第二章 四

 大川の下流にあたる永代橋より上流へ向かう。海を背に川縁の道を歩いていく。灯りは太市が持っていた。今夜の半月だったが、それで灯りがとれるほど空は晴れていない。

 伊三郎が自鳴磐を抱えて長屋を出たときには、景色は薄茶の色に染まっていた。落ちきらぬ陽は周囲を赤く染めることはなく、墨がかった茶色で染め上げていた。夕焼けの色と異なることに伊三郎は気づいていたが、川面だけは夕刻の黒に塗りつぶされ始めている。その川面から、ゆっくりと白い靄が立ち上がってきた。

 太市は必死で歩いていく。この若い絵師は伊三郎の気が変わらないうちにと気を取られているのか、周囲のいつもと違ったようすに気づいていないようだった。

 人がいつもより多い。夕刻時だから、人が急ぎ足で歩いているのは不思議ではない。大川沿いの道はいつも人で溢れてはいるが、それでもこの人の多さは異常な気がしていた。ザンギリ頭の男、俥を引いた車夫、どこぞの女房らしい女の髪は昔ふうに結い上げられている。楚々と歩く娘には年嵩の女が供として付き従う。だが、百眼を見たときに伊三郎は気づいた。最初は半仮面をつけた人を珍しいと思った、歯磨きを売っているのか、子どもの頃にもほとんど見たことのない商売人を確認したときに、おそらく自分は太市が視ていないものも視ているのだと覚った。

 そう思えば、視ているものの半分ぐらいが現実ではないことに気づく。

 はぁと伊三郎の溜息は大きくなり、歩も緩やかなものに変わった。何が本物で偽物かは何となく分かるのだが、それも定かではない。思わず向かいからくる人にぶつかりそうになる。それを避けるようにしてしまい、どうしても歩が遅くなる。だが、やがてその見分け方も分かった。過去まぼろしの相手はこちらを認識していない。現実に伊三郎と同じ時代に生きている人間は目も合えば、あちらから避けてもくれる。

「伊サ?」

 前を行く太市が遅くなった伊三郎を不審に思って振り向いたときには、すでに歩き方を心得ていた。

「すまない。急ぐ」

 侘びながら、内心で自鳴磐に悪態をついた。

 ――のべつまくなし視せてくれるな。

 当たり前のことだが、悪態は何の効果も生まなかった。そして、歩き方を心得たと思っても、それでも人とぶつかりそうになった時には思わず後ずさったり避けたりしてしまう。こればかりは咄嗟の行動でどうしようもなかった。

「伊サ、どうしたんだよ」

 不思議そうに首を傾げた太市が伊三郎のほうへ数歩戻る。太市は伊三郎の腕を取って、引っ張ろうとした。その瞬間、目を瞬かせてあちこちをきょろきょろを見回す。

「うわ。伊サ、これ視てんのか」

「視えるのか。なんか決まり事が分かってきたな」と伊三郎は言いつつ、太市の腕に自鳴磐を押しつけた。受け取ったのを確認して手を離す。自鳴磐の針は少し傾いている。

 ほ、と息がつけるのは、自鳴磐を手放した瞬間に過去の幻影が視界から消えたからだ。

「消えた」と呟いたのは自鳴磐を受け取った太市であった。

「わたしにしか視えない、そしてわたしを通じてしかおまえには視えない」

 太市が伊三郎しか駄目なような気がすると言ったが、それは当たっていたらしい。この制約ルールは最初からそうであった。何故、こんな決め事があるのかは分からないが、過去に視たお志摩と大黒屋の隠居が言っていた言葉を思い出す。

――誰もこの自鳴磐を伊平次のようには動かせない。

 この自鳴磐は祖父しか、こんなふうには動かせなかったのだ。賢い祖母にも出来なかった。

「でも、これでおまえがいれば視ることが出来る可能性が出てきたわけだ」

 太市は心なしか嬉しそうで、その表情に伊三郎はげんなりした。つまり要するに、この男はことが起これば自分を引っ張り出す気満々なわけだ。だが、おそらく期待には応えられないだろう。この自鳴磐が自分たちに意味のある光景を視せてくれるとは到底思えないからだ。

 もしかしたら祖父は、もっと自在に視ることが出来たのかもしれない。祖母の言葉はそれを示しているように思えた。祖父にしか扱うことが出来ない自鳴磐。だが、実際にこの自鳴磐は祖父の自鳴磐であって自鳴磐ではない。雪輪は伊三郎が造ったものだ。それがこの自鳴磐にどんな影響を与えたのか定かではない。伊三郎が雪輪を造ったから伊三郎にだけ視ることが出来るのかもしれない。

「よし。じゃあ、そこまではおれが持っていくな――変だよな。さっき持って行ったときより、ずっと軽いや。やっぱり、伊サがいるからかな」

「気のせいだろう」

 伊三郎の返答は素っ気なくなった。この自鳴磐がどういう意志だか意図だかを持っていたとしても、重さが変わるとは思えない。

「ま、そりゃどちらでもいいか」

 楽天的に応えた太市の足取りは早い。地面から離れる草鞋の軽いこと軽いこと。片手に提灯と残りの手に自鳴磐を持って飛ぶように歩いていった。

 自鳴磐を手放した瞬間から、伊三郎の目に映る大川沿いはいつもと変わりなくなっていた。徐々に人影はまばらになっていのは、この辺りで女人が襲われる事件が続いているためか。特に女の姿は夜が更けていくにつれ、極端に減っていく。もちろん、江戸の頃から夜の中に立つ女といえば、あやしからぬことをしている者と決まっていたが、近頃は事件を恐れて角に立つ女も減っているようだった。

 日は、落ち始めると早い。

 あそこ、と太市は言い、道から川縁へと滑り降りた。川辺には猪牙が着く桟橋があるため、下へ向かう道は用意されているが、太市はそんな道筋は全く無視だ。それほど下ることのない距離で、長い裾を気にする女人でないかぎりは誰もがひょいと川縁に降り立つ。暗い中だというのに、滑るように降りる姿は慣れている。灯りが手元にないため、伊三郎も渋々それに従う。太市の紺色の着物は闇に溶けるが、灯りだけが浮かび上がって伊三郎を招く。

「太市」と伊三郎は文句を言った。「わたしはこういうことは得意ではない」

 昔から他の子どもたちがするようなことに興味がなく、川辺で遊んだりということもなかった。

 文句が効いたのか灯りが揺れながら戻ってくる。

「この辺りが下りやすいぞ」

 両手が塞がっている太市はとりあえず提灯を掲げて地面を照らしてくれた。おそるおそる下るのを太市は待っている。

「――伊サ。おまえ、ホントに顔以外はけっこう残念な奴だよな」

 太市はそう言ったきり、伊三郎の反論は聞かなかった。

「あの柳の下」

 川縁に凛と立つ柳を太市は差す。

「まえにおれがこの通りを過ぎてったときに、あの柳の下でお仙さんを見たことがあるんだ。時々、あそこで川を見ていた、と思う」

 二人で川砂利の上を歩いて柳の手前で歩みを止めた。太市が差し出した自鳴磐を受け取りながら「期待はするな」と念を押した。

 知らぬ間に太市の手が伊三郎の肩にかかっている。

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自鳴盤屋伊三郎 @aki_ms

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