第一章 十三
事態にほとんど進展はない。否、ほとんどと言うのは言い過ぎだ。全く、と言い換えるべきだ、と青梅は嘆息した。
だというのに、兵藤は時間になるとそそくさと身仕舞いして帰っていった。居残っても一銭にもならんから、というのは正論だが、東京の治安を守る警官として、それはどうかとも思うのだ。
事件が深夜に起こることから夜警は強化されたが、兵藤はそちらの班に入るつもりは毛ほどもないらしい。腕がたち度胸もある友人ではあるが、維新よりこちら、警察という職にありついたあとも、定められた職務の時間以外には真面目に取り組む気を無くしている。特に、彼らの昔馴染みであった立花玄馬が会津の地で命を落とした時から、新政府に対する信頼とも言うべきものは地の底まで落ちているようだった。今の兵藤からは、己の妻に対する恋情と、青梅に対する友情しか感じられないと言っても良い。
だが、確かに、と青梅は思うのだ。夜警の巡査が見回りにいき、夜番が居残っている今、その担当でもない青梅が残っていても仕方ない。兵藤より一時間ほど遅れ、青梅は帰り支度をした。同時に若い榊も帰るようである。途中までは同じ道筋だし、伍列――江戸の頃の五人組と同じような組織である――の仲間であることもあるし、腰の軽い若い警官を青梅は可愛がっていたしで、共に帰ることに異存は無かった。
お子さん、もうお幾つでしたか、と提灯で夜道を照らしながら、如才なく話を振ってくる後輩に、「上の娘は十五だ。息子は十二か」と応える。榊は妻帯者だが、去年に嫁をとったばかりで、まだ子どもは無かった。
「十五ですか。それじゃ心配な年頃ですね。物騒な事件は起きてますし。青梅さんもさぞ心配じゃないですか」
「そうでもない。夜半には家から出さぬようによく言い置いてあるし、義父が一緒でもあるから心配はしておらん。息子も昔ならば、そろそろ元服していても良い年になってきた。母と姉ぐらいは守れるだろう」
「そりゃ手厳しい。最近の子どもはまだ子ども子どもしてますよ。甥が十二ですが、まだチャンバラに夢中ですから」
「よいことじゃないか」
「そうですか? そうかもしれませんが――そういえば、兵藤さんのところはお子さんはいらっしゃせないんですよね」
「うむ。本人は欲しがっていたが、恵まれんようだ」
「その」と榊が言いよどむ。「奥方が石女だって聞いたんですが」
「兵藤の前では――否、誰の前でも言うな」
思わず出た低い声に榊はびくりと肩を震わせた。
「すいません、そういうつもりじゃなくて。兵藤さん、最近少し、ようすがおかしいような気がして」
「あいつが?」
青梅には分からない。
兵藤の妻・多喜は実は兵藤の元に来る前に一度嫁いでいたことがある。子が出来なく離縁されて実家へ戻ってきた多喜に、嫁にきて欲しいと訴え続けてきたのは兵藤だった。江戸の頃はその身分の差から全く相手にされなかったのが、維新ののちに一変した。明治政府の職についた男に対して、士族の身分を失った多喜の実家は相手の家系など選んでいられなくなったのだ。貰ってくれるというだけで御の字だというように、そのくせ勿体ぶって、兵藤の妻になることを許した、という話だった。
そんな家の娘などよせ、と言いたかったが、青梅は堪えた。多喜が一度目に嫁ぐ前から、兵藤が想い続けていたことを知っていたからだ。小さな町道場の稽古場の窓から、数日に一度、前の通りを過ぎる武家の娘の姿を見ていた。供を連れて、手に小さな荷物を持って行く姿を彼らは好奇心もあって覗いていた。
美形だな、と青梅が言えば、うむ、と頬を染めて兵藤は頷いた。おまえはどう思う、と玄馬を振り返れば、長身の男は苦笑して応えた。まぁまぁだな――兵藤は玄馬の応えに怒ったようにそっぽを向いたのを覚えている。すまんすまん、と快活に笑った玄馬に、兵藤は三日は口を開かなかった。とりなしてくれ、と玄馬に泣きつかれたことも思い出せる。
「兵藤さんは、青梅さんの前だと普通なようすですから。でも、ときどき、ひとりでぼんやりと考えていることとかあるみたいですし、見廻りとかも、あまり身が入ってなくて。元々、そんなに仕事に熱心な人じゃなかったんですが――あー、おれ、何が言いたいのは自分でも全然分からないんですが、なんか悩み事でもあるんじゃないかと思って――それにこれは、小弥太――大倉の奴に聞いたんですが」
大倉小弥太は違う組の巡査だが、榊とは年も近く、仲も良いようだった。
「兵藤さんの奥方さま、多喜さまとおっしゃいましたか。銀座の珈琲を飲ませてくれる店で、兵藤さんじゃない男と一緒にいたのを見たって話で」
「……」
「随分、親密そうだったらしいんで。それで、兵藤さん、もしかしてそういうことがあって、ようすが変なのかと――勘ぐりすぎですかね」
「それは背の高い男じゃ無かったか」
「さぁ、それは分かりません。大倉にはそこまでは聞いてませんから」
「もしかして多喜どのの兄上かもしれんな、それは。あそこの兄妹は新しいものがたいそう好きで、兵藤は以前から、義兄が暇さえあれば多喜を連れ出す、と苦笑していたから」
「ああ」ぱっと榊の表情が明るくなった。「そうですか。やだな、おれ、妙な心配して。そうですよね。親密そうだったと言われて、変な勘ぐりをしてしまって恥ずかしいです。じゃあ、兵藤さんのようすがおかしかったのも気のせいかもしれません。おれ、その話を聞いてたから、色眼鏡で見ていたかも」
「兵藤のようすがおかしいかどうかはおれも気にかけておくことにする。すまんな、あいつのことで心配させたようで」
「いえ。やはり青梅さんにお話しして良かったです」
「大倉くんにも変な話は触れ回らないように言っておいてくれ」
「そうします。あいつは口は固いから大丈夫だと思いますが、念押ししておきます」
「頼む」
「じゃあ、俺はこっちですから」
点いて無かった青梅の提灯に火を譲ってくれたあと、榊は角を曲がっていった。
灯りが遠ざかっていくのを少しだけ眺めて、青梅は歩き始めた。
兵藤の妻・多喜に兄がいることは間違いない。――正確な言うと、いたことは間違いが無かった。維新さえ無ければ、今も生きていたことだろう。
兵藤、と青梅は口の中で呟いた。
親友が、腹に抱え込んでいるものが分からない。
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