不動の悪霊

Toa

第1話

 皆も知っているだろうが、事故物件というものがある。例えばその部屋で前の入居者が何らかの事故や事件により亡くなってしまったり、あるいは入居者でなくともその部屋の中で人が死んでしまったりすると、入居募集の詳細欄に『告知事項あり』と書かれ、契約の際に何が起こったのかを説明しなければならない。これは心理的瑕疵と呼ばれ、契約前に告知をしなければ義務違反となるので、よほどの悪徳企業でない場合は契約前に避けることができる。一般的にはそのような理由で嫌煙される事故物件だが、事故物件を気に入る人もいる。心理的瑕疵が原因で家賃が相場より下げられているので、できるだけ家賃を抑えたい人や幽霊の類を信じない人、更には幽霊に会えるかもしれないと期待する物好きなどにニーズがある。


「では、こちらの物件はどうでしょうか……」


 Aはその時まさに、難しい顔をした客に事故物件を紹介していた。Aの店は、町の中央から3つ離れた駅の北口にある。自分より1世代ほど上の店長の下で優秀な働きを見せ、今年で6年目を迎えた。この店では従業員全員が清潔感に気を遣っており、客に否定的な印象を一切与えないような、綺麗な店舗を維持している。その中でもAは特に自身の容貌にこだわっていて、週3日程度のジム通いでスーツ越しにも分かるほどに筋肉質な体型を維持している。Aはそんな不衛生から遠い位置にあるこの職場を好印象に思っているが、今後の人生のことを考えキャリアアップのための転職を密かに予定していた。

 そんなAとは対照的に、目の前の客は細身で無精ひげを生やしている。この男は、不動産仲介では繁忙期と呼ばれている嵐のような3ヵ月が過ぎた後、桜の花も落ち始めたこの4月に訪れた。3月に比べれば当然、家賃相場は下がるのだが、それを狙ったトンビのような賢い客を見据えて少し強気の値段設定を維持するところも多い。なのでこの時期に実際に狙い目となるのは、肝の据わっていない管理者の物件か、繁忙の3ヵ月を過ぎてもまだ売れ残っているようなハズレ物件である。条件の良い物件は概ね業界の知識を蓄えた熟練の管理者がおり、確かに3月よりは安くとも、閑散期の8月とは大きな差が存在しているのだ。4月は紹介する物件が少なく、来店する客を不満なく契約させるのは至難の業だった。

 この客は引っ越しを希望していた。上京したは良いものの満足した生活を送ることができず、遂にはこの4月に転居しなければ先の家賃払いも危ういらしい。どうやら未だに何かを諦めきれていないようで、先ほどからAに対しては家賃をできるだけ抑えてほしいと要望を出しながらも、提案されたすべての物件に難色を示していた。そのことから、長年不動産仲介業者で働いてきたAの勘は、彼の想像している相場と一般的な相場に乖離があり、現状を受け止め切れていないことを直感させた。そこで、長年空いている事故物件を申し訳程度に紹介したのだった。


「お、これは、なかなかいいところじゃないですか」


「ええ。お部屋の間取りだけ見れば、この辺りでは破格の安さだと思います。ですが、こちらをご覧ください」


「なんだこれ、『告知事項あり』?」


「はい。このように書かれている物件は、いわゆる事故物件と呼ばれる物件でして」


 客が、途端に怪訝な表情を浮かべる。鬱憤がたまっていくのを飲み込んで、Aはその物件で起きた事件の話を、客に余すことなく伝えた。嘘をつかず、最大限の真摯さを持って相手に接することは、Aの仕事をする上での大きなポリシーだった。

