第一章 十四

「動、いた」

 何故、こうもこの男は間がいいのか、と時々、伊三郎は呆れることがある。

 雪輪を造り、他の部品を綺麗に修繕し、欠けた部分があれば補正した。ただし、祖父のいい加減な仕事に対する手当はほとんど出来なかった。する必要も感じなかったから、おそらくこの自鳴磐はそれなりにしか動かないだろうと思った。それでも修繕に十日はかかった。雪輪ひとつ、円の周りに正確な窪みを造り、記憶と同じような毛彫りを施した。その間、ちょくちょくと太市はやってきて、簡単なものを用意してくれた。太市が来られない日は隣の家の女房が簡単に摘めるるものを置いてくれていて、それを伊三郎は無意識に口に運んで凌いでいた。

 そしてできあがったそれをいざ動かそうとした時に、太市がきたのである。出来たのか、と覗き込んだ太市はわくわくと目を輝かせてそれを見つめた。

 盤面がかちりと動いた瞬間に、表情を綻ばせて伊三郎を見る。

「動いたな」

 再び呟かれた言葉に伊三郎は頷く。確かに動いたが、盤面の動き方がぎこちない。カチ、と音をたてて、最初はゆっくりと、そしていきなり強く動き始めるさまは雪輪を作り替えたせいではなく、元々こういうものなのだろう。これは中身を丸ごと作り替えなければ対処のしようがない。そして伊三郎にはそのつもりが無かった。

「さすがだな、伊サ」

「一から作ったわけではないから」

 定時制が導入されてから、自鳴磐を最初から作ることはなくなった。西洋風の時計ならば幾つも作ったが、実際に親方の元から離れて独り立ちしてからは、ひとつかふたつの昔自鳴磐を作ったぐらいだ。その頃から、世の中は西洋時間で動くようになった。まだ地方では昔の時間で生活しているらしいが、東京では正午に鳴らす空砲――昼ドンに合わせた時刻が定着しつつある。

「これ、どこに置くんだ?」

「この大きさだと鏡台でも箪笥の上にでも置けるかと思う」

「鏡台って、伊サ、鏡台なんか持ってないだろ」

「――千夏お嬢さまが昔時間の自鳴磐を欲しがっていたから、お祝いに差し上げようかと思っているんだ。喪が明けるまでは一年はあるから、表も磨いて、またすいかずらでも彫ってしまえば、少しは見栄えもよくなるだろう?」

「え、でも。ご隠居さまの形見じゃ」

「だからだよ。大黒屋の祖父と父の自鳴磐はそれぞれお店のほうに飾られるということだから、ご隠居さまの自鳴磐はひとつもお嬢さまが嫁ぎ先には持っていかないということだ。自鳴磐がお好きだから、ご隠居さまのものならば喜んでくださると思って。実際、中身がこんなに綺麗ならば、千夏お嬢さまも喜ばれるだろう。時々、開いて中をご覧になれば」

「それ、自鳴磐が好きなんじゃなくて」

 ん? と首を傾げると、太市は何でもないと首を横に振った。

「それにわたしはご隠居さまに頂いたものは他にもあるし」

 何故、太市が呆れた顔をしているのか分からないまま、伊三郎は軽く自鳴磐に手を置いた。柔らかく包むようにして、まだ化粧を施してやらないとな、と呟けば、あーあ、と嘆息する太市の声が聞こえる。

 何か言いたいことがあるのだろうか、と伊三郎が顔を上げた瞬間に、その目にあり得ない光景が映った。視界がひどくぶれている。狭い長屋の六畳間と三和土は知らぬまに霞のようなものが立ち篭め、どういうわけか今そこにいたはずの太市の姿が無かった。え、と思う間もなく目前が揺れる。目眩でも起こしているのかと思った、それとも地震か――正直、地震は伊三郎にはもっとも恐ろしいもののひとつだ――だとすれば、と身体が自然に震える。

