第一章 十

 伊三郎は何を言われたのか一瞬、理解できなかった。え、という表情のまま固まって、真吉をまじまじと見ていると、その真吉の身体ががくんと揺れた。肩を強引に後ろから掴んだ大柄な巡査が、誰が殺されたって、と言ったのだ。

 殺された――?

 え、なに、と混乱しかけた伊三郎を救ったのは真吉の言葉だった。

「は? 何のことですか? ご隠居さまは数日前からのお風邪を拗らせて、昨晩遅くに――」

「あ、ああ。すまん。そうか、そうだな」

「おい、青梅、落ち着け」兵藤がやんわりと真吉の肩から青梅の手を外す。すまなかったな、馬鹿力だから痛かっただろう、と言われて、真吉は肩をさすりながら、いえと応えた。

「悪かった。最近、どうにも物騒なことが続いていたんでな。死んだと聞いて誤解した。どちらのご老人が亡くなられたのだ?」

「大黒屋のご隠居さまです」

「銀座の呉服屋か」

「はい」

「……本当ですか」

 呆然として伊三郎は言った。真吉ははっとして伊三郎を見る。

「はい。一昨日から嫌な咳をしていたので、皆気に掛けていたのですが、ご隠居さまは大丈夫と仰ってお医師にかかろうとはせずに。昨夜、急にようすが変わりまして」

 伊三郎は中腰になって、前掛けを取った。

「何かお手伝いできることがあれば――その、大黒屋さんのところでしたら、人手はあるとは思いますが」

「それなのですが」真吉は言いにくそうに瞼を伏せた。

「旦那さまが、伊サさんならばそう言ってくださるだろうが、手伝いは無用にてこちらには参らぬようにお願いしたい、と」

「何でだよ」文句を言ったのは太市だった。「そりゃ、大黒屋さんと、しがない時計屋とは色々と違うかもしれないが、ご隠居さんはずっと伊サのことを気に掛けていてくれたじゃないか。本当の祖父さんと孫みたいにしてたのは、大黒屋さんのほうだってよく知っているだろう。お志摩婆さんはご隠居の昔馴染みで――そりゃ、おれは知らねぇけど、ご隠居さんはお志摩婆さんのことは恩人だったっていつも言ってたんだ」

「はい。もちろんです。ご隠居さまはご自分がいなくなっても、伊サさんに関しては充分に身の立つようにして欲しいと旦那さまにはお言いつけでした」

「じゃあ、最期のお別れぐらい行ったっていいだろう」

 噛みつかんばかりの太市を伊三郎は止める。

「太市。大黒屋さんにもご都合がある」

 おい、と兵藤は青梅の袖を引いた。小声で、「いないほうがいいんじゃないか」と囁く。出る機会を逃したことは確かだが、動くに動けずといったふうであった。

「だけど、こんな仕打ちあるかよっ。馬鹿にしてる」

「太市」伊三郎が強い声を出した。「弔いはここでも出来る」

「伊サ」

「あの――」

 俯き加減だった真吉が顔を上げた。

「理由があるんです。実は、千夏お嬢さまにご縁談があり、このたび、そちらからお手伝いに来ていただく段取りになっていまして――いえ、場が場ですので、見合いではないのですが。元々決まっているお話なんです。奥方さまのご実家の親戚の方ですので、親族としてお手伝いいただくことになるかと思います――千夏お嬢さまはああいうお方です。伊サさんに来ていただくと、その、都合が」

「……」

 太市が開きかけた口をぱくぱくとさせた。

「千夏お嬢さまがどうするって?」

「あ。いい。伊サ、おまえにはわかんねぇから。分かった、納得した――でも、やっぱり、そっちの都合だと思う。ひどい話だ」

「はい。ですので、後日、隠居所のほうで、ご隠居さまと馴染みのあった方たちをお招きした場を設けたいとのことです。それには伊サさんには是非とも来ていただきたいと。形見分けなどもなさるつもりのようですから」

「ご隠居さまには色々と以前から頂いていますので、今更お分けいただくものもありません。ですが、そのお席には是非とも伺います」

「どうかよろしくお願いいたします」

 伊三郎の丁寧な礼に、真吉もほっとしたように腰を折って応えた。

「それと、ご隠居さまの遺された自鳴磐でございますが。櫓自鳴磐のほうは銀座の本店に、柱自鳴磐のほうは今度、横浜に新たに開く支店のほうへ持っていきたいとのことでございます」

「……横浜、ですか」

「はい。そこで、もうどちらの自鳴磐も伊サさんに合わせて頂く必要はありません。昔時間で生活をすることは無くなってきたので、自鳴磐は店の飾りとするとのことです。代わりに、と言っては何ですが、千夏お嬢さまに作られたような小さな時計を作って頂きたいとのことです――あとは商売の話になりますので、改めてお願いに伺います、と言伝されております」

「分かりました。そのお話に関してはお待ちしております」

「その」と真吉は少しだけ笑んだ。「あの時計は、和装にしても洋装にしてもとても合うと評判が良いんです。店先において、洋服などと一緒に売れればと考えているようです、旦那さまは。ご隠居さまもそのご意見にはいたく感心されておりました。着ているものと柄を揃えたりすると、とても見栄えが良い、洒落っ気があると」

 真吉が去ったあとも太市の機嫌は直らない。どころか、戸口のところで立っているふたりの巡査に「まだいたんすか」と毒を吐いた。

「ああ。すまん」

「去り際を逸した」

 青梅が真面目な顔で、兵藤は面白がっているような顔で同時にそう言うと、太市は毒気が抜かれたような表情を見せた。

「とっとと行けばいいじゃないすか。暇なんすか」

「いや。すまんすまん、人が死んだと言われるとどうも敏感になってな」

 はぁ? と怪訝そうな顔を見せる太市とは対照的に、伊三郎は再び前掛けをして、机の位置を元に戻した。そして、淡々とした口調で言った。

「与助さんのところのおりんさんも亡くなられたのですか? お仙さんと同じように?」

「ああ、まぁ」

「そうですか」

 驚く太市をよそに伊三郎は平然としていた。

「――最近、多いですね。世の中もまだまだ落ち着かないようで」

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