 実際、事故物件に幽霊が出るかと問われると、出たという話を聞いたことがない。少し前にも、Aの友人のBという男が告知義務を無くすために、数ヵ月の間事故物件に入居していたのだが、結局そのような霊魂に出会うこともなければ超常現象の1つも起こらなかったことを聞いていた。告知義務を打ち消すための短期入居は業界では良くあることで、Bはそういった作業を喜んで行っていたが、今までただの1度も幽霊とは会ったことがなかった。Bはいつも入居前に物件の情報を細かくリサーチした上で数日考えて決めるので、そういった性格が本当に危険な物件を選ばないことに役に立っているのかもしれない。しかし何よりの要因は、自分が霊に憑りつかれるわけがない、というBの前向きで底知れない自信だとAは睨んでいた。Aには少しの霊感と呼べるものがあり、Bが事故物件に住む気持ちが理解できないでいた。同時に、それが価値観の差であるとして追求しない寛容さも、Aは持ち合わせていた。


「というわけで、他の物件よりもお安くなっているわけです」


 一通りの説明を終えた後も、客の表情は引き締まったままだ。客の対応をしていない同僚が、書類整理や新たな物件の検索を行いながらこちらの様子をうかがってくる。沈殿して底が淀んだ緑色になった茶を、客が喉を鳴らしながら一気に飲み干す。


「なるほどね。事故物件はちょっとなぁ」


「そうですよね。こちらの物件は築浅で立地もかなりいい方なんですけど、それが理由で空いている、という形ですね」


「でも、面白そうだしここも見てみようかな」


「でしたら、一応こちらも内見いたしましょうか」


 本当なら、Aは事故物件に近寄ることさえ避けたかった。だが、客の反応に一縷の希望を見出したのだ。Aのように霊を心から嫌っている人とは違い、好奇心であっても興味を示したこの客は、話術で引き込める可能性を感じさせた。さっきAが客に説明した通り、この事故物件は事故物件であることを除けば非常に条件がいい。築5年で駅徒歩は10分以内、RC造の4階建て最上階。1Kタイプだし、リビングも凹凸の少ない長方形で使い勝手抜群だ。事故物件であることが惜しく、Aもその印象を強く持っていたためすぐにこの客に紹介できたのである。Aは物件情報に記された問い合わせ先を電話で打ち込む。きっかり2回、コールが鳴った後に、初老くらいの管理人が電話に出た。Aは事故物件に入る覚悟を決めていた。




「では、開けさせていただきますね」


 Aは、くたびれた客を背に扉を開ける。上の鍵穴に、郵便ポストに隠されていた鍵を差し込んで開錠し、続いて下の鍵穴にも同じように鍵を差し手首を返す。扉に手をかけて思いっきり引っ張ると、すぐに客が部屋の中に入っていった。客がスリッパを履き終えてから、Aも後ろをついていく。寒さの残った涼しげな風が、Aを通り抜けた。

 Aは客を社用車に乗せて、会社から最も近いこの事故物件に訪れていた。外観を見たときは、築年数に見合った白く汚れのない外壁にこんなもんかと安心していたのだが、1歩エントランスに入ると妙に湿り気のあるまどろんだ空気に撫でられ内蔵が縮むような気になった。エントランスの設備は悪くないし、清掃も行き届いている。それなのに、いや、それゆえに、言い訳のできない漠然とした不気味さの存在にAは怯えた。無機質な稼働音とともに開く自動ドアや歩く度に反響する足音がいつもより耳に残る。それでもAが迷わず目的の部屋の前まで平然と来ることができたのには、1人ではなかったことと、仕事の最中であることが一助となっていた。客はAの後ろを、あくまでマイペースにゆっくりとついてきていた。

 部屋はさらに酷い空気で、呼吸ができないような錯覚に陥るほどだった。思わずAは口を覆うが、それを咳払いで誤魔化す。そんな部屋の雰囲気を気にも留めずにじろじろと部屋を観察する客は、Aにはにわかに信じられなかった。

 内装も築年数相応かそれ以上に綺麗な設備で、裏を返せばそれだけ誰も住んでいないことを意味している。キッチンは広めにとっていて、流行りのIHには換気扇の内側が反射して見える。脱衣所や浴室も、廊下から見えた限りで何ら欠点はなかった。8帖程度の居室まで行くと、Aも何とか普通に息ができるようになった。