 だが、身体自体は揺れているふうでは無かった。霞はかかったままだがやがて少しずつだが、目眩のようにものが収まってくると、どうなっているのか気に掛かる。

(そこに、太市が)

 いたはずだ、と視線を向けるが、姿はない。代わりに背後から声がした。肩越しに振り返れば、そこには見慣れた影があった。背筋をぴんと伸ばし、端然と坐っている老婆がいた。

『――伊サには』と老婆――志摩の声がする。『この雪輪はわしが死ねば燃やせと言うてある。あの子はそのとおりにするであろう』

『じゃかろうというて、器まで燃やすのはどうであろうな』

 再び別の声がした。三和土からする。そこには太市がいたはずなのに。目を向ければ、そこには腰の曲がった老人が立っていた。

(……ご隠居さま)

 杖を突き、品良く立っているが、霞がかかってその顔はしかと伺えない。だが、その姿形と声は大黒屋の隠居のものであった。

『伊平次の自鳴磐を全て消す必要は無かろうて。お志摩さんにとっては、あの自鳴磐が一番憎いであろうことも分かるが』

『憎んでなどおりはせん。わしの忠告を一切聞かなかった愚かな亭主には呆れはしましたが。ま、伊平次ですからね』

 志摩は苦笑している、と伊三郎は思った。

『器は伊平次が孫六さんに譲られたものですから、孫六さんのお好きなようになさってください』

『わしは、燃やすなど出来そうにないの。たとえわしが死んだあとでも』

『では、朽ちるままに任せるのもよいでしょう。雪輪がなければあの自鳴磐は動かせません。少なくとも、あの人が動かしたようには』

『そうじゃ、の。それも何だか、惜しいような気はするの』

 志摩がどんな表情をしているのか、伊三郎には分からない。見えない上に祖母の性格を考えても、想像がつかなかった。

――祖母(ばば)さま。

 その一言は音にならなかった。喉が震えて声が発せない。伊三郎は見ているだけだ。見ていることしか出来ない。――だが、一体自分は何を見ているのだ?

「伊サ? ――伊サっ!」

 不意に身体が揺れた。肩を揺する何かに、手が自鳴磐から離れた。その瞬間、周囲の光景は元へと戻る。心配そうに覗き込む太市の顔が間近に迫っていた。

「近い」

「なんでいつもそれなんだ? ってか、どうしたんだよ、呆けて」

 言ってから、太市は怪訝な顔をする。

「まぁ、今一瞬だけ変だったけど。少しだけ、この部屋に靄みたいなもん、かかったよな?」

 今のを見たのか、と確認したが、それに関して太市は何も見てないようだった。太市が見たのは、一瞬、白くなってすぐに戻った部屋だけだと言った。

「でも、それも勘違いかもしんねぇ」

 太市は、瞬きほどの時間のことだったからと言った。

「……伊サは何か見たのか? それとも具合とか悪いのか。二、三度呼んだけど、反応なかったぞ」

 伊三郎は黙った。顔ははっきりしなかったが、あの声に、あのようすは、祖母であり大黒屋の隠居だった。

 ひとつだけはっきりしているのは、自鳴磐に触れた瞬間に起こったということだ。そう思って手の先にある小さな自鳴磐を見て、あ、と伊三郎は言った。

「――針がずれてる」

 この自鳴磐の針は常に天を差していた。干支の書かれた盤面のほうが動く仕組みだ。なのに、針が僅かに右へと傾いていた。ずれは僅かだが、針と盤面の両方が動くようでは正確な時間を刻みようがない。

「固定されているはずなのに」

 伊三郎は自鳴磐を手にして、目を眇めてそれを見る。

「直さないと」と呟いたときには、伊三郎はさきほどの件を、白昼夢か幻覚として片付けていた。たぶん、疲れているのだろう、とそう思ったのである。それよりも、自鳴磐が思った以外の動きをする、そのことのほうが伊三郎にとっては何倍も重要であった。

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