第一章 十五

 太市は絵師である。なるべくしてなったというよりも、それしか能が無かったというのが正しい。ただし、絵師といってもピンからキリまでいるうちの、限りなくキリに近いほうだと自覚していた。有名な絵師に弟子入りできるほどでもない。仕事も、大体は読み本の挿絵だったりする。女子ども向けの小新聞に入れる挿し絵の仕事なども出来ればと思っているが、それは夢のまた夢だ。そもそも、絵を描く仕事も、かつてお志摩が懇意にしていた絵草紙屋に紹介してもらったのがきっかけで、明らかにコネであった。

 だがそれでも、長く続けていれば何らかの成果にはなるものだ。今は襖絵の仕事が来ていた。経師屋に決めた構成の話をしにいき、老職人の「悪くない」との評価を得て、意気揚々戻ってくるところだ。もう少しすれば懐も少しは豊かになるなぁ、と思っている。いつもは伊三郎に世話になっているが、その頃になれば水売りぐらいは引き留めることが出来るだろう。深川は海が近いだけあって、掘った井戸のほとんどは塩水である。飲み水は金子で賄うしかなかった。なのに、その水を買う金子すら満足にないことが多く、お志摩婆さんの生きていた時分から今に至るまで、あの祖母(ばば)と孫には世話になりっぱなしである。――そして、伊三郎はそのことを露ほども気にしていないようすだった。

 そこまで考えて、太市は長い付き合いになる友を思う。お志摩婆さんが生きていたときにはあまり表立たなかった伊三郎の性格は、今や赤裸々だ。本人に変わり種の自覚がないため隠すつもりもないのだ。それでも、普通の容姿ならばただの変人で通るところを、なまじ整った顔立ちや背筋の綺麗に伸びた姿形のせいで、付き合いの薄い人間に対しては目眩ましになっている。

(いや、その目眩まし、いらねぇだろう)

 伊三郎のことを考えているうちに、永代橋へと差し掛かった。橋を渡って川向こうへ戻る頃には大分、日も落ちてきている。灯りなしでも良い時分には長屋へ戻れそうだ、と長く出ている陽を有り難く思いつつ、橋を渡りきろうとしたときに、欄干あたりから大川を見ている人影が目についた。薄闇に彩られようとしている逢魔が時に、よく分かったものだと、太市は自分でも思う。

「伊サ」

 声をかければ、さきほどまで思っていた友が肩越しに振り返る。珍しい時刻にこんなところにいるものだ、と思った。伊三郎は朝焼けの橋は好きだが、夕刻に出てくることはほとんどない。

 欄干に上に置いた小さな箱に手を添えて立っている。

「どうしたんだ、伊サ」

 珍しいな、と近くへよれば、ああ、と短い返事があった。

「何か、どこかへ――行くのか?」

 太市がそう言ったのは、伊三郎が手を添えている小さな箱が、大黒屋の隠居の形見のそれであることが分かっていたからだ。直せば、その孫の千夏お嬢さまに、と言っていた伊三郎の言葉を思い出していた。

「太市」伊三郎は両手でしっかりとその箱を胸へ抱いた。「尋常でないものというのは、神社か何かで奉納したりお祓いしてもらったりできるものだよな?」

 え、という形の口をつくり、さしもの太市もそのまま伊三郎を見た。

「それとも、わたしが医師にかかったほうが良いのかもしれない。外国人居留地には西洋医学の医師もいるという話だし。良い医師を知らないか」

「待て。待て、落ち着け、伊サ。話がさっぱり見えない」

「わたしは落ち着いている」

 確かに、伊三郎の表情からはいつも浮かべているもの以外の何も浮かんでいなかった。

「ああ。うん、そうだな。でも医者とお祓いって、なんか繋がらねぇんだけど」

「それは、わたしがおかしいのか、自鳴磐(これ)が悪いのか分からないからだ」

「もっと分かりやすく言ってくれねぇか?」

「幻を見る」と伊三郎は端的に言った。「この自鳴磐に触っているときだけ、昔の景色が見える。それもわたしの知らない間のことだ。親方のところに修行に行っていたときに、ご隠居が祖母を訪ねてきて茶を飲んで楽しんでいる姿や、お仙さんが訪ねてきて祖母に仕立てを習っている姿や――太市、おまえが何故か知らないが、ひどい怪我をして祖母が看病していたときとか」

 太市は黙った。前の二つを聞いていたときにはそれは想像の範囲内のことだと思っていた。だが、自分が怪我を負ったときのことを伊三郎は知らない。それは、自分がお志摩婆さんに拾われたときのことだ。伊三郎は職人として修行に出ているときであの長屋にはほとんど帰っていなかった時期のことだ。お志摩婆さんの性格からして、そんなことを孫に語って聞かせたとは思えない。

 だが、それでも、そんな夢物語のような話を簡単に信じるわけはない――これが伊三郎でない者の口から語られたことならば、そう断じて、良い医者を捜そうと奔走したであろう。

「なんか聞いてもよくわかんねぇけど。本当か?」

「いや。わたしにも断定はできない。だから、わたしの頭のほうがおかしいのかと思っているのだが。最近のわたしを見ていて、以前と違うとか、おかしなことをするようになったとか思ったことはあるか?」

 珍しく伊三郎はよく喋った。

「ない」と短く答えてから、いつもより饒舌ではあるな、と思った。それ以外と言われても、普段からおかしな奴だとの感想は抱いていたゆえに、相変わらずおかしな奴だという感想しかない。つまり変わってはいないのだ。

「じゃあ、試してみようぜ。その自鳴磐、ここで出してみろよ。おれも一緒にいれば、何か分かるかもしれないし」

 伊三郎は少し考えているふうであったが、それでも他人の目を通せば、それが真実か否かがはっきりすると思ったのだろう。

「ただ――常にそうなるとは限らないんだ。今も上手く、視(み)えるかどうか」

 そう言いつつも、腕に抱えた箱の蓋を開いて、伊三郎は質素な自鳴磐を取り出した。空箱に蓋をして、その上に自鳴磐を鎮座させる。時々、奇妙な動きをしているふたりの男をちらりと見ながら橋を通り過ぎる人がいたが、伊三郎は気にしたふうでもなかった。しばし、空を見つめながら箱ごと自鳴磐を抱いていたが、やがて首を振る。

「無理なようだ。もしかすると、場所とか限定されるのかもしれない」

 外でこの自鳴磐を出したことがない、と伊三郎は呟く。

「じゃあやっぱり、気のせいとか疲れとかじゃねぇ?」

 この時代の人間にしては伊三郎は現実主義者だった。その上、抽象的なものに対しての一切に懐疑的であった志摩のそばにいたからだろう。伊三郎の祖母・志摩は如何なる迷信も怪異も幽霊も信じていなかった。唯一、神仏に対してのみ、その意識を傾けることがあったが、それもただ行事そのものに対して、行うべきもの――おそらくは世間体のために――と思っていた節があった。太市はそれよりは幾らか神仏を信じたし、世の中には不思議もあると思っている。だが、その太市をしても伊三郎の言葉は眉唾だった。ただ、それを言うのが、前述したとおり、伊三郎であるということが、彼への問いをあやふやなものにしていた。

「そうかもな」

「湯屋にでも行って、少しのんびりしようぜ」

「そうだな」と伊三郎が頷きかけた時だった。ぴくり、と伊三郎の目が空に泳いだ。

 伊サ? と太市が友の肩に手をかけたときに、長い永代橋の上に白い靄が立ちこめたのだった。

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