第二章 二
「ああ、その話は聞いていやす」
蕎麦がくる前にと巳の吉の女房が茶を出してくれた。奥の小座敷に上がり込んだ青梅と兵藤を前に巳の吉は上がり框に座って、青梅の話を聞きつつ頷いた。
「福住のお仙に、門前の――数矢のおりんでしたな。今日は小花の女将ですか。おやすでしたか、名は」
「よく知っているな」
青梅が薄い茶を啜りながら、同意を示すと、小花は良い店です、と巳の吉は応えた。
「安い上に板前の腕がよいので肴は旨いですから。酒は安酒であまり味はよろしくありませんがね。それに、あの規模の店には珍しく仕出しも用意してくれるんで、周りはけっこう重宝してるようです」
「仕出しまでか」
「法要の料理や、頼めば花見の弁当も拵えてくれますな。ご一新のあとぐらいから初めて、繁盛しておりました」
「殺された女三人に共通する何かがないかと思っているんだが、何か心当たりはないか」
「と言いましても――三人とも深川・本所とは言え……そうですな、みな別嬪であることでしょうかね。おりんなどは亭主持ちのくせに、男のほうもそれなりにお盛んなところでしょうか。あとは、この三人が知り合いってことはないでしょう。住んでる場所も近いとは言えませんし。おりんは確か、芝居など好きでたまに行っていたようですが、お仙やおやすはそんなものには興味はないようでしたし――まぁ、唯一、夜中も関係なく女ひとりでこのご時世にふらふらと町中を歩くというぐらいで」
「そうか。やはり鉢合わせの辻斬りの類か」
「それにしても、若旦那のお話からは解せんところはありやすな。抵抗したようすがどの女もないっていうのは、考えられません。この女たち三人の中に繋がりはなくとも、この三人を知っているという輩は、もしかするといるかもしれませんが」
「そう思って、関係のある男達に当たってみたんだが」
「出やせんか」
うむ、と青梅は頷いた。それへ兵藤が思いついたように言う。
「前のふたりはかろうじて、時計師という繋がりはあったんだが」
「自鳴磐ですか」
「ああ、そうだ。福住丁に住む伊三郎という若い時計師だ」
青梅も思い出したのか付け加える。
伊三郎、はて、と巳の吉は首を傾げた。
「お待たせしました――若旦那さま、お久しぶりです、辰巳です」
頭をザンギリにした若い蕎麦職人がにこやかに蕎麦を運んでくる。
「大きくなったな」と青梅はすっかり立派になった若者を見て笑った。背も高くなり、なかなかの男ぶりだ。顔立ちはごく普通だが、穏やかそうな笑顔が良かった。
「へい。親父譲りの蕎麦です、召し上がってください」
「うまそうだ」
「――ところで親父、時計師の伊三郎と言えば、お志摩婆さんのところの伊サさんだろう」
ああそうか、どこかで聞いたことがあると思ったと巳の吉は膝をうってから苦笑いした。
「お志摩さんの孫を忘れるなんぞ、年はとりたくないものですな――確かそういえば、お志摩さんが――伊三郎の
青梅は驚いた。
「親父、それ逆」と辰巳が否定する。「小花のほうが是非ともうちで用意させて欲しいと頼んだって話だ。普通でさえ安い店なのに、ほとんどタダみたいな値だったって聞いたな」
「小花の女将もお志摩さんには世話になっていたのか」
「この辺りでお志摩婆さんの世話になってない人のほうが少ないだろ。親父だって現役の頃には随分と面倒かけたじゃないか」
うるさい、と巳の吉が顔を蹙めて言うが、辰巳に堪えたようすはなかった。
「でも、お志摩婆さんが亡くなってからは、おやすさんがあちらのほうへ行ったという話は聞かないですけどね。伊サさんに確認したところで、覚えているかどうか。あん人、あまり人の顔とか覚えないからな。名ぐらいは覚えているとは思いやすが」
意外な思いを抱えて青梅は立っている辰巳を見上げる。
「伊三郎とは親しいのか」
「親しいってわけじゃないですよ。おれが夜に屋台をひくんで、たまに食いにきてくれるってだけで」
