ここ天童で行われているのは、人間将棋である。将棋の日の一大イベントとして行われるこの対局は、鎧を身にまとい駒に扮する一般人に、戦国武将に扮したプロ棋士が指示を飛ばすというもの。
対局者は、七大タイトルの六つ目を獲得したばかりの五色環六冠。相対するは、老獪な差し回しで定評のあるベテラン、枡藤剛己九段だ。
戦型は居飛車穴熊対振り飛車穴熊。最近では見なくなった戦型が用いられているのは、参加していただいている一般の方を退屈させないようにするためであった。穴熊であれば、あまり動されない端の香車も攻めに守りに活用できる。
ちょうど合戦のような状態の人間将棋の場は、互いに陣形が整い、今まさに攻撃を仕掛けるか仕掛けないかで小休止していた。
それで、戦場から離れた場所で大盤を前に、女流棋士と解説を行っていた石田誠明王将は、アマチュアの方からの質問を受け付けることにした。
件の疑問がやってきたのは、まさにその時である。
確かに疑問ではあった。将棋には王将と玉将という駒があるが、ゲーム性の似たチェスは、色の違いはあれどキングで統一されている。同じ役割なのに、どうして違う駒を使用するのか。
将棋の普及を目指すプロ棋士として、その理由を知らない誠明ではなかった。もともとは玉将だけだったが、豊臣秀吉が王がいいと片方から点を取ったという説や、王将だけだったところに、天下に王様は二人もいらない、ということで玉将にしたという説などなど……学術的に明確な回答は未だない。
そんな説があるよ実際はどうなんだろうね、と誠明は回答した。回答したものの、少年の問いかけは頭のどこかに引っかかってなかなか離れない。あっという間に終わりを迎えた対局ののちも、勝ったにも関わらず不愛想にインタビューに答える環の姿を見ている間も。
将棋の局面ではなく、それそのものに疑問を覚えてしまうのは、これがはじめてのことではなかった。
将棋の日からさかのぼること一週間と少し。
誠明の下へと一本の連絡が入った。
相手は、T大学の考古学研究室である。わずかに驚きながらも、そこの責任者と思われる教授へと連絡を返す。
その教授によると、天童市で石田検校が遺したとされる文書が見つかったから、確認してほしい、ということらしい。
石田検校。
将棋をかじったものであれば、その名を知らないものはいないだろう。知らなくても、石田流という戦法名は知っているはずだ。江戸時代に活躍したという盲目の棋士であり――誠明のご先祖様だった。
彼が遺したものは、改良されつつも現代で使用されている戦法のほかにはなかった。少なくとも、連絡が来るまでは。
息を飲んだ誠明は、次の瞬間には、行きます、と答えていた。ちょうど、人間将棋の解説を行うために天童へ行くのだ、まったく運がいい。
そういうわけで、胸を高鳴らせながら、その日が来るのを待っていた。ワクワクしすぎて、将棋の研究はおろそかとなり、将棋の歴史について調べていたほどだ。
将棋の歴史について、わかっていることはあまりに少ない。ベールに覆われた歴史の1ページがまもなく明らかになる。ワクワクしないわけがなかった。
――これが何かのきっかけになればいいんだけど。
インタビューが終わり、客が会場を離れていく。それらの中に、不満げな客が多いのは、気のせいではない。
というのも、環六冠は人気がなかった。いや、ないわけではない。女流棋士初のプロ棋士にして、タイトルをすべて獲得しようとしているのだ、その上容姿だって整っている。人気が出ないわけがないのだが、彼女は傍若無人唯我独尊を地で行く。客にファンサービスをしない。先輩棋士を敬う様子は見せず、後輩を世話するつもりもないから、同業者からも疎まれていた。
