第二章 三
あきらかにがっくりと肩を落として戻った太市の手の中には小さな自鳴磐が鎮座している。
そろそろ手元が暗くなってきたと思っていた時分だった。伊三郎はいつものように仕事をしていたが、腰高障子を開いて長屋へと戻ってきた太市の暗い表情を見た。
「嫌なものでも
さしずめそんなところであろうと思って当たりをつけたが、太市は力なく頭を振った。
「……視えなかった」
「何も?」
「何にも」
憮然と言った太市は自鳴磐を抱えて相当歩き回ったのだろう。いつも綺麗ではない草履ではあったが、それでも朝に比べればその汚れはひどかった。
「そうか」と伊三郎は頷いた。そういうこともあるだろう、と思っただけだ。
太市が仙を殺した奴を捜す、と言ったときも伊三郎はその気が無かった。自鳴磐は視たいものを視せてくれるわけではない。まるで場所の思い出を辿るように時間を遡らせるだけだ。太市の考えは合理的では無かったし、それに伊三郎にとって、視たところで何になるのかと思うのだ。分かったところで視たことを証明できない。証明できないものは無価値だ。
「何で視えないんだろう」
「別段、おかしなことではないだろう。視えるほうがおかしいのだし」
「伊サぁ、明日も
伊三郎が現実的でないという一言で太市の意見を却下したのちも、太市自身は仙を殺した犯人を捜すことを諦めなかった。だからこそ、せめてこの自鳴磐を貸して欲しいと伊三郎に訴え、伊三郎はあっさりと頷いたのだ。
だから、「駄目だ」と言われたときには、自鳴磐を返しかけた太市の手が止まった。
まじまじと伊三郎を見れば、いつもと同じ姿勢で机へ向かって仕事をしている。表情の無さはいつもと同じだ。
「え?」
「襖絵の仕事があると言っていたじゃないか。構図は決まったのだろう。おまえは夜に描けば良いと思っているかもしれないが、描き出すと寝食を忘れるのはわたし以上だろう。一日ぐらいならばと思ったが、これ以上は駄目だ。おまえに仕事を頼んでくれた相手にも迷惑をかける――夜仕事になれば油も勿体ない」
太市は言葉を無くした。
「仕事が終えれば、また自鳴磐を持って出ればいい」
「……でも、おまえ、その間に絶対に
「祖父さまの造ったものだ。解体は考えてない」
「どこかに奉納したり、とか」
「……」
「――そういう奴だもんな、伊サ」
伊三郎は溜息をついた。
「こんなものに振り回されても良いことなど全くない。そもそも死んだ人間は生き返らない」
「なぁ、伊サ。それは違うって。確かに、お仙さんもおりんさんも生き返ったりしない。だけど、もしかしたら、これから殺されるかもしれない人は救えるかもしれないだろ?」
「救えない」伊三郎はきっぱりと言った。「わたしもおまえも刀を持った侍相手に立ち向かえない。わたしは時計しか作れない、おまえは絵しか画けない」
「犯人が分かれば警察に言えばいいだろう。その為に邏卒はいるんじゃないか」
「誰が信じる? 少なくともわたしはこんな話は信じない」
「視せてやればいいんだよ」
「何を?」伊三郎の声は淡々としている。言葉は荒いが音は平坦で、伊三郎の感情はそこに乗っていない。「わたし自身、何度視ても信じることができない。わたしはまだ自分の頭のほうがおかしくなったのかと疑っている」
「伊サ」
「この話は終わりにしよう。少なくとも、おまえが仕事を終えるまでは。わたしも、この自鳴磐はまだしばらく手元に置いておくと約束するから」
これが伊三郎の精一杯の妥協点だった。それは太市にも分かることだろう。分かったが納得は出来ないようだった。
「伊サ、頼む!」
手を合わせて太市は伊三郎を拝む。伊三郎は眉を蹙めた。
「おまえの言うとおりにする。だけど、もう一回、あと一回だけ頼む」
「――太市」
「おまえも一緒に来てくれ!」
伊三郎の、滅多に視られない珍しい表情はぽかんと口を開いたそれだ。
「考えたんだ。この自鳴磐、おまえの祖父さんが造っただけあって、おれじゃ駄目なんじゃないかって。伊サじゃないと拗ねて動いてくれないのかもしんねぇ。実際に宥め賺したりとかしたけど」
したのか、と伊三郎は呟いた。
「なんかすごく機嫌悪い感じがして。全然動いてやるもんか、みたいな。段々、寝た子どもみたいに重くなってくような気もしたし」
それこそ気のせいだろうと伊三郎は再び呟いた。
「だけど、ここに戻ってきた途端、ぱっと軽くなったというか。起きたってか。おまえに会えて、喜んでる、ような」
はぁ、と大きな伊三郎の溜息と共に、太市の言葉尻はどんどん小さくなっていく。この話が、万が一本当だとしても、伊三郎に通じるわけがないことを太市はよく知っていた。
「今日は早く休め」
頭がおかしくなったかのように言われても、太市は諦めなかった。
「そう言わずに、半時、いや四半時でいいから」
伊三郎は首を振る。そこには何の躊躇もない。
この反応がこいつだよな、と太市はさらに拝む。理屈は通じない――いや、この場合は屁理屈か、それも通じない。そして気持ちも多分通じない。ならば拝むしかなかった。
「頼むよ、伊サ。今回だけ。これで駄目なら諦めるから」
全く相手にしてくれない伊三郎相手に太市はひたすら頼み込んだ。伊三郎を動かすことは難しい。だが、唯一通じる手があった。伊三郎が根負けするまで頼みこむことだ。
「そうだ、また何か意匠、考えるよ。時計に彫り込むやつ。伊サ、苦手だろ? しばらくはただ働きもするから。今からちょっとだけだし、無理だと思ったからすぐに引き返していいから。な、頼むよ」
伊三郎を動かすコツは梃子でも動かないこと、である。理想論も感情論もどちらも彼を動かすことは出来ない。
伊三郎は溜息をついた。今までとは違い、諦観のそれだ。
「あてはあるのか。場所が分からなければ意味はない」
「前にお仙さんが、大川を見てぼんやりしていた場所があるんだ」
気が変わわらないうちにと、急いて太市は言った。
「そこだけ視たい」
「分かった。さっさとすませよう」
伊三郎の重い腰がようやく上がった。
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