第一章 九

 薄墨の菖蒲が咲き乱れている。伊三郎の周りは菖蒲の花だらけだ。その菖蒲の真ん中で、いつもの仕事机に向かい、いつものように鉄ヤスリを手にして細かい部品を磨いている。時々、行燈の灯火ともしびに部品を透かしながら、再び小さな機械へと意識を集中する。

 伊三郎の仕事範囲は、ここ最近ではこの小さな机の上だけだ。大きなものは手がけていない。だから、机の周りに散乱している菖蒲は何の影響も与えることはなかった。

 正確に言えば、それはもちろん生きた菖蒲の花ではなく、紙に描かれた花弁と剣先のように尖った葉の群れであった。

 狭い部屋の奥にもうひとつ人影があった。そちらは縁側から射し込んだ陽の光で明るい。そこでは背中を丸めて、畳の上に板を置き、その上に敷かれた紙に筆を滑らせている若者の姿があった。伊三郎と同じ長屋に住む太市である。さらさらと軽やかに描かれている菖蒲はまたしても気に入らなかったのだろう、太市は再び菖蒲の描かれた紙を押しやった。

 紙が丸まって伊三郎のそばに流れてくる。伊三郎にしては珍しく傍らのそれに視線を向けたあと、手にとった。どれも見事に描かれている。

「良い具合だと思うのだが、まだ気に入らないのか」

 太市がびっくりして顔を上げた。仕事中に伊三郎が太市に声をかけてくることなど、ほとんど無いと言って良かった。

 一枚の菖蒲を手にした伊三郎はじっくりとそれを見ている。凛と涼やかに立った菖蒲は薄墨で描かれているというのに、紫の花弁と緑の鋭い葉が見えるようだ。

「襖だろう。これでも十分じゃないのか」

 絵師の太市が経師屋に頼まれたのは菖蒲の絵で、それには充分なように思えた。

 ああ、と太市は頷いた。「菖蒲自体はいいんだ。ただ、四面全部の襖絵だ。思っている構成があるんだが、それに合う菖蒲の形がどうしても決まらない」

「そうか」

 伊三郎は納得して紙を戻すと、再び仕事に没頭した。それを見届けて、太市もまた紙面へ意識を戻そうとしたときである。

「伊三郎、いるか」

 戸口の向こうから訪ねる太い声がした。伊三郎は「はい、おります」と応えた。

「開いております、どうぞ」

「すまんな、昼時に」と腰高障子を開けて、ふたりの巡査が入ってきた。大男のほうには、伊三郎も太市も覚えがある。

「昼時だったか?」太市が小声で問うと、伊三郎も首を傾げて、「そうだったかな」と応えた。

「おいおい、さきに昼ドンが鳴ったぞ」

 青梅の背後から小柄な巡査がひょいと顔を出した。伊三郎を見て、「ほう」と言ったきり口を噤んだ。

「青梅さまでしたか」

 伊三郎は手を止めて、いつも客に相対するように机を脇に避け――注意を払い紙の束も避けて、前掛けの塵を払って居住まいを正した。

「今日はどんなご用でしょうか」

「う……うむ。えらく立て込んでいるようだな」

「あ、すいません」と太市が慌てて散らばった紙をかき集める。「すいません、おれ、よくここで仕事するんで。うちが狭くて、広げられないもんですから、伊サに無理言ってるんで」

 確かに伊三郎の仕事場の大半を紙が陣取っていたが、伊三郎自体は自分の領域を侵してこなければ気にならない性分だ。もっとも、これが太市で無ければ気が散って仕方ないだろう。――太市という絵師は、見た目や性格は伊三郎と雲泥の差ではあったが、仕事に入るとまるで自分が消えてしまう。寝食を忘れて没頭するからだ。