そして、対局中、口元を真一文字にし、盤の向こうに座る棋士を睨みつける恰好。――そんな鬼気迫る姿から、蛇女やゴルゴンなどと揶揄されることも少なくなかった。
公式戦三十連勝のあいつを止めてくれ。
ファンの悲痛な叫びにも似た願いが、来年の二月にタイトルをかけて環六冠と戦う誠明に、重くのしかかってため息を漏らす。
戦う前から、こんな調子でどうするんだ。
気を取り直した誠明は、スマホで時刻を確認。もうすぐ、考古学研究室へ行く時間だった。
仲間の棋士や、運営スタッフからの飲みの誘いを丁重に断りながら、タクシーを呼ぶ。
ほどなくして車がやってきた。乗り込み、行き先を伝えると、タクシーは動き始める。舞鶴山からT大学のある仙台までは一時間ほど。その間、運転手が世間話を振ってくる。
「最近は物騒になりましたねえ」
「はあ」
「東京の方じゃあ行方不明事件が多発しているらしいじゃないですか。確か、棋士の方がいなくなっているとか」
「…………」
運転手は、黙り込んでいる誠明に気が付いていないようで、その事件について話す。
ある日突然、棋士が行方不明になる事件が相次いでいる。それも、予兆もなく、突然姿を消すものだから、宇宙人に連れ去られたとか、異空間へと飛ばされてしまったのだ、とか眉唾物の噂が流布している。
同じ棋士のことなのだから、タイトル戦前で忙しい誠明だってそれくらいは知っていた。
運転手は、悪気があって話したわけではないだろう。ただの世間話。だからこそたちが悪いし、誠明は何も言えなかった。
誠明がむっつり黙っていると、運転手も口を閉ざす。いたたまれない空気が満ち満ちたタクシーは、あっという間に目的地へと到着した。
その時にはすでに日はとっぷりと暮れ、吹き付けるような冷気を伴った風がコートを揺らす。見上げれば、大学内にはいくつもの光が灯っていた。考古学研究室にも白色灯が煌々とついている。トントントンと扉をノックすると、立派な顎ひげをたくわえた、いかにもな初老の男性が誠明を出迎えた。
一通りの自己紹介を行った後。
「お忙しいところ恐縮です」
「いえいえ。ご先祖様のものが見つかったら飛んできますよ」
「そう言ってもらえると助かります。……将棋の歴史の解明に役立つものかと思いまして。しかしながら、私どもには少し理解しかねる部分がありまして、それでお呼びした次第なのです」
「それは……?」
見てもらった方が早いかと思います、と教授は言い、誠明を資料室へと案内する。そこは発掘されたものが保管される場所であった。部屋には天井に届くほど大きな棚がいくつも置かれており、迷路のように視界が遮断されている。棚には箱がぎっしり詰め込まれており、ちょっとした揺れでも中身がこぼれてしまいそう。
一か月前の日付がラベリングされた箱を取り出した教授は、それを持って研究室へと戻る。
「それが出土品ですか」
「ええ。おおよそ江戸時代のものと考えられています」
テーブルに箱を置くと、どうぞ、と教授は言った。誠明は準備されていた手袋をつけ、恐る恐る箱を開ける。
その中には、パッキングされたいくつもの出土品が収められていた。
一つは、ボロボロの冊子だ。題と思われる文字は、かすれて読み取れない。袋越しに持っているだけでもちぎれてしまいそうで、手が震えてくる。冊子は後回しにして、もう一つの袋を手に取る。興味を惹かれたのは、袋の中には小袋が入っていたからだ。それは、どことなく、駒を入れておく袋に似ていた。
「取り出しても?」
「どうか慎重に」
壊れ物を扱うように、そっと、小袋を取り出す。絹でできているのか柔らかい表面には、絢爛な刺繍がいくつも施されている。中には何かが入っている感触が、布越しに感じられて、胸の高鳴りを抑えられない。
袋に指を突っ込み、堅くしっかりとしたそれを取り出す。
それは、駒だ。
将棋の駒。
