第一章 十六

 白く霞む橋の向こうの、空が燃えている。取り巻く靄を通してなお、暁でもないのに赤く染まった空に、続いて、どんと音がした。それは続いて何発も発される。昼ドンでよく聞く大砲の音は、だが弾丸が空を切る音と共にどこかへ着弾した爆発音がした。

 上野の戦だ。官軍と彰義隊の僅か一日足らずの戦は上野一帯を焦土と化した。上野寛永寺すら、ほとんどを燃やしてしまった戦は、官軍・彰義隊共に死者の数は足して二百に満たなかったが、焼け出された人の数はその比ではなかった。しかし、永代橋を通って深川・本所に逃げ込む人は思ったほど多くはなかったのだ。両国・大川橋辺りの上野により近い橋はもっと大勢で溢れかえったという。

 それでも、人は逃げ込んでくる。永代橋の向こうから、逃げまどう人々の姿はさまざまだ。煤けた身ひとつで落ちてくる者や、泣き叫ぶ幼児の手を引いて走る女、上手く家財を持ち出せたのか大八車を引く者。草履も満足に履かずに逃げてくる人々の光景に太市は覚えがあった。

 もちろん、太市は上野の戦から逃れてきた人々をその目で見たわけではない。当時、太市が住んでいるのは深川でも上野でも無かった。それでも暁に染まった空と響いてくる轟音に震えていた。戦がどこまで飛び火してくるから分からぬためか、いつ逃げるかと大人達は外を見ては夜逃げの支度に精を出していた。幸いにも、太市が当時住んでいたところまで火の手がくることは無かったが。

 だが、逃げる人々のようすは想像がついた。物心ついてからこの方、逃げまどうという行為はしてきたし、たくさん見てきたからだ。

 目の前で十にも満たない子どもが転ぶ。短い裾から覗いた膝小僧が赤く染まっている。白い世界の中で、はっきりと朱が浮かび上がった。手を伸ばしても、子どもはその輪郭さえぼやけてはっきりしないように、煙を掴むように通り過ぎてしまう。子どもは力強く立ち上がって走り出した。

 そのとき、ぐ、と自分の肩が強く掴まれたのを感じて振り返ると、伊三郎が太市の肩に手をおいて、首を振っている。それで確信した。伊三郎も同じものを見ているのだと。

「掴めない、話もできない。ただ視るだけだ」

 思った以上にはっきり聞こえた伊三郎の声に、これ、何だよ、と呟いてしまう。

「――ふたりで頭がおかしくなった、ということは無いだろう」

「これ、でも……」

「少し時間がたてば戻る。四半刻も――十分すら続いたことはない」

 そして、伊三郎の視線が永代橋の上を泳いだ。何かを見つけたらしく目を細める。太市も同じようにそちらへと視線を向けた。

 橋向こうから女がよろよろと歩いてくる。いつもは綺麗に結ってあっただろう髪は解け、着ている白い夜着のようなものもまたひどく汚れていた。裾を乱して走る女は素足で、傷つくことも頓着せずに必死で走っていた。だが、どこか深いところに傷を負っているのか、足取りは辿々しい。両手には白い綸子の着物をしっかりと抱えている。綸子の着物は膨らんでいて、その中に何かを包み込んでいるようだった。

 近くへと走ってくる。靄のなか、ぼんやりとした顔が近づくにつれて鮮明になっていった。

「――お仙さんっ」

 太市は思わず叫んでいた。女は間違いなく仙で、彼女は時々倒れそうになりながらも必死に橋を渡っている。

 太市の声に彼女は気づかない。太市たちはそこにはいないのだ。

 仙を目で追えば、橋を渡りきるところで崩れ落ちる。それでも腕のなかのものを彼女は必死で守っていた。

 何もできないと分かっているのに、思わず飛び出しそうになるのを止めたのも肩に置かれた伊三郎の手であった。

『しっかりおし』

 お仙に声をかける者がいた。一人の老婆である。

(お志摩婆さん)

 そして、志摩のそばにはひとりの若者がいる。顔立ちの整った若者には覚えがある。

「あの時、新政府と幕軍に不穏な動きがあると、親方は弟子を皆、それぞれ家へと戻らせていた。ちょうど、わたしも帰っていた」

 伊三郎は淡々と語った。

祖母ばばさまが永代橋までようすを見に行くというので、慌ててついていった。逃げるほうが利口だと思ったが、祖母さまはあのとおりの人だから」

『立てるかい――伊サ、子を抱いておやり。大事にね』

 若者は女の腕から白綸子の着物ごと、包まれたそれを受け取っていた。

『祖母さま』思わずというように言った若者の声に、『あとにおし』と志摩は言う。年のわりに矍鑠として、女のわりに骨の太い志摩は仙に肩を貸して立たせている。

「……血だらけの赤児だった」

 伊三郎が今のシーンを解説する。

「へその緒もとれてない、泣いてもない赤児だった」

 目前の若者は白い綸子の着物を抱え直して、志摩と仙の後に続く。

「泣かない赤児は重かった。白い着物の内側は赤く染まって、祖母さまが随分長いことかけて洗って、染みを抜いていた。お仙さんが目を覚ます頃にはきれいにしてあげたいね、と言って」

「伊サ」

「お仙さんは三日ほどは熱が出て寝込んでいたかな。その間に赤児を弔った。いつまでもそのままにしておくわけにはいかなかったから」

 ゆっくりと歩いていく三人の後ろ姿は靄の中に溶けて消えていく。

「目が覚めたときに、お仙さんは赤児のことは何も言わなかった。祖母さまには言ったのだろうけど、わたしは何も聞いてない」

 不意に靄が晴れた。

 橋の向こうの空は紅く染まっていることもない。むしろ、さきほどよりも暮れて、墨色で塗られようとしている。変わらぬ永代橋の上では潮の香りが流れている。

「戻った」

「……」

 太市は混乱しているが、伊三郎はそんな太市に頓着しない。

「やはり神社でお祓いが正しいだろうか。祖父じいさまの造った自鳴磐でも奉納できると思うか?」

 明らかに、伊三郎は厄介払いしたがっている。

 今の光景を見て、どうしてそういう思考になるのか太市には分からない。それが伊三郎だということは分かってはいても。

「待てよ。お祓いとか奉納って。ちょっと待てよ、伊サ」

 伊三郎の感情のない目が太市に向けられる。

「おまえの祖父さん、とんでもないものを造ったんだぞ」

「自鳴磐は昔時間だろうと今時間だろうと、時を刻めばいい。それ以外は必要ない。動かない針が動く時点で欠陥品だ」

 伊三郎の手にある自鳴磐の針は確かにわずかに傾いていた。

 伊三郎の言葉は聞くだけ無駄だ。太市は自分の意見を述べた。

「なぁ、伊サ、これ、昔を視せるんだよな? じゃあ、だとすると、お仙さんを殺した奴も分かるんじゃないか?」

「無理だと思う」伊三郎の言葉はあっさりしていた。「自鳴磐これはどうやら、そこにいる場所の過去しか視ることができない。お仙さんは大川を流れてきたから、どこで殺されたかは分からない。分かったところで、ちょうどその時刻を都合良く見せてくれるわけではない」

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