第二章 一
三人目の被害者は小さな料理屋の女将だった。美人だが、やはりこの女も男癖が悪かった。客には何人も情人がいて、よく店の前でも揉めていたという話である。今度も大川を流れていたところを明け方発見され、引き上げられた。やはり胸をひと突きである。料理屋・小花で雇われていた板前が――腕は良いが不格好な男である――昨夜は店が退けたあと、女将は男のところへ行ったようだったと証言した。女が店にきた客とそれらしいことを話していたのを小耳に挟んでいたからだ。だが、その当の相手は約束をすっぽかされたと、青梅たちが行った時には怒っていたほどだった。相当、短気な男らしかったが、小花の女将が死んだと聞かされたときには呆然自失して「嘘だろう」と呟いた。そして、それ以上の情報は全く引き出せなかった。
青梅は兵藤と大川のほとりを歩いている。ゆったりと流れる川面はときどき光を反射する。おそらくは魚の背であろう。その水面目掛けて、ひらりと舞い踊る鳥の白い腹が水しぶきをたたき出しては、そのしぶきが波紋をつくる。その波紋の上を、幾艘もの猪牙が滑り、さらに水面を揺らしていく。
この穏やかな流れの川を、亡骸は流れていたのだ。小花の女将・やすが見つかったのはもう少しで海へ流れるかというところだった。夜釣りの糸に着物の袖が引っかからなければ、もしかすると誰にも見つからなかったかもしれなかった。
「おい、青梅」と声をかけたのは兵藤である。「おれも今日から夜警に加わるわ」
その言葉に驚いて男を見下ろすと、丸顔の兵藤は頭を掻きつつ呟いた。
「さすがにこれ以上放置できんだろう。毎日は無理だが」
「おまえ、いいのか」
「うーん。まぁ、銭にはならねぇが、多喜がな。この事件(こと)をひどく不安がっていて。村林の家の義母上さまが最近具合がよろしくないようで、もしかすると夜半に呼ばれることもあるかもしれんようなのだ」
「それはまた」
「それでしばらくはおれも家にはきちんと帰ろうと思う。夜半には決してひとりで出るなとは言ってあるが、いざとなればそういうわけにもいかんだろう。まつは子どもな上に娘であるし、供にしても暴漢にはものの役にもたたぬ」
「それはおぬしが帰ってやるのが良いな。この事件は何れも夜半にしか起こっておらぬから、昼間は問題なかろう、ひと目もあるところを選ぶなり、俥を使えば良いことだ――だが、それでは夜警は」
「だから毎日は無理だ。しかし、女ばかりが狙われるあたりが不愉快だ」と兵藤は顔を蹙める。「これでは本所・深川の女たちは不安だろうと思ってな。多喜も一刻も早く捕まってくれると安心すると言っているし、おれも夜に他の仕事を入れられなくなると、生活も苦しくなる――簡単にいうと、さっさと牢の中にぶちこみたいんだ。おぬしだとてそうだろう。きよ香どのは不安がってないか?」
青梅は自分の女房の丸くて白い団子のような顔を思い浮かべる。眦をさげて笑った顔で、『きれいな方しか狙われないっていうお話しですから、わたしやすず香は大丈夫でしょう』とあっけらかんと言って、ああ忙しいと洗濯物を抱えて井戸へ突進していた。
それを言うと兵藤は笑った。
「きよ香どのらしい」
「うむ。それに万が一、夜半に出ることがあれば、義父上か清太郎が女たちの供をしてくれることになっておる」
はぁと兵藤は溜息を吐いた。
「やはり身内に男手があると違うな。おれの父でも生きていてくれれば話は違ったものを――まぁ、そういうことなんで、今日から夜警か明け方の見廻りに加わることにする。あとで時間や場所を確認させてくれ」
「分かった」
「ところで、大川沿いを遡ってどこへ行くんだ? もうすぐ大川橋だな」
「大川端で蕎麦屋をしている巳の吉のところだ。覚えているか?」