それを目にした瞬間、誠明はゴクリと息を飲んだ。
その将棋の駒は先祖の――石田検校のものに違いない。だが、それ以上にこれは常日頃使用する駒とは一線を画する逸品であることが、誠明を震えさせる。
光を吸い込まんばかりの黒には、金で文字が書かれている。その書体は水無瀬だろうか。天皇からの命で駒を作り始めたとされる駒師の名を冠した書体は、丸みを帯びたと金を見れば一目瞭然だ。
袋の中のものをすべて取り出してみると、歩兵のいくつかは失われていたものの、一通りの駒は揃っているようである。そのすべてが黒く、駒の名はすべて金で書かれていた。
「珍しい」
「そうなのですか?」
「駒は黄楊でつくられることがほとんどで、茶色っぽいんです。文字だって掘ってから漆で埋めるかさらに盛り上げます。でもこれは、木のそのものが黒い――黒檀を使用してる。文字だって、今では珍しい手書きです。たぶん、本物の金を使用してるのかも」
飛車を手に取って、顔に近づける。文字が蛍光灯の光を浴びてキラキラと輝いた。金を細かくしたものを塗り付けているのではないか。
そういった駒がないわけではないが非常に珍しかった。大体は観賞用だったり、持ち運びのために小さくしたものだったりと、公式の対局で使用されるものではない。だから、実物を見るのは、誠明も初めてだったし、そのようなものをご先祖様が持っていたのは少々意外だった。
「もしかしたら、駒を蒐集する趣味があったとか」
発掘されたのは先ほどまでいた天童だと、誠明は事前に聞かされていた。石田検校が東北の地へと向かった記録は残されていなかったが、行っていないという記録もない。検校――当時、盲目の人が就ける公職最高の地位――なのだから、何かしらの縁で、天童まで向かったという可能性はなくはない。石田検校その人が東北の地を踏んでいなくても、その子孫が形見を持ってやってきたかもしれない。
どちらにせよ、そのあたりのことは、ここにいる教授をはじめとした専門家が考えることだろう。
駒を袋へと戻そうとしたとき、玉将の底面に文字が書かれていることに気が付いた。とんがった方とは逆の面には基本的に書体名が書かれている。この駒であれば、水無瀬という書体を使用しているのだから、水無瀬と書かれているべきだ。
世苦外巣。
あまりにも達筆な草書体だから、そう書いてあるのか疑わしいほどに読みづらい。それに、既存の単語とも人名とも一致しないことが、誠明を不安にさせた。
「これって何かわかります?」
駒を教授へと差し出す。かけていた老眼鏡を押し上げ、顔を駒へと近づけるように見ている。
「何でしょうかこれは……。ちょっと聞いたことありませんね」
「そこに書いてあるのは大体書体名なんですけど、こんなものは知らないです」
名前じゃないとしても、単語だとしたら一体、何を意味するものなのか?
二人はうめくようにしながら、考える。
「例えば、音写という可能性はありますね」
音写というのは、外国語の読み方に対して既存の文字を当てはめることだと、教授は説明する。例えば、『仏陀』というのはサンスクリット語におけるブッダという音に対して漢字をあてはめたもの。ほかにもカタカナ語などが音写に当たる。――と教授は解説した。
「音写だとすると――」
よくそとす。
漢字をそのまま音読みした瞬間、言いもしれぬ肌寒さが誠明を襲った。遠い祖先から脈々と続く人間の歴史の中で本能へと刻み込まれた恐怖が、目を覚ましてしまったかのようなそんな感覚。教授を見れば、同じように怖気を感じているのか小刻みに体を震わせていた。
漠然とした不安から目をそらすように、王将の方を手に取ってみる。そちらにはたいてい、その駒を制作した駒師の名が記されている。