「少し換気しましょうか」


 Aはベランダに続く窓を半分ほど開き、部屋に外気を取り込もうと試みるものの、どうしてか肝心の嫌な水っぽさが外に逃げない。それどころか、床に降り積もっていくように感じる。Aはふと、淹れてから長い時間の経った、さっきの緑茶を思い出した。諦めて窓側の隅に立ったAは、鞄から資料を取り出した。


「思ったより綺麗ですね」


 それにはAも同感だった。事故物件は、大家も嫌がって中まで掃除することが少ない。そもそも契約が入ることも珍しいので、そんな不人気な部屋に清掃業者を呼ぶことも稀である。だが、この部屋の地面には埃が積もっていない。1週間以内に誰かが掃除をしている。そのような利益の薄いことをどうして行うのか、Aには分からなかった。とにかく、部屋は人が住んでいた気配すらないくらい、完璧に掃除されていたのである。


「そうですね。管理人さんがマメな方なんだと思います」


 考えとは真逆の空っぽな言葉を客に返して、心の落ち着かないAは部屋を見回す。床は木目の白いフローリングで、日光の暖かさを十分に吸収している。壁や天井も白なので、部屋は数値上の広さより1畳ほどゆとりがあるように感じた。収納はいわゆるウォークインクローゼットで、寝具や趣味道具なんかを仕舞って生活空間を確保できる。ベランダに続く大きな窓には、南から太陽が降り注ぎ、影を象っている。4つの角のうち3つにはコンセントがあって、備え付けのインターネットは使用料不要だ。間取り図を一目見たときから、Aの評価は変わっていない。

 エントランスからここに来るまでずっと、Aはどこかおかしいという得体の知れない猜疑心に見舞われていた。それが不動産仲介として長年働いてきて、数多くの物件を見てきたAの経験からなのか、霊的・超自然的な抽象物に対して働いた第6感なのか、Aには判断できない。心から拭い去れない、火を見るよりも明らかなほど、Aの心の中にいる何かが違和感を訴え続けている。それは生まれて今まで感じたことのない危険信号でありながら、それを頑なに否定することでしか拭い去れないような、自己矛盾的な感情であるとAは思った。なぜならAは既に、理性で考えうる限りの全ての違和感の可能性を、自分で確認して潰してしまったからである。Aの肺は、ビー玉1粒もない空気を吸っては吐くのに精いっぱいだった。


「結構いい感じなんだけどなぁ、事故物件なのが瑕なんだよなぁ」


「私もそう思います。そこさえなければ、すぐにでも埋まる物件ですよ」


「やっぱりですか、うーん……」


 癖のついた毛を弄り、何かをじっと睨みつけるような客に、Aは辟易しつつあった。


「悩むようでしたら、早めに次の物件に行きましょうか。そこと比較して見えてくるものもあると思いますよ」


 表向きは、気の利いた提案をするにこやかな仲介業者として。その裏で、形さえ見えない恐怖から必死に逃げながら。幽霊か悪魔か、それに類する恐ろしいものが、今にも千切れてしまいそうな張り詰めたAの大切な糸を、嘲るように指で弾く。耳に残る、甲高く不安定な調べ。すでに、Aには客に紹介した物件を丁寧に内見させようという余裕さえなく、普段では考えられない強引さでこの場を立ち去ろうとした。


「そうですね、よし、じゃあ次に行きましょうか」


 Aは、待っていたと言わんばかりにすぐさま手に持った資料を鞄に突っ込む。客ののんきな足取りに、Aはついていくだけである。そうして鍵の閉まる音が聞こえたあたりで、Aはようやく満足のいく呼吸ができた。ついに、Aはこの事故物件から脱出することができたのだ。Aは密かに、もう2度とこの家に訪れないと決心した。

 物件を出るまで、Aが振り返ることは1度もなかった。振り返ったら、何かが見える。そんな、根拠のない、しかし確信できる妄想を抱いてしまったからだ。Aはまた、妄想の中であっても振り返った自分に後悔した。本当に見てはいけないものは、たとえ空想の中でも、見ようという心の動きに反応して、その姿を覗かせるのである。Aの脳みそは、その部屋に巣食う何かが、ドアの隙間からAの様子をうかがっているのを、現実よりも鮮明な解像度で描写していた。




