第一章 八

 浮気性の女であったことは間違いない。亭主の与助が覚えている男たちにひとりひとり当たると、おりんが死んだ当日に会っていたという男が見つかった。順蔵という若い男は、目鼻立ちの整った、崩れた感じの、ちょっと影を感じさせる男だった。女からすれば色気のある良い男であろうか。――青梅にはとんと分からぬが。

 おりんが死んだことを伝えると非常に驚いていた。芝居のようには見えなかったし、順蔵にはおりんを殺害する理由が全く無かった。揉めたわけでもなく、いつものように一刻――二時間ほどの時間を順蔵の裏店で過ごしたおりんは、いつものように順蔵に小遣いを与えて裏木戸が閉まる前には帰っていったと若い男は言った。半ば怯えたように上目遣いに青梅を見る姿からは、人を殺すなどということが出来るようには思えなかったし、その上、おりんが帰ったあとに順蔵の長屋へと大家がやってきていた。今日こそは店賃を払ってもらうと坐り込んだ大家は、店子がおりんから貰った小遣いを手放すまで粘ったというのだ。実際に大家に確認すれば、半時は頑張りました、と胸を張って言い、順蔵の無実を証明した。

 となれば、また手詰まり感が漂ってくる。そもそも前に殺された仙と、与助の女房・りんの間には何の関係もなかった。あえて関係を導き出そうとしても、どこか町角ですれ違ったことぐらいはあろうか、というほどの無縁さであった。

「邪魔をするぞ」

 青梅と兵藤は、数矢丁の表店を訪ねていた。かつて富岡門前東丁と呼ばれたそこは、三十三間堂を目前にしていた場所である。永代寺、富岡八幡宮、三十三間堂と建ちならんだ寺社仏閣も今や八幡宮を残して他は廃寺となっていた。

 といっても、富岡八幡宮が人で賑わっていないわけではない。かつて江戸の頃、八幡宮を訪れる大衆によって永代橋が落橋したほどではないにしても、やはり八幡さまに参る人は後を絶たない。

 与助の家はそんな富岡八幡宮にほど近い通り沿いにあった。腕の良いと言われる指物師は、表店に木工細工を並べ、通りからすぐ覗くことが出来る店内で仕事道具の鑿を持っていた。

 与助は声の主が声の主がいつぞや見た邏卒と知ると、仕事の手を止めた。

 招かれた店の中で、与助はふたりのために茶を入れてくれた。

 青梅は上がり框に腰掛けて店内を見た。

 店内には箪笥から鏡台、長持、机とあり、小さなものならば文箱に硯箱、飾りのついた盆まであった。

 客で賑わっているようすは無かったが、与助の暮らしぶりはそう悪くはないようだった。

「もう野辺送りは終わったのか」

「へぇ――ちょうど前が墓地でしたんで、いつも見てやれてる気がします」

 三十三間堂跡は今は神葬祭地となり、死者の多くはここに葬られた。

「少し話を聞かせて貰っていいか」

 こういう時に話をするのは大体が青梅の役目であった。兵藤は口下手ではないが、どういう訳か大男の青梅のほうが人々の受けがいい。生真面目で穏和な感じがするせいだろうか。

「はい」

 兵藤は腰掛けずに店先のものを見て廻っている。手にすることはなく見ているだけだが、青梅たちの話に注意を向けていることは明白だった。

「おりん――さん、が、最後に会った男を調べてきたのだが、どうもあのようすでは何の関係もないようだ。それで他に何かおぬしが知っていることがあれば、と思うのだが」

「……物盗りではねえんですか」与助が言うので、「どうしてだ?」と問うと「金子が、減ってましたんで」ともっともな言葉が返ってきた。

「ああ、それな。相手の男に渡していたようだぞ」

 口を挟んだのは、硯箱を覗きこんでいた兵藤だった。

「――そうですか。よその男に貢いでたんですか。どうりで、いくら稼いでも消えてくはずだ――巡査さん、ホントにおれには見当もつかねぇんです。そりゃ、男癖は悪かったけど、殺されるほど恨まれてる女でもなかった。もしかしたら、どこかの男の女房かみさんぐらいには憎まれてたかもしれねぇが」

「そんな女、離縁してやっても良かったろうに」

「兵藤」

 咎める声に兵藤は肩を竦める。

「へぇ。まぁ。残念なことに子どもも出来ないようなんで、昔は追い出したこともありましたんですがね。殴りそうになったんで、追い出すことしか出来なかったんですが――おりんって女はどうしようもない女で、男がいなきゃ駄目なんすかね。おれだけじゃ全然満足できねぇようで。何人もの男にちやほやされてるときだけ、いい気持ちなんでしょうね――追い出して。そしたら他の男のところに転がり込みます。おかげで、追い出したあとの寝床の心配だけはしたことありませんでしたがね」

 与助は自嘲するように呟く。

「ところが、何でか知らねぇけど、三日もすりゃ泣きながら、『おまいさん、許しておくれ』って帰ってくるんでさ。男に追い出されたのかと聞けばそういうわけでもねぇ。許してくれ許してくれって縋られてね。おれも馬鹿だから、何となくそのま居着かしちまって。それの繰り返しで。そんな女なんで、いつかはこんな最期もあるかもな、とは思ってもいたんですよ――すんません、くだらねぇこと言って。おれには心当たりは何もねぇです。そして、もういいです」

「もう良いとは――」

「恨まれるような女じゃないとは言いましたが、よくよく考えれば、どこで恨みをかっていても仕方ねぇことしてます。命数尽きたってやつなんでしょう。もらった天寿を全うしたと思えば、諦めもつきます」

 青梅が口を開こうとした時だった。ボン、とひとつ小さな音が店先に響く。よく見れば、柱にかかった時計であった。時計が半を告げてひとつ音を鳴らしたのだ。

「時計か――珍しいな」

 兵藤が、高いだろう、と言うと与助は首を振る。

「安くはありません。ですが、昔ほど目が飛び出るような値じゃありやせん。もっとも、時計師は数が少ないんで、ひとつ頼むと時間がかかりますが。ですが、昔時間の自鳴磐を作ることを考えれば、西洋時間の時計は手間も暇も少なくてすむって言ってましたね」

「自鳴磐ひとつに一年かけたそうだからな」

「へぇ、あれも根気のいる仕事で」と、根気を必要とする職人が言う。「実のところ、おれには時計は必要なかったんですが、おりんがどうしても欲しいと言いまして――まぁ、時計師が色男なんで、それでなんでしょうが。そのせいでちょいと喧嘩もしましたが、おれも甘いんで」

「時計職人――それは福住丁に住む伊三郎という職人か」

「そうです。川よりこっちで時計を作ってるのは、伊サさんしかいないと思います。ご存知でしたか」

「知っているというか。そうか、その時計は伊三郎のものか」

「はい。良い腕です。伊サさんの親父さんはもっと良い腕らしかったんですが」

「伊三郎はおりんと面識があるのか」

「……伊サさんをお疑いならばお門違いと思います」与助は苦そうな笑顔を浮かべた。「あん人はそんなに他人に興味のある人じゃありやせんから。おりんがどれだけしなだれかかっても、眉ひとつ動かしませんや」

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