第一章 十一
伊三郎にとって、大黒屋の隠居は祖母以外には本当に近くにいた身内同然の人であった。伊三郎の祖父と腐れ縁で一緒にいたものだよ、と笑って、今では誰も聞かせてくれない祖父と祖母の若い頃の話を聞かせてくれた。父が生まれた時のことまで明晰に覚えていた。老いてもその頭は衰えることを知らぬように、まるで昨日のことを語るように彼らの歴史を語ってくれた。幼い頃に死に別れた両親のことをしっかりと思い出せるのは大黒屋の隠居のおかげであったし、会ったこともない祖父のことも、共に過ごしたかのように錯覚できるのもやはり老人のおかげであった。
「お元気そうでしたのに――あら、伊サさん」
富松丁の隠居所の前で話をしていた女衆が、伊三郎を見つけて神妙に頭を垂れた。誰だったかと思ったが、すぐに
玄関の式台を上がり、いつもの慣れた廊下を歩く。どうしたことだろう、と伊三郎は思った。
――空気が、違う。
いつもこんなに重い空気であったろうか。空気が重くて、そして固い。足が思うように進まないと感じたことなど、今まで味わったことのない感覚だった。
いつもご隠居がいた部屋は、隣の間との境になっていた襖が取り払われ、広いひと間へと変貌していた。ずらりと膳が並べられ、すでに来ていた人々が思うまま三々五々に坐っている。伊三郎が知る人もいれば知らない人ももちろんいた。
「伊サさん」と呼ばれてそちらへ視線を向ければ、そこにいたのは真吉であった。「よくお越しくださいました。あちらの席が空いておりますから」と勧めてくれる真吉はいつもの車夫の姿ではない。白いシャツにチョッキ、ズボンと洋装だ。彼はすでに断髪していたので違和感は無かった。むしろ長身の彼にはよく似合う。
どうやら、本日の会は真吉が取り仕切るようだ。動きやすそうな洋装はそのためなのだろう。
「亡くなったご隠居さまのお言いつけで、ご位牌を用意しております」
次々と廃寺になっていくさまを見ては、大黒屋の隠居はよく嘆いていた。伊三郎にとってはそれはどちらでも良いことだったが、老人は神ではなく仏のところへ召されたいと願ったのだろう。
伊三郎はまず部屋の奥に据えられた机の前へと坐る。机上には位牌を中心に、線香がくすぶり、供花やお供え物がところ狭しと並んでいた。手を合わせたが、あまり感慨は湧いてこなかった。ただ、そうか、とうとう最後の人をわたしは亡くしてしまったのだ、とだけ思った。
この隠居所にももう来ることはない。既に部屋の中からは伊三郎がいつも合わせていた自鳴磐は撤去されている。祖父と父の自鳴磐は元々、伊三郎のものではなかった。ふたりの作った自鳴磐は何れも自分のものでないことは承知していたが、大黒屋の隠居はいつも伊三郎に祖父や父との会話をくれていたのだ、と思った。
ありがとうございました、と伊三郎は心の中で呟いて、もう一度手を合わせた。
「伊サさん」と再び、真吉が声をかけてくれた。顔を上げた直後であったから、伊三郎の老人との対話を邪魔せぬように待っていてくれたのだろう。
「はい」
「どうぞ膳を召し上がっていってください。伊サさんはお酒は頂きませんでしたね」
「ありがとうございます。酒は飲みませんし、それに今日はご隠居さまにご挨拶できればそれで良かったので。もう帰ります」
真吉は苦笑したようだった。
「そう仰ると思っていました。精進料理をおつかいものにしてあります。この時期は暑いので日保ちはしませんが、精進物だけですので本日中に召し上がっていただければ大丈夫でしょう。特に痛みそうなものは除いてあります――あとでお渡しいたしますが、その前に少しよろしいでしょうか」
丁寧な口調はいつもの真吉らしくない。だが、大黒屋で奉公している彼は伝法な口調も礼儀を心得たようすも使い分ける器用さがあった。
「申し訳ありませんが、蔵のほうに」