そこには星形のような印があるばかりで、漢字はおろかひらがなですらなかった。花押――今でいうところのサインだ。古い駒には自らの名前の代わりに、デザイン性の高い花押を残していることがあるとか。
これらの発掘物は江戸時代に発掘されたが、この駒自体は相当に古いものなのではないか。
駒を眺めてみて、誠明がわかるのは、それくらいのこと。
先ほどの名前を目にしてからだと、その黒と金で構成された駒が、不気味なもののように感じられて、誠明はいそいそと袋の中へと収める。
「これはお借りしても?」
駒に執着などしたことがなかった誠明が、そのようなことを尋ねたのは、先祖が所有していた駒に触れていたいという気持ちが膨らんできたからだった。
「いいですが、年代の確認等を行いたいので東京へ戻られる際にでも返していただけると」
「かならずその通りにします」
万感の思いとともに駒を懐に入れた誠明が次に手を取ったのは冊子だ。ここには何が書かれているのだろうか。石田検校が後世に残したものは、将棋の戦法くらいのもの、こうして文書が見つかったのは初めてのことだから、ご先祖様のものというのを抜きにしても、一人の棋士として、期待してしまう。初代名人こと大橋宗桂に負けない棋譜とか伝説とか、まだ見ぬ戦法が遺されているのではないか――なんて考えてしまうのだ。
和紙製の冊子は、今にも崩れてしまうのではないかと不安になってしまう。本の虫に食べられてしまっているのではないかと思ったが、中の状態は良好で、文字そのものはその原型をとどめていた。筆と墨によってしたためられた文章は、句読点がないことも相まって非常に読みにくい。現代人である誠明からすれば、異国の言語のようにさえ感じられた。
冊子を手にしたまま困惑していた誠明を見て、教授が含み笑いを浮かべた。
「読みにくいですか」
「古文は苦手っていうか、そもそも文字が理解できないですね」
「なかなか慣れないと難しいですから」
自分の分野のことだからだろうか、鼻高々といった口調で教授は言った。研究室のデスクの上に堆く積み上げられた書類から、紙束を引き抜いて、それを誠明へと手渡した。
「これは」
「書かれていたことを翻訳したものです。片手間にやったので、乱雑なのはご容赦をば」
謙遜めいた言葉であったが、ざらついた紙面へと目を落とすと、本当のことを言っているだけだとわかった。ミミズののたくったような字は、目を凝らしてみても、やはり読めない。
「あの。すみませんが読んでもらうことってできますか……?」
「いいですよ」
どうして読み上げさせようとするのかさっぱりわからない、とばかりに首をひねる教授。そんな彼に、字が汚いです、とはさすがに言えなかった。
教授は紙を目の高さまでもっていき、ごほんと咳払い。
「要約すると、面妖な気配を漂わせた棋士と対局を行った、そうな」
対局。
ご先祖様の対局に興味が惹かれ、誠明は身を乗り出す。そんな彼に、教授は紙束の何枚かを引きちぎり、差し出す。そこには、いくつかの盤面図の写真があり、誠明の興味はますます増える。
一目見ただけで、その棋譜の異常さを誠明は理解した。
「相入玉――」
「それはいったい?」
「相手の陣地に玉が入ることを入玉というんですけど、両方ともそれをやれちゃった状態が、相入玉なんです」
将棋は、相手の陣地へと行けば行くほど、駒の多い方へ近づくわけだから詰まされやすくなってしまうのだが、将棋は後ろへと進める駒が少ない。そのため、両陣営の駒が入り混じる終盤戦においては、鉄壁を築くこともできるのだ。タイトル戦や昇級のかかっている等、重要な対局で入玉が出現するのは、簡単に諦めることができず、また、極度の緊張により詰みの見逃しなどのミスが生じてしまうためだ。ここが、人間とAIの違いであり、将棋の面白いところの一つと言える。
ではこの対局は?