 それからの話は、語るに足らないことである。次の日、眠い目を擦りながら事務作業を進めるAに、昨日の客が訪れた。開店してすぐ、階段から叩きつけるような足音が聞こえると思えば、昨日の客がなだれ込むように入ってきたのだ。その目は血走っていて、大きく、丸く開いていた。よく見れば服も昨日と同じで、しわくちゃに乱れている。客は、誰かに声を掛けられるよりも前に、Aに話しかけた。やけに据わった2つのまなこに、Aの目は捉えられた。


「昨日の、残ってますか、物件、最初に見たやつ」


 あえぐ客の口から漏れる言葉に、Aは本能的に拒否感を覚える。それでも笑顔を崩さず、Aは接客のスイッチを入れた。


「昨日の、ですか」


「そうです、事故物件のやつ」


「少々確認しますね」


 Aはパソコンで履歴を遡り、出てきた事故物件の現在状況を確認する。こうなることが、Aには昨日から分かっていた気がした。当然、物件は空いていた。


「空いてますね」


「そこにします」


「本当ですか」


「はい、早くしてください」


「分かりました」


 Aは途端に目の前にいる客が、異邦人か、あるいはそれ以上に自身からかけ離れた生物であると感じた。Aには客の心境が1つも理解できなかった。この客は、一体何を思ってこの物件に決めたのだろう。昨日だって、そこまでいい印象を持ってはいなかったはずだ。もしかすると、帰ってから事故物件について調べて、自分の中で納得できたのか。だが、あの物件の何かはその辺の事故物件とは比べ物にならない。いくら霊感がないとしても、この客も無意識のうちに避けたくなるような、負の印象が植え付けられているはずだ。このような逡巡に意味がないことを、Aは少しの間忘れていた。Aは客に対して、あの部屋に感じたような恐怖感さえ抱いていた。客は、今もAの目を見つめ、Aが契約書類の準備を終えるのを待っている。

 Aは目を伏せたくなる衝動を飲み込んで、客の契約を終わらせた。客に、本当にここで良いんですか、と幾度も問いかけそうになったが、ただの1度も確認することはなかった。客が書類をめくる音や、ペンを走らせる音に怯えつつ、全てをいつも通りに終わらせた。


「では、これでひとまずの契約は完了です。この後、契約審査がありますので、問題がなければ1週間後くらいに書類が郵送されます。そちらから、お手続きをお願いします」


「分かりました」


「本日は以上となります。ありがとうございました」


「はい。ありがとうございました」


 席を立ち、丁寧に一礼する客に、Aは同じく礼を返す。客は、晴れ渡った少しの陰りもない笑顔を携えて店を後にした。Aの脳裏には、その客の顔が妙に焼き付いて離れなかった。

 そして、Aは気づいた。店を出るまでの間、客が1度も瞬きをしていなかったことに。




 3か月後、Aは新着物件を漁っていると、ある物件が目に留まった。


 レジデンス隠野かくれの

   404号室

 ※告知事項あり


 あの、事故物件だった。


――――――――――


 8月頃。日の光に照らされたアスファルトが大気を熱し、むせ返るような暑さに身体が茹でられる猛暑日。エアコンによって28度に調節された快適な店の中、不動産仲介業者のAと、Aの友人であり同業者でもあるBは、長机を隔てて向かい合っていた。Aは今しがた、自身が4月ごろに仲介をして、つい数週間前手元に返ってきた事故物件の説明を終えたのだった。事故物件マニアであるBは、Aによって語られたいかにもよくできた怪談噺のような実話に顔を歪ませながらも、どこか期待の色をにじませて物件情報を眺めている。告知事項あり、という文字を見るBの様子から、Aは子供が欲しかった玩具をプレゼントされた時の、つぼみが開くような輝かしい表情を連想していた。