「ああ。おまえの義父どのが使っていた岡っ引きか。何だ、使えるのか?」
「いや。そうではない。ただ、義父上に昨夜この話をしたところ、今でも巳の吉なら深川・本所(このあたり)のことは一番心得ているだろうと言ってくれたんだ。使うわけにはいかんだろうが、情報ぐらいは昔の誼でくれるだろう、と」
大川端にある蕎麦屋の暖簾はまだ掛かっていなかった。考えてみればまだ朝方である。昼前に開く蕎麦屋の暖簾が掛かっているわけはない。だが、閉じられた戸口の向こうからは人の気配と下ごしらえをしているような音が響いていた。
「すまんが」と青梅は言って、古い木戸を開いた。案の定、心張り棒はもう外してあるようで、戸口はあっさりと彼らの前に開かれる。
「すいませんが、まだなんですよ」
女の穏やかな声が響いた。そして、あら、と言ったのは年を随分とってはいるが、いたって健康そうなふっくらした女である。
店の中は長い机が二卓と、それぞれに合わせるように椅子が五つほど卓を挟んで並んでいる。奥には小さな座敷であって、そこに四人ほどが座れそうな卓があった。席数はそれだけである。店内は決して広くはない。女はその卓の上を拭いていた。
女は巡査姿のふたりのようすに不審そうな顔をしたが、背の高い青梅の顔をまじまじと見てから、破顔した。
「もしかして、青梅さまのところの――確か、涼太郎さま?」
「う、うむ」
青梅は渋い顔をする。実は涼太郎という自分の顔に似合わぬ清々しい名前が苦手であった。
「おまえさん、珍しい方が来ておくれですよ。はやく、出ておいでなさいな」
おまえさん、おまえさんと立て続けに奥へと向かって叫ぶのへ、うるせぇと厨房からだみ声が返る。
「ご一新もあって世間も変わったのに、おめぇがうるさいんだけは変えようがないんかっ!」
言いつつも前掛けで手を拭きつつ出てきたそば屋の親爺は、まだ文句を言いたそうに口を開いていたが、巡査ふたりの姿を認めて、飛び出しかけた言葉を止めたようだった。
「青梅さまの若旦那じゃないですか」
親爺のほうは女房よりもはっきりと青梅を覚えていたらしい。懐かしそうに破顔した顔は青梅が覚えているよりも多くの皺が刻まれ、鬢には随分と白いものが混じっている。結った髷だけが昔と変わらない。
「髷を落としたので、なかなかすぐに分かってくれる者もおらぬのだが。巳の吉、久しいな」
「あっしが若旦那を忘れるわけはありやせん。そちらは兵藤さまでございましょう」
「おれも覚えていてくれたのか」
「覚えておりますとも。いや、お懐かしい。ご無事とは聞いておりやしたが、こうやってお訪ねくださるとは思いもよりませんでした。ささ、ここでは何ですから、座敷へお上がりください――たね、酒でも用意せんか、早く」
はいはい、と女房が応えるのへ青梅はいやと手を振った。
「酒は勘弁してくれんか。この姿を見て貰えるとおり、仕事中の身でな。それに、節句以外の飲酒は禁じられているので、茶を所望したい」
「それはお堅いことで」
巳の吉は残念そうに応えた。思えば、この老人は酒が好きであった。何か理由をつけては酒を飲んでいたな、と青梅は思い出す。
「では、蕎麦でもいかがですか。朝餉はおすみでしょうが、小腹の足しにはちょうどようございます」
「助かる」正直に言ったのは兵藤であった。「実は
「へい」と巳の吉は笑って、厨房を振り返る。「辰巳、蕎麦を二丁だ。急いで用意しろ」
「あいよ」と厨房から若い声が返った。
「辰、か」青梅はまだ幼かった巳の吉の子どもを思い出した。「大きくなったのだろうな」
「もう二十を超えましたが、色々とまだまだで。あとで
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