「じゃあ、おれ、ちょいと外すよ。なんか飯でも用意してるわ――言われてみりゃ腹減ったし」

「ああ。待て。そう時間はとらせぬ。太市と言ったか。おぬしにも話を聞きたい。りんという女は知らぬか」

「おりんさんですか。どちらのおりんさんで?」

「数矢丁のりんだが」

「富岡八幡さまの辺りですか」

「数矢丁なら――与助さんのお女房かみさんが、おりんさんと言ったと思うんだが」

「ああ」と、伊三郎の言葉に太市は手を打った。「あの別嬪さんの。よく知ってます、と言えませんが知ってます。何度かここに来たよな?」

「時計を頼んでもらったし、出来るまで幾度か見にきてくださっていたから」

「いや、あれはおまえを見に来てたんだと思うけど?」

「……わたしを?」

 訳が分からずに伊三郎は首を傾げる。太市は肩を竦めて、「ま、それはどっちでもいいけど――でも、巡査さん。おりんさんなら、時計を受け取ってからは一度も来てない……よ、な? 伊サ」

「来ていません」

「それはいつのことだ?」

「もう、八ヶ月ぐらいになりますね。時計が出来たのは年の暮れぐらいで。あの辺りは暮れ明けとお参りの人で大変混み合いますから、暮れの早めに届けに行きました。おりんさんが何度も通ってくださったりと楽しみにしてくれていたようでしたので」

 急いで届けて差し上げたかったと言外に言うのへ、太市は再び肩を竦めた。早めに届けられたほうは口実が無くなってさぞがっかりしただろうとは口にしない。

「そうか。じゃあ、それきりか」

「はい。ここでお会いしたのは」

「ここで? 他で会ったことがあるのか」

「そのときに与助さんに誼を得ましたので、時計の台や箱など頼みに何度かこちらから足を運んだことがございました。おりんさんはご在宅であったり不在であったりまちまちでしたが」

「それ、おれ知らねぇな」

 うん、と伊三郎は太市を振り返り頷く。

「わたしが与助さんの店に置いてあったものに惚れて。実はこの机も与助さんに作ってもらったんだ」

「ああ、それ。使いやすそうだな、と思ってた。その小ぶりの抽斗なんかいいよな」

「うん。時計の部品を確認してくださって、小さな機械を無くさないようにってわざわざ作ってくれた」

 濃い職人会話トークになるまえにと青梅が口を挟む。

「最後にりんに会ったのはいつだ」

「最後」と伊三郎が盆の窪に手をやって考えた。「おりんさんのほうですか。与助さんには先月も一度お会いしてますが。そのときはお見えにならなかったので――三ヶ月ほどは前だったと思います」

 三ヶ月、と兵藤が青梅の傍らで呟く。「そりゃ随分昔になっちまうな」

「それ以降は一切? 特に最近は全く?」

 はい、と伊三郎は頷いた。

「では、もうひつと聞くが、昨日の夜はどうしていた?」

「ここでおりました。出かけてはおりませんので。あ、いえ。夜は蕎麦を食べに行きました」

「おれも一緒です。ここでずっとふたりで仕事していたんで。巽橋のとこで屋台が出てるんです。旨いですよ」

「時刻は?」

「七時前です」

 伊三郎が時計師らしく――それともそういう性格なのか、律儀に時刻を述べた。

「帰りは?」

「食っただけで帰ってきたから。半時ぐらいで戻ったよな」

「八時は越えてませんでした」

「仙台堀のほうへは行かなかったか?」

 全く逆の方向を示されて、伊三郎と太市は同時に首を振った。

「そうか。仕事の邪魔をしてすまなかったな」

 青梅がそう言ってその場を去ろうとした時だった。開いた戸口から、「申し訳ありません、伊サさんはおりますでしょうか」との問いかけがあった。青梅の巨体が邪魔で中のようすが伺えないらしい。

 伊三郎はその声の主に覚えがあった。

「――真吉さんではないですか。はい、おります」

 大黒屋の使用人である。

 真吉は中にいるふたりの巡査にぎょっとしたようだった。青梅が「すまんな、こちらの用はすんだ」と言って戸口から出ると、変わるように真吉は三和土へと立った。

「真吉さんがここへお出でになるのは珍しい。ご隠居さまのお使いで?」

「伊サさん」真吉が思い詰めたように言った。「ご隠居さまが、亡くなられました」

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