「今回のは、かなりエグい話だな」


「俺が携わってきた物件の中だと、断トツで住みたくない所1位だよ」


「でもやっぱり、こういう物件は問答無用で安いのが魅力だよな」


「いやぁ、君の価値観はやっぱり理解できない。これくらいなら、もう1万くらい上乗せして築年か駅徒歩を我慢すれば似たような物件があるだろうに」


「その1万を大事にしてかないと。それに、他じゃできない体験ができるかもしれないんだぜ」


 これまでも2ケタ以上の事故物件に住んできたBが1度も心霊現象に見舞われないのは、その豪胆さにあるのではないか、とAは睨んでいる。未知なる心霊現象を求めて家を転々とし続けたBは、いつしか業界の中で告知義務を消す専門家として知られるようになった。厳密には、1人住んだところで告知義務を打ち消すことはできないが、何も起こらないという実証を後ろ盾に削除するのが暗黙の了解だ。事故物件の多くはそれが仇となり契約が難航するので、Aも数度、Bに頼んできた。Bもまた、大学時代からの付き合いであるAの頼みは優先的に受け入れている。しかし、今回ばかりはAもダメ元での依頼だった。


「でも君、大丈夫か? 今年は3回目の転居なんだろう? そんなに引っ越しを繰り返していると、出費が痛いんじゃないか?」


「確かにな。ここだと今よりも職場から遠くなるし、今住んでる所は結構周囲にコンビニとかスーパーもあって利便性高いからなぁ」


 Aからすれば、Bが今住んでいる物件もこの物件も等しく事故物件なので、悩む理由は全く分からなかった。Aは、Bとつくづく価値観が合わない。10数年関わってきていても、Bの頭の中を理解できる気がせず、軽い口論になることも時々あったが、Aは我慢してきた。逆に、その価値観の違いによって互いに助け合ってきたからこそ、今の関係がある。


「俺もそこまで強要はしないよ。できれば、でいいんだ」


 顎に蓄えたひげを親指と人差し指でねじりながら、左手に取った紙とにらめっこを続けるBと、Aは独りでににらめっこを続ける。あとひと押しでBは協力してくれるのだろうが、そのひと押しをどこまで丁寧な押し方にするか、Aの手腕が試されていた。もしAのはやる気持ちをBが察すれば、Bはある程度強引にAの願いを引き受けるだろう。Bとは友人だからこそ、できれば借りは作りたくない。Aは普段から清潔感を重視しているが、とりわけ現実に見えない、性格や関係上の清潔さには臆病なほどに配慮していた。上下関係もなく、わだかまりもない。そのような関係や精神にこそ平穏が訪れる、というのがAの信条でもあった。もちろん、このようなこだわりを知られてしまえば、Bと今まで通りの気の置ける付き合いはできなくなるので、Aは包み隠している。


「そしたら、まぁ、とりあえず内見するかな。その後でじっくり考えさせてくれよ」


「分かった、じゃあ行ってみようか」


 Bは横の椅子に置いてある自分のビジネスバッグからくたびれたクリアファイルを取り出して、机に散らかった紙をまとめて挟んでいく。その間にAは空の紙コップをゴミ箱に捨てて、管理人から内見の許可を取るために番号を入力する。Aの脳裏には、前回、憔悴した若い客と物件に行った時の記憶がよぎっていた。あの場所は、そう何度も訪れていい場所ではない。熱のこもっていないAの背筋を、1粒の汗が伝い、流れ落ちていく。Aはそれを、この大地に照りつける太陽のせいだと思い込んだ。番号の入力を終え決定を押すと、無機質なコールがAの耳に響く。きっかり1回、コールが鳴った後に、初老くらいの管理人が電話に出た。Aが怖気づいていることに、Bは気づかなかった。



 

 Bは玄関を開けると、吸い込まれるように部屋へ入っていった。Aは大股で歩いていくBの背中、足音を立てないように忍び足で追っていく。誰に言われるでもなく、A自身が――風変わりにも思えるが――大きな足音を立てるべきではない、と意識してのことだった。もちろん、Bには足音のことも、この物件に訪れてから絶えず苛まれている場としての根源的な淀みや歪みについても教えていないし、勘づかれてもいない。Bはそういう、感覚的な物事を看取することは苦手だった。