伊三郎が了承に頷くと、真吉はさらに奥にある蔵へと誘った。
「こちらは真吉さんは外して大丈夫なのですか?」
「店からは何人も来ていますから」
この家に通って長い伊三郎でも蔵に入るのは初めてだ。一度庭へと出てから、海鼠壁の蔵へと入る。蔵の錠はかかってなかったのか、重い扉を身体を使って真吉が押すと、ギィと音をたてて開いた。
もっと黴くさいのを想像していたが、蔵の中の空気は思っていたよりも清浄で、澱みがない。高い位置にある窓からは陽が射し込んで、中は思ってよりも明るく内部を照らしている。
蔵の壁面は棚になっていて、物は整然と並んでいた。その並んだ物の中から真吉はひとつの小さな木箱を取り出した。
真吉が木箱を持ったままその場に坐るので、伊三郎もそれに倣っいて真吉の前に坐った。真吉がその木箱を伊三郎の膝の前へと滑らせてきた。
「これは?」
「――自鳴磐です。ここに箱書きがあるのがお分かりでしょうか」
「い一」と伊三郎は読んだ。祖父・伊平次の屋号だ。
「ご隠居さまは、祖父の自鳴磐はあの柱自鳴磐以外はお持ちでないと仰っておられた」
「はい。ですが、その自鳴磐はしばしば出してご覧になっていたようすです。その箱だけ、埃を被っておりませんでしたので」
「拝見してもよろしいでしょうか?」
「そのつもりでお連れしました。旦那さまが、この自鳴磐は伊サさんに受け取って頂くようにとのことです」
真吉の言葉を聞きながら、伊三郎は箱の蓋を開けた。五寸四方の箱の中に当然ながらひとまわり小さい自鳴磐の天板が見える。指を差し込んで箱の中から引き上げてみれば、祖父の作とは思えぬほど質素な自鳴磐が姿を現した。
正面に張られた硝子の向こうに自鳴磐の盤と針が見える。祖父の自鳴磐にしては珍しい、針でなく盤のほうが回る種類のものだ。そして何より珍しいのは装飾らしい装飾がほとんどない。木訥な焦げ茶の箱にただ、自鳴磐をつけただけのようなものだった。
「――動かないんですね」
「はい」真吉は頷く。「壊れているようです。ですから、ご隠居さまも箱に仕舞われたままだったのだと思うのですが」
「言ってくだされば、直しましたのに」
真吉は黙ったまま微笑んでいる。
「では、これはわたしがお預かりします」と伊三郎は言った。「ご隠居さまの大切なものでしたら、頂くわけには参りません。もしよろしければ、直させて頂いて、大黒屋さんにお持ちいたします」
「いえ。旦那さまがそれは伊平次さんの作であるならば、伊サさんがお持ちになるのが一番良いと言っておられました――それに正直なところを申しますと、その自鳴磐はわたしどもにしても、あまり使い道がないのでございます。ご隠居さまのもののほとんどは形見分けで皆さまにお配りいたしますが、動かない、それも昔時間の自鳴磐では」
ああ、と伊三郎は気分を悪くするでもなく納得した。確かにこの自鳴磐は飾りものにはならない。貰ってくれる人もいないだろう。だが、故人が大事にしていたであろうものを捨てるのも忍びない、というところか。
「そうですか。そういうことならば、喜んで、ご隠居さまの思い出を探るよすがにさせて頂きます」
「ご隠居さまもお喜びになられると思います」
「それはそうと」伊三郎は自鳴磐を再び木箱にしまいながら言った。「千夏お嬢さまはさぞかしお気を落とされているのではありませんか?」
「それはもう。少しましになってはきましたが、三日ほどはもうたいそう泣いて泣いて」
真吉が少し砕けた口調で言った。真吉と伊三郎は年がさほど変わらない。子どもの頃に大黒屋に丁稚奉公に上がった真吉は、伊三郎と同様、千夏が生まれた頃から彼女を知っているのだ。
「そうですか。早く元気になられるように、と伊三郎が言っていたとお伝えください」
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