第一章 十二

 長屋へ戻った伊三郎は早速、木箱から小さな置き自鳴磐を取り出した。幸い、今は急ぎの仕事はない。自鳴磐の盤面を覆う箱の捻子を外して、解体する。動かないのはおそらく、中で錆が出ているためだろう。ヤスリをかけるか悪い部品を変えれば、すぐに動くようになるはず、と踏んでいた。

 面白い自鳴磐だった。表面には一切の装飾がないというのに、見えない内側にはぎっしりと紋様が彫り込まれている。それも恐ろしく細かい。唖然とするほどの細かい仕事は、内部の壁面に彫り込まれた流水と浮かぶ猪牙、それに軽やかに被る桜や柳であった。

「……大川、か」

 呟いたときだった。「伊サぁ」と抜けた声と共に腰高障子が開いて、戸口から暮れ始めた西日が射し込んだ。

「お、やっぱり戻ってるな。灯りが見えたから戻ってるかと思って」

 太市が遠慮を知らぬ風体で中へと入り込んできた。

「なんか食うもんねぇ?」

「弁当がある」伊三郎は呆れもせずに言った。「茶は自分で入れてくれ」

 ほいほい、と竈のほうへ歩いて、冷めかけた湯でお茶を煎れると、湯飲みをふたつ持って伊三郎のほうへ来た。

「一緒に食おうか」とまるで自分が貰ってきたような感じで太市は風呂敷に包まれたまま放置されている弁当に手をかけた。そこで伊三郎を振り返り、初めて机の上に広げられている自鳴磐に目を向けたようである。

「――すげぇ」

 感嘆を漏らしたのは解体された四面を飾る、一連の絵のような風景だったのだろう。春夏秋冬、川の流れを中心に、桜花が川面に映りこんでいる、柳が垂れる。鳥が飛び、雪と思われるもので化粧されていた様々な画。

「どうしたんだ、これ」

「ご隠居さまの形見として頂いてきた。これは表ではないんだ」

 伊三郎は言ってから、板を裏返して表面を見せる。何の変哲もない焦げ茶の板である。

「だけど、裏にはぎっしりと飾り彫りが。祖父さんの考えることは本当に分からない」

「部品も飾ってあるのな」

「ああ。こちらも見事だ。見えない部分だけ、こんなに綺麗なのもおかしなもんだな。針も盤面も地味なのに」

「これって、お志摩婆さんみたいだな」

 言われて、伊三郎はびっくりした。その発想は全く無かった。

「外は素っ気なくて、中身はすごく立派で綺麗で」

「だけど、祖父さんの作品なだけあって、装飾以外は。現に壊れているし」

 自鳴磐としての中身は非常に粗末だ。どうして、こうも長途半端な作品ばかりなのか。

「動かなねぇの? 動くようになるんだろ?」

「悪いところが分かれば」と言いかけて、ひとつひとつの部品を確認し、解体していくうちに言いようのない違和感が伊三郎を襲った。否、最初にこれを開いたときから違和感はあったのだが、父の作品と違い、元々がいい加減な祖父の作品であるだけにそれが何なのか分からなかったのだ。だが、解体するにつけて、明らかになったことがある。

 足りない。

 明らかに足りないのだ。

「雪輪がない」

「え。それ大事なもん?」

 無ければ盤面は回らない。時は刻まない。

「――あの雪輪だ」

「え。心あたりあるのか?」

 祖母が大事にしていた雪輪は飛沫の毛彫りが施されていた。川に囲まれた壁面の画に相応しいものではなかったか。大きさもこれぐらいでは無かったか。

 だが、あの雪輪は。

「もう燃えてしまった」

「え。なんで?」

 祖母が亡くなったときはまだ火葬が主流であった。もちろん、伊三郎も祖母の最後に立ち会った。大事にしていたお守り袋を棺に入れたのは伊三郎本人である。それがお志摩の唯一といっていい遺言であったから。

 何故、祖父の作った自鳴磐が、二つに分かれて祖母と大黒屋の隠居が持っていたのか。そんな疑問が伊三郎の中に湧いた。祖母も大黒屋の隠居もお互いに持っていたことを知っていただろうに。再び、ひとつとすることは拒んでいたのか。祖母と大黒屋の隠居は茶飲み友達で、時々ふらりと隠居はこの家を訪れては、祖父の話に花を咲かせていた。ふたりは、この自鳴磐のことは語らなかった。忘れていたわけではないだろう。祖母は時々、あの雪輪を出しては眺めていた。蔵に仕舞われた自鳴磐は仕舞い込まれていたわけではなかった。時々、出しては眺めていたようだ、と真吉はそう言っていた。

 どうして、再び動かそうとは思わなかったのだろう。

「太市」

 伊三郎は弁当の包まれた風呂敷を指さした。

「持っていってひとりで食べてくれ。傷まないうちに。腹は壊すな」

「――仕事か?」

「足りない部品を作るから」

「自鳴磐の部品、作るの久しぶりじゃね?」

「ああ。忘れてないと思うんだが。記憶にある部品を作りたいから、しばらく籠もる」

 あー、と太市は唸った。

「じゃあ、握り飯ぐらいは届けるよ。飲まず食わずはよくないから、それぐらいは食えよ」

 凝り出すと寝食を忘れる伊三郎を心配しての言葉だろう。ありがとう、と短く言ってから、伊三郎は一枚の真鍮の板を取り出した。早速取りかかる。

 真鍮を在るていどの大きさまで切断する。それから削る。削り始めた頃の伊三郎は、太市がいついなくなったのかも気づかなかった。弁当も無くなっていた。

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