「ふむふむ……想像していた通りの部屋だな」


 Aがリビングに足を踏み入れた頃には、Bは荷物を放って自前のコンベックスで部屋の広さを測り始めていた。Aは邪魔にならないように隅の壁に身体を預け、バッグからタブレットを取り出す。


「あ、確か部屋の寸法表がどこかにあったはずだ」


「いや、自分で調べる。寸法表なんて大方どこかが欠けてるし、何より自分で調べた方が確実だしな」


 それもそうだ。寸法表は正式ではあるが、正確ではない。自分以外からの情報には、嘘がつきものだ。Aは手に取ったタブレットをしまい直す。


「そうか。じゃあこっち持つよ」


「お、サンキュー」


 Aはしゃがみ、Bの伸ばしたコンベックスの先端を取って隅につける。Bがもう片方の壁に移り、同じように数値を実測していく。うろ覚えだが、Bの考えていた通り掲載されていた資料から数センチずれていた。Bはいつも大雑把なのに、いざというときには一般人では理解できないほど繊細で、かつ誰もが認めるような鋭さを発揮する。Aはそういう、Bの土壇場での変容に何度か立ち会ったことがあった。何かあるわけでもなく、AはBに油断したことがない。

 Aが手を離すと、コンベックスは乱暴に目盛りの書かれたテープを巻きとっていく。その音だけが部屋に残る。その時、Aは立ち上がろうとして、親指くらいの大きさのかすれた黒い染みがあることに気づく。それはまるで、真っ白なキャンバスにどろりとした黒い油絵の具を厚く塗ったような染みだとAは感じた。戦慄が、Aの背筋を一気に駆け昇る。コンベックスは、まだその長いテープを巻き取り、けたたましく音を奏でている。Aは、それが血であると。Aの身体から、汗が噴き出る。この痕をBに見られてはいけない、とAは不意に立ち上がり、それを背の裏に隠した。Bはまだ、コンベックスを見つめている。内見ができるということは、退去してから業者によってある程度の原状回復をしているはずなのだが、稀に小さい汚れを見落とすこともある。そういった見落としは、入居契約前であれば指摘してやり直してくれるのだ。だからAは、この内見中は血痕を隠し通して、終わってから内密に業者への連絡を入れることにしたのだ。この痕をBに見られては、いけない。

 コンベックスがその長いテープを巻き終わり、Bは床に直置きした紙に、使い古され塗装の剥げたシャープペンシルで手際よく部屋の寸法を記入していく。Aはその様子を見下ろしながら、背後の壁についた血痕を匿い続ける。突然、部屋の外で蝉が鳴き始める。Aの心臓が、ひときわ大きく脈を打つ。Bは依然として、紙に本人にしか読めないような数字を書き連ねている。もしかすると、ずっと前から蝉は鳴いていて、Aの耳がそれを拾っていなかっただけなのかもしれない。Aは、自分の身体が心臓の鼓動で揺らされているような錯覚に陥る。紙にはゆっくりと、しかし着実に情報が増えている。Aの手は、Aも知らぬうちに小刻みに震え始める。途端、Aは後ろの黒い染みが意思をもって、上下左右へと無作為に動き始めたように感じる。Aはそれを、全身を使って必死に隠す。蝉の鳴き声が、繰り返すごとに強く、大きくなっていく。Aの鼻を、ほのかな鉄さびの匂いがくすぐる。Bはペンを走らせる。Aは、浅い呼吸を繰り返す。血痕は、Aの陰から飛び出そうとうごめく。出るな、出るな! とAは思う。蝉の鳴き声、心臓の脈動、鉄さびの匂い、息遣い、まどろむ空気、震え、血痕――。