「そりゃ、わしも聞いたことがないぞ」
「親父に客のことをわざわざ話しゃしないから。親父だって、よほどのことがなきゃ、今日来た客の話なんてしないだろう」
そりゃそうだ、と巳の吉は苦笑したふうである。
「ですが、たぶん、殺された三人の女は伊サさんに関係があるというのはおれには考えられませんや。どちらかといえば」と辰巳が言うのを巳の吉が引き継ぐ。
「確かに。もし関係があるとすれば、孫のほうではなくて、お志摩さんのほうな気がしやすね」
「お志摩というのはそんなに有名なのか」
聞いたのは兵藤のほうであった。綺麗な箸つかいで蕎麦を啜りつつの言葉に、巳の吉がへぇと応えた。
「もうあの婆さんが死んで三年になりますか。頭のええ女で、失せ物捜しのお志摩といえばちょいと有名でしたね。失せ物の他にはよく揉め事の仲裁もしてましたが、出しゃばりではなかったんで、皆には慕われておりました」
「あの時計師の祖母ならば、さぞかし別嬪であったろう」
「いえいえ」と巳の吉は手を振った。「お志摩さんはかなりの醜女で。おかげで嫁のもらい手がなく、随分長く独り身だったようです。伊平次――伊三郎の
「……残念?」
「との話ではありますがね。いや、わしも実際に見たことはないんですよ。元々はたぶん、下谷だか神田だかの町家で暮らしていたそうですが、例の安政の地震のときに、橋を渡ってこちら側にきまして。銀座の大黒屋の隠居の――といってもこのあいだ亡くなりましたが――世話で福住で居を構えたようで。その上、そのときには既に伊平次はおりませんでしたしね。まぁ、古い奴らから聞いたことはあります。頭の悪い男で、子どもにも読めるようなおんな文字もロクに読めん、自鳴磐師のくせに計算も出来ん。読み書き算盤などの言葉すら知らぬのではないかと周りからもからかわれていたそうで。約束やら何やらもとんと覚えておれん。人の顔もよく覚えてられんので隣に住んでる爺さんの顔まで忘れる。周りの者は皆、
「随分、昔のことまで知っているな」
「へぇ。ちょくちょく下谷だかあちらのほうからも、お志摩婆さんを訪ねてくる者がおりましたからね。こちらに商売にきたついでに寄っていく連中も見かけました。そのあたりから入ってきた話なんで、どこまで本当かわかりゃしませんが。なにせ、あの地震のときには下谷あたりもですが、この辺りも相当揺れてエラい目に遭いましたから。まぁ、ちょいと不思議といえば、当時下谷あたりから、こちらに移ってくる人は珍しかったですかね。一度、更地になって整理されたんで家が探しやすかったようなこともあるんでしょうが。後々の上野の戦など考えれば、賢い選択だったとは思いますが、あん時は世の中がこうなるとは誰も思いませんでしたね。いやぁ、黒船が来て以来――」
老人の繰り言は続いた。
青梅は頷きながらも、昔のことを思い出していた。安政の江戸地震といえば二十年も前の話になる。青梅の家に婿に入る少し前のことで、当時のこのあたりのようすは青梅自身もよくは知らなかった。だが、あちこちから火が上がり、海のほうへ続く空が赤く染まったさまから、惨憺たる有様であったのは想像できた。特に江戸の頃から埋め立てて広がっていったこの辺りは空にも地にも逃げ場が無かったほどだとは、青梅は義父から聞いていた。
「しかし、繋がるんだな、あの時計屋」と呟いたのは兵藤である。既に器の中には汁も残っていなかった。
「はぁ、まぁ、繋がりますが。それで疑われると伊サさんがちと気の毒な気がします」
苦笑いを浮かべつつ辰巳が言うと、巳の吉も全くでと笑った。
「青梅の大旦那さんもお志摩婆さんのことはご存知だと思いますぜ。あそこから人を繋げるのは簡単で。そうですね、お志摩婆さんが生きていれば、これも解いてくれたかもしれませんがね」
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