局面図は複数あり、それによれば、石田検校は先手を持って石田流を、相手方もそれに四間飛車で応じていた。つまりは相振り飛車であった。だが、それにしても相入玉とは珍しい。飛車が王の居城の頭を抑えているからだ。並々ならぬ想いのかかった激戦だったに違いない――少なくとも、棋譜に目を通した誠明はそう感じた。
頭の中では、盤を前にし正座をした二人の棋士が、舟をこぐように体を揺らしながら考え込んでいる姿が浮かび上がる。その場に自分がいるような気がして、目頭が熱くなった。
――ご先祖様の戦いを目の当たりにしている。
こぶしを握り締め感慨にふける誠明へと、教授が言葉をかける。
「なるほど。では、この言葉の意味も何かわかりますか」
「言葉ですか」
「ええ。おそらくは、その対局者のことを説明しているのだと思いますが……。『尋常ならぬ雰囲気を宿した棋士が、対局を仕掛け、対局者を神隠しに遭わせた』と」
尋常ならざる棋士というのは見当がつかない。初代名人のことを指しているのか、それとも名もなき棋士なのか。
だが、神隠しに遭わせた、というのが引っかかった。将棋の神様というのは、基本的にはいない。少なくとも誠明は知らない。比喩表現としての神様であれば、いることにはいるが……。
「連続行方不明――」
脳裏によぎった言葉を、誠明は口にしていた。教授が眉をひそめる。
「それは、棋士が行方不明になっているという?」
誠明はゆっくりと頷く。
偶然にしてはできすぎているような気がした。
神隠し。
何か、人間の知りえぬ大いなる存在が、この21世紀に動いているのではないか――。
悪寒が駆け巡り、体を震わせた。そんな馬鹿なと否定しつつも、心のどこかでは怯えていた。
研究室内に、重苦しい空気が漂う。
それを破ったのは、沈黙を切り裂くように鳴り響いた着信音であった。一昔前の流行歌は、誠明のスマホから鳴っていた。
すみません、電話みたいです。そのように教授へと断りを入れて、通話に応じる。電話がかかってくるなんて珍しいと思いながら。
もしもし、と言葉を発すると、大丈夫ですか、という切迫した声がやってきた。そのあまりの声に、耳がキーンと痛む。
「いきなりなんですか……」
「よかった無事なんですね」安堵したように言った声の主は、後輩棋士であった。「五色さんと枡藤さんがどこに行かれたかご存じありませんか?」
「いいや知らないけど。その二人がどうかしたの」
「どうしても連絡が付かなくて、最近物騒だから心配になって」
「…………」
嫌な予感とともに、脳裏にこびりついた神隠しという言葉が思い起こされる。
わかった、見つけたら連絡する、と返し、通話を切る。そのまま電話帳から剛己の連絡先――環とは連絡先を交換していなかった――を呼び出す。何度かコール音が鳴ったが、留守番電話につながったので切る。
「どうかされましたか」
「ちょっと知り合いと連絡が付かないそうなので。すみませんが今日はこのところで」
手早くそう言った誠明の心境を、相手はくみ取ったのだろう。わかりましたと返事をし、余裕ができた時にでもまた来てください、と答えるのだった。
構内を後にしたときにはすでに午後九時を優に回っていた。サークル活動を終えたと思われる学生が大学前の居酒屋へと光に吸い寄せられる蛾のように入っていき、よれた白衣を身にまとった学生は、泊まり込みで研究を行うつもりなのか、ビニール袋いっぱいに缶コーヒーを携え校舎へと戻る。
街はにぎやかだ。人二人とは連絡が付かないことなんて、知らぬ顔。そんな中を、誠明は足早に歩く。
夜の活気に満ちた繁華街を歩いていると、ふと、知った顔が見えた気がした。
「あれは、環さん……?」
ネオンに照らされたからか、それとも発散する陰鬱な雰囲気のせいか、影の落ちた横顔は確かに環のもの。今度タイトルをかけて戦う相手なのだから、見間違えるはずがない。
しゃれっ気の少ない恰好の環はしっかりとした足取りで、路地裏へと消えていく。
「あっちょっと!」
環の身を案じて、誠明は路地裏の前へと駆ける。入口から、闇へと目を凝らしても、そこには人の姿はない。耳を澄ませても足音も呼吸音もしない。
誰もいなかった。まるで、闇に溶けてしまったみたいに、その姿は消えてしまった。
路地裏の前で、誠明は呆然とする。
さっきのは、幻か何かだったのか。――いや、違うと誠明は首を振る。あの血の気の少ない顔はまぎれもなく環だった。
だとしたら、いったいどこへ行ってしまったのか。
本当に、神隠しに遭ってしまったのではないか。
ドンっと肩がぶつかる。往来の中で立ち尽くしていたから、通行人とぶつかってしまった。ガラの悪そうな青年がギロリと睨む。す、すみませんと誠明が答えると、舌打ちとともに彼は去っていった。
安堵の息を吐き、改めて路地裏を見てみても、そこには人の姿も神様の姿だってありはしなかった。
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