「よし、これでいいかな」


 Bは部屋の全ての寸法を書き終えたようで、立ち上がってAの前を通り、キッチンへと向かう。Aは全身から力が抜けて、その場で人知れずうなだれた。


「キッチンとかは採寸するのか?」


「いや、生活スペースだけで十分だから、設備を見るくらいでいいや」


「分かった」


 Aはリビングの電気を消してから、扉を閉めてBのいるキッチンへ合流する。1人分の幅しかない廊下に成人男性が2人いることで息苦しく感じたのか、BはAに押し出されるように洗面所へと進んだ。Aにとってはこの部屋どころか物件全体の居心地が悪いのだが、あのリビングにいるよりは廊下の方が幾分かマシであった。ここもまた、湿り気のある悪臭が漂っている。清掃業者が仕事を全うしていないことは、Aからして明らかだ。Aの持つ超自然的な感覚とは別に、この部屋は清潔で安心できる普通の部屋とは程遠い。恐らく、排管まで丁寧に清掃しなかったのだ。


「なあ」


 おもむろに話しかけてきたBに、Aは言葉にならない相槌を打ちながら顔を向ける。Bは神妙な面持ちで、Aに尋ねた。


「この脱衣所、何かおかしくないか? いや、何がおかしいかは言えないんだけど。どっか変な気がしないか?」


 Aは、今一度自分が芯から震え上がるのを感じた。

 そこは、前の入居者が気狂いして、自身の首にナイフを突き立て亡くなった、正にその現場だった。


「そんなこと、ないよ」


 Aは喉から言葉を絞り出して、Bにそう言った。




 翌日、BがAのいる店へ飛び込んできた。Bの髪はぼさぼさで整っておらず、昨日と同じ服を着ていた。同じ服を何着か持っているのではなく、前日から同じ服を着たままで、その証拠にBは悪臭を放っている。目の下には隈をたずさえ、陰気なオーラに覆われた、普段とはかけ離れた放浪者のような佇まいのB。狼狽えながらも、Aは話しかけた。


「おい、どうしたんだ?」


「昨日内見した所、まだあるか?」


「ああ、あるけど」


「契約する」


 食い気味にBから発せられた言葉に、Aは驚く。Bの慎重な性格で、ここまで即決することはありえないことだった。


「大丈夫か? 今日は何かいつもと違うぞ、B。普段の君なら、あと3日は考えそうなものなのに」


「いいから早く、契約させてくれ」


「わ、分かったから落ち着け」

 

 Bの語気が強まる。Aは戸惑いながらも、Bの言うことに従って契約書類を準備していく。途中で何度もBに催促されながら、Aは入居契約を進めた。作業中、Bは絶えず真っ赤な2つの目でこちらを監視し続けた。

 最後の書類をBに渡す前に、意を決したAはもう1度尋ねる。


「B、本当にいいんだな?」


「いいって言ってるだろ。さっさと其れを寄越せ」


 BはAの手から最後の書類を乱暴に奪い取って、自身の名前を殴り書きした。Aはしわができた紙を受け取り、書類を全てまとめてファイルに挟む。AはさっきのBの喋り方に、妙な違和感を覚えていたが、すぐにその正体を言い当てることはできないと悟った。


「これで終わりだ。不備とかがあれば、知っているだろうけど、記入した番号に連絡がいくからな」


 Bは返事をせず、首肯を返す。先程まで力強く睨んでいた眼からは、生気を感じられない。虚ろな瞳が、ぼんやりとAの眼を見つめている。代わりに、Bは口角を引き上げて、晴れやかな笑みを浮かべていた。Aは、人間離れしたような表情のBを、遠い存在に感じた。


「じゃあ、また。……何かあったら、教えてくれよ」


 Aの心配をよそにBは無言で席を立ち、入ってきた時とは反対に静かに店を出た。Aは、ついにBを無理やり引き留めることはしなかった。あんなに様子のおかしい友人を見放すなんて、自分は人間として正しいのだろうか、とAは思う。

 そして、そんなBの行動を思い返して、Aは気づいた。店を出るまでの間、Bが1度も瞬きをしていなかったことに。




 Bが死んだことを、Aはテレビのニュースによって知らされた。前の入居者と同じように、洗面所で自分の首にナイフを突き立てて亡くなったのだ。Aがその後、その事故物件を見かけることはなかった。


――――――――――


「次のニュースです。今朝、市内のマンションの一室で、入居しているBさんが亡くなっていることが判明しました。警察によると、事件性はなく、自殺である可能性が高いとのことです」

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不動の悪霊 Toa @oAkaki

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